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カテゴリー: 日本史(古代史)

邪馬台国の滅亡

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:若い敏明、出版社:吉川弘文館
 邪馬台国は九州にあったと無条件で信奉する私にとって、学者が「そのとおり!」と言い切ってくれる本を読むのは快感そのものです。
 著者は次のように断言します。
 古事記や日本書紀によれば、大和政権は景行天皇や仲哀(ちゅうあい)天皇の時代の二度にわたって九州に遠征している。
 女王卑弥呼が統治し、倭国に属していたことが、北部九州の地域が大和政権に服属したのは、その二度にわたる九州遠征のうちの後者、つまり仲哀天皇からその後の彼の后、神功の時期のことである。
 このように北部九州が最終的に大和政権に服属したのは、4世紀の中ごろをさかのぼらない時期であった。したがって、もし邪馬台国が大和王権であったとすれば、この時になって伊都国王が服属してきたのは不可解と言わざるをえない。
 このように考えれば、邪馬台国は畿内・大和でないことは、もはや明らかである。つまり、倭国とは、北部九州を中心とした一帯の、政治的まとまりを指すものであった。そして、著者は、うれしいことに、なんとなんと、筑紫の山門(やまと)に邪馬台国はあったというのです。ヤッホー!!
 神功皇后による山門の征服こそ、邪馬台国の滅亡にほかならない。
 『魏志倭人伝』によれば、倭国は30の国によって構成されていた。倭国とは、一種の連合国家であった。
 仲哀天皇は熊襲との戦争に敗北したあと死去した。玄界灘地帯を掌握しながらも、大和政権は内陸部の倭国中枢部を攻略しきれなかった。
 邪馬台国は、まさに大和政権に対抗する最後の抵抗の砦だった。
 その最後の砦が陥落したのは、仲哀天皇の死後、朝鮮から使者のやってきた367年から、大和政権が朝鮮に出兵する369年のあいだの出来ごとであった。
 卑弥呼の死後、120年ばかり後になって邪馬台国は滅亡した。そして、大和政権は引き続き朝鮮半島に出兵する。
 大和政権は、奈良盆地の農業共同体のなかから生まれてきたものではなく、九州からの征服によって形成されたものである。
 私より10歳も年下の学者ですが、大いなるエールを送ります。がんばってくださいね。
(2010年4月刊。1700円+税)

天孫降臨の夢

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:大山誠一、出版社:NHKブックス
 とても面白い本です。歴史学界でどのように評価されている本なのかは知りませんが、なるほど、そういうことだったのかと思わず一人で興奮してしまうほど、知的刺激に満ちた本です。東京から帰りの飛行機のなかで読み耽っていると、いつもより早く福岡に着いた気がしました。
 著者は、なにしろ聖徳太子は実在していなかったし、憲法17条が、そのころ成立するはずはない、後世の人々がある意図をもって作りあげたものだというのです。そして、この本を読むと、それがまったく納得できるのです。
 我々は王家(皇室)は一つと考えているが、実は複数の王家があり、交代で大王(おおきみ)を出していた。その一つが蘇我家である。うむむ、そうだったのですか・・・!?
 天皇と皇帝とは、まったく別のものである。何よりも、天皇は皇帝のような専制君主ではない。日本の歴史全体を通じて、一人として唯一絶対の権力者、つまり専制君主であった天皇はいない。
 国政のうえでも、現実の場においても、天皇は権力から疎外されており、現実の権力者は常にほかにいた。では、天皇の役割は何だったのかと言うと、客観的事実として、現実の権力者に正当性を与えることだった。日本の天皇には権力はないが、権威はあった。ただし、飛鳥時代までの大王(おおきみ)は、権力者であった。
憲法十七条は、名を聖徳太子にかりて、『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者によって作られたものである。このような津田左右吉の考えは、今日の通説である。
 聖徳太子がつくったという『三経義疏』は、中国からの輸入品であった。ながいあいだ日本人の信仰の対象となってきた聖徳太子は実在しなかった。
『日本書紀』が完成したとき(720年)、藤原不比等は右大臣、長屋王は大納言であった。長屋王の変というのは、長屋王が謀反を起こしたのではなく、光明子と武智麻呂が襲いかかって、政敵である長屋王を虐殺した事件である。
 天平時代、天皇も皇后も、彼らを取り巻く女性たちも、すべて藤原不比等の子孫かその近親であった。天皇自身を含めて、皇位にかかわる人間は、実質上すべてが藤原一族であった。皇室といっても、実質的には、藤原氏の一部に過ぎなかった。
 仏教というのは、単なる思想・宗教ではなく、建築、土木、金属の鋳造・加工、医学、織物、染色それにもまして文字(経典)という魔術を有する巨大な高度かつ神秘的な技術の集大成なのであり、最高の国家機密に属するものである。したがって、百済が、交戦中である相手の大和王権に仏教をもたらすなど考えられない。
『隋書』に出てくる倭王は男王であり、推古は女性であり、また卑弥呼のような女王でもない。そこで、それは、蘇我馬子だったと考えるしかない・・・。ええっ、そうなんですか・・・?
 現代日本人は聖徳太子が実在する存在として考えていますが、それは後世の人が自らの権威づけのためにこしらえた存在であること、それを推進したのは藤原不比等であることが、とてもわかりやすく論証されています。
 日本の古代史も、こうやってみると、本当に謎だらけです。また、それだからこそ、面白いのです。私も『憲法十七条』について少し調べてみようとしたことがありますが、役に立つ文献がほとんどなくて困った覚えがあります。
(2009年12月刊。1160円+税)

合戦の文化史

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著者 二木 謙一、 出版 講談社学術文庫
 日本には、いわゆる青銅器時代はない。木・石器から、いきなり青銅・鉄器がほとんど同時にもたらされ、その後も、超スピードで鉄器時代へと進んだ。
 刃が両側についている両刃の武器を剣、片刃のものを刀と区別している。甲はヨロイ、冑はカブト。平安期以降は、鎧、兜の字をあて、上代の遺品については甲冑を用いて区別している。
 日本原産の馬は、木曾馬や道産子馬のように小型であったため、乗用としては適さなかった。6世紀ごろになって、大陸や朝鮮半島との交流のなかで騎乗に適した良種の馬がもたらされ、騎馬による戦闘が各地にあらわれた。
6世紀から8世紀にかけて、日本をとりまく東アジアの情勢は、今日の日本人には想像もできないほど緊迫した状況にあった。
 6世紀前半には、日本は伽耶諸国(任那)や百済を支援して高句麗に対抗したこともあったが、6世紀後半には、朝鮮半島から手を引いた。
 日本国内は、継体天皇以降、皇位をめぐって凄惨な争いが繰り返されていた。
 奈良時代の日本の人口は800万人。そのころ、総兵力は12万9000人と想定されている。きびしい徴兵制度がとられていた。1軍団は1000人ほど。国には3ないし4つの軍団があった。
 日本の宮廷親衛隊の多くは農民からの徴兵によるものだった。天皇から軍事指揮権の象徴である節刀(せっとう)を受けて、臨時に任命される征夷大将軍が衛府や軍団の集合軍を指揮して軍事行動を行った。1万人以上を大軍と称した。
大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)らの古代豪族の系譜を引く有力氏族の力を無視できない天皇の地位は、中国の皇帝とは大違いであった。今日の『象徴天皇』と同じようなものである。
 日本史の古代より明治期までの軍事史を、ざっと見る思いのする本ですが、知らないことがたくさんありました。
(2008年3月刊。960円+税)

超訳 古事記

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著者 鎌田 東二、 出版 ミシマ社
 うひゃあ、こ、こんな本の作り方があるなんて……。信じられませんよ。畳に寝そべって話す人がいて、それを聴きとる人がいて、そうやって本を作ったというのです。
 バリバリと雷鳴が轟き、ピカピカと稲妻が走り、激しい雨音がザアーッと地面を打ち続けているなか、寝そべって話したんだそうです。それも、目をつぶって、なのです。もちろん、参考文献も何も持たず、ひたすら記憶とイメージを頼りに、心の中に浮かんでくる言葉の浮き出るままに語り、録音していったのです。さすがに学者ですね。大したものです。
 この本は、「古事記」の上巻の神話を口語に訳したものです。そして、原文に沿った通語訳ではありません。「古事記」自体が古くからの口承伝承にもとづいているので、それにもとづいてつくったというのです。
 私は、過去、何度も「古事記」に挑戦しましたが、思うように理解できませんでした。今度の本は、リズム感もあり、なるほど、こういう内容の本だったのかと、すんなり腑に落ちてくれました。とても面白い本です。
 
(2009年11月刊。1600円+税)

縄文の豊かさと限界

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著者 今村啓爾、出版 山川出版社
 青森市の郊外にある三内丸山(さんないまるやま)遺跡を久しぶりに訪れました。佐賀県にある吉野ヶ里遺跡も行くたびに整備がすすんでいて驚かされますが、ここでもエントランスに大きな建物がたっていて、超近代的装いで迎えてくれました。
 三内丸山遺跡は、縄文時代の前期から中期にかけての遺跡である。500以上の住居址、多くの貯蔵穴、2列に並列する墓壙群、直径2メートルもある巨木による掘立柱の建造物が発掘され、一部は見事に復元されている。
 ここでは、人が居住を開始した縄文前期の中頃に森林が焼き払われた形跡がある。次いで、人間が植林したクリ林となって、クリを主とする食料資源が人々の生活を支えた。
 縄文時代の食用植物で今も続いているのは、クリとヤマイモである。
 縄文時代は南北に長い日本列島で1万年以上も続いた。
 縄文時代には、主として鹿と猪を捕獲するため、陥し穴が広く用いられた。動物は燻製にされ、また、塩漬けにもされていた。
 三内丸山遺跡は、直径1メートルのクリの巨木を3本×2列の配置で6本埋め立てたもので、中央広場に繰り返し立てられた。柱根部のみ残っている。物見台なのか、記念物的な列柱が、屋根があったか意見は分かれている。
 三内丸山遺跡に行ったのは、7月12日(日)のことでした。よく晴れていましたが、まだ梅雨は明けていないこともあって、それほど暑くもなく、ヨシキリと思われる小鳥が盛んに鳴いていました。
 復元された巨大な六本柱の構造物は近くによると、ますます圧倒されてしまいます。この構造物に屋根があったのかという議論には決着がついていないそうですが、私はやはり何らかの屋根はあったと思います。
 それにしても見上げると、いかにも高い、巨大な構造物です。昔の人の力を軽視することは許されません。建造に要した膨大な労働力を考えると、やはり何かの宗教的な意味が込められたものであろう。著者はこのように言っています。
 青森市内から空港へ行く途中にありますので、一度ぜひ立ち寄ってみてください。
(2008年9月刊。800円+税)

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