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カテゴリー: 日本史(江戸)

江戸子ども百景

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:小林 忠・中城 正堯、 発行:河出書房新社
 いやあ、実にカワユーイ。江戸時代に子どもを描いた浮世絵があったなんて、ちっとも知りませんでした。それがまた実に愛らしいのです。江戸時代の子どもたちが実に伸びのびと生きていたことを実感させてくれる絵のオンパレードです。そしてまた、子どもたちの遊びが少なくとも私たちの子どものころとあまり変わらないのにも驚きです。どうなんでしょうか、今の子どもたちも、こんな遊びをしているのでしょうか。少子化、ケータイ、ネットの時代には、もうなくなった遊びも多いのではないかと、ちょっぴり心配もしました。
幕末から明治はじめに日本にやってきた外国人は一様に、日本は「子どもたちの楽園」のようだと賛嘆を惜しまなかった。モース(日本考古学の父)は、「世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」と、目を細めた。
 グリフィス(化学の教師として福井や東京で教えた)は、「日本ほど、子どもの喜ぶ物を売るオモチャ屋や縁日の多い国はない」と、驚きを隠さなかった。
親は、西洋の親のように体罰を加えてまでしつけを強制することはなかったが、それでいて子どもたちは、みな聞き分けが良く、利発で、礼儀正しかった。
 浮世絵の一ジャンルである「子ども絵」は、江戸の社会にあっては、かなり需要の高い商品であった。
 江戸の子どもたちの遊びは、第一に季節感に富んでいた。正月は追い羽根、2月は凧あげ、3月はおままごと。4月は花見や金魚遊び・・・。第二に、子どもの遊びとオモチャの種類の豊富さに驚かされる。第三に、大人たちの周囲でのイタズラだったり、大人たちの姿の巧みな真似であったりした。
 江戸時代は、子どもをかけがえのない後継者として大切に育てようとする社会であり、子どもは「子宝」とされた。
銀も 黄金も花も なにせんに まされる宝 子にしかめやも(万葉集。山上憶良)
 浮世絵に描かれている子どもたちって、どれもこれも丸々と太って、いかにも大切に育てられているという、幸せ一杯の笑顔を見せています。
カラー図版がたくさんありますので、本当に実感できます。「子をとろ子とろ」「芋虫ころころ」「鬼ごっこ」「めんない千鳥」などのゲーム的な遊技は、仲間との競争や助け合いなど、仲間遊びであった。
 「子をとろ子とろ」は、子をとる鬼から親が子を守る遊びとされるが、本来は、地蔵菩薩が子を守る姿で、地蔵信仰に由来する。私も幼いころ、「こーとろ、こーとろ」というかけ声で遊んだような気がします。
 輪回しという絵が描かれていますが、私も、自転車のタイヤを外した輪に棒をあて立てて転がす遊びをしていた覚えがあります。江戸時代の子どもたちは竹製の輪をどうやってまわしていたのでしょうか・・・。
 江戸時代には職人がつくるおもちゃが豊富で、子どもにとって歴史はじまって以来の「玩具天国」となった。黒田日出男は「子どものおもちゃや遊びどうぐをつくる職人の登場は近世社会の文化現象」とみなしている。
 わずか90項ほどの大判の浮世絵による子どもの百景なのですが、眺めているうちに何やら童心に返って、ほんわか心があったまりました。
(2008年5月刊。2800円+税)

絵が語る知らなかった江戸のくらし

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:本田 豊、 発行:遊子館
 前に「庶民の巻」というのがあるそうで、この本は「武士の巻」です。豊富な絵によって、ビジュアルなものになっていますので、活字で想像していたものとの異同を味わうことができます。
 隠れキリシタンは全国各地にいた。そして、「踏み絵」は全国どこででも行われていたのではない。実際には、キリスト教徒の多かった九州の天草や、その周辺に限られていた。ええーっ、本当でしょうか?
 隠れキリシタンの多くは非人に紛れ込んだ。鎌倉・由比ヶ浜の長吏頭(ちょうりがしら)のように江戸時代を通して隠れキリシタンだった者もいる。甲州(山梨県)をはじめ、各地の銅や銀山の鉱山労働者の中には、かなりたくさんの隠れキリシタンがいた。うへーっ、そうなんですか、ちっとも知りませんでした。
 江戸時代の武家屋敷は、大から小まで、表札は掲げていいなかった。武士は常在戦場を建前としていたからだ。これは前にも聞いたことがあります。時代劇で表札が出ているシーンを見た覚えがありますが、間違いなんですね。
 江戸をはじめ、城下町には必ず武士専門の口入屋(くちいれや)があり、かなり繁盛していた。口入屋には、武士専門の業者と商工業者向けの派遣業者の2種類があった。田舎から出てきた単身赴任の武士は浅黄裏(あさぎうら)と呼ばれて、からかわれた。着物の裏におもに浅黄木綿をつかっていたから。実用的で丈夫ではあったが、野暮天だった。
 この本は、「武士や名主・庄屋といった人たちの間では、離婚はありえなかった」としていますが、これは間違いだと思います。江戸時代の離婚は、上は大名・旗本から、下は町人・庶民にいたるまで、ありふれたことでした。日本は昔から離婚王国の国だったのです。それほど日本の女性の力は偉大でした。この点は、戦国時代の宣教師ルイス・フロイスの観察記にもありますので、間違いないところだと思います。
 江戸時代の出版物には、かなりの影響力があった。たとえ300部しか出版されなかったとしても、繰り返し読まれ、総計では何万人もの人たちがよんでくれる。したがって、出版物に対する幕府による統制は、厳しいものがあった。
 江戸時代の日本人も、けっこう伸び伸びと趣味を楽しんでいたりしていたようです。今の日本と共通するところが多いのは、やはり400年くらいで人間が変わるわけはないということなのでしょうね。
(2008年10月刊。1400円+税)

荷抜け

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:岡崎 ひでたか、 発行:新日本出版社
 信濃(しなの)、安曇(あずみ)地方に実際に起きた牛方集団の「荷抜け」事件を題材として書かれた小説です。青少年読書感想文全国コンクールの高校生向けの課題図書となっていますが、なるほど、とうなずける内容です。
 文政7年、信州・松本藩では、戸田氏が藩主になって100年の祝いを華やかに行った。松本城の城門前には、祝いの品を山と積み、家臣には紋付袴、裃、真綿などを下賜し、町は芝居や踊りに興じた。下されものの酒樽を町中に置き、誰にも自由に飲ませた。
 地主層は、より財を蓄えるため、飢饉で困窮した農民から高利貸しで稼ぎ、米・麦を買い占め、売り惜しみして値を釣り上げた。食うに困った農民の怒りが爆発したのは当然のこと。それが赤蓑騒動だった。3万の群衆が松本城へ押しかけた。藩の鉄砲隊によって解散させられたものの、それ以降、藩は農民たちの力を恐れるようになり、農民の要求は無視できず、力関係が逆転しはじめた。
 犠牲者は農民4人が永牢を命じられただけで、見せしめの磔(はりつけ)はできなかった。これが世直し一揆のはしりだった。3万人が起ち上がったこの百姓一揆にも、首謀者名を残さない工夫などがしてあった。
 「荷抜け」とは、荷主に頼まれた送り荷を横領すること。もちろん、発覚したら厳罰に処せられる。それが、牛方26人衆が集団で荷抜けしたという。その総額は76両にもなる。
 牛方26人衆は、問屋とかけあい、借用したことにして、年賦返済を承知させた。半分にもならないうちに、荷主問屋側はあきらめ、事件の幕を引いた。
 牛方の10歳になる子どもを主人公として話は展開します。次はどうなるのか、ハラハラドキドキの展開です。やがて、牛方は一揆勢の情報伝達などの役割を担って活躍していきます。百姓一揆は、きわめて組織的に、百姓の知恵と力を総結集して長い準備期間をかけて取り組まれていったことが分かる本でもあります。
 島根の弁護士から待望のノドグロが到来しました。干物なのですが、軽く焼くと、ねっとり柔らかい白身で、淡白な味というより、もちっとした味わいがあります。信じられないほどのおいしさです。一度食べると、病みつきになってしまう魚ですよ。まだ食べていない人は、ぜひ食べてみてください。
(2008年6月刊。800円+税)

江戸商人の経営

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:鈴木 浩三、 発行:日本経済新聞出版社
 遅れた封建時代だったと考えられている江戸時代に、実は、高度な市場経済システムが成立していた。さまざまな業種で多様な市場競争が繰り広げられていた。江戸時代は、市場競争と市場メカニズムが機能する資本主義的な側面を色濃く持った時代だった。
江戸時代の商工業者にとって、事業の永続性は最大の経営価値だった。この点は、今の日本でもいえることだと私は思いますが、お隣の韓国ではまったくあてはまらないと聞いて、驚いたことがあります。
 井原西鶴の『日本永代蔵』には、現代の経営にも通じる企業行動と発想が随所にちりばめられている。たとえば、西鶴は烏金(からすがね。1日に限って貸す少額短期の高利金融)でわずかな元本を運用し、銭両替を経て本両替にまでなったひとの話を通じて、「銀(かね)が銀をもうける」という資本観念が当然のものだ、としている。
 また、『日本永代蔵』には、資金が遊休化しないように合理的な投資先やビジネスを探すこと、取引先の借用調査が重要だという認識、知恵や才覚によってビジネスチャンスを開くこと、後継者の指導育成と暖簾わけが重視されていたことが読み取れる。
 江戸の商業では、本業が危機に遭遇したときの保険・補完手段も発達していた。たとえば、多くの江戸の大店(おおだな)では、本店は近江や伊勢などの本国にあって、江戸の店は江戸店(えどだな)という支店の形態をとっていた。
日本列島沿岸に定期・商業航路が開設されたのは、戦国時代末期から江戸時代にかけてのこと。日本海側の海運組織としての北前船と西廻り廻船、そして、瀬戸内水運が、当時の経済先進国だった西国を中心に成立していた。
 そして、日本海沿岸の廻船は買積船(かいづみふね)だった。買積船とは、船主が自己資本で積み荷を買って船に積み、適当な相手に売るというビジネスで、差益商人そのものだった。主な船荷は、ふかひれ・ほしあわび・いりなまこなどの海産物や、金・銀・銅などの鉱産物だった。
江戸時代の貨幣経済の特徴は、金・銀・銅(銭)という3種類の貨幣が、それぞれ対等な本位貨幣として通用していたこと。金極め(きんぎめ)、銀極め(ぎんぎめ)、銭極め(ぎめ)という。金遣いの江戸でも、上等な茶、材木、呉服、薬品、砂糖、塩、職人の賃金などは銀建てだった。そして、吉原での遊興費や大名家で購入する書画・骨董などの高級贈答品は金建て。庶民の日常品、旅籠の宿泊料などは銭建てだった。
 江戸時代の年貢率は、寛文ころまでは7公3民で、農民の生産高の7割を領主が取立て、農民の手元には「もうけ」はほとんど残らなかった。ところが、寛文ころを境として、年貢率は急減して、農民に可処分所得が残るようになった。宝永・正徳期(1704〜16)には、3公7民となっている。
 町人は、信用を得るために両替商に預金した。当時の預金(銀)には当座預金しかなく、利子はつかなかった。しかし、両替高から信用されることは大いに評価された。
 よみ、かき、そろばんができないと丁稚にもなれなかったので、手習い=寺子屋が非常に盛んだった。天保期の江戸では、日本橋や神田といった町人の居住地域には手習い師匠が集中していて、師匠の生計は寺子屋だけで成り立っていた。「手習い師匠番付」まで発行されていた。寺子屋番付によると、221人の師匠が江戸で活動していたことがわかる。
 江戸時代に抜荷取り締まり令や禁止令がたびたび出されていたということは、それだけ抜荷つまり密貿易が頻発していた、ということである。
 江戸時代を新しい目で見ることを促してくれる本です。江戸と明治は切断されているのではなく、実は大きな連続性があるというわけです。
 このところ、曇天だったり小雨が降ったりすることの多い休日が続いていましたが、先の日曜日は久しぶりに秋晴れとなって気持のいい一日でした。選挙突入かと思われていたのに、いつの間にかそれはなくなり、かわって不景気風が吹き荒れています。こんなときには、庭いじりするのが何よりの気分転換です。
 まず、庭の一角を掘り上げ、コンポストの枯葉を取り出して埋め込み、その上にEMぼかしで処理した生ゴミを置き、土をかぶせます。本当はしばらく間をおくべきと思うのですが、師走の焦りから足で踏み固めるとすぐにチューリップの球根を植えこみました。
 そのあと、エンゼルストランペットを根元からバッサリ刈り取りました。コンポストに入れるために小さく切らないといけませんので、大バサミを使う腕が痛くなってしまいました。エンゼルストランペットは土中からすぐ芽を出すほど生命力の旺盛な木です。おかげで庭のあちこちにエンゼルストランペットが咲きます。すっかり見通しの良くなった庭に、ツメレンゲの小さな花がたくさん咲いています。
夕方5時半、暮れなずむ晩秋の夕空を見届けて本日の庭仕事の終了としました。
(2008年7月刊。1800円+税)

江戸城

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:深井 雅海、 発行:中公新書
 江戸時代は格式社会である。
 大名も江戸城に入ると、下乗橋(げじょうばし)の手前で駕籠から降りなければならなかった。御三家は、その先の中之門の手前まで駕籠に乗ることができた。玄関からは大名一人の行動になる。数千人の家臣を持つ大大名に対しても、登城時から将軍の威光を示し、将軍家の臣下であることを実感させる工夫がなされていた。
 一般的な大名は刀を玄関に持ち込むことができなかった。それに対して、御三家は玄関式台より奥の大広間溜(たまり)まで刀を持ち込むことが許されていた。
殿中儀礼に参加することにより、大名は、大名同士の競争意識を植え付けられていた。
江戸幕府が大名を親藩・譜代・外様の三つに分けていたという史実はない。大名の家格としては存在しなかった。これは『武鑑』を見れば明らかである。
有力外様大名は正月2日に大広間で将軍に謁見している。それだけ将軍にとって遠く、煙たい存在であったことを示している。
 国持大名は、幕府役職の信任から排除されていたため、自分自身の序列を上げるには官位昇進しか途がなかった。国持大名とは、律令の国郡制の一国一円以上を領する前田や島津などの大名(9家)と、それに近い規模をもつ伊達や細川などの大名(9家)をさし、十八国主と称された。
 旗本の場合は、どんなに高い家禄をもらっていても、諸大夫役に任命されないと官位は与えられなかった。
老中は、毎日九ツ時(午後0時)ごろに執務室を出て、近くの部屋を一巡する「廻り」という行事を行っていた。老中の執務時間は、四ツ半時(午前11時ころ)から八ツないし八ツ半時(午後2時から3時ころ)まで。つまり、老中の御用部屋での執務時間は3〜4時間と、限られていた。
 老中は通常4〜5人、若年寄のほうは3〜5人。ともに大事は合議で、日常的なことは月交代の月番制で処理していた。老中の合議は、書付を扇子にはさんで回覧するという、書類による稟議だった。
 将軍綱吉の時代に、老中の御用部屋が将軍の御座所から遠ざけられた。真の理由は、老中合議制から将軍独裁制への転換を図ったものである。
 寛政の改革、天保の改革は、いずれも主導者の松平定信、水野忠邦が老中を解任されて改革は終了した。松平と水野がだんだん独裁的になり、幕閣内で孤立化したことが要因とみられている。つまり、老中数人の合議を基本とする老中合議制という仕組みの中では、改革を長期間持続することが困難なことを意味している。
 なーるほど、ですね。
 歴代の将軍のうち、正室の御台所の子は三代家光だけ。世嗣をもうけるうえで、側室は不可欠だった。
 家綱・綱吉・家継の生母の父は、農民・町民・僧である。吉宗の生母の父も農民である。庶民の出身であっても、将軍の生母となれば、本人のみならず、親族の栄達も約束された。ただし、八代家斉の側室は全員が旗本の娘である。この時期に、側室は女中の中?から選ぶという制度がほぼ確立した。
 側室は、たとえ将軍の世嗣を産んでも、女中身分のまま。わが子が将軍職を継ぐと、はじめて家族の構成員となり、多くの女中がつけられた。
将軍の娘は、大名家などに嫁いだのちも、あくまで将軍家の「姫君」として遇された。この点、将軍の息子が大名家に養子に入ると、基本的にその家の人間になる。両者の扱いは大きく違っている。
 将軍家の娘が大名家に嫁ぐと、大名家の江戸屋敷地に別棟の住居が建築された。その住居を、御三家・御三卿など三位以上に昇進できる家に嫁いだときは「御守殿」他の大名家に嫁いだ場合は「御住居」(おすまい)と称した。そして、幕府若年寄の一人が「御掛」を命じられ、幕府から一定の「賄料」(まかないりょう)、つまり、生活費を支給され、女中と広敷役人が付けられた。
 将軍家御成、つまり、将軍の外出先として定められていたのは、上野の寛永寺と芝の増上寺、そして江戸城内にある紅葉山のみ。それ以外は個人差がある。将軍が大名の屋敷に出かける時には、たった一日の御成であっても「御成御殿」を造営して将軍を迎えた。将軍がたとえ一日移動するときであっても、幕府政庁の中枢が一緒に移動した。つまり、御用人、老中、若年寄などの執務室や奥右筆の部屋も一緒にもうけられたのである。
 江戸中期以降、将軍が外泊することはほとんどなかった。その例外が日光社参である。
 江戸時代の将軍とその取り巻きの人々の生活の一端を知ることができました。
(2008年4月刊。760円+税)

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