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カテゴリー: 日本史(江戸)

江戸の借金

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 荒木 仁朗 、 出版 八木書店
 江戸時代、人々は借金するとき証文を書いていた(書かされていた)。もちろん口頭の貸借もあったが、返済が滞ると、文書にしていた。識字率の高い日本では江戸時代の農村でも借用証は普通に書かれていた。
江戸時代における農村の借金の大半は、もともと年貢を納められないことによって始まった。年貢未納が増えると口約束をして借金となり、それでも借金が増えると一筆を願って借用証を書く。この借用証が、さまざまな貸借条件を付けられ借金返済を促された。それでも返済できないときは、高額借金返済のために永代売渡証文を作成する。ただし、永代売渡証文を作成して土地所有権を手放したときでも、その土地は、土地売買金額さえ払えば取り戻すことが可能だった。
 永代売買は村落共同体の合意がないと成立しなかった。永代売買の実施は、村落共同体に管理されていた。
 現代日本人の感覚では、土地を売り渡してしまったら、その土地が売主のところに戻ってくるなど考えられもしません。ところが、土地は開発した地主と一体の関係にあるので、いずれ売主のところに戻ってきても不思議ではなかった。それは明治、大正そして戦後まで慣行として続いていた。売買も貸借も一時的なものだという思想が広範に受け入れられ、社会に根づいていた。
 この本によると、出挙(すいこ)は、とても合理的な金銭貸借だった。というのも、稲作の生産力は驚くほど高く、千倍もの富を生み出したから。また、古代の金銭貸借では、利息にも限度が定められていた。たとえば、最長1年につき、元本の半倍まで。(挙銭-あげせん-半倍法)。こうやって債務者の権利を保護していた。
中世の人々はおおらかで、借金できるのも一つのステータスだと考えていた。中世の貸付金利は月4~6%と高かった。
 徳政令は借金を帳消しにするものではあったが、その後の借金が出来なくなれば困るので、必ずしも好評ではなかった。人々は借金帳消しではなく、債務額の10分の1とか11分の1、あるいは3分の1を支払って、貸主との関係を維持しておこうとした。
 「返り手形」というのは、永代売渡証文と別に永代買主が売主に対して売買対象地を受け戻すための証文だった。ただ、この返り手形には、その有効性を担保するため、名主など村の有力者が証人であることが必要だった。
 江戸時代の金銭貸借の実情そして、証文の文言の詳細を知ることのできる本です。
(2023年5月刊。8800円)

仁義の侍、三宅藤兵衛

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 天草キリシタン館 、 出版 同左
 島原・天草一揆(1637年)が起きたとき、多数の浪人(失業した武士)が一揆軍に加わりました。一揆勢には火縄銃も数多くあり、鎮圧しようとする幕府軍を一時的には圧倒したのです。
 この本の主人公である三宅藤兵衛は唐津藩側の代官として一揆勢と戦っているうちに戦死してしまいました。多勢に無勢だったのです。ところが、この三宅藤兵衛は、なんと明智光秀の孫。光秀の娘の子だったのです。そして、叔母は有名なキリシタンである細川ガラシャ。ガラシャは幼くして両親を失った藤兵衛を可愛がっていました。
 つまり、キリシタン信者として有名な細川ガラシャによって育てられたも同然の藤兵衛がキリシタン信者の一揆勢と戦い、戦闘の最中に戦死したのです。藤兵衛は明智光秀の孫にあたります。本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀は秀吉によって敗退し、一族滅亡してしまうのですが、当時2歳の藤兵衛は生きのびて、長じて細川家に仕え、その後、唐津藩の家臣になりました。天草には唐津藩の飛び地があり、藤兵衛は、その代官だったのです。
藤兵衛は鎮圧軍を率いて戦ったのですが、一揆勢のほうが勢いがあり、奮戦むなしく一揆勢に囲まれ自刃しました。
 ところが、藤兵衛は一揆勢と果敢に戦ったとして天草一揆が鎮圧されたあと、その功績が顕彰され墓(石塔)が建立され、今に残っているのです。そして、その子孫も現在に続いているとのこと。
 藤兵衛が光秀の孫であることは藩主(細川光尚)の書状に明記されています(この冊子に写真があります)ので、間違いないことなのでしょう。
 今も、天草には藤兵衛の石塔や孫の墓がよく残っているそうです。天草に市立のキリシタン館があり、冊子を発行していることを知り、注文して読みました。
(2020年10月刊。500円+税)

四郎乱物語

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  不詳 、 出版  天草キリシタン館
 原本は天草キリシタン館が個人から委託された分7冊から成る資料(冊子)。今では虫喰いや摩耗、欠損が著しく、保存状態はとても悪い。でも幸いなことに写真と活字版で全文が読める。といっても、昔の文体だし、漢文調でもあり、容易に理解はできない。
「四郎乱」というタイトルは、島原天草一揆を退治する藩政の例からみた本であることを意味する。天草の福連木材で庄屋をつとめた尾上家に伝わった冊子。作者も作成年も明らかではない。江戸時代の中期には成立していたと考えられている。
 「四郎乱」は、基本的に一揆を「悪」とした体制側の正当性を強調する軍記物語。歴史記録というより文学作品として読まれるべきもの。
 熊本藩が藩校「時習館」に収蔵していた、すなわち公的に保管していた。
 このころ(寛永14年、1637年)は、島原・天草とも大干ばつで住民は飢饉に直面した。何かにすがって救いを求めようという心情からキリシタンは増え、ついには島原の大乱にならって、天草でも百姓たちが一揆を始めた。
 唐津や熊本からの援軍が到着するまで、キリシタン軍1万人に対して藩軍は500騎。唐津からの援軍6千人が到着し、それまで城内にたて籠もっていた藩軍はなんとか生きのびることができた。
 島原の原城に籠城した絵師の山田右衛門は城外の藩軍と連絡をとりあっていて、藩軍に救出されて大住生することができた。
原文は独特の流麗な崩し字なので、さっぱり分かりません。それでも、とても詳細に一揆の流れをたどっていますので、原文とあわせながら読んでいるうちに、少しずつ分かってきます。貴重な復刻版です。
(2016年3月刊。2000円+税)

菅江真澄・図絵の旅

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 石井 正己(解説)、 出版 角川ソフィア文庫
 江戸の旅人が旅先の各地を絵に描いて残しています。墨絵(すみえ)ではなく、カラーです。
 菅江真澄は30歳のとき、今の愛知県を出発し、東北を経て北海道に渡り、その後、本土に戻って、青森県から秋田県に入って76歳で亡くなった。故郷に帰ることもなく、まさしく漂泊の人生。
 真澄は、日記や地誌を丹念に残し、2400点ほどの図絵が添えられている、しかも、図絵は丁寧に彩色されている。真澄の肖像画も紹介されていますが、これまた見事な彩色画(カラー図)です。
 1783年から1784年ころは信州を旅しています。和歌の力で北海道に入れたと紹介されています。いったい、旅人の収入源は何だったのでしょうか…。
風景画は、中国の山水画を彩色したようなもので、趣があります。
 風景画だけでなく、植物画もあります。コタン(集落)のアイヌ婦人(メノコ)たちが草の根を入れた木皮袋を背負ってやってきた、その草の根もきちんと描いています。まるで植物学者のようです。牧野良太郎に匹敵するほどの詳細な写生です。
 「てるてるぼうず」とほぼ同じ、「てろてろぼうず」も描かれています。
 真澄は、北海道に渡ってからは、自らもアイヌ語を習得するよう努めた。
 当時のアイヌたちは海上でイルカを狩りたてていた。北海道の沖にはイルカがたくさんいたようです。まるでドローンでも飛ばしたように上空からの図があります。
 秋田の「なまはげ」は「生身(なまみ)剥(はぎ)だということを知りました。子どもは声も立てずに大人にすがりつき、物陰に逃げ隠れる。まさしく、その状況が描かれています。
 草人形(くさひとかた)の絵も面白いです。杉の葉を髪にし、板に口鼻を描き、わらで胴体をつくり、胸に牛頭(ごず)天王の本札をつけて、剣を持っている人形(ひとかた)です。
 村里の入り口に置いて、疫病を村に入れないように願ったといいます。
 よくぞ、これだけの図絵と日記が残ったものだと驚嘆するほかはありません。
(2023年3月刊。1500円+税)

長崎と天草の潜伏キリシタン

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 安高 啓助 、 出版 雄山閣
 天草地方とキリシタン・島原天草一揆についての知見を深めることができました。
 この本によると、島原天草一揆への参加をめぐってキリシタン内部は分裂状態となり、一揆に参加しなかったキリシタンが「潜伏キリシタン」になっていったとのこと。
 そして「潜伏キリシタン」たちは洗礼名をもちながらも、絵踏をしたため、幕府から禁じられたキリスト教(耶蘇宗門)ではなく、別の宗教「異教」だとされた。彼らは仏教徒として寺情制度に従っていて、地域社会の構成員となった。
 文化2(1805)年の天草崩れで、5205人が検挙されたものの、「非キリシタン」の仏教徒と判断され、厳刑に処された者はおらず、差免(放免)となった。
 天草にキリスト教を伝えた宣教師のアルメイダは、育児院や病院を開設した。現世利益を重んじる人々は、そのおかげで助かりこぞってキリスト教に入信した。
アルメイダはマカオで司祭に叙せられたあと、天草に戻り、1583(天正11)年に天草で亡くなった。
 一揆当時の天草は、唐津藩の飛び地だった。
 キリシタン大名として有名な高山右近は豊臣秀吉から追放されたあと、同じくキリシタン大名だった小西行長を頼って天草へやってきた。高山右近が隠れて住んでいることがバレてしまい、結局、フィリピンへ渡っていった。
天草における一揆勢と果敢に戦い、ついには戦死した三宅藤兵衛重利は明智光秀の外孫にあたり、また細川忠利、熊本藩主と従兄弟(イトコ)の関係にあった。唐津軍は一揆勢と戦うなかで苦戦を強いられ、ついに藤兵衛は戦死してしまった。
 一揆勢は唐津軍と戦うとき、「鉄砲いくさ」の状況だった。次第に一揆勢が優勢となり、唐津軍は後退していった。
 開戦前は一揆勢に味方しなかった村人も、一揆勢の勢いと唐津軍の敗走を目のあたりにすると、続々と一揆勢に加わった。天草島内の百姓たちは戦況を見極め、優勢なほうにつこうとした。戦力としては上回る唐津軍に対して一揆勢が優勢になったのは、一揆勢の巧みな鉄砲術と強固な結束力によるところが大きい。
 一揆に敗退した藤兵衛について立派な墓が建立されたのは、幕府側から見た天草一揆としての位置付けによる。藤兵衛は、いわば「正義の名将」と昇華したようだ。
江戸時代、天草は流人処分の地とされた。江戸からの流人は一度で50人から100人ほどの大勢がやってきた。寛文4(1664)年から享保元(1716)年までに、天草には139人の流人が連れてこられた。いやあ、これはちっとも知りませんでした。流人といったら、八丈島などの遠い島々かと誤解していました。
知らない話がたくさん出てきて、面白くかつ知的刺激を受ける本でした。
 
(2023年1月刊。3520円+税)

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