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カテゴリー: 日本史(江戸)

蔦屋重三郎

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 松木 寛 、 出版 講談社学術文庫
 江戸で出版業が社会的にも重みを増し、企業として確立するようになったのは17世紀半ばの明暦のころ。江戸の書商たちは、書物問屋仲間と、地本(じほん)問屋仲間という仲間組織を結成した。
 書物問屋というのは、堅い内容の数の書籍を商い、仏教関係書、歴史書、医学書などを扱った。地本問屋は、草双子や絵双紙などの地本(読み物ですね)を扱った。
 蔦屋(つたや)重三郎は、18世紀後半の天明・寛政期に活躍した有力な地本問屋だった。江戸芸術界のそうそうたる立保者たちを援助し、彼らに発表の場を与えたプロデューサーといえる。太田南畝、山東京伝、恋川春町、喜多川歌麿、東洲斎写楽、十返舎一九、滝沢馬琴と並べ立てたら、びっくりしてしまいます。
 天明期には狂歌が大流行した。それは京都のインテリ貴族階級に始まったが、やがて庶民のあいだにも広まり、大坂そして江戸に波及して大流行した。狂歌の集まりが盛んだったようです。
そして、天明から安永、文化になると黄表紙が全盛期を迎える。山東京伝などです。1万部も売れていたそうですから、その繁盛ぶりに驚かされます。そして、政治を諷刺する黄表紙が続々発刊されるのです。
 ところが、天明の田沼時代から、松平定信に変わると、寛政の改革が始まり、暗転します。ついに、山東京伝は手鎖50日、蔦屋重三郎も財産半分没収という処分を受けました。このあと、浮世絵に重点が移ります。蔦屋の後半生は歌麿抜きでは語れない。
 そして、蔦屋は東洲斎写楽を一気に売り出した。寛政6年5月のこと。大首絵30種を同時に出版。しかも、大判雲母摺(きらずり)。この大首絵には圧倒的な迫力がある。
 ところが、著者は第3期になると、まったく投げやりの、魂の抜けた形ばかりになる。第4期は洞落してしまった作品ばかり。そして、ついに写楽は消えてしまったのでした。
 第3期が駄作だというのは、ある原型があって、それをコピーしたようなものだからだというのです。そして、著者は写楽が歌舞伎の実際を見ないで描いたのではないかとしています。
 さらに、自分の替え玉をつかったともしているのです。いやあ、まいりました。写楽の絵をじっくり見たことのない者として、第3期、第4期の作品なるものが駄作だといわれても…。まるで分かりません。
 写楽の正体は八丁堀に住む、蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛だというのが今のところの最有力説です。蔦屋重三郎は48歳のとき、脚気で若くして亡くなりました。
 NHKの大河ドラマの主人公になっていますよね…。評判はどうなんでしょうか。
 
(2024年10月刊。1210円)

落語の地図帳

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 飯田 泰子 、 出版 芙蓉書房出版
 江戸切絵図で旅する噺(はなし)の世界。江戸市中が舞台となっている古典落語を地域ごとに紹介している、実に楽しい本です。
 切絵図とは、江戸時代後期大流行した住宅地図のようなもの、町々の様子を知るには格好の材料になっている。
 切絵図は、頻繁に改訂し、絶えず最新情報を提供した。携帯に便利な切絵図は江戸に不案内な者にとっては江戸土産品(みやげ)だった。江戸切絵図は、尾張屋が32種、近江屋が43種を刊行している。
 江戸の町割は平安京を手本とした。1区画は京間(きょうま)で、60間(けん)四方。
 所払(ところばらい)は、居住する町から出て行けというもの。今の感覚では刑事罰とは思えない。
 今の有楽町や新橋駅あたりは、江戸幕府の始まりのころは、まだ東京湾の中にある。
 夏、両国橋で大花火が揚がった。橋の上流が玉屋、下流は鍵屋が陣どって技を競いあった。富裕層は涼み船、そうでない者は橋涼みをした。
馬喰町にある公事宿(くじやど)には、一般客は泊まれない「百姓宿」と、旅の客も利用できた「旅人宿」があった。
「本郷も兼康(かねやす)までは江戸の内」。「兼康」は、今の本郷3丁目にあったようです。
 日本橋通1丁目には白木屋があった。越後屋、大丸屋と並ぶ、呉服の大店。
 切絵図には桜並木もしっかり描かれている。花の時季には、よしず張りの茶店が出て見物客でにぎわった。庶民の人気の筆頭は隅田川堤。
 絵がたくさん紹介されていますので、視覚的に楽しめる本になっています。
(2024年7月刊。2300円+税)

写楽

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 渡辺 晃 、 出版 角川文庫
 ときは、寛政の改革で有名な松平定信が活躍したときより少しあとのこと。
 寛政6年5月に現われ、わずか10ヶ月したら姿を消した絵師、写楽。
 長らく写楽の正体は不明とされてきましたが、現在は四国は阿波国徳島藩の能役者・斎藤十郎兵衛だというのが有力説。
売り出し当時は、今ほど爆発的な人気はなかったようです。ところが、海外へ浮世絵が流出していくと、海外で写楽を高く評価する本が出て(明治43(1910)年)、その評価が日本に逆輸入され、写楽への評価が一変した。
 ふむふむ、よくある日本人の行動パターンですね、これって…。
 東洲斎写楽を押し出した版元(出版社)は、蔦屋(つたや)重三郎。背景に雲母をぜいたくに使った黒雲母(くろきら)摺(ずり)の役者大首絵で、大当たりをとった。
 寛政の改革のあと、江戸三座である中村座、市村座、森田座は、いずれも資金難に陥って休座した。その代わりを都座、桐座、河原崎座が興行した。
 写楽の大首絵には、ふてぶてしいまでの迫力を感じさせるもの。必死さ、緊張や恐怖の感情が看てとれる。顔を大きく描き、なおかつ身体の一部に動きをつけ、さらに縦長の構図に収めるのが写楽の大首絵。
 写楽は、二重まぶたや、まぶたの上のラインの描写を役者たちに施している。
 亡くなった役者を追悼して出される追善絵。これに対して、役者の死後すぐに出される絵を死絵という。
 蔦重は寛政の改革に際して、過料により身代半減という処罰を受けた。しかし、蔦重はめげることなく、逆に錦絵の分野でさまざまな趣向の作品を刊行していった。
 今も知られる一枚絵の名作は、むしろ写楽の処罰後のものが多い。蔦屋重三郎が亡くなったあとは、番頭の勇助が店を継承し、四代、幕末まで続いている。すごいですね。
 写楽の絵は、いつ見ても圧倒されて、思わず声が上がってしまいます。カラー図が楽しい写楽に関する文庫です。
(2024年9月刊。1340円+税)

島津氏と薩摩藩の歴史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 吉川弘文館
 薩摩藩と島津氏の強さがどこから来るのか、私は前から大変興味があります。
 島津という地名は都城市にあり、そこに島津荘があった。
島津氏も、いろいろ内紛が起きています。総州家と奥州家との争いというのもありました。
 室町時代の遣明船は細川氏が中心で、堺の商人が主導権を握っていた。薩摩の坊津(ぼうのつ)で硫黄を積み込み、島津氏の警護で中国へ渡航していた。坊津は日本の津の一つとされるほど、対明(外)貿易で栄えた。島津氏はまた、琉球貿易を独占していた。
 ザビエルは薩摩出身のアンジローに接し、当時の日本人が名誉を重んじ、盗みに厳しい罰を与え、知識欲が旺盛で、食事は少量で肉食せず、米で作る焼酎を飲み、海岸の砂を掘って温泉に入ると書いた。
 またザビエルは鹿児島で布教を許された。次のように報告した。
 「今まで発見された国民のなかでは最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のなかには見出せない。日本人は親しみやすく、一般に善良で、害意がない。知識欲が旺盛で、善良で、社交性が高い。」
足利学校の七代の当主は、大隅の伊集院氏の一族。
城下士は半農半士の外城(とじょう)衆中を「肥(こえ)たんで士(さむさい)」と呼んで軽視していた。安永9年、外城衆中を郷士と呼び改めた。
 江戸幕府の初期のころ、島津氏は、日本最大の貿易大名だった。
 薩摩藩は藩士の子弟の教育にも熱心に取り組んだ。子どもは年齢により、二才(にせ)と稚児に分けられた。二才は14.5歳から24.5歳までの青年。稚児は小稚児(6~10歳)、と長(おせ)稚児がいた。小稚児の教育は長稚児が、長稚児の教育は二才が行った。二才たちは互いに鍛錬しあった。
 薩摩藩の産金量は佐渡に次ぐ2位。全国の3分の1の産金国だった。薩摩国で金がとれていたなんて…、知りませんでした。
 島津重豪は、その娘(茂姫)が将軍家斉の御台所になったので、将軍の岳父として権勢を振った。いやあ、これは知りませんでしたね…。
 万延元年(1860年)の8月に生麦事件が起きた。そして、イギリス海軍が鹿児島市中に放火し、3分の1を焼失させた。イギリス海軍はアームストロング砲で砲撃した。薩摩藩は果敢に反撃し、イギリス艦隊も大破一隻、死傷者63人。これに対して、薩摩側は城下の市街地の10分の1が焼失した。しかし、当時、世界最強を誇っていたイギリス軍が退却した結果に世界は驚いた。
 「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということ。日本は勇敢であり、ヨーロッパ式の武器や戦術にも長(た)けていて、降伏させるのは難しい」
 長州藩のほうは四国連合艦隊にたちまち砲台を占拠されるなど、屈服させられましたが、鹿児島湾での戦いは「日本が勝った」のでした。
 ざっとざっと薩摩藩の歴史をおさらいした気分です。
(2024年9月刊。2200円+税)

涅槃(ねはん)の雪

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 西條 奈加 、 出版 光文社時代小説文庫
 さすが直木賞作家だけあります。読ませます。しびれてしまいます。
ときは、老中・水野忠邦が推進する天保の改革のころ。北町奉行の遠山景元の下で町与力として働く高安門佑(もんすけ)が主人公。
 水野忠邦の改革を推進する側の鳥居耀蔵も登場してきます。数々の弾圧をすすめた張本人です。この鳥居耀蔵が門佑を誘ったりして、事態は複雑に進行します。
遠山景元は、南町奉行の矢部定謙と一緒に水野忠邦の改革案に抵抗します。たとえば、芝居小屋の閉鎖・縮小、そして株仲間の解散です。
水野忠邦は、貨幣を改鋳(かいちゅう)した。貨幣に混ぜる金銀を減らし、浮いた金銀を幕府の収入とするもの。ところが、1両を4千文と定めた公定相場が崩れ、今や6500文として取引されている。そして、貨幣価値が下がると、物価は上がる。
東町奉行所の与力をつとめていた大塩平八郎の乱が大坂で起きたのは、矢部が西町奉行を辞めたあとのことなのに、鳥居は矢部が大塩の乱に関わったかのように申し立てた。矢部を追い落とすため。そして、それは成功した。
奇席の花として、女浄瑠璃(じょうるり)が庶民のあいだで人気を博していた。この奇席を縮小・閉鎖しろというのが水野忠邦の改革。遠山も矢部も、そろって反対したが、水野は押し切った。
 遠山は西丸小納戸頭取として将軍家慶の側仕えをしていたので、家慶の覚えがめでたかった。そのためさすがの老中・水野忠邦といえども、遠山をやすやすと追い落とすことはできなかった。
矢部を南町奉行から追い落とし、鳥居が南町奉行になってから、遠山の人気は鰻(うなぎ)上りとなった。表立っては口にしないものの、人々の鳥居への反発はすさまじく、その反動で、遠山が名奉行と祭り上げられた。
 この本のすごさは、そんな政治背景をしっかり書きこみながら、男女間のこまやかな機微を読み手に、あの手この手で感じ取らせていくところです。その手腕たるや、最後のところに来て、頂点に達します。うむむ、なるほど、その手があったのか…。ついつい唸ってしまいました。
江戸時代の雰囲気をちょっぴり味わってみたいかなと思う人にはぴったりの人情時代小説です。
(2023年12月刊。660円+税)

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