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カテゴリー: 日本史(江戸)

「伊達騒動」の真相

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 平川 新 、 出版 吉川弘文館
 面白い本です。江戸時代の大名家も、内情はいろいろあって、大揺れに揺れるところも少なくなかったようです。確認されているお家騒動は40件以上。お家騒動とは、大名家に発生した内紛のこと。福岡藩の黒田騒動、佐賀藩の鍋島騒動、加賀藩の加賀騒動が有名だが、それより有名なのは、仙台藩の伊達騒動。
 伊達騒動は17世紀の仙台藩に起きた二つの事件から成る。その一は、放蕩(ほうとう)にふける三代藩主の伊達綱宗が藩主に就任してわずか2年で強制隠居させられたこと。その二は、仙台藩奉行(家老)の原田甲斐宗輔が、藩主一門の伊達安芸宗重を境界争論の審理中に大老酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清邸で斬殺したこと。普通の大名なら即とりつぶしの理由になるような大事件が、わずか10年の間に2度も起きた。それでも仙台藩は取りつぶされなかった。なぜ、なのか…。
 二代藩主であった伊達忠宗は、生前、綱宗の挙動に大きな不安を抱いていた。綱宗の行儀の悪さは相当なもので、父親(忠宗)の叱責にも聞き入れないのなら、勘当する(親子の縁を切る)とまで思っていた。すなわち、綱宗は酒乱気の気があった。父の忠宗は、綱宗に「一滴も飲むな」と断酒を命じていた。
 筑後柳川藩10万石の大名・立花忠茂は、綱宗の監視役に就いた。忠茂は綱宗の義兄になる。藩主・綱宗の「御行跡」が悪いのは、「夜行」、つまり遊郭の吉原通いのこと。
 しかし、結局、1660年7月、立花忠茂・伊達宗勝などが幕府に綱宗の隠居と弟または亀千代への相続を願い出た。この連署証文には、14人が加わった。主要な一門と奉行。当時、藩政を運営していた主要な人物が署名に加わった。綱宗の隠居願いは、藩の重臣の総意だった。
 逼塞(ひっそく)とは、門を閉ざして白昼の出入りを許さないこと。閉門は門扉や窓を閉ざし、昼夜ともに出入りを許さない監禁形。処分としては、逼塞より閉門のほうが罪が重い。
 閉門とされた綱宗は、仙台藩の下屋敷(品川屋敷)に移り、72歳で亡くなるまで、ひっそりと生活した。とはいうものの、実は、綱宗には側室の初子のほか、7人もの側室がいて、初子とのあいだに2人の男子、そして他の側室から7人の男子と11人の女子が生まれた。いやはや、たいしたものですね…。これでは普通の隠居と変わりませんね。
 このころ、仙台藩の財政状況は悪く、逼迫しはじめていた。二つめの伊達騒動の原因をつくったのは野谷地(のやち)、つまり未開発の原野や湿地帯についての争い。係争地は蔵入地によるという明確な方針が忘れ去られ、また、重要な証拠となるはずの「国絵図」も思い出されなかった。信じられませんね…。
 幕府の老中たちは、すでに早くから仙台藩における治政の乱れを知っていた。
 1671(寛政11)年3月27日、大老酒井忠清邸の大書院で、原田甲斐宗輔が、やにわに脇差を抜いて伊達宗重の首筋に切りつけ、宗重は即死した。原田も斬られた。
 この原田の乱心について、著者は、原田に非があったことは明らかなので、結局、身の破滅を悟り、逆上して刃傷に及んだとみるのが自然だとしています。
 この大事件が起きた当日、老中は仙台藩のとりつぶしはないから心配するなと明言したとのこと。ただし、綱宗のあとを継いだ幼い藩主の後見人たちは責任を問われています。
 また、原田宗輔の4人の男子は切腹を命じられ、5歳と1歳の孫たちも処刑された。男子の血筋は根絶やしにされた。これは厳しい処分ですね。
 伊達騒動は、単なる権力闘争ではなく、野谷地という知行地の境界相論に端を発する民衆社会のあり方にかかわった騒動だった。なるほど、そのように評価できるのですね。
 山本周五郎の『樅(もみ)の木は残った』は、原田宗輔について、大老酒井と伊達宗勝による仙台藩乗っ取りを防いだ忠臣だと評価する。しかし、そのストーリーはつじつまがあっていない展開だと著者は批判しています。
 また、伊達家を改易すれば、その反響の大きさに幕府は恐れをなし、とても改易なんかできなかったとしています。なーるほど、ですね。大変勉強になる本でした。
(2022年1月刊。税込2200円)

桜ほうさら

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 宮部 みゆき 、 出版 PHP研究所
 江戸時代、江戸随一の料理屋として名高い「八百善」は、店で客に供する料理について、その四季折々の献立を文章だけでなく、図にし、彩色版画を添えた「料理通」なるシリーズ本を刊行していたというのです。圧倒されますよね。まるで、現代東京のレストランや寿司店をミシュランが評価してガイドブックに仕立てていようなものです。彩色版画つきというのですから、精巧なカラー写真で料理が紹介されているのと同じほどの効果があったことでしょう。
 もう一つ、文化文政時代の江戸では朝顔が大流行しました。いろんな朝顔を掛け会わせて、変わった色や形の朝顔の新種をつくり出そうと、人々が必死になったのです。もちろん、この本には、そんな朝顔の色や形は紹介されていませんが、別の本でみると、それこそ奇妙奇天烈、あっと驚くしかない朝顔の変種が次々に生み出されたのでした。
残念ながら、今日には残っていません。でも、私には、昔ながらの色と形が一番です。
主人公の父親は、ある日突然、藩の御用達(ごようたし)の道具屋から賄賂(まいない)を受けとっていたと訴えられました。まったく身に覚えのないことなのに、証拠の文書があった。本人が見ても自筆としか思えないもの。ついに、身に覚えがないことながら、白状するしかなかった。役職を解かれ、蟄居(ちっきょ)閉門を命ぜられた。屋敷の周辺には竹矢来(たけやらい)が巡らされ、見張りの番士が立った。
さて、この冒頭のエピソードがどのように展開していくのか…。さすが、宮部ワールドです。
話は、江戸での、のどかな長屋生活に転じたかと思うと、次第にミステリーじみてきます。
いやはや、いったい、これはどんな結末を迎えるのか、さっぱり見当もつかないうちに、どんどん人が殺されていき、事件の真相に近づいていくのでした。
相も変わらず、見事なストーリー展開です。600頁の大作ですが、読後感は、なるほど、そういうことだったのか…、と謎解きに感心しつつ、後味の悪さはあまりなく、読み終えることができました。パチパチパチ…。久しぶりの北海道旅行の機中・車中で読了したのです。
(2013年3月刊。税込1870円)

先生のお庭番

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 朝井 まかて 、 出版 徳間文庫
 江戸時代、長崎の出島にオランダ商館があり、そこから日本は海外の情報を仕入れていました。その商館にやってきたシーボルトという若い館員は、医師でしたが、日本各地の植物を採集し、ヨーロッパに種(タネ)や苗などを送り届けていました。その一つがアジサイです。アジサイは「オタクサ」と名づけられました。シーボルトの日本での女房の名前(お滝さん)からとられたものです。ヨーロッパにアジサイの花はなかったようです。
 シーボルトは江戸に上り、将軍にも拝謁していますし、当代の知識人がシーボルトに会いたくて全国からやってきました。
 シーボルトは日本全国の地図を伊能忠敬が作成したのを知り、その伊能図をこっそりオランダへ送ろうとします。ところが、その船が難破してしまったことから、積荷に伊能図があることが幕府に知られてしまい、ついには何人もの逮捕者まで出るというほどの騒動になりました。
 こうやって、タイトルの「先生」とはシーボルトだと分かります。すると、お次は「お庭番」です。お庭番というと、江戸城から出て各国のスパイをする人ではないのか…。それとも、シーボルト先生を見張る役になりますか…。いえ、どちらも違います。ここでの「お庭番」とは、日本各地の珍しい花や木を植えて育てる役、つまり、文字どおりお庭の草花を番して、保護・育成する人のことです。
 たくさんの珍しい草花が長崎・出島にやってきます。そして、それを海外(オランダ)に届けようというのです。何ヶ月もかかる船旅に耐えるためには、いくつもの工夫が必要になります。お庭番は大変なんです。そんなストーリー展開をうまく読ませます。さすがの筆力でした。
(2014年6月刊。税込693円)

咲かせて三升の團十郎

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 仁志 耕一郎 、 出版 新潮社
 江戸時代も後期の歌舞妓(かぶき)の舞台で大活躍した七代目・市川團十郎(だんじゅうろう)の半生記が見事に語られています。
 東西(とざい)、東西…。七重の膝を八重に折り、隅から隅まで、ずずずいーと、御(おん)願い申し上げ奉(たてまつ)りまする…。
 市川團十郎家が座頭をつとめる芝居小屋では、初代團十郎が初春興行で初めて「暫(しばらく)」を演じてから、二代目以降も見世興行の序幕は「暫」と定められている。
 市川團十郎家は、「成田屋」の屋号をもつだけに下総国(しもふさのくに)幡谷(はたや)村にある成田山新勝寺とは縁深い。江戸での出開帳(でかいちょう)の折には、代々の團十郎が不動明王を演じてきた。
 江戸庶民のあいだでは、不動明王には病を治す力が備わっていると信じられており、弟子たちも、やはり不動明王と縁深い成田屋だから…、と御利益(ごりやく)を信じて疑わない。
 役者の世界で「華(はな)がない」とは、観客を引きつける魅力がないということ。これだけは生まれもっての「天賦の才」というもの、芝居のうまい下手(へた)ではなく、顔の良し悪しでもない。
 「まだ若いから見えないだろうが、71年も生きてくると、若いころには見えなかった世の中の理不尽や不条理が、よーく見えてくるもんだよ」
 こんなセリフに接すると、「そうだ、そのとおり」と大声をあげたくなります。
 演技の優劣・うまい下手は背中に出る。とくに動きの激しい立役に比べ、仕草の小さい女形は舞台で巧みに背中を使い、台詞(せりふ)以上に喜怒哀楽を表し、観客の目を魅了しなければならない。いやあ、これは難しいことですよね…。
 芝居は上辺じゃない。役の心になりきれるかだ。どんなに顔が良くても、役の心、心の芸ができなければ、役者は下だ。心の芸ができてきたら、体も自ずと動き、台詞も重みを増す。それが役を演じるってこと。それができないのは、心に妙な物が棲みついて、濁(にご)っているからだ。
 江戸で人気の高かった相撲力士の雷電為右衛門は、「天下無双の雷電」と刻ませた鏡を寺に奉納したカド(廉)で、江戸払いとなり、戻ってはこなかった。
 歌舞伎は明治以降のコトバであって、江戸時代には歌舞妓と書いていたそうです。その歌舞妓の世界を情緒たっぷりに味わうことができる本でした。
(2022年4月刊。税込2640円)

お白州から見る江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 NHK出版新書
 お白州(しらす)とは…、江戸時代のお裁きの場、いわば法廷のようなもの。ここで、法廷と断言せず、「ような」としているところに本書のミソがあります。
 実際のお白州は舞台とは違って「法廷」ではない。その構造、用途、本質、みんな現代日本の「法廷」とは異なる。江戸時代独特の何か、なのだ。
 江戸時代の裁判には出入物(でいりもの。出入筋)と吟味物(ぎんみもの。吟味筋)という二つの区別がある。出入物とは、原告による訴状の提出に始まる裁判で、「公事訴訟」のこと。原告を「訴訟人」といい、被告は「相手」、「相手方」といった。原被は、必ず、それぞれの所属する町や村の名主・家主・五人組らの同伴が必要条件で、彼らを「差添人(さしぞえにん)」と言った。江戸時代の公事訴訟は、必ず所属集団の承認や同伴を要し、個人の行為としては原則として行えないことになっている。
 出入物は、当事者間の示談、つまり「内済(ないさい)」の成立を第一の目的とした。内済不調のとき、奉行が御白州で判決(「裁許(さいきょ)」)を下すことはあったが、それは「百に一つ」と言われたほど少なかった。奉行は、お白州に最初と最後の2回だけだが、必ず登場した。
 吟味物は、訴状がなくても、公儀が必要と判断したときに始まる。
 訴状を出すと出入物として始まるが、内容次第では、吟味物に切り替えてすすめられることもあった。すなわち、「民事」と「刑事」という裁判の区分は近代以降のもので、江戸時代にはない。
 吟味物の判決は「落着(らくちゃく)」と呼ばれる。死罪のときに限って、下役が牢屋敷に出向いて本人に申し渡した。
 江戸時代のお白州とは、治者である公儀が被治者である庶民と公式に対面し、公儀による正当な判断を示す場所だと位置づけられた。
 奉行は、御白州にのぞむ段に居て、裁かれる者が入ってくるのを待った。
 裁かれる者が座る場所には、白い「小砂利」が敷かれた。この砂利の上に筵(むしろ)を敷くことはなかった。
 奉行所の門の中に入ると、必ず裸足(はだし)になっていた。
 砂利の席は、役人からみて、右が原告(訴訟人)、左の方が相手(被告)と決まっていた。
 公事訴訟が盛んになり、待合室(腰掛け)にお酒をもってくる者まであらわれた。
 18世紀初頭、御白州は、かつてない「活況」を生みつつあった。
 問題となったのは、御白州に、誰とどういう順席ですわらせるか…というもの。帯刀する身分でも、下級武士とされる徒士(かち)には、砂利が敷かれた。
 「熨斗目(のしめ)」とは、腰まわりに腰と袖下とに縞や格子の模様を緒りだしたもの。
 その犯罪が武士だったころの行為なら、士分の犯罪の勝負として厳罰にさらされた。
 江戸時代のお白州における「お裁き」は、治者による被治者への恩恵であり、権利という発想はまったくなかった。そして、お白州のどこに、どんな服装で座るのかは、本人にとって、その属する身分のもつ意味を具体的に示すものとして、大きな意味があった。このとき、先例は絶えず参照された。
明治5年10月10日、御白州に出廷する者への座席の区別は完全に撤廃された。
 こんな状況を、こと細かく調べ上げた新書です。いろいろ勉強になりました。
(2022年6月刊。税込1078円)

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