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カテゴリー: 人間

常識外の一手

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 谷川 浩司   出版 新潮新書
 
定跡(じょうせき)。定跡を指しているだけでは、プロ棋士の世界で勝ち抜くことは出来ない。また、最新の棋譜を追いかけて研究しているだけでも勝てない。
なぜか、、、?
本筋しか指せない人は一流にはなれない。つまり、定跡、常識に沿っているだけでは、プロの中で頭角をあらわすことはできない。本筋をわきまえたうえで、さらに「常識外の一手」を指せるかどうか、ここが重要だ。
どれだけの選択肢があるか、、、。オセロは10の60乗。チェスは10の120乗。将棋は10の220乗。そして囲碁はなんと10の360乗。
正しく先を読むためには、直観こそが重要。日々、研究にいそしんでいるのも、実戦で正しくこの直観が働くようにするため。多くの可能性があっても、その9割以上は直観で捨てて、残りの1割をより掘り下げて検討している。
直観を養うために必要なのは、知識、経験、個性、そして流れ。
初心者と達人は紙一重。深い修練の先にこそ「常識外の一手」がある。
コンピュータと対局するときには、事前に長い時間をかけて、コンピュータの指し手を研究しなくては勝利を望むことはできない。
若いころは、一直線の手順は詰めても、手広く読むことができない。逆に年齢が上がると先まで読む力は落ちるが、経験によって大局観が鍛えられて、深く読めない代わりに広く手を読むことができる。若いころは「狭く深く」、年齢を重ねるほど「浅く広く」考えるようになる。
勝負にかかわる環境や条件をすべて味方につけて、自分の力を最大限に発揮できるのが本物の勝負師といえる。
プロ棋士であれば、自分の感情をうまくコントロールできるのは当然として、勝負事では相手を威圧するような迫力も大切である。
気合十分の棋士は全身から闘志があふれ出るように感じられる。
プロ棋士のすごさを知ることのできる新書でした。
(2015年6月刊。700円+税)

失われゆく、我々の内な細菌

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  マーティン・J・ブレイザー 、 出版  みすず書房
 1850年のアメリカでは、生まれた赤ちゃんの4人に1人が、1歳の誕生日を迎えることなく死亡した。今では、1000人のうち1歳になる前に亡くなる赤ちゃんは、わずか6人のみ。
 1990年には、アメリカ人の12%が肥満だった。2010年には、30%をこえた。
 2008年の世界人口のうち、15億人の成人が過剰体重。うち2億人の男性と3億人の女性が肥満。このわずか20年ほどの間に世界的な体脂肪の蓄積が起きた。
近年の喘息発祥の増加も異常だ。2009年には、12人のうち1人、2500万人のアメリカ人が喘息をもつ。これは人口の8%。そして、子どもの10%が花粉症に苦しんでいる。
 ピロリ菌は、ある種の成人には病気を引き起こす。しかし、多くの子どもたちに利益をもたらすものでもある。ピロリ菌の根絶は、利益よりも、より大きな健康被害を人類にもたらすかもしれない。
 ヒトの体は、30兆個の細胞よりなる。そして、ヒトは、100兆個もの細菌や真菌の住かでもある。
母親は赤ん坊の臭いを知っているし、赤ん坊は、母親の臭いを知っている。臭いは重要である。それは、たいてい微生物に由来する。
 ある種の細菌は、ビタミンKを産生する。ビタミンKは血液の凝固に必須なビタミンであるが、ヒトはそれを産生できない。ヒトの細菌は、内在性の「バリウム」さえ産生する。
 細菌叢のもっとも重要な役割は、免疫の提供。ヒトの体内細菌は、数百万個の独自の遺伝子をもっている。
抗生物質は効果がてきめんで、明らかな副作用はないと思われてきた。問題は、私たちの子どもの世代だ。子どもたちは、今の私たちが予想もできないような脆弱性を抱えることになる。抗生物質過剰使用のもっとも明らかな例が、上気道感染症として知られる疾患だ。
 ところが、抗生物質の使用量は膨大であり、毎年、伸び続けている。抗生物質の過剰使用と耐性菌の出現によって、製薬会社の新薬開発が耐性菌の出現に追いつかないという危機が生まれた。抗生物質を使えば使うほど、耐性は出現しやすく、抗生物質の有効期限は短くなっていく。
 アメリカで生産される抗生物質の大半は、巨大な飼育場で使用される。ブタやニワトリ、七面鳥なのである。抗生物質は太らせるために使われている。食肉生産の最大化が目的だ。
 2011年、アメリカの畜産農家は3000万ポンドの抗生物質を購入した。これは、史上最高だ。これを、日本人の私たちも知らないうちに食べているわけです。
糞便移植という治療法が何年も前から実践され、効果をあげてきた。
 ある人から別の人へ、糞便を計画的に移植する、健康な人から、新鮮な糞便を手に入れ、食塩水で便の懸濁液をつくる。生じた不透明な茶色の液体から、管や経鼻的に十二指腸内視鏡を通して、胃に、あるいは逆方向を直腸から大腸内視鏡によって投与される。
 すなわち、腸内・生態系が破壊された人に対して、失われた細菌を戻してやるのは、有効な医療でありうるということ。
 人類は、細菌が人体内で機能する機構を解明しきれていないのだ。
生長促進を目的として家畜へ抗生物質を使用するのは直ちに禁止すべきだと思いました。
 ヨーロッパでは既に禁止されていますが、アメリカではまだです。日本はどうかというと、この分野でも、アメリカにならって全面禁止にはなっていません。問題ですよね。
 私がマックやケンタを食べないのは、そのせいでもあります。
(2015年7月刊。3200円+税)

光とは何か

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 江馬 一弘   出版 宝島社新書
 
光って、不思議な存在ですよね。そして、色も本当はない、なんて言われると、いったいこの世の中はどうなっているのかと自分の身のまわりを見まわしてしまいます。
色は、この世界に実在するものではない。光の波長の違いを脳が「色」というイメージで認識しているだけのもの。色を実際に「見ている」のは脳であり、色という感覚をつくり出しているのは心なのだ。光(可視光)には、色の感覚を引き起こす性質があるにすぎない。光そのものに色がついているのではなく、特定の波長の光を受け止めたということを、脳は「色」として把握している。
物質の中で電子が振動すると、光(を含めた電磁波)が生まれる。電子が振動すると、振動する電球が生まれて、それが波のように空間を伝わっていく。これが光(を含めた電磁波)である。
電子が振動すると、光が生まれて、周囲に広がる。光を受けると、電子が振動を始める。光は、波としての性質と、粒としての性質をあわせ持つ、不思議な存在なのである。
光は、自分ひとりでは何もできないし、何の現象も起こさない。
光がほかの物質と出会うことで、初めて何かが始まる。光の速さは無限ではない。1秒間に29万9792.458キロメートルの速さだ。そして、逆に、1メートルとは、光が2億9979万2458分の1秒間に進む距離だと定義されている。なんだか、分かったような、とても分からない話ですよね、、、。
光通信に使われているレーザー光は可視光ではなく、近赤外線だ。
近赤外線領域の光は、もっともガラスに吸収されにくいからである。なので、光通信とは、正確には赤外線通信なのだ。
この本の末尾に参考文献として『夜空の星はなぜ見える』が紹介されています。私もずいぶん前に読みましたが、とても素晴らしい本ですので、ぜひご一読ください。
夜空にたくさんの星が出ています。でも、星は無数なのですから、本当は、満天がすべて星だらけになっていないとおかしいはずです。でも、そうなっていません。どうして、、、?
また、ひとつひとつの星はあまりにも小さくて、人間の網膜に届くとは思えません。ところが、何万光年先の星を地上の私たちは見ている。なぜ、、、?
考えてみれば、この世の中、不思議なことだらけですね、、、。
憲法違反の安保法制法を無理矢理に成立させたアベ政権の支持率がまだ3割を下まわらないというのも、私にとっては理解しがたい、不思議な話でしかありません。
(2014年7月刊。900円+税)
 

骨が語る日本人の歴史

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 片山 一道   出版 ちくま新書
 
日本人とは何者なのか。アイヌ民族と同じように、琉球民族というものが存在するのか、、、。
骨考古学の知見から日本人を解明した、画期的な新書です。
現代日本人は、身体特徴に限ってみても、日本人の歴史のなかでは突飛すぎる存在である。背が異常に高く、顔が小さく、顎(あご)が細く、脚が長く、足が大きい。これは、日本列島の人々の歴史においてはすばらしいのだが、それも、ここ70年ばかりの現象でしかない。
では、江戸時代の日本人は、どんな身体をしていたのか、、、。男性の身長は166~149センチ。女性は152~136センチ。江戸時代の日本人の背丈の低さは記録的だった。
大顔で、大頭、長頭、寸詰まりの丸顔の人が多かった。
江戸時代の人々は、鉛汚染による健康被害に悩んでいた。鉛白粉(おしろい)によるもの。そして、虫歯が多く、梅毒も流行していた。
乳児の死亡率は14%と高いけれど、55歳にまで達していたら、70歳までの寿命があった。
明石原人、高森原人、葛生原人、牛川人。いずれも、今では虚像とされている。
沖縄本島で発見された港川人は、琉球諸島に限定された人々と考えられている。
日本列島に住んでいた縄文人の起源を東南アジア方面に限定する説は、もはや了解事項ではない。
縄文人は、骨格が全体に骨太で、頑丈である。頭骨は、さながら鬼瓦の風情である。
縄文人は、短軀、下半身型でがっしりとした体型、大顔で大頭のユニークな顔立ち。豆タンク型だ。縄文人は、鼻と顎が特徴的。平均身長は、男性158センチ、女性147センチ。
日本人の歴史における平均身長は、男性で160センチ内外だった。縄文人の歯には、抜歯と研歯の風習があった。
縄文時代は1万年と長い。それに比して、弥生時代は700年ほどと短い。
弥生時代よりも、次の古墳時代のほうが、多く存在したのかもしれない。
日本人の歴史では、古墳時代のころまでは「中頭型」だった。鎌倉時代から江戸時代にかけて「長頭型」が多くなる。そして、明治以降、だんだん短頭化し、戦後は、「過短頭型」の人が大半を占めるようになっている。
日本列島に、北から西から少数の人々が流れて来た。それらの人間が長い時間をかけて風土マッチしながら、練金術師がブレンド・ウィスキーを溶けあわせるように混合融合し、独特の身体特徴をした縄文人が生まれていった。
弥生時代には、朝鮮半島を平穏な海路が開けていた。だから、多くの人々が行き来していた。いつも渡来人はいたし、中世の倭寇のころまで、渡来人はいただろう。
縄文人が雲散霧消して、弥生時代の渡来人に総入れ替えしたというものではない。
琉球諸島に住む人々は、文化基盤は違うものの、身体特徴は本州域の日本人と大差ない。言語は、日本語の流れにある。アイヌとは、事情を異にしている。
日本人を骨考古学の立場から、じっくり観察していますので、納得できる内容になっています。
(2015年7月刊。820円+税)
 

感じて歩く

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  三宮 麻由子 、 出版  岩波書店
 シーンレスは著者の造語で、全盲という意味です。風景がないということです。
 「視覚障がい」とか「全盲」というマイナスイメージの強い言葉を使わずに、ただ目の前に視覚的な風景がないという事実だけを表現する。
 シーンレスになると、歩くと物にぶつかる現実に直面する。
 プラットホーム上では、シーンレスは極限の緊張状態にある。「欄干のない橋」とか「柵のない断崖」という表現は決して誇張ではない。
 シーンレスの3人に2人は転落経験があり、残りの3人に1人も、いつ3人に2人の側に行ってもおかしくない。鉄道、プラットホームに置いてシーンレスがさらされている命の危険が現実に恐ろしい結果となる確率は、健常者とは比較にならない次元で高い。
 シーンレスにとって、杖は命の次に大切な宝物だ。杖は世界への案内者になる。
 ときどき、道で自転車や車と接触して杖を折られることがある。杖を折られるのは、持ち主を命の危険にさらすこと。
 人より気をつけていても衝突が避けられないのがシーンレスである。白い杖は、そのことを知らせる目印である。
 白杖を折られ、地面との糸電話を断ち切られたら、シーンレスは一歩も歩けない。
 白い杖は単なる道具ではなく、使う人の身体の一部なのだ。
シーンレスにとって、曲線や斜めの角度をふくむ空間認識は歩行のなかでも最難関である。
 自立とは、自己決定できることであって、「ひとりでできる」ことではない。
全盲の女性が社会的に活躍していける時代にはなりました。しかし、シーンレスの人々にとって、やるべきことはこれからもますます多いようです。ぜひ今後とも元気にがんばってください。
(2012年6月刊。1800円+税)

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