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カテゴリー: 日本史(江戸)

犬の伊勢参り

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  仁科 邦男 、 出版  平凡社新書
ご冗談でしょう・・・。江戸時代の中期に犬が単独で歩いて伊勢神宮にお参りをしていたというのです。フィックションではなく、実話として記録がいくつもあるといいます。信じられません。
記録に残された初めは、明和8年(1771年)4月のこと。最後の記録は明治7年。
 誰が記録したのか。たとえば松浦静山は『甲子夜話(かっしやわ)』に、日光からの帰り道に、伊勢参りの犬と道連れになったと書いた。
滝沢馬琴の息子は、千住(江戸)で伊勢参りの犬を見たと『八犬伝』執筆中の父親に報告している。根岸肥前守鎮衛(やすもり)の『耳袋』にも登場している。
 犬は、その首にひもを通して名札を付けていた。そして、銀の小玉がくくりつけてあった。飼主の所書と伊勢代参の犬であえることを示す札を首から下げていたのである。犬は人に声をかけられると立ち寄って餌をもらい、人の合図でまた家を出ていく。ええーっ、そ、そんなことが・・・。
 江戸時代には、日本中に信じやすい善男善女があふれていた。こういう時代だからこそ、犬は伊勢参りをすることができた。
 司馬遼太郎は犬の伊勢参りをウソだと断定したようです。著者は、司馬遼太郎でも、間違えるときは間違えると厳しく批判しています。まあ、司馬遼太郎が疑うのも当然だと私も思いますが・・・。
 幕末のころ、欧米に出かけて見聞きした日本人は、犬に必ず飼い主がいることに驚いた。そして、犬に税金までかかるとは・・・。
もともと日本の犬には値段がなかった。犬にお金を出す人などいなかった。
江戸時代の人間と犬との関係は、今とは感覚がまったく異なるようです。
 おとぎ話のような「実話」として面白く読み通しました。
(2013年3月刊。800円+税)

神と語って夢ならず

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  松本 侑子 、 出版  光文社
江戸時代最後の年、統幕と尊王にゆれる日本海の隠岐島で、若き庄屋が農民3000人を集めて蜂起。圧制の松江藩を追放し、パリ・コミュニケーションより3年早く、世界初の自治政府を始めた。王政復古と世直しの御一新に夢をかけた男たち。だが、その理想と維新の現実は異なっていた。さらに、思わぬ新政府の裏切りが・・・。
これはオビに書かれている文章です。明治維新に至る動きとして、あの隠岐島で自治政府が生まれていたなんて知りませんでした。まだ行ったことのない島です。ぜひ行ってみたいものだと思いました。
 ハーバード・ノーマンが、「隠岐島の事件は、維新後、数年間における日本の経験の縮図である」と書いているそうです(『日本の兵士と農民』1943年)。これまた知りませんでした。隠岐島と言えば後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒そうとして隠岐島に流され、後に、足利尊氏とともに北条家を滅ぼし、建武の新政をおこした。しかし、足利尊氏に裏切られ、吉野へ逃れて南朝をたてた。
 慶応4年(1868年)、郡代追放、年貢半減、世直しの蜂起の檄文によって島中から男たちが集合した。49の村から、あわせて3046人が終結した。島後の男は7500人。子どもと老人を除く全男子が決起にくわわった。3千本をこえる竹槍が栗のイガさながらに立錐の余地もなく並び、熱気、緊迫感がみなぎった。
 自治政府を代官屋敷に置いて、70人が役についた。まつりごと全般について話しあう会議所(立法)には、長老の4人がついた。この4人の長老による会議制となった。まずは、学校を郡代屋敷にひらいた。
 公務をおこなう行政府としては総会所(行政府・内閣)をもうけた。頭取は前の大庄屋。文事頭取(内閣官房・文部)、算用調方(大蔵)、廻船方頭取(運輸)、周旋方(外務)、目付役(裁判)、軍事方頭取(防衛)。武装した自警団を三部隊ととのえた。
 松江藩が反撃し、陣屋を奪回した。自治政府は80日間で終結した。しかし、松江藩の統治もわずか6日間で終わった。これは薩長が進出してきたことによる。
 明治維新に至る複雑な政争が隠岐島でどのように展開したかを小説によって紹介する本です。大変面白く、一気に読了しました。
(2013年1月刊。1800円+税)

幕末維新変革史(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  宮地 正人 、 出版  岩波新書
幕末、ハリスは老中首座の堀田正睦(まさよし)に次のように警告した。
 「平和の外交使節に対して拒否したものを艦隊に対して屈服的に譲歩することは、日本の全国民の眼前に政府の威信を失墜し、その力を実際に弱めることになる」
 これは、9ヵ月後、現実に転化した。第二次アヘン戦争に大勝した英仏連合艦隊の江戸湾来襲の恐怖は、何とか回避しようとした公武合体の分裂を幕府と井伊大老に余儀なくさせ、無勅許開港路線の軌道に進入せざるをえなくさせた。外を立てれば、内は立たず。征夷大将軍は国内のみならず対外的にもその実を示さないならば、何が「武職」だとの孝明天皇と朝廷の怒りはサムライと民衆の不満の期せざる受け皿となった。
 慶応元年(1865年)ころ、日本の一般民衆は、薩英戦争・下関戦争・条約勅許という三度の欧米列強による軍事的威圧への屈従のなかで、幕府と朝廷への不信感を募らせていき、国内の一致団結、内戦回避を求め、正義藩長州へ熱烈な声援と支持をおくった。このころ、朝廷に権威はなくなった。第二次長州征伐の慶応2年(1866年)夏は、未曾有の都市打毀しとし世直し一揆のときであった。戦争と民衆蜂起は表裏一体の関係をもっていた。
 ペリーが来航したとき、旗本だけで5000家以上あった幕臣のなかでオランダ語原書を読めたのは、ほとんど皆無だった。そのなかに自らすすんで蘭学を学ぼうとしたのが勝麟太郎であった。勝の能力と見識を見抜いたのは上役ではなく、商人たちであった。商人は勝のパトロンとなった。
 勝は、商人たちとの交流のなかで日本の全国的まとまり、日本民族と民族的利害というのを、幕府とは別のものとして認識するようになった。勝は長崎での5年におよぶ海軍修練のなかで、オランダ語ができるおかげで教師のオランダ海軍士官たちと差しで人間的につきあうことができ、そのなかで市民革命を経て市民社会に生活するヨーロッパ人の人間としての豊かさと幅の広さを痛感した。「西洋人は人間が広く、日本人は人間が狭い」という日本人論は死ぬまで変わらなかった。そのうえ、勝は、島津斉彬と親交し、それが貴重な財産となった。
 アヘン戦争(1840~1842年)における大清帝国の大敗と香港割譲は、朱子学に対する日本知識人の確信を大きく動揺させた。しかも、仏教の祖国、西方浄土の地とされたインド全域がイギリスの植民地となってしまったことも、この時期までに日本人の共有知識となっていた。
 軍事的威圧を受けての無勅許開港という異常な歴史段階に入った日本において、朝廷と幕府のどちらが国家の最終意思を決定するのか、という国家論の問題が日本人全体の前につき出された。サムライ階級だけの問題にとどまらなくなったのである。
 ガーン。このような視点で幕末を考えるべきなのですね。著者は、歴史過程は決して結果から見てはならないと強調しています。そうなんですよね。でも、ついつい結果から見てしまいますよね・・・。
 幕末の戊辰戦争のなかで会津藩とともに徹底抗戦を貫き、一度の敗北もしないまま最後に降伏した庄内藩は、まったく削封のないまま東北戦争後の戦後処理を乗り切った。戦闘に強いことは、なによりも戦う相手の将兵に感銘を与え賞賛の気持ちを生じさせる。恩義の念をいだいた庄内士族のなかに西郷崇拝者が続出したことも、サムライの世界にあっては何ら不思議なことではない。
 新政権の成立とともに攘夷がおこなわれるだろうとの圧倒的多数の日本人の思いを前提条件として外交の舵取りをしなければならない立場の新政権は、なによりも旧幕府と同じだ、という非難を恐れた。
 江戸無血開城後は新政権のもとで全国統治ができるだろうという新政府の楽観的見通しは、早くも4月段階で崩れてしまった。東北に至る地方で内戦が拡大し、内戦での勝利が至上命題とならざるをえず、積極的な外交展開が不可能となった。外交の試みが開戦されるのは、12月に入ってからであった。
 幕末・維新期の日本の動きを重層的にとらえた本です。この時期の視野を広く深くするものとして、関心ある人に一読をおすすめします。
(2012年10月刊。3200円+税)

江戸の読書会

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  前田 勉 、 出版  平凡社
日本人は本を読むとき、明治時代初期までは声に出して読む(音読)が普通だったそうです。ですから、江戸次第も当然のことながら音読です。
 そして、それを何人かで集まってやり、手分けしてその意味を質疑・討論するのでした。これを会読といいます。この本は、その会読の意義を究明しています。
 会読は、定期的に集まって、複数の参加者があらかじめ決めておいた一冊のテキストを、討論しながら読みあう共同読書の方法であって、江戸時代に全国各地の藩校や私塾などで広く行われていた、ごく一般的なものだった。
 会読は、上から下への一方的な教授方法ではなく、基本的には生徒たちが対等の立場で、相互に討論しながらテキストを読みあうもの。そこでは先生は生徒たちの討論を見守り、判定する第三者的な立場にいることが通例だった。
 明治の自由民権運動の時代は、「学習熱の時代」であった。政治的なテーマを議論・討論する学習結社が、全国各地に生まれた。
江戸時代、儒学を学んでも、何の物質的利益もあるわけではなかった。しかし、逆説的だが、だからこそ、純粋に朱子学や陽明学を学び、聖人を目ざした。
漢学塾での読書会読においては、上士も下士もなく、勝負して勝ち負けがはっきりする。
 会読には三つの原理があった。相互コミュニケーション性、対等性、結社性というもの。会読の場では、沈黙せずに、口を開いて討論することが勧められていた。そして、討論においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとですすめられた(対等性)。
 幕末の佐賀藩が江藤新平、大隈重信、副島種臣、久米邦武などの優秀な藩士を生み出すことができたのは、英明な藩主・鍋島閑叟のもと、藩校弘道館で全国諸藩のなかでもっとも激しい会読において競争させたことに起因する。藩校での成績の悪いものには職が与えられないほどの厳しさだった。
日田で広瀬淡窓が創設した咸宜園では、会読が教育の中心におかれ、徹底した実力主義をとった。
広瀬淡窓は、三奪法と月旦表を創案した。三奪法とは入門時に、年齢、学歴、門地をいったん白紙に戻すこと。咸宜園の入門者2915人のうち、武士が165人(16%)、僧侶は983人(34%)、庶民は1707人(61%)で、圧倒的に町人・百姓の出身が多い。
 江戸の後期になると、各藩で優秀な藩士を遊学させるようになる。各藩の藩校は自藩の藩士しか入学を許していなかったので、遊学先のほとんどは私塾だった。19世紀に入ると、武士たちは、藩士教育機関である藩校に強制的に入学させられ、会読を行うようになった。そして、各地の藩校で、国政を論ずることの禁止令が頻発した。
やっぱり、人は議論することによって目覚め、実力を伸ばすものですよね。 
(2012年10月刊。3200円+税)

「忠臣蔵」の決算書

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  山本 博文 、 出版  新潮新書
私の誕生日が討ち入りの日と同じだからではありませんが、忠臣蔵には昔から興味がありました。
 この本は、討ち入り費用700両(8400万円)の使途がきちんと記帳されていたことから、浪士たちの行動を明らかにしたものです。
 筆頭家老の大石内蔵助が、すべての藩財政の処理を終えて会計を諦めたとき、その手元に残ったお金は700両足らずだった。現代の金銭価値になおすと8千数百万円ほど。このお金が吉良邸討ち入りのための軍資金として活用された。
 「預置候(あずかりおきそうろう)金銀請払帳(きんぎんうけはらいちょう)」が現存し、それは討ち入り前夜に浅野内匠頭の正室(妻)の瑤泉院に届けられた。
赤穂藩が領内に発行していた藩札は銀9000貫目(銀900万匁)。現在の金額にすると18億円で、藩の年間予算に匹敵する規模だった。そして赤穂藩の取りつぶしによって、赤穂の城下町は藩札をもつ債権者が藩の内外から集まって、大変な騒ぎになった。最終的には、藩札はその額面の6割と交換されて決着した。
 赤穂藩には、中級家臣が140名いた。米や金の現物で「禄」(給料)を支給される下級藩士は123名いた。
 退職金として、藩士300名に対して総額23億5千万円が分配された。単純平均で一人780万円である。
 四十七士の特徴は、階層・役職・立場など非常にまんべんなく分布しており、一口でどのようなものが討ち入りに参加したとは言えない。一人一人の考えが独立しており、しいて言えば、「武士道」への思い入れの強い者が参加したと言える。
 多くの討ち入りの参加者は、浅野内匠頭個人から特別な恩籠を受けてはいなかった。彼らは、自らの「武士道」と家の名誉を守るために行動した。
 江戸で隠れ住んでいた浪士は月3万円で生活していた。
 支出割合の多くを占めているのが、上方と江戸を往復する旅費である。一人分の片道旅費は総額で3両。2週間かかったとして、1日に2万5千円。宿泊代が1泊1万円。駕籠賃などの交通費と食費をあわせて1日1万5千円。
 大石内蔵助は、もと家老の身分であるため、旅行時には駕籠を使った。内蔵助が京都で遊興したときには、自分のお金を使った。『金銀請払帳』には、その関係の出費は記帳されていない。
 内蔵助が江戸に下ったときには、もはや軍資金も底をつき始めていて、これ以上延期が実質的に不可能だったという実情もあった。江戸へ下る旅費は一人金3両と決められていた。そして、軍資金が乏しくなっていたことから、内蔵助一行の江戸下り費用は、内蔵助自身が負担した。
 討ち入りのための武具などの購入費用は130万円ほどだった。そして、不足したお金は内蔵助が個人で負担した。藩の財政を処分したあと、700両のお金を残し、これを適切に管理して使い、立場も考えもさまざまに異なる多数の同志を足かけ2年の長期にわたって統制した内蔵助の力量は、あらためて高く評価されるべきものである。
 著者のこの指摘には、まったく同感です。2年ものあいだ、お金と人を巧みに統制した内蔵助の力はとても大きい、偉大だと思いました。
(2012年11月刊。740円+税)

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