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カテゴリー: 日本史(明治)

「日露戦争史」1

カテゴリー:日本史(明治)

著者  半藤 一利 、 出版  平凡社
 日露戦争で日本がロシアに勝ってしまったことが、その後の日本をダメにしたのではないか。そんな反省を迫る本だと思いました。
 この本を読むと、著者の博識には驚嘆させられます。日本国内の上から下までの動き、官から民、学者そして作家の日記まで幅広く収集し、幅広くかつ奥深い叙述なので、とても説得的です。
 それにしても世論操作というか、世論誘導は、案外に簡単なものなのですね。
 いま、現代日本では、反中、反韓ものが、けたましく売れているようです。毎週の週刊誌がそれをあおっているのを見るたびに暗い気持ちにさせられます。
日露戦争を開戦する前、明治天皇は勝算の確信がなく、最後の最後まで軍事的解決を避けようとした。
 日清戦争の後、日本は軍備拡張が国策の中心となった。日本帝国は、臣民に苦難の生活を強いて、軍備拡張費をしぼり出し続けた。日清戦争直後の明治29年の日本の総歳出は2億円。うち軍事予算は43%だった。ところが、明治33年の軍事費は1億3000万円。これは租税収入の1億3000万円をそっくり投入したということ。
 海軍は、戦艦を次々に購入していく計画をたてた。その総額は2億1000万円超。これは日清戦争の全線費に相当する。
ロシア帝国のニコライ2世は、明治35年(1902年)当時は34歳。誠実ではあるが、ごくごく意志の弱い、ややもすれば人の言に右に左にと動く、「便所のドア」的人物だった。ニコライ2世のうしろに、野心家のドイツ皇帝カイゼルがピタリとご意見番としてついていた。ドイツ帝国の魂胆は、ロシア帝国を勇気づけ、いっそうアジアに深入りさせて、その国力をそいでやろうという意地の悪さがあった。
 このころ(1903年)、日本の人口は4400万人ほど。東北地方では深刻な飢饉が広がっていた。そして、「東洋永遠の平和のための戦争」という言葉が流行語となった。これは社会全般をおおっている不景気に対する国民的不満を背景としていた。
 民草(民衆)の不満が、ロシア憎悪の温床だった。そして、戦争こそが積年の不景気を吹き飛ばす好機たらん。ゆえに、爆発すべしと思いやすいのが国民感情である。
 世論が沸騰したのに対して、軍の最高指導層は、いざとなったときの戦費調達が心配なうえ、総合戦力で劣る日本軍の実情をふまえて不安があった。日本とロシアでは、面積において50倍、人口で3倍、国家予算において10倍、常備軍で5倍という、大きな差があった。
 新聞各社は、主戦論的、好戦論的な主張をばんばん紙面に載せて、販売部数を増やしていった。
 非戦論の万朝報(よろずちょうほう)も10万部以上の大台を誇っていた。ほかの非戦論としては、東京の日々新聞と毎日新聞があった。
 およそ世に大受けする大言壮語のなげかわしきことは、いつの世にも変わらない。万朝報も、ついに非戦の旗を全面的におろしてしまった。
日露戦争の前、日本の暗号は、他国によって解読されていた。しかし、日本の当局はそのことに気がついていなかった。
ロシア帝国ニコライ2世は、参謀長の「一撃で矮小な猿どもは木っ端微塵」という言葉を信じ切っていた。
 ええっ、これって、第二次大戦前に帝国陸海軍の首脳部がアメリカ軍の「弱兵」ぶりを思込んでいたのと同じですよね。
 そして、このころの日本軍の暗号による情報伝達は、すべて解読されていたのでした。なんと、間の抜けた話でしょうか。その「失敗」が、第二次大戦中の暗号解読による最高司令官撃墜事件に結びつくのです。第二巻が楽しみです。
(2012年6月刊。1600円+税)

米国特派員が撮った日露戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者  「コリアーズ」 、 出版  草思社
 アメリカのニュース週刊誌『コリアーズ』が特派員を派遣して、日露戦争の現場でとった写真集です。
 8人の従軍記者、カメラマンを派遣したとのこと。なるほど、よく撮れています。
日本は開戦にそなえて万全の準備を備えていた。その用意周到ぶりは、各国の従軍記者や観戦武官たちを驚倒させ、ロシアとの違いを際立たせた。表面的には平和を維持しながら、実際には何ヶ月もかけて、開戦に向けて準備していた。
「朝鮮半島に出征する日本軍部隊」という説明のついた一連の写真があります。東京から列車に乗り込む若い兵士たちがうっています。その大半が戦病死したのでしょう・・・。
 同じように、ロシア皇帝がニコライ2世が歩兵連隊を閲兵する写真もあります。
 仁川(じんせん)沖海戦では、ロシアの巡洋艦「ワリァーク」と砲艦「コレーツ」が降伏を拒否し自沈します。あとで、ロシアは生きて帰国した兵士たちを大歓迎しています。
日本軍の仁川上陸の状況をうつした写真もあります。仁川に上陸した日本軍は、すぐに平壌へ向けて進軍を開始した。1日25~40キロの早さで朝鮮半島を北進した。途中、韓国人による抵抗はなかった。侵略者をただ呆然と眺めるのみだった。
 日本軍の弱点は駐兵部隊だというのが観測者たちの共通の意見だった。
日本の軍馬は小柄で、騎兵は乗馬が得意ではない。ロシア軍騎兵の優秀さは、日本軍騎兵をはるかに上まわっていた。騎兵の大半はコサックから徴用されているか、持って生まれた気質、日頃の訓練から斥候騎兵という仕事にうってつけだった。
戦闘の間合いに、日本赤十字社の活動を視察するため、イギリス王室から二人の女性が派遣されたときの写真があります。
 また、鴨緑江渡河作戦について、外国の観戦武官に日本軍の少佐が説明している状況を写した写真があります。信じられない、のどかな光景です。
 遼陽の大海戦は5日間続いた。日露両軍あわせて40万から50万。両軍の死傷者は3万人。ロシア軍は退去を余儀なくされた。
日本軍の大本営写真班による『日露戦争写真集』(新人物往来社)とあわせてみると、日露戦争の戦況がよく分かります。
(2005年5月刊。2800円+税)

維新政府の密偵たち

カテゴリー:日本史(明治)

著者  大日方 純夫 、 出版  吉川弘文館
 江戸時代には、忍者や隠密(おんみつ)と並んで御庭番がいた。御庭番は、将軍やその側近役人である御側御用取次の指令を受けつ、諸大名の実情調査、また老中以下の役人の行状、さらには世間の風聞などの情報を収集していた。そして、明治中期になってからは、内務省警保局が情報収集にあたっていた。では、その間はどうしていたのか・・・。それが本書で取り上げている「監部」(かんぶ)です。
 明治維新の当初、弾正台(だんじょうだい)が置かれ、探偵の仕事をさせた。弾正台は、1871年(明治4年)に刑部省(ぎょうぶしょう)とともに廃止され、司法省に吸収された。同時に中央政府の最高中枢機関として正院(せいいん)が設置され、その課の一つとして監部が出現した。監部の下に密偵が動いた。その人数は1874年ころ50人ほどだった。
 第一は、恒常的に探索活動する諜者(ちょうしゃ)、第二に異宗教掛諜者、第三に臨時雇諜者、第四に、探偵。
 1876年4月、正院の密偵機構の廃止以降も、密偵機能はその規模を縮小しながら、大臣・参議のもとで維持されていた。明治政府はキリスト教禁止政策をとり、そのためキリスト教宣教師のもとに密偵を潜入させその動静を探らせていた。
 そして、キリスト教の禁止がやむと、諜者は失職してしまった。
 大隈重信には、お抱えの密偵集団がいた。
密偵たちは、政府要人の目や耳として、世上の噂に耳をすまし、それにもとづく通報活動を自らの生活の糧としていた。
 自由民権運動の内部にも密偵がした。内局第一課の配下にあった密偵たちは、「仮面」をかぶって民権派の内部に潜入し、スパイ活動を展開していた。密偵たちが潜入していたのは、東京の民権運動だけではない。福島事件の安積戦、高田事件の長谷川三郎、群馬事件の照山峻三のように、自由民権運動には常に密偵の影がつきまとっている。
 自由党や立憲改進党の会議の様子などが、発言者と発言内容までふくめて克明に記録・報告されている。警視庁が集めた情報は警視総監から大臣に報告され、各府県の警察からもたらされた情報は、内務卿から大臣に報告されている。
 密偵たちの末路は哀れだったようですが、なかには表街道に出て、出世した者もいます。明治維新政府の裏面の一端が分かる本です。
(2013年10月刊。1800円+税)

レンズが撮らえた幕末明治・日本紀行

カテゴリー:日本史(明治)

著者  岩下哲典・小沢健志 、 出版  山川出版社
幕末から明治にかけての日本各地の写真が集められています。京都の太奉映画村に江戸時代の町並みが再現されていますが、まるで同じ風景が写真で残されています。
 しかも、初めの写真はカラー写真になっていますので、とても生々しく再現されています。横浜弁天通り(横浜市中区)には、大八車が路上にありますが、なぜか人物がいません。
 東海道杉並木という写真には、カゴがきとともに人物がうっています。
 金沢八景の平湯湾の料亭から小舟が出ようとする、のどかな光景もあります。古き良き時代の雰囲気が、たしかにここにはあります。
 しかし、なんといっても圧巻は厚木宿(神奈川厚木市)の写真です。大通りの真ん中に水路が走り、手ぬぐいで頬がむりした男が縁にすわり込んでいます。
 道の両側には木造の店や家が建ち並んでいて、店先には男たちが立って話しています。中央には、火の見の木ばし子ご立ち、火事のときの半鐘を鳴らす仕掛けが見えます。浪人かヤクザの連中が向こうから一陣の風のなかにやって来そうな気配です。まるで時代劇の舞台です。
明治初めの浅草の芝居小屋の風景写真もあります。
白黒写真で興味深いのは熊本城の写真です。西南戦争の前の熊本城です。堂々たる天守閣が見えます。そして、城の石垣の高さには圧倒されてしまいます。
 明治初めにタイムスリップしてしまう貴重な写真集です。
(2011年12月刊。1600円+税)

「坂本龍馬」の誕生

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著者   知野 文哉、 出版  人文書院
維新の会の「なんとか八策」のもととなった「船中八策」が、実は後世のものであったというショッキングなことが書かれた本です。今や代表の連発する非常識な暴言によって、すっかり落ち目の維新の会ですが、まだまだしがみついている人も多いようです。この本を読んだら、きっと目がさめることでしょう・・・。
 司馬遼太郎が坂本龍馬について本を書くまで、つまり昭和38年頃までは、龍馬を「りょうま」というルビをふらないと 読めない人が多かった。それほど世間には知られていなかったということだ。
 「船中八策」は、慶応3年に坂本龍馬が書いた(書かせた)ものではない。いわゆる「船中八策」には、龍馬自筆本はもちろん、長岡兼吉の自筆本も、長岡本を直接写したという保証のある写本も存在しない。
 また、同時代の後藤、西郷、木戸が「船中八策」を見たという記録もない。
 「船中八策」という名称が初めて登場するのは、坂本龍馬遭難50回忌にあたる大正5年(1916年)の講演会でのこと。そして、昭和4年に、「船中八策」が確定した。
 「船中八策」の用語のなかには慶応3年の時点で一般的に通用していなかったと思われる漢語がいくつかある。たとえば「議員」。これは明治初期に使われはじめた新しいコトバ。
この本によると、龍馬がおりようと二人で新婚旅行として霧島に登ったのも史実ではないとのこと。なーんだ、と思いました。出来すぎた話だと思ってきましたので、ナゾが一つ解けた気がしました。
龍馬暗殺が誰だったのか、明治3年9月の時点では正式に「落着」していた。見廻り組の今井らによる犯行だったというのは広く知れわたっていた。
 「船中八策」はなかった。龍馬は西郷隆盛を一喝していない。龍馬は新政府に入るつもりだった。こんな話が盛りたくさんに出てくる興味津々の本でした。
(2013年2月刊。2600円+税)

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