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カテゴリー: 人間

人類の祖先に会いに行く

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 グイド・バルブイアーニ 、 出版 河出書房新社
 この本の初めにネアンデルタール人などの顔が復元されています。いるよね、今も、こんな顔の人が…、ついそう思ってしまいました。
 しっぽなしに直立して歩くのは人類の専売特許だ。
 でも、チンパンジーが二本足で歩行している映像を見たように思いますが…。
四本足の動物は、脊椎は地面と水平なアーチ状になっていて、そこに内臓や胸部がぶら下がっている。なので、直立姿勢の獲得にともなって、胸部の重みが体の前面にかかるようになる。
お尻の筋肉がしかるべく収まるように、骨盤が変形・収縮したが、そのせいで、人類の出産はゴリラやチンパンジーとくらべて難事業となった。つまり、直立歩行に移行するため、ヒトは高い代償を支払った。
 トゥルカナ湖は、東部アフリカの大地溝帯に位置している。そこで発見されたトゥルカナ・ボーイは頭蓋の容積が880㏄もある(現代人は1400㏄)。脳の容積が拡大し、手を使うようになっている。年齢は11歳前後、骨盤が縮小しているから、半・樹上生活から、完全に地上生活に移行していたとみられる。
女性が毛の少ない男性を好むようになる過程と、より優れた汗腺を発達させるために毛を失う傾向は、同時併行して進んだ。
 ネアンデルタール人の化石には、相当な数の骨折の痕跡が認められる。傷を負うのは日常茶飯事だったということ。ええっ、これは知りませんでした。
中央ヨーロッパと西アジアに生息していたネアンデルタール人は、最多でも7万人は超えなかった。
 ネアンデルタール人が食べていたのは、主として肉、ほとんど肉だけだった。
ネアンデルタール人は、貝殻や鳥の羽で体を飾っていた。
私たちヒトは、アフリカに起源をもつ。化石も、考古学的な発掘物も、みな、そのように伝えている。人類、みな兄弟、というのは、実は本当のことなんですよね。それを知ったら、肌や髪の毛の色で差別するなんて、とんでもないことだということです。
(2024年10月刊。2250円)
 休日、午後から梅の実をもぎとりました。高いところは脚立を立て、それでも手の届かないところは叩いて落とします。今年は豊作でバケツに2杯分とれました。
 昨年は全然でした。波があります。
 今、庭には黄ショウブが一面に咲いて見事です。フェンスには紅白のクレマチスも咲いてくれています。
 今年はアスパラガスはダメでした。ジャガイモが花を咲かしていますので、やがて収穫できるでしょう。ブルーベリーの花も咲いています。五月の青葉を吹く風は心地良いです。

エッシャー完全解読

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 近藤 滋 、 出版 みすず書房
 なぜ不可能が可能に見えるのか、こんなサブタイトルがついています。なるほど、エッシャーの絵って不思議ですよね。一見すると、何の変哲もない精密画なのですが、よくよく見ると、不思議だらけです。どんどん階段を上にのぼっているかと思うと、いつのまにか下に進んでいます。そして、川の水が滝のように流れ落ちているのですが、その落ちた水が、どんどん上にあがっていて、再び滝になって落ちていきます。まったくありえません。
 人間の眼は、いかに錯覚にとらわれているか、それを何より証明するものです。
 エッシャーのだまし絵は見飽きることがありません。著者は、それがなぜなのか、科学的に究めています。すごいです。
著者がエッシャーのだまし絵に出会ったのは中学生のとき。少年マガジンの表紙(1970年2月8日号)に「物見の塔」があったそうです。この「塔」の絵も不思議なものです。建物のなかにあった梯子(はしご)を人間がのぼっていますが、いつのまにか建物の外に出ているのです。ありえません。
 そして、1階と3(2?)階の向きがまるで違うのに、違和感がありません。
 エッシャーの絵は自然で写真的に見えるのに、全体としては不可能建築になっている。
エッシャーはアメリカの雑誌「タイム」に取りあげられ、一躍、人気作家になった。1954年のこと。
 エッシャー自身は学校では数学が苦手で、いつも落第点をとっていた。今と違ってコンピューターを活用できるわけではないので、エッシャーは手作業でトリック絵を描きあげていった。
 エッシャーの風景画は、その対象をきわめて正確に写しとっている。
 エッシャーは、どう考えても存在しえない構造の建築物を、限りなく自然に描くことで、実在しうるものと錯覚させることを狙ったのだろう。
 エッシャーのトリックは次の三つから成る。
 ①原則として、線遠近法の決まりごとは厳格に順守する。
 ②見る人が錯覚を起こすように建物の構造を変える。
 ③違和感の原因になる構造を、建物以外のアイテムでごまかす。
 エッシャーは、自分では「デッサンが下手だ」と言ったが、それは、存在しないものを空想で描くことは出来ないという意味。
 エッシャーの絵を一人で黙って見つめているだけで、画面中にたくさんトリックがあることに気付かせない。でも、どこか変だなと思って、よくよく見ていると、トリックがあることが分かってくる。
 エッシャーの絵をもう一度よくよく見ることにしましょう。楽しい本でした。
(2025年1月刊。2700円+税)

ひろい海にぼくたちは生きている

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 長倉 洋海 、 出版 ありす館
 この著者(写真家)の写真と文章には、いつも感服しています。子どもたちの目がキラキラ輝いているのに心が惹かれます。
 今回の子どもたちは基本的に一日中、海上で生活しています。東南アジアにスールー海というのがあるそうです。初めて知りました。インドネシアでしょうか、ボルネオでしょうか…。フィリピンではなさそうです。
陸に上がるのは、とった魚を売りに行くときだけ。固い地面を歩くのは不思議な感じがするというほど、海上生活が中心です。舟の上にすべてがある。料理も食事も、みんな舟の上。
 赤ん坊が生まれると、すぐ海に入れる。まず、泳ぎを覚えるため。とれた魚を町で売って、また海に戻っていく。
 島に生えるヤシの木と魚で、自給自足の生活を営む人々。ヤシの木は、実だけでなく、殻も葉も幹も、すべて役に立つ。ヤシ殻からロープをつくる。とった魚は、みんなで分けあう。
島には、電気もガスも、水道もない。冷蔵庫もない。足りなくなったら魚もヤシもまた取ればいい。水は、雨水を水槽に貯めておく。
 子どもたちは、学校に通う。ヤシガニは青色で、手の平よりも大きい。ヤシの実は、ラグビーボールの大きさだ。
 青い空と広い海のなかで、子どもたちが屈託のない笑顔を見せている。この素敵な笑顔がずっとずっと続いていくことを願うばかりです。
 今回も素晴らしい写真を見せてもらって、ありがとうと著者に声をかけたい気持ちで一杯になりました。
(2024年12月刊。1980円)

マンガ認知症

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 ニコ・ニコルソン、佐藤 眞一 、 出版 ちくま新書
 ずいぶん前のことですが、叔母が認知症になりました。子どものいない叔母でしたので、イトコが養子になって同居して面倒をみるようになりました。ところが、叔母は、イトコが「お金を盗った」と騒ぎ始めたのです。イトコが叔母のお金を盗るはずはありませんし、盗る必要なんかないのです。そうか、認知症の物盗られ妄想って、こんな状況を言うんだなと思い当たりました。
 弁護士として、遺産相続のときに、故人の物盗られ妄想を信じている相続人が真顔で主張するというケースを扱いました。身近な人は真実が分かっても、遠くの人には妄想が真実に見えてしまうという厄介な状況でした。
 いったい、認知症の人の物盗られ妄想はなぜ起きるのか、不思議でした。
そもそも認知症とは、①なんらかの脳の疾患によって、①認知機能が障害され、②それによって生活機能が障害されているという三つがそろったときの症状だ。認知症は症状であって、そんな病気があるわけではない。
認知症の予備軍をふくめると、今の日本には1000万人いるとみられている。
認知症の診断はとても難しい。老化による物忘れは認知症ではない。
記憶検査のとき、ヒントを与えられて答えることが出来たら、認知症ではないので運転免許の更新は認められる。
 さて、物盗られ妄想は、なぜ起きる…。自分がお金を置いた場所を忘れてしまう。でも、自分のせいだとは認めたくない。その結果、自分を納得させるための虚偽の記憶をつくってしまう。事実と創造の区別が出来なくなり、身近な人に疑いをかけてしまう。
 人間は、自分が忘れたとか失敗したとか、自己否定につながることは、素直に認められないもの。自己防衛で、嘘の記憶をつくってしまう。「作話(さくわ)」だ。
認知症の人は、基本的に孤独の中で生きている。周囲の人と心を通わせるのが難しくなっていくので、不安や恐怖で一杯になった結果、自己防衛でするしかないと思うようになってしまう。
その対策3ヶ条。①「お金は大事だよね」と同意しつつ、探すように促す。②介護者が疑われないよう、本人に見つけてもらう。③あまりに興奮しているときは声をかけず、鎮まるまで距離をとる。いやあ、これって実に難しいですよね…。
認知症になると、他人(ひと)の心を察する力も失われていくので、なかなか真心は伝わらない。
 認知症の人が同じことを何度も訊いてくるのは…。覚えられず、分からないままで不安だから。訊いたら、教えてもらって安心できるから…。「さっきも訊いたでは」と返すのは避けたほうがよい。
アルツハイマー型認知症だと、もっとも覚えにくいのは、数分から10分ほど前の記憶。
 私は毎朝フランス語の聞き取りをしていますが、わずか1分半ほどの文章を暗記できません。本当に困っています。中学2年生のとき、英語の教科書を1章丸ごと暗記して教師にほめられたことを今でも覚えていますが、そんな芸当は今や無理なんです。
 認知症の人は、本来の展望ができなくなっている。計画を覚え、思い出すことが難しい。認知症の人が同じものを大量に買ってしまうのは、「あれ買ったかな?」という不安感から、買っておいたほうがいいとの判断にもとづく行動と考えられる。
認知症の人が突然に怒り出すのは、脳の前頭葉が委縮するという脳機能の問題と、自分のプライドを守るために他者を攻撃してしまう、という心理的な問題から生じている。
 夕暮れ症候群。夕方になると、「家に帰りたい」という人がいる。これは朝から活動してきた脳が疲れてしまうことによるもの。
 認知症の人は昔の記憶はよく覚えているので、そこから会話を始める。自慢を聞いたり、懐かしい童謡を一緒に歌ったりする。
認知症の人は、子どもと同じように、その場その場しか考えていない。今にしか生きていない。
 認知症の人は、鏡にうつっているのが自分だと分からず、他人だと思って話しかける。
 体験にもとづいた展開ですし、マンガもあって、とても分かりやすい本でした。あなたに一読を強くおすすめします。
(2022年3月刊。880円+税)

続・日本軍兵士

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 吉田 裕 、 出版 中公新書
 アジア・太平洋戦争の敗戦までに230万人の日本軍兵士が死亡した。その多くは戦闘による死ではなく、病気による死(戦病死)だった。また、大量の海没死(船舶の沈没による死)もあった。
 日本軍は直接戦闘に使われる兵器・装備、すなわち正面装備の整備・充実を最優先したため、兵站(へいたん)や情報、衛生医療、休養を著しく軽視した。
 腹が減っては、イクサは出来ない。日本軍は、こんな基本をすっかり忘れ、精神一到、何事が成らざらん。そればかりでした。まさしく単細胞そのもののトップ集団でした。
1941年、国家予算に占める軍事予算の割合は日本は75%、アメリカは47%だった。
 日本敗戦時、陸軍では全兵員の2.4%が将校、9.2%が下士官、88.4%が兵士。
 日清戦争のとき、全戦没者に占める戦病死者の割合は9割に近かった。ところが、日露戦争では、それが26%にまで低下した。これは伝染病による死者が激減し、凍傷も減少したことによる。軍事衛生・軍事医学の近代化の成果でもあった。
 ところが、日中戦争が始まった1941年には、戦病死者の割合が50%をこえた。1941年の主要疾病は、マラリアが第1位で3万5千人、次に脚気(かっけ)が5千人、第3位が結核の2千人。脚気が増えたのは、軍隊の給養が急速に悪化したことによる。栄養失調と同じ。
 日本敗戦後に亡くなった兵士が18万人もいる。戦場の栄養不足のため、克服されたはずの脚気が復活し、戦争栄養失調症が大流行した。
 日本軍は兵站を無視して、食料は現地調達主義をとっていた。中国軍は日本軍に何も渡さないようにして撤退していったので、戦場には食べるものがなかった。
 米が完全に主食になるのは意外に遅く、戦後の1950年代後半のこと。兵舎に入って主食の白米を食べられるのは、一般の兵士にとって大変魅力的なものだった。軍隊に入って、初めて白米を食べたという兵士も少なくなかった。これはこれは、意外でした…。
 1933(昭和8年)に入営した兵士の半数近くは、パン食の経験がなかった。なので、兵舎でパン食はなかなか普及しなかった。
日本は陸海軍とも歯科医療を軽視した。ところが、アメリカ陸軍には、第一次大戦前から歯科軍医がいた。第二次大戦中、1944年には、1万5千人もの歯科将校がいた。いやあ、これは違いますね。歯痛に悩む兵士が満足に戦えるはずはありません。私は「8020」を目ざして、年に2回、歯科検診を受けています。
 イギリス軍では、兵隊に月1回の歯科検診を義務づけていた。日本軍の立ち遅れは明らかです。
日本軍は、中国戦線で高級将校の戦死傷者が思いのほか多数にのぼった。宇垣一成はこの事実を知り、その原因が、部下の兵士が戦闘意欲に乏しいため将校が前に出ざるをえなくなったことによると嘆いている。
 日本兵は過労、ほとんど睡眠がとれず、老衰病のようにして死んでいった。また、精神病患者が増大した。
中国戦線に派遣された日本軍兵士は、その多くが家庭をもつ「中年兵士」だった。そして、彼らは戦争目的が不明確なまま、厳しい戦場の環境の下で、長期の従軍を余儀なくされると、自暴自棄で殺伐とした空気が生まれた。これが日本軍による戦争犯罪をつくる土壌の一つとなった。長期間の従軍の結果、軍紀の弛緩が目立ちはじめた。
身体検査規則が改正(緩和)されると、知的障害のある兵士が入営してきた。こうした兵士は、軍務に適応できずに、自殺したり逃亡したりする例が少なくなかった。
 日本軍の前線での救命治療の中心は止血であり、輸血はほとんど普及しなかった。
 たしかに、日本軍が輸血している光景というのは全然見たことがありません。この面でも遅れていたのですね…。
南方でもっとも恐るべきは敵よりもマラリヤである。栄養失調によって体力が衰えると、ダメージは大きかった。
 軍医の重要な仕事の一つは詐病(さびょう。インチキ病気)の摘発だった。いやあ、これはお互い、たまりませんよね。
日本陸軍の機械化・自動車は立ち遅れた。1936年の自動車生産台数は、日本が1万台なのに対して、アメリカは446万台、イギリス46万台、ドイツ27万台。これは圧倒的に負けてますね。トラックでみると、日本が1945年までの8年間で11万5千台なのに対して、アメリカは245万台と、ケタ違いに多い。
 日本軍兵士には、十分な軍靴も支えられなかった。中国人から掠奪した布製の靴や草履をはいていた。これに対してアメリカ軍は、軍靴を4回も改良している。そもそも日本軍兵士には、靴をはいた経験のある兵士は2割でしかなかった。
 こうやってみていくと、日本軍兵士がいかに劣悪な環境の下で戦わされていたのか、あまりに明らかで、これで勝てるはずがないと妙に確信させられました。
 日本軍なるものの実態を知るうえで、必須の本です。
(2025年2月刊。990円)

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