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カテゴリー: 日本史(中世)

日本中世への招待

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 呉座 勇一 、 出版 朝日新書
日本史、とりわけ日本中世の人々の暮らしの様子がよく分かる新書です。大変勉強になりました。
戦後日本は女性天皇を認めていませんが、かつて日本にも、女性天皇が何人もいました。すると、女性天皇は「中継ぎ」にすぎないという見方が生まれたのでした。これが通説になっていましたが、今では、それは否定されています。
現実の日本の歴史において、女性天皇は自分の政治的意思を発揮し、大きな権力を行使した。遣隋使を派遣した推古天皇もそうだし、律令国家の基礎を築いた持統天皇もそうだ。女性天皇は決して中継ぎなどではなく、男性天皇と対等の存在だった。
女性天皇を認めないというのは、明治以来のことですから、たかだか160年ほどの歴史しかないのです。ですから、それは、むしろ「日本古来の伝統」に反したものなのです。
古代の日本では、夫婦は必ずしも同居しない。夫の側に複数の相手と肉体関係が認められているのと同じように、女性の側も複数の男性との肉体関係をもつことができた。いわば、多夫多妻的な性格があった。
前近代を通じて、貴族や武士であっても、夫婦は別の氏を名乗っていた。
キリスト教宣教師であるルイス・フロイスは、『日欧文化比較』のなかで、日本では離婚が自由なのに驚いている。これは、日本では堕胎が簡単にできることと関連している。女性は、これによって容易に性交渉ができた。つまり、性愛の自由をもっていた。
中世の絵巻物には、女性に一人旅がしばしば描かれている。これは、女性の性愛の自由を意味している。
ところで、フロイスが語っているように、妻の側から離婚を切り出すことが本当にできたのか、著者は首をかしげています。
鎌倉時代の武士は漢字をよく書けなかったようです。遺言書も、平仮名だらけで書いています。なぜ自筆で書くのかというと、それは偽造されるのを恐れてのこと。鎌倉幕府の法廷では、筆跡鑑定もやられていました。武士の識字能力が高まるのは、恐らく室町時代以降のこと。
日本中世の実際をさらによく知る格好の入門書です。大ベストセラー『応仁の乱』の著者による本でもあります。
(2020年2月刊。850円+税)

日本の社会史、負担と贈与

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 吉村 武彦、峰岸 純夫ほか 、 出版  岩波書店
「おおやけ」という日本語は、大きい宅(やけ)、すなわち共同体聚落の一番大きい家、首長の家を意味し、そのことで首長に代表される共同体をも含意していた。
年貢と公事(くじ。雑役ともいう)があった。公事のなかには雑公事(ぞうくじ)と労働供給する夫役(ぶやく)があった。年貢には、米で納める「見納」(けんのう)と、さまざまな雑物を米換算して納める「色代」(しきだい)があった。
有徳銭(うとくせん)は、有力者(富裕者)の負担義務を指す。有徳銭の徴収は、社会的分業の発展により、土豪・承認・手工業者などの手元に富の集積がなされる鎌倉末期以降に登場した課税である。集落ごとに有徳人の選定がなされ、その有徳状況によって上・中・下にランクづけがなされた。
出挙(すいこ)とは、利息付消費貸借であり、無利息消費貸借を意味する借貸(しゃくたい)に対立するもの。出挙は、人頭別におこなわれ、春に貸付けられて、秋に利息をつけて返納された。出挙の年利率は5割から3割になったりして、3割で定着した。
御救(おすくい)は、近世領主に課せられた社会的責務であって、百姓の側は、一般的な農政だけでなく、その時々に応じて感触できる救済物を求めた。たんなる理念ですますだけでは近世百姓は納得しなかった。
無尽(むじん)、頼母子講(たのもしこう)は、中世のごく早い時期からはじまり、現代の信用組合にまでつながる、もっとも長い生命をもつ庶民金融機関である。近世村藩の百姓たちは、この資金調達法によって、特別の出費や負担を切り抜けることが多かった。
土地の所有に関しては、開発したものこそ、その土地の本来の持主(本主)であり、その土地の所有が他家に移転しても、そこに魂の残る潜在的所有権があるという土地所有概念が確固として存在した。したがって、関東地方の農民にとって、完全な所有権の移転を意味する土地売買はありえないもの、また出来ないものという観念が強かった。
売却地には、なおその元の所有者の本主権が残るという土地所有観があった。また、同じようにして質地は流れないという観念が強かった。
日本を知るには、このような日本古代史にさかのぼることなしにはありえないということを実感させてくれる本でした。これも一泊ドッグで読了した本の一つです。
(1986年11月刊。2900円+税)

書物と権力

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 前田 雅之 、 出版  吉川弘文館
この本のオビには、書店も、取次も、図書館もない時代に、人々は何のため、どのようにして本を手に入れたのか・・・、と書かれています。
中世の人々にとって、本を読むというのは黙読ではなく、音読だったのですよね。そして、印刷というのがありませんので、すべて手で書き写していたのです。大変でした・・・。
私は、この本の訴えたいところより、『源氏物語』についての解説が目にとまりましたので、紹介します。
『源氏物語』の少女(おとめ)巻には、次のような場面がある。ことは、光源氏の息子である夕霧の教育方針をめぐって、光源氏と、その義母であり、夕霧にとって祖母となる三条大宮との対立。三条大宮は、上流貴族の子弟である夕霧を光源氏がどうして中下流貴族の子弟が入る大学寮という学校に入れたがるのか、分からない。光源氏は、不満たらたらの三条大宮に対して次のように説得した。
自分は、ちゃんとした教育を受けていないから、幅広い教養がないために、漢学を学ぶのも、管弦の調べを習うにも、不十分な点が多かった。私が子にはちゃんとした教育を受けさせ、・・・、我が子だけが取り残されないようにしたい・・・。そして、次のように言った。
なほ、才(ざえ)をもとにしてこそ、大和魂の世に用いらるる方も強うはべらめ
「才」とは、才能ではなく、漢学などの、教育手段によって後天的に学ばされる教養知のこと。「大和魂」とは、今はやりの民族的精神なんかではなく、「才」の対極にある経験や体験によって身につけることができる実践知の意味。
生き馬の目を抜く、冷酷非情な貴族社会に生きる人間にとって最後の砦となるのは、どちらかといえば、役に立たない、学問・教養としての「才」なのだ。そして、ついに、光源氏の主張が通って、夕霧は大学寮に入った。
なぜ、『源氏物語』の作者の紫式部がこのような認識をもつに至ったかは不明。しかし、紫式部が仕えていた藤原道長の知性のなさと卓越した実力が関係しているのではないか。
道長の日記は、極度に語順がデタラメな記録文になっていることから分かる「才」の欠如。そうは言っても、道長も和歌は詠(よ)んでいたし、漢詩をつくる能力もあった。
上流貴族の子弟は大学に入ることはなく、家庭で教育を受けていた。そして、大学が火災で焼失してから中世以降、大学寮は存在していなかった。
貴族社会における教育の伝播というものを考えさせられましたし、道長に知性がなかったというのが、私にとっては真新しい知見でした。
(2018年9月刊。1700円+税)

陰謀の日本中世史

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 呉座 勇一 、 出版  角川新書
陰謀論は日本史でも、しばしば登場し、よく本が売れているようです。その陰謀論のインチキについて、学者が真面目に解説しています。
まず、頼朝と義経です。頼朝は、義経を鎌倉に召喚しようとしていた。鎌倉に来れば、義経を詰問、拘束できる。来なければ親不孝者として糾弾できる。義経の武勇は頼朝にとって脅威であり、軍事的衝突を回避しつつ、義経を屈服させる道を頼朝は探っていた。
次は、信長暗殺とイエズス会の関わりです。イエズス会日本支部の財政は逼迫(ひっぱく)しており、信長の天下統一事業に資金援助するような余裕は、まったくなかった。
本能寺の変が起きたとき、明智光秀は55歳でなく、67歳であり、秀吉48歳、勝家56歳。
みながみな人間不信になって身動きできない状況で、がむしゃらに前に飛び出した秀吉こそ異常だった。
信長は、対人間関係の構築は、お世辞にも上手とは言えない。他人の心理を読みとる能力がそれほどあったようには思えない。信長は、決して万能の天才ではない。弱点があり、隙(スキ)もあった。
光秀がおのれの才覚で信長を討ったことを、ことさらにいぶかる必要はない。
教科書には書いていない「歴史の真実」を売りにする本は多く、自分こそ歴史の真実を知っているという自尊心を陰謀論は与えてくれる。しかし、それだけのこと。インテリ、高学歴の人ほど騙されやすい。
なるほどなるほどと、目の覚める思いで読みすすめました。
(2018年3月刊。880円+税)

武士の日本史

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 髙橋 昌明 、 出版  岩波新書
日本の武士とは、いかなる存在だったのか、興味深く読みすすめました。
中世の鳥帽子(えぼし)は、身分や着用の場面によって形状と塗り方を異にする。もとは薄い絹布や生糸をざっくり織った布で作ったが、後世は紙で作って、漆で塗り固めた。一般庶民に至るまで欠かせない、常用の被(かぶ)りもので、普通は家のなかでもかぶり、寝ているとき、男女が交わる時にもとらなかった。
そのため、被り物をかぶっていない無帽の状態(露頂)を他人の視線にさらしたり、髪をモトドリの部分から切り落とすことは、それぞれ、「もとどりを放つ」、「もとどりを切る」と言って、卑しい振る舞いや相手の名誉を否定する行為、あるいは、ヒトたることの自己否定(出家の意思)をあらわすものとされた。
理由なく他人のモトドリを切り放つ「本鳥切(もとどりぎり)」は、当時、強盗や夜付・放火・殺害と並ぶ犯罪だった。
髪は毎日のびるから、清潔な月代(さかやき)を維持するのは大変。髪は剃刀で剃るか、毛抜きで抜くかしかない。はじめは毛抜きが使われた。木で挟んで、頭髪を抜いた。
剃るのが普及したのは、天正年間(1573~93年)の中頃以降のこと。
古来、武士は「弓取」(ゆみとり)と呼ばれた。武士を象徴する武器は刀ではなく、長く、弓だったからだ。
武士が発生した、古代・中世において、武士とは芸能人だった。
武士は乗馬ができた。近代まで、庶民に乗馬は許されていなかった。
律令社会では、宮都とその周辺において自由に武器を携行して横行するなど、あってはいけない事態だった。
日本では、本来、刀は片手でつかうものだった。乗馬で突撃するのは、勝敗の帰因が決まったあと、算を乱して逃げる敵を追撃する場合に限られていた。
鉄砲伝来を、種子島だけとするのは根拠がない。実際には、当時、東アジアの海域に活動した中国人倭寇(わこう)の役割が大きいようだ。鉄砲(火砲)が日本各地に広まったのは、それを愛好した第12代将軍・足利義晴が贈答品として大名に贈与したこと、職業的な砲術(ほうじゅつ)師が全国各地を渡り歩いて鉄砲の運用技術を教授してまわったからだ。
鉄砲は、まずは狩猟の道具として広まった。
関ヶ原の戦いのとき、小早川秀秋の寝返りが遅れたが、家康が催促の鉄砲を撃ちかけられて、昼ころ、西軍を裏切ったとされているが、根拠がない。実際には、小早川は開戦と同時に裏切り、布陣しようとしていた。石田光成方は瞬時に総崩れとなった。
日本人が「武の国」であるという、確かめようもないプロパガンダに乗せられそうになりますが、とんでもないことです。足元をすくわれないようにしたいものです。
(2018年5月刊。880円+税)

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