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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

通州事件

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版 高文研
 心が震える感動的な本でした。中国軍による日本人居留民虐殺事件として最近、右翼がよく話題にする通州事件について、著者は前半で事件の背景を深く掘り下げています。この点、本当に勉強になりました。さすがです。そして、後半は、この通州事件の被害者遺族の姉妹が生存していて、しかも、憎しみの連鎖を断つ必要があると訴えています。ここは読んでいて、本当に心が揺さぶられる思いがしました。
 まず前半の第Ⅰ部です。通州とは、北平(今の北京)と天津の中間にある町です。日本人を攻撃・虐殺したのは国民党政府軍ではなく、日本軍に従属していたカイライ軍の保安隊が起こしたもの。
1937年7月29日、盧溝橋事件が起きた7月7日から22日後、日本軍のカイライ政権であった冀東(きとう)防共自治政府の保安隊4000人が反乱を起こし、日本軍の守備隊20人、日本人居留民225人(日本人114人、朝鮮人111人)を殺害した。日本人と朝鮮人は、通州で大々的な密輸入(塩)を扱っていた。これは、国民党政府の収入源に打撃を与えた。そして、アヘンを日本人・朝鮮人は扱った。日本人は中国語ができないものが多かったので、朝鮮人が中国語の会話能力を生かして、中国人たちと交渉にあたった。中国人は、日本軍の通訳を朝鮮人たちがつとめていたことから、朝鮮人に対して、憎しみ、憤り、反発を強く抱いていた。要するに、朝鮮人は日本軍の手先として憎まれたということ。
国民党政府はアヘン禍撲滅を目ざして取り組み、麻薬を扱う業者を次々に公開処刑した。
通州事件が発生したのは北支事変(7月28日)の翌日のこと。通州保安隊の反乱は周到に準備された。通州にあった日本人と朝鮮人の住宅が襲撃されたが、それは反乱軍から事前に調査してマークしていたから。襲撃された日本軍守備隊は堅固な建物と強力な火力によって9時間にわたる激戦に耐えて(戦死者26人)、反乱した保安隊の突入を阻止することに成功した。通州事件当時、日本人と朝鮮人380人の居留民のうち、180人が保護され、残り200人が犠牲者となった。
 そして後半の第Ⅱ部。姉(久子。現在90歳)は、事件当時、小学校に通うため両親と別れて、母の実家のある群馬県水上町の小学校に通学していて、無事だった。そして、妹(節子)は、事件当時、中国人の看護婦(何鳳岐。21歳)が、反乱軍に対して自分の娘だと言って守り通した。この姉妹は、通州事件とは何だったのかをじっくり勉強して、人類が共生していかなければ共に滅びるしかないことを教えてくれた事件であること、戦争は憎しみの感情をかきたて利用して起こること、中国人は通州でひどいことをしたけど、妹を助けたのも中国人だから、中国人に恨みはない、日本軍は中国でもっとひどいことをしたのだから・・・と考えているのです。
 この姉妹は、両親と妹を通州事件で中国人反乱軍に虐殺されたものの、「憎しみの連鎖を断つ」生き方をしています。すごいです。こんな本に出会うと、やっぱりたくさんの本を読んで(読めて)良かったなと、つくづく思います。あなたにも一読を強くおすすめします。
(2022年9月刊。税込3300円)

戦争小説・集成

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 安岡 章太郎 、 出版 中公文庫
 戦前の帝国陸軍の理不尽きわまりない兵隊生活が、読んでいて嫌になるほど活写されています。イジメそのものの訓練が続き、兵隊は頭がバカになってしまいます。
 ともかく、黙って言われたとおりに行動して、潔く死んでこいというのが陸軍当局のホンネでした。自分たちは安全な後方にいて、美酒・美食にふけっているのに、最前線の兵士は食うや食わずという過酷な生活を余儀なくされます。
 起床、点呼、間稽古(けいこ)、朝食、演習整列・・・。朝起きてからの2時間のうち、これだけの日課がつまっている。
 食器を洗って片付け、部屋を掃除し、背嚢(はいのう)に天幕や円匙(えんぴ)などを入れる。巻脚袢(まききゃはん)を両方の脚にしっかり巻きつける。それだけでも1分間は要する。
 軍隊内では、官給品の員数を失うことは、どんなに細かいことでも、重大な過失となる。なので、誰もが員数を見失うまいと、絶えず必死で気を配っている。
 小銃、帯剣、弾薬などの兵器をはじめ、軍衣、軍袴(ぐんこ)、襦袢(じゅばん)、袴下(こした)、ボタン穴の一つ一つまで、兵隊の身体を取りまいているものはすべて、一定の数にしたがって配置されたものであり、その数量はどんなことがあっても保持されなくてはならない。それは軍人の護るべき鉄則であり、最高無比の教義である。
 まったくバカバカしい偏向した論理です。
 兵隊は、歯を見せたといって殴られ笑ったといって殴られ、こわばっているといって殴られ、ぐんにゃりしているといって殴られた。
帝国陸軍の学習要領は倦(う)むことを知らなかった。
 陰惨、苛烈、下劣をきわめているが、戦争をしないときの兵隊は遊ぶ人。手はこんでいるけれど、軍隊は一種の幼稚園であり、兵隊は変形した子どもである。
 軍隊は、正直に日本の社会を反映している。日本の軍隊で一番優秀だったのは下士官。
 新兵のイジメ「セミ」。部屋の奥に一本の太い柱がある。これをペーチカとして女に見立てて、腕いっぱい抱擁する。「ペーチカさん、ペーチカさん。私の愛し方が足りなくて、こんなにあなたを冷たく、カゼをお引かせ申しました。今後は二度と、こんなことはいたしません」、というのを繰り返し言わせられる芸当。
 いやあ、ホント、ひどいものです。ひどすぎますよね。これが勇壮無比の帝国陸軍の実際でした。そんな軍人が支配する世の中には絶対に戻りたくありません。
(2018年6月刊。税込1100円)

撤退戦

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 斎藤 達志 、 出版 中央公論新社
 防衛大学校から陸上自衛隊に入り、現在は防衛省防衛研究所で戦史を研究する著者による古今東西の撤退戦を分析し、検討した労作です。
 ヒトラーのダンケルク撤退戦のときの停止命令とスターリングラードの包囲からの脱出拒否命令の対比は興味深いものがあります。ダンケルクのほうは、なぜかドイツ軍先鋒の戦車部隊が突然に進撃をやめ2日間も停止してしまいました。そのおかげで、イギリス軍のほとんどとフランス軍の多くが海峡を渡ってイギリスに逃げきることができました。イギリスは大小の船をかき集めて海峡を渡って35万人もの将兵を救いだしたのです。
 なぜヒトラーが突然の停止命令を出したのか、その理由があれこれ推測されていますが、私は、ヒトラーが個人的なやっかみから、ドイツ軍の将軍たちにあまりに勝ち過ぎてヒトラー以上に名声をかちとったらまずいと思ったからではないかという説が一番ありうることではないかと考えています。
 そして、スターリングラードのほうは、ヒトラーが1942年11月の時点で、「理性的」な軍事的判断が出来なかったから、パウルス大将の脱出許可を求める要請を無下に却下してしまったのではないかと考えています。もちろん、ゲーリング国家元帥が、空軍による補給は出来るなどと安請合したということも要因の一つだったとは思いますが…。ともかく、パウルス大将にしても参謀長にしても、ヒトラーを最後まで信じようとして、結局は破滅したというのが事実経過です。
 パウルスはソ連に抑留されたあと、1944年8月、ドイツ本国向けラジオ放送で、ヒトラー打倒の国民運動を起こすよう呼びかけたとのこと。やはり、よほど悔しかったのでしょうね。ともかく、スターリングラードでは将校2500人を含む9万1000人のドイツ軍兵士がソ連軍の捕虜となりました。そのうち、どれだけの人が生きてドイツに戻れたのでしょうか…。
 朝鮮戦争のときのマッカーサー将軍も実は事実を直視する力に欠けていました。CIAなどが、中国軍が大々的に参入してきているという情報をあげ、また中国人捕虜も中国軍の内情を詳細に話しているのに、マッカーサーは、中国軍の本格的参入はないと、かたくなに否定しとおしたのです。信じられません。
 朝鮮戦争に介入した中国軍は名称こそ義勇軍でしたが、実際には完全な正規軍。ただし、アメリカ空軍によって制空権をうばわれていたことから夜間だけ進軍した、それも山岳・森林地帯で浸透し、南下していったのでした。
 この本には、中国軍の総司令官を「林彪将軍」としていますが、もちろん間違いです。彭徳懐将軍です。林彪は朝鮮への出兵に消極的で、病気を口実に総司令を断っています。単なる誤植とは思えないところが残念です。
 ビルマのインパール作戦はあまりにも無残な結果を参加した日本軍将兵の身にもたらしたわけですが、初めから合理性のない無謀な作戦でした。
 沖縄戦について、この本では、牛島司令官が撤退せずに首里にとどまっていたら、5月までに抵抗終了したか、降伏して終了したのではないか、それで戦死傷者もうち止めになった可能性があるとしています。なるほど、そうなのでしょうね、きっと。
 アメリカ側の研究者からは、沖縄にこだわらず、早く本土へ王手をかけるべきだった、そうしたら、もっと早く戦争が終わって、戦死傷者は日米双方とも少なくてすんだのではないかという意見も出ています。これまた、私も納得できるところです。皆さん、どう思いますか?
(2022年8月刊。税込2970円)

平頂山事件を考える

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 井上 久士 、 出版 新日本出版社
 最近、「歴史戦」というコトバを見聞することがあります。見慣れないコトバですが、サンケイ新聞などの右翼が好んで使うコトバです。日本は中国で何も悪いことなんてしていない、不当な言いがかりから日本の名誉を守るということのようです。彼らは「南京大虐殺はなかった」とか、「従軍慰安婦なんていなかった」などと叫んでいます。
 そして、平頂山事件については、抗日ゲリラや匪賊が撫順炭鉱や満鉄社員を虐殺したので、日本軍が反撃に出て、抗日ゲリラに通じていた住民を殺害しただけのこと、こう言います。
 しかし、平頂山事件は、戦闘行為に巻きこまれた住民の死亡事件ではない。「歴史戦」論者は、史実をまったく無視して、デタラメなことを吠えているだけ。まともに信じてはいけない。
 1932年9月、撫順炭鉱が抗日ゲリラ部隊の大群から襲撃された。大刀会(秘密結社)のメンバーを中心として、遼寧民衆自衛軍を名のる2千人ほどの部隊だった。
 その報復として日本軍が起こしたのが平頂山事件。9月16日、撫順守備隊を中心とし、憲兵隊、防備隊、警察などを総動員して、平頂山の住民を追い立て、1ヶ所に集合させて機関銃で掃射のうえ刺突してトドメを刺すという大虐殺事件。この住民大量虐殺は、意図的かつ計画的なものだった。
多人数の要員を確保し、輸送車両や機関銃、ガソリンや重油などの大々的な事前準備を要する攻撃であって、その場の咄嗟(とっさ)の判断でできることではない。
なぜ平頂山の住民が日本軍から虐殺されたかというと、抗日ゲリラが来るのを知っていながら日本軍に通報しなかったこと、それは襲撃に加担したも同然なので、この村を処分する、つまり、村民を殺害し、村の建物を焼却し尽くすという方針を決めた。
出動した守備隊員は住民虐殺を前もって伝えられていた。
集落の周囲を包囲して、住民の脱出を防ぎながら、「記念写真を撮(と)る」、「大刀会から住民を守る」、「砲撃演習をおこなう」などと住民を騙して、全住民を崖(ガケ)下の窪(クボ)地に追い込んだ。
 「いまから陛下がお前たちにお金をくださるから、みなひざまずいて感謝するように。写真を撮ってからお金を渡す」と説明した。そして布で覆われた三脚の上の写真機なるものは、実は機関銃で、それから虐殺が始まった。
虐殺の前に、住民のなかにいた朝鮮人十数人は外に出され、難を逃れた。
重機関銃1挺と軽機関銃3挺による機銃掃射が始まった。そのあと、「まだ生きている奴がいる」と言いながら、日本兵は銃創で一人ひとりを刺突していった。全住民を虐殺するのに2時間以上かかった。
ところが、日本軍が去ったあと、まだ生きていた数十人がその場から逃げだした。
そして、重油で遺体を焼却し、崖にダイナマイトをしかけて土砂を崩して遺体を隠した。遺体の処理にあたったのは朝鮮人で、崖にダイナマイトを仕掛けたのは、中国人の炭鉱労働者。殺された平頂村の村民も撫順炭鉱で働いていた炭鉱労働者が多かった。
当時の平頂山の住民は400世帯、3000人なので、犠牲者は少なくとも2300人ということになる。責任者である撫順守備隊の川上精一中隊長(大尉)は戦犯容疑者として逮捕される日(1946年6月)、日本に戻っていて、自宅で青酸カリで自決した。
そして直接的実行犯の井上清一中尉は何ら処分されないどころか、1934年には、「満州事変論功行賞」として功五級金鵄(きんし)勲章を授与された。
そして、日本の敗戦後、平頂山事件の裁判が始まった。1946年12月、瀋陽(旧奉天)で起訴され、1948年1月3日、判決が宣告された。国共内戦が激化していたので、控訴はまもなく棄却された。撫順炭鉱の次長だった久保孚(とおる)など7人が死刑となり、4月19日、7人全員の死刑が執行された。つまり、実際に虐殺を指揮して実行した日本軍の川上中隊長や井上小隊長などが責任を問われず、そのかわりに民間人が責任をとらされた。
井上中尉は1969年まで生きて大阪で病没した。GHQは戦犯として日本から中国へ送還できたはずだが、それはしなかった。南京大虐殺事件ではそうしたのに、平頂山事件では、しなかった。
歴史の重たい事実の一端を知ることができました。
(2022年8月刊。税込1760円)

満州分村移民と部落差別

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 エイミー・ツジモト 、 出版 えにし書房
 熊本県山鹿市来民(くたみ)町から満州に移民した「開拓団」が日本敗戦後、関東軍から見捨てられ、現地農民から成る「暴徒」3千人に取り囲まれるなか、276人全員(1人だけ命じられて脱出)が自決に追い込まれた。その半数以上は子どもたちだった。
 「満州は日本の生命線」とかの大々的な宣伝、そして満州農業移民100万戸移住計画という国策に乗せられ、多くの日本人が幻想をもって満州へ渡った。ところが、満州の農地とは関東軍の武力を背景として、安く買いたたいて、現地農民を追い出したあとに入植したものだった。
 だから、現地の匪賊(ひぞく)と戦うべく鉄砲を持たされる。いわば屯田兵。これが政府の当初からの狙いだった。ソ連との国境地帯の多数の開拓団が配置された。しかし、現地の開拓団の農民は、そのような自覚に乏しく、関東軍が自分たちを守ってくれると考えていた。
 来民開拓団は、新京(長春)より北、ハルビンより南に位置し、すぐ近くには長野県から移民してきた黒川開拓団があった。黒川開拓団のほうは、日本敗戦後、進駐してきたソ連軍に守られ(その代償は独身女性による性接待)、その大多数が日本内地に帰還した。
 日本敗戦の直前に開拓団の青年男子が召集され、開拓団の大半は老人と女性そして子どもたちだけとなっていた。そこへ、日頃の恨みから現地農民が押し寄せてきたということ。このとき、現地警察が来民開拓団から武器を取り上げるのに一役買っていて、しかも襲撃勢の先頭に立っていた。
 満州の開拓団の典型的な悲劇が掘り起こされている貴重な労作です。
(2022年8月刊。税込2200円)

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