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カテゴリー: 日本史(江戸)

イワシとニシンの江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 武井 弘一 、 出版 吉川弘文館
イワシとニシンは、江戸時代の社会を支える重要な自然だった。
えっ、ええっ、どういうこと…。イワシもニシンも大衆魚とは聞いていたけれど…。
江戸時代の後期、百姓にとって、肥料の確保は切実な悩みの種だった。江戸時代、中期以降は自給肥料が足りなかった。このころの自給肥料とは、人糞、厩肥(きゅうひ)、草肥などの総称。
イワシが生(ナマ)で食べられる時間は、きわめて短い。また、イワシは腐りやすいので、乾燥して干物になった。干されたイワシは値が安いうえに肥料として作物に与える効果が高かった。それに大量にとれるので、イワシの価格は安い。
干鰯(ほしか)は、水揚げされた生の鰯をそのまま海沿いに敷きつめて、天日で乾かすだけでつくった。
もうひとつは、〆粕(しめかす)。はじめにナマのイワシを窯で煮たあとに油を搾る。その脂を絞ったあとののこり滓(カス)が〆粕。こちらは、干鰯より価格が高い。
このように、イワシもニシンも江戸時代、日本の農業を支える肥料として活用されていたのですね。
近世の村むらが幕府に国を単位として連帯して訴えた運動を国訴(こくそ)という。肥料価格の高騰・菜種・木綿の自由取引を求めた。文政2(1819)年の幕府の物価引下げ令を契機として、摂津・河内の619ヵ村幕府領村むらの大坂町奉行所に干鰯値下げなどの訴願を起こし、この訴願が先導役となって、文政6~7年の木綿・菜種国訴につながっていった。
国訴というコトバを初めて聞きました。歴史も、まだまだ知らないことだらけです。世の中は未知なるものばかりなんですよね…。
(2022年2月刊。税込2640円)

江戸で部屋さがし

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 菊池 ひと美 、 出版 講談社
江戸の人々、とくに長屋に暮らす庶民がどんな生活をしていたのか、カラー図版で家の間取りや室内の様子が再現されている読んで楽しい本です。家賃も現代の円に換算してあります。
裏長屋に、夫婦と小さい女の子の3人で住む。畳部分は4畳半の一間で、家賃は月2万5千円。「手頃な値段」とありますが、ちょっと高いのでは…。
部屋にはタンスがなく、押し入れもない。布団は部屋の隅に重ねておいて、昼は屏風で囲っている。
便所は外便所で長屋の人たちが共同で使う。掘り抜き井戸ではなく、玉川上水などを井戸の形にして利用している。室内は板敷きで、畳は敷いていない。
長屋に住む職人のうち、日雇職人は出居衆(でいしゅう)と呼ぶ、臨時の手伝い人。
職人には、外で働く出職(でしょく)と室内で働く居職(いしょく)の二つがある。出職は、大工や左官そして棒手振り(ぼうふり)。居職は、塗物師、錠前づくりなど…。
商売人は、住み込んで働く。通いの番頭になったあと、結婚できる。
江戸の後期、町内に必ずあるのは、湯屋(風呂屋)、髪結い床(理容店)、口入屋(人材派遣)。
江戸には、男も女も独り者が少なくない。
商店の大店(おおだな)と小店(こみせ)の違いは、仕入れ先の違いにある。大店は産地で直接、大量に仕入れる。小店は、産地から直接に仕入れるほどの資力はないため、問屋から仕入れた商品を売る。
酒やしょう油など身近な商品はツケで買っておき、6ヵ月ごとに決済して支払う。
江戸にあった越後屋は、道の両側に広がっていたのですね。その様子を歌川広重が描いた絵もあります。
店は2階がある。地下には大きな穴倉が掘られていて、火事のときには反物を投げ入れてフタをした。
新妻を「ご新造さま」と呼ぶのは、新妻を迎えるため、新築したり、建て増しをしたり、専用の座敷をつくったりしたから。なあんだ…と言いかけて、思わず、結婚するときに家を建てられるだけのお金をもっていたのですかね、とつぶやいてしまいました。
江戸時代の情緒と雰囲気をたっぷり味わうことのできる、楽しい本です。
(2022年5月刊。税込2200円)

災害と復興、天明3年、浅間山大噴火

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 嬬恋郷土資料館 、 出版 新泉社
嬬恋村(つまごいむら)と言えば、キャベツの産地として日本に名をとどろかせていますよね。高原キャベツの産地として断トツの日本一です。1933(昭和8)年にキャベツの初出荷がなされたといいますから、古いと言えば古いわけですが、江戸時代からキャベツを栽培していたわけではありません。私もキャベツは大好きですが、ビタミンUもビタミンCもたっぷり含まれていて、美容と健康にいいのですよね。
村の人口は9500人。村の3分の2は、上信越高原国立公園に含まれている。
天明3(1783)年に3ヶ月に及ぶ浅間山大噴火によって村は壊滅的は被害を受けた。浅間山は、今もたびたび噴煙をあげる活発な活火山。
浅間山の大噴火による被害者は1490人以上、流失倒壊家屋は1300戸以上。
そして、この災害は、天明の飢饉を深刻化させた要因ともなっている。
山の中腹にある観音堂まで逃げ上がった93人だけが助かったと言われ、現在15段の石段があるが、実はかつて150段ほどあったのが、大半は埋もれてしまった。石段の最下段で、逃げようと石段を駆け上がろうとして2人の女性の遺体が発見されている。
被災した家屋の建物から、ガラス製の鏡が出土しているというのには驚きました。当時は大変に貴重なものだったはずですが、いわば庶民の家にあるのが見つかったのですから…。
ここらあたりでは、馬を使って物資を運ぶのを仕事とする人々が大勢いたようです。それで、馬を200頭以上も飼っていたとのこと。すごいですよね、これって…。
江戸幕府から被災地の現場見まわりとして派遣された人々たちは、真面目に仕事をしていたようです。藩としては熊本藩が指名されています。
村を再生させるため、夫を亡くした女と妻を亡くした男を結婚させる、親を亡くした子と亡くした親を養子縁組させ、家族の再生が図られた。こうして再婚者7組の集団結婚式が挙行された。そういうこともあるんですね…。
大変幅が広く、また奥行きの深さも実感できる本でした。
(2022年3月刊。税込1980円)

北斎

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 大久保 純一 、 出版 岩波新書
大宰府の国立博物館で北斎の描いた絵をみてきました。すごいですね、まさしく天才です。アメリカの『ライフ』が、「この千年に偉大な業績をあげた世界の人物100人」の中に、日本人では北斎だけがあげられたとのこと。ええっ、そ、そうなの…と驚いてしまいます。明治以降の日本人には偉大な業績を上げた人が誰もいないなんて、少しばかり気落ちしてしまいますよね…。
とはいっても、江戸時代の北斎がヨーロッパ絵画に与えた影響は絶大なるものがあります。フランスではジャポニズムです。かのゴッホだって、浮世絵をたくさん描きこんでいますしね…。
「写楽」と違って、北斎は生年も没年も明確です。北斎は、宝暦10(1760)年に江戸は本所(ほんじょ)の割下水(わりげすい)に生まれた。幼いころから絵を描いていたようですが、まずは版木(はんぎ)印刷のための版木を彫る職人(彫師)の修業を始めた。次に、貸本屋の小僧として働いたとのこと。そして19歳から絵師の道に踏みだした。
初めは勝川春章。浮世絵です。役者の似顔絵ですね。これは、映画俳優のブロマイド写真のようなものです。そして、名所絵・物語絵、さらに武者絵・子どもとすすんでいきます。このころは、黄表紙などが売れていましたから、その挿絵を描くようになります。
北斎は油絵風の絵も描いています。それまでの日本絵画にはない表現をふんだんにとり入れたのです。
『北斎漫画』は有名です。これはマンガ本ではありません。絵を学ぶときの手本としてなる絵を北斎は大量に描いたのでした。絵手本の傑作というほかありません。よくぞ、ここまで人間の姿・形・姿勢(ポーズ)、表情をうつしとったものです。驚嘆するほかない傑作です。
北斎は安藤広重とは画風が違う。たとえば、広重は、風景のリアリティを売り物にした。
北斎は広重と違って、現実の風景を忠実に再現することにまったくこだわらない。
それにしても、富嶽・三十六景の「神奈川沖浪裏」は衝撃的でした。
千年に1度の天才画家・北斎です。たまに目を洗うのもいいものです。
(2018年12月刊。税込1100円)

阿蘭陀通詞

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版 講談社学術文庫
オランダ語を通訳する人々を紹介した本(文庫)です。南蛮人と紅毛人を使い分けていたなんて、本当でしょうか。ポルトガル人は南蛮人で、オランダ人は紅毛人です。いったいどんな違いがあるのでしょうか。
来日した南蛮人は日本語の習得に努め、布教と貿易に従事した。そして日本で南蛮文化は開花した。ところが江戸幕府は、一転して禁教と密貿易を厳禁したため、来日したオランダ商人には日本語の習得を許さなかった。それで日本人の通訳(通詞)が活躍するようになった。
江戸時代、通詞と通事は書き(使い)分けていた。通詞はオランダ語の通訳官で、通事は唐通事で、中国語の通訳官をいう。通詞も通事も、身分は長崎の町人で、通訳官と貿易官を兼ねて務めていた町役人。そして、長崎通詞も長崎通事という役職名は存在しなかった。長崎に外国船が姿を見せると、通詞の船が接近し、どこの国から来た船なのかを「聞き分ける」力が要求された。オランダから来た貿易船だと判明すると、たちまち「宝船」だとして歓迎された。
通詞の職階は、大通詞、小通詞、稽古通詞、大通詞助役、小通詞助役、小通詞並、小通詞末席…。そのほか、内通詞。売買業務を手伝って口銭を得ていた数十人の集団。
商館長ブロムホフは、結婚まもない妻チチアと、1歳5ヶ月の長男ヨハンネスを連れ、乳母や召使いも一緒に1817年8月に来日したが、婦女子の入国が許されなかったので、泣く泣く家族は送り返した。独身となったブロムホフは、丸山から傾城(遊女)を招いていた。その請求書が残っている。なんと1ヶ月のうち27日だ。つまり商館長たちの出島での生活は、ずっと、そのそばに遊女たちがいたということ。出島で同棲するのも許されていた。湯殿、台所つきの遊女部屋が出島にあったことが絵図面で確認できる。
商館長カピタンの江戸参府は、166回にのぼる。カピタンの江戸の定宿は長崎屋で、宿泊逗留は21日を基本としていた。通詞は、日本語に翻訳して太陽中心説を紹介し、ケプラーやニュートンの天文学、ニュートン物理学を吸収して解読した。すごい人たちがいたのですね…。
(2021年7月刊。税込1518円)

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