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カテゴリー: 人間

僕に方程式を教えてください

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 髙橋 一雄 、 瀬山 士郎 、 村尾 博司  、 出版 集英社新書
少年院で数学教室をやったらどうなるか…。なんとなんと、目の覚めるような、あっと驚く成果をあげたのでした。
著者の一人である高橋一雄の『語りかける中学数学』(ペレ出版)は、私も読みました。初心者に語りかける口調ですすんでいく数学のテキストの傑作です。部厚い本なのですが、内容は平易で、なにより分かりやすい。このシリーズは微分・積分もありますが、私は中途で止めてしまいました。高校では理系クラスにいて、数Ⅲまでやったのですが、微分・積分なんて、今や何のことやら…という感じです。残念ですが…。
著者は少年たちと3つの約束をしました。その一は、分からないことは恥ずかしがらずに質問する。その二は、間違った答案は消さず、必ずノートに残しておく。その三は、自信をもって間違える。いやあ、こんな約束でいいのでしょうか…。
少年院に入っている少年の数学の学力は、7割強が小学4年生以下、9割強が6年生以下。ふむふむ、きっとそうなんでしょうね。
数学の授業は、他人(ひと)の意見の素直に耳を傾ける機会として、もっとも適している。それは、数学の解法は、いく通りかあるが、解答は一つしかないから。これは、納得です。
数学の授業は、少年たちの抽象的表現能力を伸ばすのに、大きな意義がある。
中学1年生の数学レベルを超えられたら、高認(高校認定)試験の数学Ⅰの最低合格ライン40点を高率で突破できる。今は、「大検」はありません。
昔の非行の主な原因は、貧困だった。今は、学業の失敗によって、居場所を失っていくパターンが多い。
少年院に収容されている少年の多くは自分自身を語る言語資源を十分もちあわせておらず、言葉にならない自己を抱えている。
学校教育において、子どもの文章力、読解力の欠如は著しく、そのため、論理的思考、論理力を育(はぐく)むための、国語教育の重要性が指摘されている。そうでしょうね。
中学数学は、数学だけでなく、他のさまざまな分野、自然科学に限らず、社会科学までの視野を入れて、これからの学びの基礎を形づくるうえで、とても大切な分野だ。同感です。
分数の理解は抽象的にものを考える初めの一歩。間違いを間違いだと本人が理解できること。これは数学の大切な性格の一つ。同感、同感です。
少年院や刑務所は、更生施設であり、本来は懲罰のための施設ではない。とくに少年院は、犯した罪を少年が反省し、社会に復帰するための準備する施設のはず。
今や、非行少年同士が面と向かってしのぎを削った時代は去り、非接触型の、顔の見えにくい現代型非行が到来している。非行の周辺には、陰湿ないじめや不登校・引きこもりといった、青少年のホンネを見えにくい状況がある。手のかかる少年が増え、その多くは発達障害をかかえている。非行少年たちは、家庭での虐待や貧困などのさまざまな事業により、安全で安心な居場所をもてずに孤立感を深めている。なので、少年たちの生きる力を育(はぐく)むためには、自分をきちんと肯定できる自尊感情と、やればできるという自己効力感が不可欠。まったく、そのとおりだと思います。
髙橋一雄による集団授業によって、入院時に小学校の算数レベルだった6割の少年が、中学数学レベルにまで到達でき、7割以上が高認試験に合格した。いやあ、実にすばらしい。
数学の意味を理解しながら得られる達成感は、学ぶ喜びとともに、自身の可能性を認識しながら、未来に向かって挑戦しようとする力を養うことにつながる。
「先生、オレたちに能力はある。学力がないだけなんだよ。だから教えてくれよ」
少年の悲痛な叫びにこたえた素晴らしい実践記録です。ぜひ、あなたも、この新書をご一読ください。おすすめの本ですよ。
(2022年3月刊。税込990円)

時間は存在しない

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 カルロ・ロヴェッリ 、 出版 NHK出版
大変興味深い内容でした。よく分からないまま、なんだか考えさせられました。あたりまえだと思っていたことが、実は、あたりまえではないというのです。
飛行機に正確な時計をのせたところ、その時計が地上に置かれた時計より遅れた。
ええっ、何、どういうこと・・・。それって、いったいどうやって測るの…。不思議な話です。
時間には、最小幅が存在する。その値に満たないところでは、時間の概念は存在しない。ええっ、いったい何の話をしてるの…。
時間は唯一ではなく、それぞれの軌跡に異なる経過期間がある。そして時間は、場所と速度に応じて異なるリズムで経過する。時間は方向づけられていない。
この広大な宇宙に、私たちが理にかなった形で「現在」と呼べるものは何もない。
事物は「存在しない」。事物は「起きる」のだ。
世界とは、ほかでもない変化なのだ。この世界は物ではなく、出来事の集まりなのだ。
時間の流れは、山では速く、低地では遅い。低いところでは、あらゆる事柄の進展がゆっくりになる。
これが本書の冒頭にある話です。ええっ、どうして、何のこと…。
物体が下に落ちるのは、下のほうが地球による時間の減速の度合いが大きいから。何なに、いったい何のこと…。
時間が減速するからこそ、物は落ち、私たち人間は足をきちんと地面につけていられる。
足が舗道から離れないのは、体全体が、ごく自然に時間がゆったり流れる場所を目ざすから。頭よりも足のほうが時間の流れが遅いからだ。
うむむ、なんだか、よく分かりませんよね…。
熱は、熱い物体から冷たい物体にしか移らず、決して逆は生じない。これは熱力学の第二法則と呼ばれるもの。
たとえば、知人が地球から4光年はなれた惑星にいるとする。その人に、今、何をしているのと尋ねたら、どうなるか…。この質問は、まったく意味がない。光が届くのに4年かかるというのは、望遠鏡で見たとしても、それは4年前にしていたことであって、「今」していることでは決してない。
私たちの「現在」は宇宙全体には広がらない。「現在」というのは、自分たちを囲む泡のようなもの。宇宙全体にわたってきちんと定義された「今」という概念が存在するというのは幻想にすぎない。宇宙全体で定義できる「同じ瞬間」というのは存在しない。
時間が事物から独立していて、他のあらゆるものとは無縁に規則正しく、ゆるぎなく経過するというニュートンの考えは間違いだ。
時間は空間と一体化した広がりであり、過去と未来を区別する方向性もなければ、「現在」という特別扱いされるべき時刻も存在しない。
よく分からないなりに、時間という不思議な、つかみどころのない概念を少しばかり考えてみました。こんな本が7万部も売れたなんて、不思議でなりません。
(2021年9月刊。税込2200円)

「男はつらいよ」50年をたどる

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 都築 政昭 、 出版 ポプラ社
この世は欲望に満ちた世界であり、人間はそんな世の中であくせく働き生きている。そうした殺伐とした風景の中で、「寅さん」の世界は一種のオアシスである。まったく同感です。
「寅さん」映画には、家庭の団らんがあり、明るい会話と笑いがある。現代日本では失われた風景かもしれない。観客は憧れに似た郷愁に浸り、人間性を取り戻す。
いやあ、ホントそうなんですよね。笑いながら、ホロっとしながら、胸に熱いものを感じて、心に安らぎが得られて、映画館を出るとき、ほんわり温かくて心地がいいのです。
東京の下宿と寮で生活しながら司法試験の受験勉強に打ち込んでいたとき、最大の息抜きが「寅さん」映画でした。本当に安らぎが得られ、帰ったら心を新たにして再び猛然と法律書と取り組むことができました。感謝・感謝です。
渥美清は映画第一作の台本を読んでゾーッとした。その中に生き生きと自分が息づいていたからだ。笑いというのは、どこか残酷なもの。渥美清は、あるとき、山田洋次監督にしみじみ語った。自分の欠点や弱点を笑いの材料にし、その愚かさを観客が笑う。
渥美清は、勉強が大嫌いで、ワンパク三羽烏(ガラス)のひとり。小学生のころ、クラスに知的発達の遅れた子がいたので、渥美清は、いつもビリから2番目だった。
渥美清の父は地方新聞の記者で、母は代用教員。父は陽気な男だったが、母親はバカに朗らかだった。
山田洋次の父は柳川出身で、九大工学部を出て満鉄で蒸気機関車の開発に従事していた。ハルピンではロシア風の木造の家に住み、ロシア人の運転手やボーイを雇った。料理人は中国人、家庭教師はフランス人。土・日に父と母は馬車に乗って舞踏会に出かける。馬丁はロシア人。
母は満州・旅順に生まれ、女学校を卒業するまで内地(日本)を知らない。戦時中も頑としてモンペをはかず、禁止されていたパーマを平気でかけていた。父兄参観日には明るい洒落た着物を着てきて、洋次少年を恥ずかしがらせた。母は楽天的で明るかった。
日本に引き揚げてきて、山田が東大に入った年に両親は離婚。性格の不一致。そのあと、母は英語教師になろうと大学に入った。いやあ、これってすごいですよね。40代半ばですからね…。
無心の顔で観客を元気づける寅さんは、地面から足を少し離した風の精なのだ。寅さんが大地に根を張り、土臭い匂いを放って、所帯染みては困るのだ…。
観客は寅さんを通じて日常の憂いを忘れ、一緒に夢を見て元気になりたい。
「男はつらいよ」は失恋の物語なので、悲しく終わるはずだが、山田監督は、パッと明るく弾んだ気持ちで終わらせる。失恋した寅さんが、どこかの縁日(えんにち)の場で真っ青な空のもと、啖呵売(たんかばい)に声を張りあげている様子に観客は救われるのです。
「寅さん」映画を製作する山田組のスタッフは、第1作から不動のメンバーだった。定年退職と死亡以外は変わっていない。いやあ、これってすごいことですよね…。
山田監督は、信頼する同じスタッフで通した。これを知ったアメリカの映画人は「夢のように美しい話だ」と羨望(せんぼう)した。観客の感情に訴えかけて楽しませ、感動させるような製品をつくっているのだから、その生産に従事する人たちの気持ちが製品に正確に反映する。つまり、撮影所で働く人間は、他人の気持ちがよく分かる優しい人たちでなくてはならないのだ。
うむむ、なーるほど、そうなんですよね…。楽しんでつくった作品は、自ら気品が生まれてくる。チーム全体が楽しい雰囲気に包まれていることは、いい作品、楽しい映画をつくるうえで絶対に必要なことだ。
心にしみる、いい映画評でした。また、映画館のリバイバル上映で楽しみたいです。
(2019年12月刊。税込1650円)

蜥蜴(とかげ)の尻っぽ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 野上 照代 、 出版 文芸春秋
山田洋次監督の映画『母(かあ)べえ』の原作者が映画との関わりを縦横無尽に語っている興味深い内容の本です。
著者の父・野上巌は、山口高校(旧制)から東京帝大独文科に入り、共産主義思想に傾倒。日大予科教授になったものの、思想的によろしくないというのでクビになり、高円寺で古本屋を開業した。そして、警察に何度も逮捕された。小林多喜二が築地警察署で虐殺された(昭和8(1933)年)ころのこと。やがて、父は転向声明に署名したので、保釈で拘置所から出てきた。そこは映画と事実が異なっている。そのあとは、ドイツ大使館で翻訳嘱託として雇われた。
映画づくりにずっと関わってきた著者の話は、やはり映画づくりの現場に関するものが一番面白いです。映画『たそがれ清兵衛』の撮影現場を著者は間近でみていて、それを文章化しています。決闘の相手になった余吾善右衛門を演じた前衛舞踏家の田中泯について、著者はこう描いている。
山田組の現場は、黒澤(明)組の喧々(けんけん)囂々(ごうごう)に比べたら静かなもの。
山田洋次監督の脚本は、いつもその土地の方言に忠実なことが魅力のひとつだ。このときも原作者である藤沢周平の郷里、山形県庄内地方の方言が味わいを深くしている。
田中泯さんは大変。アグラのときには足を見せる。膝も叩かなければいけない。「熱が出ただろう」で指さすのも忘れてはいけない。それから、体をキャメラのほうへ向ける必要がある。映画俳優の仕事は本当に難しい。キャメラに写る、何センチ単位の位置、動作のスピード、台詞(セリフ)の明瞭さなど、制約が厳しい。これらをコナしながら、もっとも大事な感情移入という状態にならなければいけない。
山田監督は忍耐の人。じっと耐える。怒鳴ったところで、うまくいくわけではない。
山田監督は、俳優の芝居を大事にするからだろう。脚本どおりの順番に撮っていく。いわゆる「中抜き」はしないし、できない。
山田監督は、田中泯に対して、余吾の心境を伝え、なんとか感情移入して余吾になり切るよう、声を出し続ける。
「『16歳』、哀しみをこめてね。大きくふくらむ蕾(つぼみ)の時に…。そこへ『やせ細って』をいれましょうか。そのイメージを描いて下さい。美しい娘がガイコツみたいになったイメージを思い浮かべながらね…。骨と皮ばかりになった娘を抱きあげたら、ガチャガチャって、音がしそうだった…、ね」
山田監督は、キャメラが回り出すギリギリまで俳優に魔法をかけ続ける。まるで、ピノキオに命を吹き込むように。
「いいですか、本番。…哀しい物語なんだからね。哀しい、哀しい話なんだから…。16歳、に感慨をこめて…。ヨーイ、…やせ細った娘を抱いたともの感覚というのか…。本番、ヨーイ、スタートッ!」
まるで相撲の仕切りのよう。時間いっぱい待ったなし、まで粘る。
「ワンカット、ワンカット、祈るような気持ちですよ、何とかうまくいってくれってね…」
これが『男はつらいよ』を46本も撮った大ベテラン監督のコトバ。
監督生活41年、この作品が77本目になる。プロ中のプロ。その山田監督が、まるで1本目の新人監督のようにひたむきに真剣に、ワンカットの中に命を吹きこんでいる姿に感動した。
いやあ、これは、その場にいなくて、読んでいるだけの私でも、心が激しく揺さぶられるものでした。これほどの真剣さが、人生には求められているのですね…。
著者は、天才とは記憶だと断言した黒澤明監督のコトバを紹介しています。
「読んだ本、見たこと、会った人たちの記憶を、どれだけ蓄積するか、必要に応じてそこから引き出す才能をもつ人が天才なのだ」
なーるほど、そういうものなんでしょうね…。映画好きの私には、とても面白い本でした。
(2007年12月刊。税込1980円)

がんは裏切る細胞である

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 アシーナ・アクティピス 、 出版 みすず書房
がんについての本です。私たちはがんと共生するしかないようです。
私たちが生きている以上に、がんというプロセスを止めることはできない。
がんとは進化そのもの。進化が形を得た存在、それががん。
この惑星(地球)に多細胞生物(人間もその一つ)が存続する限り、がんが消えてなくなることはない。
私たちががんにかかるのは、体内で生きのびて短時間で増殖する細胞のほうが子孫細胞を多く残せるから。
がん細胞は、悪質なルームメイト集団以外の何物でもない。
私たちは知らず知らずのうちに、がんと賃貸借契約を結んでいる。
がんについて、湿潤性と転移性こそががんを決定づける特徴だ。
本来なら多細胞生物の性質であるはずの細胞間の協力が裏切られる。
細胞は、隣接する細胞のふるまいを監視している。近くのどれかの細胞から「気にくわない」とされたら、自死のプロセスを開始できる。周辺監視システムがあるおかげで、がん細胞予備軍から全身を守っている。
細胞は何かを入れて何かを出すだけの単純な機械ではない。実際は、複雑な情報処理装置だ。
個々の細胞は、近所の細胞や免疫系とも連携し、絶えず情報を共有しながら、がん予備軍の細胞をうまく抑え込んでいる。
細胞は1ミリ秒とも休むことなく、情報を処理し、かつ情報に反応している。
私たち(ヒト)は、がんと共に生まれ、がんと共に生き、がんと共に死ぬ。胎内から墓場まで、がんは私たちの生命の一部だ。
「正常そうな」細胞全体の4分の1あまりに、がんにつながりかねない遺伝子変異が発生している。がんを抑制しようとすると、早期老化のようなコストが生まれる。
私たちががんにかかりやすいのは、成長、組織の維持、傷の治癒、感染症の予防といった機能にがんが結びついているから…。そのほか、生殖能力にもかかわっている。
がんを生じさせるのは、遺伝子の変異だけではない。細胞のふるまいを制御する遺伝子産物のアンバランスにもよる。
私たちは、前がん性の腫瘍と一緒に何十年と暮らし、普通は何の支障もない。つまり、私たちは、がんと共に人生を終えているのだ。
がん細胞は、個別に動くより、クラスターになったほうが、はるかに容易に転移できる。
がんは、私たちの一部であり、予測不能で適応力の高い相手だ。
がんと長期にわたって、戦略的につきあっていく覚悟を決めれば、得るものは大きい。
がんを一掃できるという望みを持つのは、間違っている。要するに、がんは病気というより、「多細胞生物に特有の性質」であるということ。生命は多細胞の形態に移行したときからずっと、つきあってきた。
がんを完全に封じ込めてしまうと、生物は不利益をこうむりかねない。
がんという病気は、ずっと、だましだましであれ、つきあっていくしかないようです。撲滅なんかできないとのご詫宣には大変おどろきました。がんとは共生するしかないとのことです。
(2021年12月刊。税込3520円)

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