法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(平安)

源氏物語を楽しむための王朝貴族入門

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 繁田 信一 、 出版 吉川弘文館
 女御(にょうご)と更衣(こうい)とでは、女御のほうが更衣よりも、はっきり格上。
 女御は、女性を敬意を込めて呼ぶもの。今の「ご婦人」に近い。更衣は、着換えを意味し、天皇の着替えを手伝う存在。今も「更衣室」というコトバがありますよね。
 ところが更衣であっても、天皇の「お手付き」となると、妃(きさき)のような扱いを受ける。
 しかし、更衣を母親とする皇子は誰ひとりとして天皇にはなっていない。天皇になったのは、皇后(中宮)か女御かを母親とする皇子だけ。ふむふむ、そうなんですか…。
 桐壺(きりつぼ)更衣に対しては全ての妃たちが一丸となって嫌がらせをしかけた。それは更衣の身でありながら、一つの殿舎を専用の寝所として与えられていたから。これは女御のように扱われたことを意味し、後宮の秩序を乱すものだった。なーるほど、ですね。
 天皇自身は天皇としての人生を幸福なものとは感じなかった。太上天皇は、一日も早い退位こそ熱望していた。退位したあと上皇となることのなかった天皇は、上皇としての余生のあった天皇に比べて、明らかに短命だった。39歳と45歳と、6年も平均寿命が短い。
 王朝時代の天皇は、朝、早起きする。午前5時から7時のあいだに起きた(起こされた)。毎朝、目をさますと、何よりまず風呂に入る。天皇は着衣のまま入浴する。そして自分で身体を洗うこともしない。それは女房の仕事。天皇は、毎朝、日課として伊勢神宮を遥拝する。これは、わが国の日々の安寧を確保するための行為。
 天皇は朝9時ころ、給仕係の女房の前で朝食をとる。家族である妃や皇子・皇女と一緒に食卓につくことはない。天皇の朝食は、毎朝、いつも同じものを食べる。当時の日本には、まだ醤油はない。
朝食のあと、天皇は読書した。つまり、漢文の書物を読んだ。
紫式部と同じ時代を生きた皇子は17人を上回っている。その前は30人もいただろう。
 更衣を母親とする皇子たちは、かなり大きくなるまで父帝と面会することはなかった。
皇子たちの平均寿命は、41歳ほど。上級貴族の男性の平均寿命は62歳ほど。
 天皇の結婚相手として、異母兄妹、異母姉弟も容認された。
 皇子たちが短命なのは、近親婚の歴史によってもたらされたもの。ときに精神面に障害を持つ皇子や知的障害を持つ皇子の誕生は、このような近親婚の「遺産」。
 皇子は、皇子とあるだけで、給料を朝廷から支給された。そして、本来なら無品(むほん)の皇子には品封(ほんふう)が支給されないはずなのに、200万の品封が支給された。五位の貴族に対して朝廷から支給される給料は米にして400石ほど。
 太上天皇とは、天皇を退位したあとの「名前」。「上皇」は、これを短縮したもの。上皇は、皇后や皇太子よりは上で、天皇よりは下位の存在。
 皇女たちは、ほとんど結婚していない。王朝時代、皇后の地位は藤原摂関家の女性によって独占された。同時に、天皇の結婚は、藤原摂関家によって管理されていた。
 皇女たちは、臣下との婚姻は許されなかった。平安時代には、女帝の即位はない。
 王朝時代の中級貴族の男性は、「殿上人(てんじょうびと)」と「地下(じげ)」の人と大きく2つに分かれる。地下たちは、殿上人を敬意と憧憬(しょうけい)を込めて「雲上人(うんじょうびと)」「雲客(うんかく)」とも呼んだ。
 四位・五位の中級貴族の人数は1000人ほど。このうち1割は女性。紫式部や清少納言も、自ら王位の位階をもっていたと考えられている。
王朝貴族のことを少しばかり知ることができる本でした。
(2023年11月刊。1700円+税)

忘れられた日本史の現場を歩く

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 八木澤 高明 、 出版 辰巳出版
 岩手県奥州市の山中に人首丸の墓碑がある。
 平安時代に、京都から坂上田村麻呂が大軍を率いて、東北地方を征服しようとやってきた。激しく抵抗していたのは蝦夷(えみし)と呼ばれる人々で、その首領はアテルイそして腹心のモレ。アテルイは地の利を生かして789(延暦8)年に始まった一回目の戦いでは大勝したが、794年に始まった二回戦では、ついに大敗し(801年)、アテルイとモレは投降した。坂上田村麻呂は二人を京都に連れて行き、助命を嘆願したが、アテルイたちの力を恐れる朝廷は、斬首を命じた。大阪の枚方市にある牧野公園にはアテルイとモレの首場が今も残っている。
 アテルイたちのあとに朝廷に立ち向かったのが人首丸。
 しかし、人首丸も806(大同元)年に朝廷軍によって打ち取られた。年齢は15歳か16歳。はるか遠くに北上川が流れる北上盆地が見渡せる山中に人首丸の墓石がある。
 私がアテルイなる人物を初めて知ったのは、高橋克彦の「火怨(かえん)」(上下。講談社)でした。アテルイの「遊撃戦」が生き生きと描かれていて驚きました。その後も、熊谷達也の「まほろばの疾風」(集英社)、樋口知志の「阿弖流為(あてるい)」(ミネルヴァ書房)、久慈力の「蝦夷・アテルイの戦い」(批評社)と続けて読みました。いずれも蝦夷を未開の野蛮人とはみていません。すごい人たちがいたものだと驚嘆しました。
長崎県の上五島の中通島には潜伏キリシタンが建てた教会がある。もちろん、江戸時代に建てられたのではなく、明治になって禁教が解かれてからのこと。
 上五島は、私が弁護士になった年(1974年)4月、日教組への刑事弾圧が全国的にあり、まだバッジも届いていなかったので、先輩からバッジを借りて出かけたという、思い出深いところです。
 著者は、日本史に登場してくるけれど、忘れ去られたような場所を訪ねて歩いたのでした。
(2024年6月刊。1760円)

謎の平安前期

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 榎村 寛之 、 出版 中公新書
 平安時代は400年間続いた(794年から1192年まで…)。この本は、前半の200年は何事も起きていない平穏・無事な世の中だったという世間の強い誤解を払拭しようとする意欲にあふれています。
 藤原道長や紫式部が生きた、『光る君』の時代は、平安時代の後半の200年間。その前の200年間の実相を明らかにする本なのです。としても刺激的な内容でした。
 平安前期の200年間は、「巨大な転換期」であり、「面白く変化に富んだ時代」だというのが著者の考えです。
 墾田永年私財法は、崩壊寸前だった民政に民活を導入し、地域の再生を図る「雇用の創出」だった。
 地方に赴任した国守(こくしゅ)を受領(ずりょう)といい、受領は、五位程度の下級貴族にとってのもうけ口だった。
平安京をつくった桓武天皇は律令国家の王としては、変わった天皇だった。その生母は、倭新笠(やまとのにいがさ)、つまり渡来系氏族の出身だった。
桓武天皇は、天皇になれる皇族の条件をほとんどクリアにしていないまま即位した。奈良時代以前なら、天皇には、まずなれなかった。
 桓武天皇は、大学で教える漢語の発音を、伝統的な呉音(長江周辺の発音)から、漢音(長安周辺の発音であり、唐の標準発音)に切り替えた。
 日本でも、中国の科挙システムにならった、官人登用試験は8世紀以来やられていた。
 ただし、対象は大学を修了した者に限られる。大学は国家による教育機関。
8世紀から9世紀にかけて行われていた高等文官試験は、重箱の隅をつくような試験ではなく、現場の課題を解決するために必要な秀才を確保するという性格を明確にもっていた。
たとえば、その設問は、「新羅(しらぎ)に対する軍事行動の是非について、戦わずに服属させる方向で意見を述べなさい」というもの。これって、北朝鮮と戦争しないで平和共存する方策を述べよといわんばかりの設問ではありませんか…。
 平安時代前期には、一介の庶民が天皇や皇太子に学問を教えるまでに成り上がることを可能としていた。秀才たちをストックするのが「博士職」だった。うむむ、これはすごいことです。学者が優遇されていたわけですね。
 9世紀の前半までは、女官の身分は高く、自立性が高かった。
8世紀の日本は、貴族も庶民も、好きになれば婚姻し、飽きたら自然に切れる(離婚)というもの。実に規制のゆるい時代だった。なので、不倫を働くという観念自体がなかったのでしょう。『源氏物語』も、言ってみれば、「不倫」が不倫として非難されていませんよね。
 奈良時代には、宮廷に勤める男女は奔放に恋をしていた。その実例が何人もあげられています。
平安時代には社交界というものがなかったとしています。宮廷で仕事をしていない限り、貴族の男女が公的に出会う機会はなかった。歌会などは社交界じゃないかと勝手にイメージしていたのですが…。
 以上のことをしっかり認識するだけでも、本書を読んだ甲斐があるというものです。弁護士を50年してきた私の実感でもあります。日本人は古来、性におおらかなのです。
 統一協会に汚染された自民党政治家の主張の誤りは明白です。
(2024年2月刊。1100円)

悩める平安貴族たち

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 山口 博 、 出版 PHP新書
 テレビを見ていないので、なんとも言えませんが、紫式部という女性には、昔からすごく関心があります。『源氏物語』には、私も何度か挑戦しました。もちろん原文ではありません。
 平安時代の男性の生き甲斐は、出世と恋と富の三つ。そして女性は、「書く」ことに生き甲斐を見出していた(もちろん、すべての女性ではありません)。
 紫式部は『源氏物語』を書くことにより、ともすれば落ち込む心を励まし、清少納言は『枕草子』を書きつづることにより、個人臭は強烈だが、宮仕えの実相を明らかにした。
日記を書いた女性もいる。紫式部は物語だけでなく日記も書いている。菅原孝標(たかすえ)の娘は『更級(さらしな)日記』と4本の物語を書いた。
 私も「書く」ことに生き甲斐を見出しています。今は、昭和のはじめに東京で生活していた亡父の生きざまを活字にしていますが、いろんな資料を入手するたびに新鮮な驚きがあり、毎日ワクワクして生きています。
 清少納言は結婚し、離婚した。そして、28歳ころ、藤原道隆(関白内大臣)の娘であり中宮(天皇の妻)の定子(ていし)の私的女房として、定子が死ぬまで8年のあいだ仕えた。
 女房社会を謳歌するには、歌を詠(よ)むことがとても大事だった。
 紫式部にとって、華麗な貴族の生活はなじめない世界だった。紫式部の世界観は「世は憂し」だった。そうなんですか…。
 紫式部は、和泉式部についてはいささかの文才を認めたが、清少納言に対しては徹底的に批判した。才能ある女性同士のサヤ当てなのでしょうか…。
女性の棒給は男性の半分と規定されていた。ただし、定年はなく、終身雇用が建て前だった。
 平安時代の貴族にとって、自分を性的に解放して生きるのは自然なことであり、何ら非難すべきものではなかった。その後も、この伝統は脈々と生きています。和泉式部には30人から40人ほどの愛人(男性)がいた。一夜のうちに男性から男性へと渡り歩き、誰の子をはらんだか分からなくなった女房は、和泉式部だけではなかった。
 節度をわきまえた「色好み」は、人格的欠陥ではなく、当時の貴族の身に備えるべき条件だった。光源氏のモデル説のある藤原実方(さねかた)は、20人以上の女性と関係があり、清少納言もその1人だった。そうなんですか…。
藤原道長や道隆の棒給は、年収にして3億円から4億円。そのうえ、地方官から、鳥など山のように贈り物があった。これに対して、中・大流貴族の生活は苦しかった。
 右大臣までつとめた藤原良相(よしみ)は、自邸の一角に邸宅を建て、藤原氏の「窮女」「居宅なき女」を収容した。
平安時代の貴族は男性も女性も短歌がつくれなかったら評価されなかったようです。これって、向き不向きを考えると、結構きびしい条件となりますよね。
(2023年11月刊。1100円+税)

恋愛の日本史

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 宝島社新書
 万葉集にある歌は、自分は人妻と交わり、自分の妻を他人に差し出す。これは山の神が昔から禁じていないことを示している。古代日本の歌垣では、このような奔放な性の営みが行われていた。
 古代日本には女性の天皇が少なくない。女性天皇は8人いるが、そのうちの6人が古代に集中している。中国では女性の皇帝は則天武后がいるだけで、基本的には存在していない。
女性の地位が高いほど、男女は対等なかたちで恋愛が展開していくことになる。
 女性の「本当の名前」は明らかにされていないし、明らかにされるべきものではなかった。
 紫式部の本名は今なお不明。北条政子にしても、本当の名前ではない。そうなんですか、いや知りませんでした。
 著者は、女性天皇の存在について、「あくまでも中継ぎ」だと強調しています。いやいや、決して「中継ぎ」ではないという学説も読んだことがあります。どちらが正しいのでしょうか。学界の通説(多数説)は、どちらなのでしょうか…。
 著者の考えは、天皇家が母系ではなく、あくまでも父系の系統で継承されていくものだったからという考えにもとづきます。
 『源氏物語』によると、日本社会が恋愛や性愛に関して実に大らかだったことがよく分かる。
 藤原道長は晩年は糖尿病のため、目がほとんど見えていないほどだったとされています。
 有名な、「この世をば我が世とぞ思う、望月の欠けたることもなしと思へば」というのも、糖尿病のため視力が低下して、月が欠けているかどうかも見えない状況も反映させているという説があるそうです。知りませんでした。
 紫式部との「恋愛」とか、和歌のやりとりにしても、「ある種の礼儀」と考えるべきではないかとも解説されています。そうなんでしょうか…。
 平安時代の美女は、「お多福」や「おかめさん」のような「切れ長の細い目で、ふっくらした頬」だった。
 男性(貴族)のほうも、「でっぷりとたっている」こと、そちらが好ましい、美しいスタイルだった。太っているのは、富の象徴となっていた。
 日本に梅毒が入ってきたのは戦国時代、南蛮貿易を通じてのもの。したがって、中世の日本では梅毒の心配はなかった。性愛を謳歌しても、病気の心配はしなくてよかった。
日本は世界的にみても、男性同士の関係、男色に対して非常に寛容な社会だった。
 知らない話がいくつもありました。
 
(2023年7月刊。990円)
 家に帰るとハガキが届いていました。大判の封筒ではありません。「ありゃあ、やっぱりダメだったのか…」と、沈んだ気分でハガキを開きました。1月に受験したフランス語検定試験(準1級)の口述試験の結果は「不合格」でした。合格基準点が22点のところ、私の得点は21点、わずか1点の不足でした。本当に残念です。受験室を退出するときニッコリ笑顔で、「よろしくお願いします」とブロックサインを送ったつもりでしたが、試験官はごまかされず、冷静に採点したのです。まあ、これが私の実力なのですから、仕方ありません。やはり加齢とともに語学力が低下しているようです。筆記試験も成績が下がっています。
 それでも毎朝の聴き取り、書き取りはこれからも欠かしません。
 夜、悔し涙のせいで眠れませんでした。というのは嘘なんですが、実はショックから花粉症が発症してしまい、鼻づまりで苦しい夜になってしまったのです。
 世の中、明けない夜はない。それを信じて生きていきます。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.