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カテゴリー: 日本史(明治)

佐賀戦争、130年目の真実

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 毛利 敏彦 、 出版 明治維新史研究会
 佐賀に行って出会った冊子です。いま、佐賀では江藤新平の見直しがすすんでいるそうです。そして、江藤新平が刑死することになった「佐賀の乱」も「佐賀戦争」と呼び名が変わりました。
 佐賀戦争は明治7(1874)年2月に起きた。5300人が出動した政府軍側の戦死者184人、負傷者174人。これに対して、佐賀士族の戦死者も173人、負傷者170人です。双方、同じくらいの死傷者が出ました。
そのきっかけとなったのは、佐賀士族が小野組を襲って官金20万円を略奪したとされている件です。-実は、県と小野組とのあいだでお金が動いたことはあっても、略奪されていないというのです。2月11日の電信で、「金みなある。安心すべし」と東京に知らされています。
 ところが、大久保利通は、土佐出身の岩村高俊を佐賀県の県令に抜擢(ばってき)して、熊本鎮台に兵を出させ、この兵を率いて佐賀県庁に乗り込み、江藤新平たちを呼び出したのです。いわば挑発したのでした。それに対抗して江藤新平たちは急に戦争準備を始め、ついに戦争が始まりました。
 要するに、大久保利通は岩村を鉄砲玉として利用して、江藤新平の抹殺を狙ったのです。なぜか…。
 大久保利通は、江藤新平のすぐれた能力・頭脳に対して異常な嫉妬心をもち、憎んでいた。三条実美・太政大臣も岩倉俱視右大臣も江藤新平に対して絶大な信頼を寄せていた。江藤新平が政府に復活したら、明治政府のトップは江藤がなり、薩摩閥はその下に扱われる心配がある。そこで、江藤新平は抹殺された。
また、このころ、民戦議院建白が動いていた。江藤新平は地元の佐賀に戻って、自由民権運動の組織をつくろうとしていた。大久保利通は、民選議院が設立されることを大いに恐れていた。うむむ、そうだったのですか…。
(2005年3月刊。非売品)

二〇三高地

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 長南 政義 、 出版 角川新書
 日露戦争が始まったのは1904年(明治37年)2月。同年6月から翌年1月まで190日間も続いた旅順をめぐる戦闘で、日本軍はのべ16万人の将兵を投入し、6万人もの死傷者を出した。まことにむごい戦闘です。大勢の日本人青年が機関銃に向かって突撃させられ、死んでいったのでした。私も現地に行って、戦争のむごさを体感しました。
第三軍の司令官であった乃木希典について、長く名将とされてきたが、他方で、突撃を繰り返す人海戦術による大量の戦死者を出したことから愚将とする見方も有力となっている。この本は結論として、愚将説をとっていません。むしろ、この本では陸軍の指導部の認識不足と情報不足をまずもって問題としています。
 旅順要塞の構造を強固な野戦築城程度としか認識せず、その攻略を安易に考えていた。つまり、旅順要塞の強度判断に誤りがあった。そして、旅順のロシア軍兵力を1万5千人とみていて、実際にいた4万2千人よりかなり低く見積もっていた。
 当時55歳の乃木希典が第三軍の司令官に就任したのは順当で常識的な人事であり、落閥人事とか無理な人事というものではなかった。
著者は、むしろ軍参謀長の伊地知(いぢち)幸介に問題があったとしています。ぜん息もちの伊地知は、前線の巡視、偵察活動をあまりしなかった。伊地知は優柔不断な性格。「決心の遅鈍」な伊地知は、自分の意見をはっきり表明しなかった。
 日本軍は当初、砲弾数が少なく、継続した砲撃は不可能だった。それで、将兵の突撃攻撃を命じざるをえなかった。また、砲種も砲弾も強力な効果をあげる能力がなかった。前述したとおり私は二〇三高地の現地に立ったことがあります。さすがに感慨深いものがありました。
日本軍の死傷者の75%が銃創、主として機関銃によって突撃が阻止された。
 さすがの日本軍も、「要塞に対しては強襲的な企画はほとんど成功の望みがない」という教訓を得た。そこで、大本営は8月下旬、28サンチ榴弾砲を要塞攻撃に投入することにした。この28サンチ榴弾砲は、砲身だけで11トンもの重量があり、大口径重砲を山上まで運び上げる必要がある。結局、人力で運び上げた。速度は1時間あたり、700~800メートルだった。そして、10月1日から、二十八サンチ榴弾砲を据え付け、試し撃ちをしたところ、予期した以上の命中精度があり、破壊力が高いことが判明した。命中率は55%。
 この二十八サンチ榴弾砲は6門から18門に増強された。ただ、この二十八サンチ榴弾砲には不発弾が多いという欠点もあった。
 第3回の旅順総攻撃のときは、突撃した歩兵たちは1時間に平均して1キロしか進めなかった。
 この日本軍による旅順総攻撃に際して、乃木希典の子ども二人も戦死しています。
 日本軍の手投弾は、ロシア軍のそれより著しく劣っていた。
乃木と児玉の関係は…。西南戦争のとき、乃木は軍旗を西郷軍に奪われ、その責任をとるため切腹しようとした。それを児玉が止めた。このことから、二人には深い信頼関係があった。
 日本軍とロシア軍は結果として消耗戦を戦った。攻囲下にあって兵力の補充のできないロシア軍は消耗戦で敗れた。こういう見方が出来るのですね…。
 第三回総攻撃による日本軍の死傷者は1万7千人。二〇三高地攻略戦で主役をつとめた第七師団の損害は大きく、減耗率は56%に達した。ロシア軍の手榴弾が猛威を振るった。
乃木には戦術的な判断ミスはたしかにあったが、決断力はすぐれていた。
 第一回の総攻撃で全軍の3割もの死傷者を出して失敗したあとも、乃木司令官に対して不満の声が上がらなかった。それほどの統率力が乃木にはあった。第一線を絶えず巡視して将兵をねぎらっていた効果だろう。そして、戦死傷者を多く出したこと、自己の失敗に対する旺盛な責任感があった。
 乃木は軍司令官として名称と評されて然るべきだというのが著者の結論です。新しい資料も紹介していて興味深い記述が満載でした。
(2024年8月刊。1056円)

明治維新という時代

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 深草 徹 、 出版 花伝社
 明治維新の大立て者の西郷隆盛とは、いったい、いかなる人物だったのか…。大変興味深いテーマです。
 西郷隆盛は一般に征韓論を唱えて、それが敗れて下野したとされています。それが事実だとすると、帝国主義的野望をもった政治家だったことになります。
 本書で、著者は西郷は武力で朝鮮を威嚇し、また屈服させるという征韓論をとっていなかったとしています。朝鮮に行く使節は兵を率いることなく、烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)の正装を着し、礼を厚くして行くべきだと主張しました。自ら朝鮮に行く使節になると名乗り出たのも、軍事制圧をしようとしている副島種臣を使節にしないための方策だったというのです。つまり、西郷の唱えた使節派遣論は、無用な戦争を防ぐことを目的としたものだとしています。
岩倉具視や伊藤博文らの欧州視察団が出かけていって日本を留守したあいだ、日本政府は西郷や江藤新平(佐賀)が牛耳っていた。その江藤は長洲藩出身者を厳しく追及していた。帰国してきた伊藤博文は長州藩出身者たちの復権を目ざし、江藤そして、それを支えている西郷に対して激しい敵愾(てきがい)心をもって追い落としを図った。その結果、江藤新平は佐賀の乱(佐賀戦争)で敗死し、大久保利通から即座に処刑されてしまいました。
 このとき岩倉具視が江藤や西郷の正論を問答無用と切り捨てたと著者はしています。いったい、なぜ岩倉にそれほどの力があったのか、その背景にはどんな状況があったというのか…、私は疑問を感じました。いずれにしても、明治6年の政変によって、西郷や江藤政権から遂われ、有司専制と言われる大久保政権が確立します。
 そして、この政変からまもなく、日本は朝鮮ではなく台湾に出兵して、そこを支配するのです。それまで大久保や伊藤たちは、「内治優先・戦争回避」を唱えていたはずなのに…。
 そして、著者は、西郷が西南戦争に踏み切ったころ、「護衛」という名の監視下に置かれていた、つまり決起した鹿児島士族の虜囚にしか過ぎなかったとしています。この点は、果たしてどうなのでしょうか…。西南戦争が西郷の真意ではなかったというのは本当なのでしょうか。
 著者は私と同じ団塊世代(私より少し年長)ですが、今から6年も前に早々に弁護士をリタイアして歴史研究にいそしんでいるようです。いかにも刺激的な本でした。
(2024年5月刊。2200円+税)

彰義隊、敗れて末のたいこもち

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 目時 美穂 、 出版 文学通信
 明治に松廼家(まつのや)露八(ろはち)という有名な幇間(ほうかん。たいこもち)がいました。その数奇な人生を明らかにした本です。
 松廼家は本名を土肥(どひ)庄次郎頼富といい、一橋家の家臣だった。家格もお目見(めみえ)以上という、れっきとした武士。ところが、若いころに放蕩(ほうとう)がたたって、廃嫡(はいちゃく)された。それで幇間になって暮らしていたが、36歳のとき徳川政府が瓦解したあと、彰義隊に加わって官軍(新政府軍)と戦った。彰義隊が敗走したとき、なんとか生きのびて再び幇間に戻った。
 吉川英治が小説として「松のや露八」を書いた。また、芝居にもなった。
 幇間は、たいこもち、たぬき、男芸者と呼ばれる。遊廓(ゆうかく)に来た客をすこぶる楽しく遊ばせるのを仕事とする。一見すると気楽そうだが、知れば知るほど大変な商売。
 客は遠慮も容赦もない。ただの道楽者につとまるような生半可なものではない。
 吉原に客としてやって来る男たちは、吉原の女たちが貧困のため、家族がした借金のため客をとらされている悲惨な境遇であることを知っている。知ってはいるけれど、それを真剣に考え、心底から女たちを哀れと思ってほったら、もはや吉原を美しい夢の国として享受することが出来なくなる。そこで、夢を維持するため、夢の国の女たちは、世間の貧しさも苦労も知らない、およそ巷(ちまた)の労苦からかけ離れた存在としていた。そして、遊女たちに同情するより、世間知らずを笑いものにする。
 彰義隊に対して、江戸の庶民は江戸っ子の思いを背負って死に花を咲かせようとしている武士たちだと受けとめて、熱烈に肩入れした。それで、彰義隊が無惨に敗走したあとも、江戸の町民はひそかに彰義隊の志士たちを大切に扱っていたようです。
彰義隊は戦闘が始まってから4時間ほど、午前10時ころまでは優勢だった。しかし、政府軍が新式のアームストロング砲を活用するようになってからは敗色が濃くなり、午後2時に彰義隊の敗走が始まった。
 松廼家はなんとか生きのびて、明治4年ころから再び幇間を始めた。
吉原につとめる女性は30歳を過ぎて遊女のままという人はまずいなかった。年季の明けた元遊女が、幇間や芸人など、廓内で働く男と結ばれるのはよくあることだった。
 幇間芸は、お座敷で、客の気分に従って即興で演じられるもの。あらかじめ小道具を準備しておくようなことはしない。その場にあるもの、手拭いと扇子、せいせいお膳に並べられた皿や徳利を使って、当意即妙の芸をしなければならなかった。
 露八は相当の苦労もして愛想もふりまいて復帰した吉原に受け入れてもらった。そして、なかなか受け入れてはもらえなかった老幇間の露八は、ついには、名物幇間として明治の世に通用した。明治36(1903)年11月、露八は71歳で死亡した。まさしく数奇な人生ですね…。
(2024年2月刊。2500円+税)

樋口一葉赤貧日記

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 伊藤 氏貴 、 出版 中央公論新社
 24歳という若さで亡くなった樋口一葉の一生が詳しく再現されています。なにしろ本人の日記がネタ元になっているのですから、まさしく迫真的です。
 一葉は、ずっと貧しい生を送ったのかと思っていましたが、それはまったくの誤解でした。幼いころから貧しかったら、文学的教養を身につけることができるはずもありません。むしろ、幼い頃は、中の上か上の下くらいの家庭で、一葉はなに不自由なく育ったのです。
 この本を読んで驚いたことがいくつもあります。その一が、一葉は、手紙の書き方の本を書いていることです。その『通俗書簡文』は、10年間に版を重ねて、5万部以上も売れた。いやあ、これは、すごいです。
 一葉は筆まめというだけでなく、手紙の達人だった。遊女の手紙まで代筆していた。この本は、女性を対象読者とした、女性の文体での手紙の書き方。
 「試験に落第せし人のもとに」送る手紙、「書物の借用たのみ文」など…。ところが、「借金を頼む手紙」とか、「借用金の返済猶予を願う文」というのは一切ない。これらは一葉にとって、とても身近だったテーマだったのに、ない。なぜか…。一葉が生前に出した唯一の本がこれで、借金から逃れるために書いて本にしたものだった。
 そして、二番目に驚いたのは、一葉が死んだあと2ヶ月したばかりで「一葉全集」が出版社の博文館から発刊されたこと。いやあ、これはすごいことですよね。わずか2ヶ月で、「全集」が出るなんて、誰にも想像できないことではないでしょうか。売れると見込んでいたのですね。
 その三は、もし一葉が若くして病死しなかったとしたら、売れた本の印税収入を元手として社会運動に身を投じていたかもしれないと著者は想像していることです。なるほど、そうかもしれないなと、私は思いました。
 一葉の作品が優れていたからこそ、女性として初めての日本銀行券の顔になった。そして、作品をそれほど優れたもの、他の追随を許さない、唯一無二のものにしたのは、なにより貧乏の体験だった。本当にそうだと私も思います。
 一葉の父の名前は、大吉、八代吉、甚蔵、八十吉、八十之進、為之助と何度も改名していて、最後に「則義」となった。
 一葉の家は、本郷にある東大赤門のちょうど道路をはさんだ真向かいにあった。
 一葉の父は、山梨で代々農民だった。そして、武士の地位はお金で買った。徳川幕府の直参の御家人になった。そして、その父(一葉の祖父)は、百姓惣代として水争いの調停のために江戸へ出て、老中阿部正弘に駕籠訴(かごそ)をして、投獄された。本人は死を覚悟していたが、結局、30日の伝馬町の牢内手鎮の刑ですんだ。一葉は、その生まれ変わりのように扱われた。
 一葉の父親は、苦労に苦労を重ねて、金を貯め、ここまで成り上がった。それに対して一葉は、生まれたときから裕福でお金の苦労というものを一切知らない。
 一葉は、12歳で小学校を中途退学した。母親の意見によるものだった。それで、一葉をかわいそうに思った父親が、一葉にどんどん本を買ってやり、そして一葉は和歌を独習した。『南総里見八犬伝』を3日で一葉は読了した。ホントでしょうか…。
 父親が58歳で病死すると、一葉は父親の指示どおりに戸主になった。そして、一葉の兄は23歳のとき、肺結核によって亡くなっている。
 漱石は一葉の5歳年上で、この二人は結婚の可能性があった。戸主になると、他家に嫁に行けなくなり、基本的に、長男とは結婚できなくなってしまう。
 一葉は19歳のとき、誰にも頼らず、自分の力だけで生きていこうと腹をくくった。
 一葉は、生きるために書くことを捨てた。そうではなく、書くために生きるのだ。
 私は書くために弁護士稼業をずっとずっと続けたいと考えています。
 一葉にとって「奇跡の14ヶ月」というのがあるのを初めて知りました。最後まで貧しさの底で生きることで、一葉の文学は、大きな実りを結んだ。貧困なくして、一葉の文学の輝きは生まれなかった。「大つごもり」、「にごりえ」、「十三夜」、「わかれ道」、「たけくらべ」の五作は、この14ヶ月に生まれている。
 私は、この五作を全部読んではいないと思いますので、ぜひ挑戦してみたいと思いました。
 いい本でした。面白かったです。
(2022年11月刊。税込2420円)

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