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カテゴリー: 日本史(戦国)

論争、関ヶ原合戦

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 笠谷 和比古 、 出版 新潮選書
 いやあ、とても勉強になりました。関ヶ原合戦についての俗説・珍説を徹底的に論破していて、胸のすくほど小気味よい論述のオンパレードです。
 私とほぼ同じ団塊世代の著者は、関ヶ原合戦論を公刊しはじめて25年にもなるそうです。なので、その論述は、いかにも重厚で、説得力にあふれています。
関ヶ原合戦において、もっとも多くの果実を得たのは徳川家康ではなく、家康に同盟して戦った豊臣系武将であった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂の所産であり、それに家康の天下取りの野望が複合したもの。
著者の関ヶ原合戦の核心は、西軍決起の二段階論にあります。第一段階では、石田三成と大谷吉継の二人だけの行動だった。この時点では、大坂城にいる淀殿も豊臣家三奉行(前田玄以、増田長盛、長東正家)も関与しておらず、むしろ会津(上杉)討伐に出征していた家康に早く上方に戻ってきて、この不穏な情勢を鎮静化してほしいと要請していた。すなわち、三成決起の第一段階では、淀殿と豊臣三奉行という豊臣公儀の中枢は家康支持だった。そして、第二段階は、淀殿も豊臣三奉行も家康討伐の陣営に加わることを決断し、家康が謀叛人と位置づけられ、三成方西軍に豊臣公儀の正当性が与えられた。
石田三成が加藤清正ら反三成派に攻めたてられたとき、家康の屋敷に逃げこんだというのが昔の通説だったが、今では誤りで、三成は伏見城内にあった自分の屋敷にたてこもったことが確定している。家康は、伏見城の外に屋敷を構えていたので、三成は、あくまで伏見城内の自分の屋敷に入って、立て籠もった。通説も間違うことがあり、変わるものなのですね。
家康への上杉方の直江兼続の挑発的な内容の書面は格好の口実を与えるものだった。これによって、上杉の会津征討を呼号し、家康は大軍を率いて出陣する。そのために上方から脱出でき、家康にとって天下とりの好機が到来した。
小山の評定は実在した。
関ヶ原合戦場に向かう秀忠の軍勢は3万8千。中山道をたどって関ヶ原に到着するはずだった。なぜ、中山道か…。その最大の眼目は、信州上田城の真田勢を制圧することにあった。この秀忠配下には、榊原康政、井伊直政、本多忠勝がいて、徳川謙代の三大武将が配属されていた。彼らは、前線を担当する攻撃型戦力である秀忠軍の軍事能力の中核をなしていた。
家康は、もし西軍が豊臣秀頼を先頭にいただいて出陣してくるような事態になったとき、果たして福島正則以下の豊臣武将たちは、家康とともに東軍として戦い続けてくれるのかどうか、大いなる不安があった。なーるほど、それはそうでしょうね…。
この不安と迷いがあったからこそ、家康の出陣は9月1日と遅れた。徳川郡の主力部隊を率いていたのは家康ではなく、秀忠だった。家康の部隊3万は、家康を中心とする本陣を守護する旗本本部隊であり、本質的には防御的な性格の部隊だった。
福島正則たち、東軍にいた豊臣武将たちは、家康に味方して三成方西軍を打倒するという意識と行動は、「秀頼様御為」への配慮が両立するものと考えていた。つまり、家康に従った豊臣武将たちは、豊臣家を見限って家康についたのではなく、豊臣家と秀頼に対する忠誠心を保持したうえで、家康に従っていた。
もし、家康ぬきで、家康が江戸にとどまったままで、この東西決戦の決着がついてしまうならば、家康の立場はどうなるか。家康の武将としての威信は失墜し、戦後政治における発言力も指導力も喪失してしまうことは明白ではないか。軍功がすべての政治的価値を決定する武家社会なのだから。家康は、岐阜合戦における豊臣武将たちの華々しい戦果の報に接したあと、前線に相次いで使者を派遣して新たな作戦の発動を停止して、家康・秀忠の到着を待つよう、繰り返し指示した。
三成側が秀頼を戦場にひっぱり出すことは絶対に避けなければならないことだった。そのためには、家康の行軍は秘匿しておかなければならなかった。
関ヶ原合戦における豊臣系武将たちの貢献度は絶大であり、秀忠ひきいる徳川軍主力軍の遅参という不測の事態がそれを加速した。
関ヶ原合戦のあと、家康は大坂城に入って、秀頼・淀殿に会っているが、まだ、このときには豊臣家側のほうが依然として家康より上位にあった。
いやはや、家康のほうも危い綱渡りをさせられていたのですね…。これこそが、まさしく関ヶ原合戦の真相だと納得できます。
(2022年7月刊。税込1650円)

宮廷女性の戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 神田 裕理 、 出版 山川出版社
現代の私たちは、天皇がいて、皇后がいるのは当然のこと、夫がいて妻がいるのと同じと考えています。ところが、この本によると、14世紀の南北朝時代から17世紀の江戸時代の初めまでの300年のあいだ、皇后はいなかったというのです。ええっ、では誰が天皇の世継ぎを生んでいたのか…。それは、後宮女房たち。
なぜ皇后がいなかったのか。それは、この300年間、朝廷にはそれだけの財力がなかったから。皇后を立てる(立后)の儀式を挙行する費用がなかったこと、立后したあと必要になる「中宮職(しき)」という家政機関(役所)を設立・維持するだけの財力もなかった。
また、娘を皇后として出せるはずの上流公家にも、それほどの財政状態になかったので、娘を入内(じゅだい)させようという積極的な動きがなかった。
立后が復活したのは江戸時代の三代将軍家光のとき。二代将軍秀忠の五女・和子(まさこ)が入内することになった。
女房職(しき)の相伝については、ある「慣習」があった。すなわち、後宮女房は、出身の「家」によって、就くべき職(ポスト)が決まる傾向にあった。
『お湯殿の上の日記』は、後宮女房によって、かな書き、女房詞(ことば)で書かれた執務日記。なんと室町時代から江戸時代まで350年間も書きつづられている。いやあ、これは知りませんでした。こんな日記があっただなんて…。
日記の書き手は後宮女房で、天皇は何日かおきに日記に目を通していた。ときに、天皇が自ら記すこともあった。贈答(献上・下暘)についても、目的・品目など、こまごまと記されている。食料品は、当時の食生活の一端を知ることができる。たとえば、織田信長から朝廷へ鶴が10羽、献上された。鶴は長寿の薬とされていて、食用として珍重されていた。
女房詞には、現代にも残っているものがある。しゃもじ、おでん、おひや、さゆ、おみおつけ、おこうこ、など…。
朝廷をゆるがす大スキャンダル(密通)事件がたびたび起きていたことも改めて知りました。後宮女房と公家衆の密通事件は、それほど珍しくはない。しかし、慶長14(1609)年のものは、関係者があまりに多数だった。公家衆8人、地下人(じげにん。医師)、後宮女房衆5人。
幕府に仕える女房たちは、将軍権力の一端を担う幕臣でもあった。そして、幕府に訴訟がもち込まれたとき、女房たちも深く関与した。
日本の女性が昔から政治に深く関わっていたことを明らかにしている本でもあります。
(2022年4月刊。税込1980円)

戦国日本の軍事革命

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 藤田 達生 、 出版 中公新書
この本には、私の知らなかったことがいくつも書かれていて、大きく目を見開かされました。
その一は、種子島への鉄砲伝来。実は、すでに倭寇が介在して琉球などに火縄銃が入ってきていたというのです。種子島はワンノブゼムだった可能性があります。
鉄砲の国産化は日本がアジアのなかで最速だった。そして問題は、火薬と鉛の入手。硝石は、国内では産出できず、輸入するしかなかった。中国の山東省や四川省。また、鉛はタイのソントー鉱山。そうだったんですね。
鉄砲は、砲術師、鉄砲鍛冶、武器商人という三者の緊密な関係が成立しなければ機能しない。
織田信長は、イエズス会を介して硝石や鉛を大量に確保していた。イエズス会宣教師によって、タイ産の鉛と中国産の硝石がセットで輸入され、堺の商人を経由して信長のもとに届けられた。イエズス会と信長の親密さの背景には、キリスト教保護の見返りとしての軍事協力があった。実際に、長篠の戦いの古戦場から、信長方の使用した鉄砲玉のなかにタイ産鉛が確認されたのだ。
鉛は、鉄や銅に比べて鉄砲玉としては使いやすく、また対人殺傷効果も抜群だった。
長篠の戦いにおいて、武田軍もそれなりの鉄砲はもっていたが、その玉薬と鉛の備えが信長軍とは格段の差があり、それが戦場の勝敗に直結したということなのです。うむむ、なんという明快な解説でしょうか…。
家康は大坂の陣のとき、大砲の威力を大いに発揮させた。その大砲はイギリス商館を経由して、ヨーロッパ製のカルバリン砲(最大射程6300メートル)やヤーカー砲(同3600メートル)であり、それらを1門1400両で購入した。
いやあ、知れば知るほど、歴史は面白くなってきますね…。まったく目が離せません。
(2022年3月刊。税込924円)

信長家臣・明智光秀

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 金子 拓 、 出版 平凡社新書
明智光秀がなぜ突如として信長を本能寺に攻め滅ぼしたのか…。いろんな説があります。この本の著者は、信長の四国政策の転換、そして信長による光秀の殴打などを原因としています。いずれも別に目新しいものではありません。
四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏の処遇は、たしかに光秀にとって大問題だったと思います。長宗我部は光秀の媒介によって、四国全体を制圧しようとしていた。ところが、信長は急に阿波の南半分の土佐のみに限定すると言いだした。これでは、光秀の面目は丸つぶれ。
光秀が信長から殴打されたというのは、いつ、どこで、何か原因だったか、いろいろあるのです。著者は、諸大名(有力武将)の面前での殴打だったので、光秀の心が大いに傷ついて、それが叛逆に走らせたことはありうるとしています。まあ、たしかにありうることですよね。
本能寺で信長が死んで、その遺体(遺骨)が見つかっていないことはよく知られていますが、この本は、信長の「死に方」を次のように紹介しています。
畳2帖を山形に立てて、その中にもぐって、「さい」という女房がもっていた「蝋燭」(ろうそく)を取りあげて火をつけて焼け死んだというのです。
畳2枚によって完全燃焼したため光秀たちは信長の遺骨を探し出せなかったということになります。これまた、ありうるかな、と思いました。
熊本藩の支藩である宇土藩の初代藩主・細川行孝の命令で、その生前に成立していたとみられる「宇土家譜」に書かれている説です。細川家は、光秀の娘(玉・ガラシャ)が嫁入りした先ですので、光秀について詳しく語られて不思議はないのです。
日本史のミステリーに一歩近づいた気になりました。
(2019年10月刊。税込924円)

塞王の楯

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 今村 翔吾 、 出版 集英社
戦国時代。絶対に破られない石垣をつくる穴太衆(あのうしゅう)の職人たち。それに対抗するのは、どんな城をも落とす鉄砲衆。
穴太衆。近江国(おうみのくに)穴太に代々根を張り、石垣づくりの特技をもって天下に名を轟(とどろ)かせた。
穴太衆は、石垣づくりの技術において、他の追随を許さなかった。そして、この穴太衆には、20を超える「組」があり、それぞれが屋号をもって独立して動いている。それぞれが諸大名や寺院から造垣づくりの依頼を受け、その他に赴いて石垣をつくる。
穴太衆の技(わざ)は、大きく三つの技によって成り立っている。その一は、山方。石垣の材料となる石を切り出すことを担っている。石には「目」というものがあり、それにそって打ち込む。それに失敗すると、思わぬ形でひびが入ってしまう。その目には熟練の職人でなければ見ることができない。
その二は、荷方。切り出した石を石積みの現場まで迅速に運ぶ役目。これは、石垣づくりの3工程のなかで、もっとも過酷とされる。巨石を運ぶときには安全に相当配慮しなければならない。途中で大惨事が起きないように配慮しつつ、期日までに何としても石を届けるのが荷方の役目だ。
その三は、積方。これをきわめるには、ほかの二組以上の時を要する。石垣の中に詰める「栗石(ぐりいし)」を並べるだけで、少なくとも15年の修行を要する。
穴太衆は、道祖神を信奉し、「塞の神」を祀っている。
穴太衆は、紙に一切の記録を残さない。城の縄張りは重要な機密であるため、穴太衆は紙に一切の記録を残さず、すべて頭の中に図面を引いて行う。それは同じ穴太衆であっても決して外に漏らさない。積み方の技術も同じく一子相伝(いっしそうでん)。しかも、すべて口伝(くでん)。こうやって穴太衆の技術の漏洩を防ぎ、依頼主の信用を勝ちとってきた。
穴太衆では、一つの組・飛田屋を総動員し、空貫で石積することを「懸(かかり)」と呼んだ。
穴太衆であり続けるための二つの条件。その一は、5年に1度は必ず穴太の地を訪れ、自分の技を師匠や後継者に見せること。その二は、技を書き残さないこと。穴太衆の技は口伝のみで受け継がれる。
打込接(うちこみはぎ)と野面積みの二つがある。
打込接は、積み石の接合部分を加工し、石同士の接着面を増やして、より隙間をなくす工法。ところが、この打込接でつくった石垣には、目に見えない弱点があった。水はけが悪く、長石だと、途中ではぜるようにして崩れることがある。
天候に左右されず、数百年もたせようとするなら、野面(のづら)積みのほうが良い。
穴太衆が得意とする積み方は…。それは乱積みであり、布積みであり、あるいはその両方の中間。基本は野面だが、時と場所によっては、打込接も使う。いかに城の護りを厚くするかだけに焦点をしぼり、臨機応変にやっている。
矛(ほこ)と楯(たて)のいずれが勝つかで、泰平の質が変わるだろう。矛が勝ったときは、数少ない兵力でも、良質な武器さえ集めれば天下を覆せると考える者があらわれるだろう。楯が勝ったときには、兵を集められても、城ひとつも容易には落とせない。踏みとどまる者も出てくる。つまり、こんどの決戦は、泰平の形を決めることになる。
国友衆は新しい鉄砲や大筒が実践に投入されるとき、参陣依頼が来て、砲術専門の軍司と同じような役割をつとめる。新式の銃は、雨をものともせずに放てる。
なにしろ、550頁もある大作です。そして似たような名前の人物がたくさん登場しますので、一読してもなかなか簡単には状況が理解できにくいのです。休日の朝から読みはじめて、場所を何回も変えて、夕方になる前に読了しました。550頁というのは、やはり長過ぎですね。直木賞を受賞した作品です。
(2022年1月刊。税込2200円)

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