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カテゴリー: 中国

毛沢東と中国(下)

カテゴリー:中国

著者  銭 理群 、 出版  青土社
いよいよ例の文化大革命の始まりです。
 毛沢東は劉少奇から指導権を奪うには、党官僚の系統が劉少奇によって既にコントロールされているから、非常手段をとらざるをえなかった。つまり、下から上へと直接的に大衆を動員することだった。
 毛沢東の文革発動の呼びかけにこたえたのは、青年学生、しかも未成年の学生だった。とりわけ、高級幹部の子弟だった。これは、人類史上において前代未聞のことだった。これは、まさしく毛沢東が考え抜いた結果でもある。毛沢東は若い学生に目をつけ、彼らの無知と情熱を利用しようとした。毛沢東は、労働者・農民には生産現場を守らせた。
 政治家である毛沢東は、子どもたちの無知と情熱を利用し、自分の政治目的を達成しようとした。高級幹部の子弟は政治上では優位だけれど、文化と知識の上では優位を得ておらず、教師にも重視されていなかった。
 このような政治上の優位と文化上の劣等感によって、高級幹部と労働者農民の子弟の心理はアンバランスだった。プライドと劣等感と嫉妬は、非高級幹部出身、とくに知識分子出身や旧階級出身の子弟に対する、いわゆる「階級増悪」に転化し、ここに造反への衝動が生み出されることになった。
文化大革命が始まった当初、劉少奇を長とする幹部と彼等の子弟の協力の下、毛沢東の設定していた革命対象とは完全に反対の方向に誘導され、新たなる反右派運動となってしまった。造反派であろうと、保守派であろうと、彼らは毛沢東を自らの後盾としており、毛沢東は自分を支持していると思っていた。それは、毛沢東の二重性そのものの反映でもあった。
 毛沢東は、ロマン的、空想的な人間ではあったが、結局のところ党と国家の指導者であり、実際に国家の事務を担っていた。
文化大革命は、スローガンとしては激烈だったが、事実上は「革命なき革命」だった。
 革命委員会は、改良主義の産物であり、実行されたのはプロレタリア専政と計画経済とイデオロギー統制の三つだった。
 文化大革命の中後期になると、多くの人々は意識的か無意識的かはともかく、文化大革命から退出し、文革初期の全民族参加の局面は既に収束していた。文化大革命は、ますます権力闘争の中にはまり込んでいった。つまり、一般大衆は劇場から降りてしまったのである。
 1968年夏、毛沢東は局面をコントロールできない危険に直面した。できるだけすぐに武闘を止めさせ、全国的内乱を収束させるため、毛沢東は武力弾圧に踏み切った。
 1966年の夏に、毛沢東は「ブルジョア反動路線」の罪名で劉と鄧のブルジョア司令部を打倒しながら、毛沢東自身が劉・鄧の大衆を鎮圧する路線を承継した。
 1968年夏、毛沢東は青年学生、紅衛兵のリーダーを排除した。紅衛兵を放り出した後、毛沢東が拠って立つ勢力は労働者階級となった。
 1968年、毛沢東が青年学生を農村に追いやり、大衆造反を基本的に収束させてから、中国の上層は権力闘争に突入する。林彪グループと江青グループとの矛盾、そして林彪グループと毛沢東との矛盾があらわになっていった。毛沢東と林彪の対立の結果、1971年9月、林彪は逃亡して死亡した。
 1971年11月、毛沢東は、ついに「私は聖人ではない」と認めた。これは自分の失敗を認めたことを意味している。
毛沢東は鄧小平に対して不満を抱きつつも、終始期待をかけ、保護し続けた。
鄧小平は権力を掌握したあと、自らの意志にもとづいて文化大革命を否定する一方で、毛沢東の歴史的な地位と指導的な地位はしっかり守った。
 「我々は、フルシチョフがスターリンにしたようなことを毛主席にするつもりはない」
毛沢東は、戒めを拒絶し、おべっかを好み、多くを疑い、動乱を好み、言葉は表面だけで、裏に鋭い牙をたたえている。
文化大革命とは、中国の人々にとって、とんだ災難だったわけですが、その有力な起源が毛沢東個人の強烈な中国支配幻想によるものだということを悟らせてくれる本です。
(2012年12月刊。3900円+税)

『霧社事件』

カテゴリー:中国

著者  中川 浩一・和歌森 民男 、 出版  三省堂
32年前に読んだ本です。映画をみましたので、書棚の奥に潜んでいたのを掘り出しました。霧社事件の原因と展開について写真つきで詳しく紹介されています。
 この霧社事件は、清朝による「蕃族」封じこめを継承したのに加えて、分割統治を基幹とする「以毒制毒」政策を工作し、そのうえ搾取をあえてした日本植民地主義にたいして、民族の誇りを守り、生存権をかけて起ちあがったのが霧社事件の本質であった。
 映画をみた人は、ぜひ、この本も読んでほしいと思います。
 休日に天神で台湾映画『セデック・バレ』をみました。人間の気高さを実感させる感動長編映画です。1930年(昭和5年)10月に日本統治下の台湾で起きた事件が描かれています。山間部の学校で運動会が開かれているところを現地セデック族が襲撃し、日本人200人あまりが女性や子どもをふくめて全員が殺害されました。その場にいた現地の人や中国人は助かっています。あくまで日本人が狙われたのです。それほど日本人は憎まれていたわけでした。
その事件に至るまで、統治者の日本人が誇り高き狩猟民族であるセデック族を野蛮人として弾圧していたうらみが一度に噴き出したのです。
 もちろん、日本当局は反撃に出ます。奥深い山中で300人のセデック族の戦士に3000人の日本軍・警部隊は近代兵器をもちながらも翻弄され、深手を負っていきます。しかし、結局は、飛行機、大砲、毒ガスによる日本警察の包囲攻撃にセデック族の戦士たちは次々に戦死し、自決していくのでした。「セデック・バレ」とは、「真の人」を意味するセデック語です。死を覚悟しながら、信じる者のために戦った者たちの尊厳が示されています。
映画は圧倒的な迫力があり、2時間あまり息をひそめ、画面にひきこまれました。実は、上映時間があわず、2部構成の後半だけみたのです。
いま、KBCシネマで上映中です。日本が戦前、何をしていたのか知ることのできる貴重な映画でもあります。加害者は忘れても、被害者は忘れないことを証明する映画でもあります。台湾で多くの賞をとったのも当然の傑作です。ベネチア国際映画祭でもワールドプレミア賞をとっています。
(1980年12月刊。2500円+税)

チベットの秘密

カテゴリー:中国

著者  ツェリン・オーセル、王力雄 、 出版  集広舎
中国の中のチベット独立運動が中国政府によって力で抑えこまれていることを告発している本です。
 もし、我々がチベット語の重要性を強調すれば、「狭隘な民族主義者」というレッテルを貼られる。人目に触れない中国政府の公文書では、チベット語のレベルが高ければ高いほど、宗教意識が強くて、思想が反動的で敵対的だとされている。
 チベット語を学ぶために、チベット語で授業を行う教育システムを整備することは、近代化に求められる人材を育成するために必要なだけでなく、チベット民族の最低限の人権でもあり、また民族的な平等を実現するための根本的な条件でもある。
 1959年以来、ダライ・ラマは世界の人々がもっとも尊敬する亡命者になっている。尊者ダライ・ラマへの信仰心はますます堅くなり、命を惜しまず自分の信仰を守ろうとする者が増えている。
 亡命を余儀なくされているダライ・ラマは雪国の文化の魂であり、弱小民族が大漢民族の強権に抵抗するための最高のシンボルである。敬虔な仏教徒であるチベット民族にとって40年ものあいだ、自分たちの神に謁見できないことは、チベット人の中核的な価値を剥奪したに等しい。ダライ・ラマを非難し、誹謗中傷することは、チベット人の心を刃物でえぐり出すに等しい。
 2008年3月のチベット事件のあと、チベット全域で自殺が急増した。仏教の信仰心の篤いチベット人が自殺にまで追い込まれるということは、生きることの苦しさが輪廻の幾層倍の苦しさよりも大きくて、耐えきれないからだ。
 チベットの統制支配が強まる一方なので、だからこそ抗議の焼身自殺が続いている。それは代えることのできない信仰の自由を守るためなのだ。
 チベット担当の官僚集団はチベット事件の原因を「ダライラマ集団」に押しつけ責任を回避した。文化大革命で大損した官僚集団は、独裁指導者が官僚集団を破砕するような状況を再現させまいと決心した。
 今日、中国共産党内部には既に牽制しあうメカニズムが形成されており、官僚集団もかなり多くの権力を有し、酷吏を用いる方式で党内を粛清することの再現など許されず、文化大革命のような大衆運動の再現も許されず、さらには党内を分裂させる可能性のある路線闘争も許されない。
 今や、中共党内のトップの権力闘争は、歴史上どの時期よりも弱く、権力の交代もある程度はプログラム化されている。その要員としては、深層において、「官僚集団の民主性」が作用している。
 官僚集団は、政治権力装置を熟知し、運営にたけており、ひとたび権力者のトップを牽制するメカニズムを構築すると、それを最大限に活用する。官僚たちは形を現さずに政権トップの浮沈、人事異動、政策方向を決定する。このような能力を手に入れたら、党内粛清や文革の発生を防止するだけでなく、それを延長して、自分たちの利益に不利になることすべてを未然に防止し、できるだけ多くの利益を得ようと謀る。したがって、いわゆる「党内民主」を中国民主化の歩みと見なすのは、まったくの誤りなのである。
 チベット独立運動の状況を知り、そして、中国の支配的官僚層の分析について学ぶことができました。
(2012年11月刊。2800円+税)

毛沢東と中国(上)

カテゴリー:中国

著者  銭 理群 、 出版  青土社
戦後の中国、そして現代中国を語るときに欠かせないのが毛沢東です。私が大学生になったとき(1967年)には、とっくに文化大革命が始まっていましたが、その実情は日本にほとんど伝えられていませんでした。断片的に伝わってくる情報は、あくまでも文化面での大きな改革がすすんでいるというもので、かなり中国を美化したものでした。権力闘争、しかも厳しい奪権闘争であると思わせるものではありませんでした。ただし、そのうちに馬脚をあらわしてきました。中国がすべてで、日本人もそれに従うべきだという押しつけが始まったのです。それは、私も、いくらなんでもとんでもないことだと思いました。赤い小型の毛沢東語録(日本語版)は、私も入手しましたが、こんな語録を振りまわして世の中が変わるだなんて思いませんでした。それでも日本人のなかにも毛沢東を神のように盲従した人たちが少なくなかったのです。今となっては信じられないところでしょうが・・・。
 この本は、自らも若いときに毛沢東主義者だった学者が自己分析をふくめて中国の戦後史をふり返っています。中国史そして毛沢東についてはかなりの本を読んだと自負する私ですが、この本の掘り下げには、まさしく脱帽です。なるほど、なるほどと、何度も深くうなずきながら、必死に700頁近くの本を読みすすめていきました。
中国人が、現在のように好戦的、熱狂的、興奮症になったのは、まさしく毛沢東文化の改造の成果である。
 毛沢東は、自らを豪傑であり、聖人でもあるとした。毛沢東が望んだのは、人の精神をコントロールし、人心を征服し、人の思想に影響を与え、改造し、専政を人の脳まで浸透させ、脳内で現実化することであった。しかも、そのための系統的な制度と方法までつくりあげた。
 毛沢東は、文化大革命の初期に、すべてを疑えと提唱したが、その裏には、越えてはならない一線があった。つまり毛沢東本人への懐疑は絶対に許されなかったのだ。ところが、すべてを疑った人は、ついに毛沢東まで疑ってしまった。そのとき、毛沢東はためらいなく弾圧した。
農民出身であり、農民運動で名を成した毛沢東にとって、自分こそが農民の利益を代表していると考えるのは当然であった。個人的な感情としても、毛沢東が自分を完全に農民の子どもとみなしていた。
 毛沢東は、1953年ころ、高崗を自分の後継者として指名するつもりたっだ。そして、「高饒事件」は毛沢東が発動したものだった。「高饒反党集団」というのは、実際には冤罪事件であり、党内闘争の産物にすぎなかった。毛沢東は高崗に手のひらを返し、高崗を「資産階級の党内における代理人」として追い出した。そして、毛沢東は高崗をつかって劉少奇の譲歩を引き出し、党内の知識人、農民革命家の両者を骨抜きにして勢力図を再編させた。
 中国の政治は瞬時に全てが一変する。1957年の整風闘争のときにもそうだった。
 ハンガリー動乱を知り、毛沢東は中国にも同じことが起きるのではないかと心配した。北京大学に大字報が貼り出されたのを知り、毛沢東は不安にさいなまれ、夜も眠れないほどだった。毛沢東と共産党の幹部がもっとも恐れていたのは、学生が労働者や農民と連帯することだった。そして、毛沢東は、軍隊で学生を鎮圧することだけは絶対に避けようと考えていた。それをしてしまえば、全体の統治が危機に陥るからである。
毛沢東は、旧知識人を消滅させることを求めていた。毛沢東は次のように語った(1957年、反右派闘争のとき)。
 「ブルジョア教授の学問などは、とるに足らないもので、まったくムダで、さげすみ、過小評価し、蔑視すべきものである」
 1958年に、モスクワで全世界共産党会議が開かれ、毛沢東も出席した。毛沢東は会議の中心人物となった。スターリン亡きあとの共産主義運動のリーダーとなった。毛沢東は、1958年に人生のもっとも輝かしいときを迎えた。
 1958年に毛沢東は、奔放に宇宙やら時空やら生死やら有限無限やらを語り、矛盾論や認識論を大いに語った。国産的問題を処理するときですら、毛沢東はまずは哲学を語った。毛沢東は、終生、孫悟空に特別な感情を抱き続けた。
 1958年8月の会議で、毛沢東は公開の場で、法制によって多数の人を治めてはいけないと語った。民法や刑法によって秩序を維持しないという。毛沢東は、恥じることもなく、個人の意思を法律、とくに憲法の上においた。
 毛沢東が戦争上手であることについて、党内で異議を唱える人はいなかった。しかし、毛沢東が経済を指導できるかどうかは、別の問題だった。毛沢東は、戦争をやるように、工業そして農業をやろうとしていた。毛沢東は詩人の想像力で国を治めようとした。毛沢東の空想的社会主義は、実際には小農原始社会主義であり、それに中国農民の近代化の想像がまざっていた。
 毛沢東が人民公社を発動したとき、食事がただ、病院がタダ、住宅がタダの三代要求は確かに中国の貧窮農民の基本的な願望を反映していた。しかし、食事と住民について解決していた富裕農民、そして、これから個人の自由労働によって富裕になろうとしていた中農民の抵抗にあった。
 毛沢東の構想では、家庭も最終的には削減するものだった。
 1958年、またたくまに大躍進は大飢饉に転じた。1959年4月。食事はタダから、わずか半年足らずだった。大飢饉と大死亡は1960年に頂点に達し、1961年まで続き、1962年にようやく好転した。3年間で餓死者が3600万人も出た。毛沢東は、1958年、完全に自己の意思によって理想の国づくりを試みたが、それはまたたくまに失敗し、災難となり、天国から地獄となった。これは毛沢東にとって、初めての挫折だった。それ以後、毛沢東の人生は、自己の権力と理想をかたくなに守りながら、総体として下降していった。
工業化、国防建設、都市の安定を保証するため、つまり富国強兵のためには農民を犠牲にする。たとえ農民が餓死しても、いとわない。それが、中国の農民が大量に死亡したことの本質だった。
中国共産党指導下の中国政権には二つの面があった。一つは強いイデオロギー性であり、もう一つは、強烈な民族性だ。毛沢東を代表とする中国共産党はマルクズレーニン主義者であると同時に民族主義者だった。現実には、最終的に本当に根をおろし、本当に民衆の支持を得られたのは、民族主義だった。民族主義の凝集力は長く続き、しかも力強かった。
 1964年、アメリカのCIA報告は興味深い。CIAの分析によると、毛沢東の後継者になりうる人間は3人。周恩来、劉少奇、林彪である。劉少奇は毛沢東と同じ世代であり、個性に欠け、ユーモアがないという欠点がある。もっとも可能性が高いのは鄧小平である。うひゃひゃ、CIAもよく見ていますね・・・。毛沢東は劉少奇を基本的に信頼していた。劉少奇は軍隊への影響力が毛沢東に遠く及ばず、軍を掌握していなかった。これが劉少奇の致命的な弱点だった。
 1964年末ごろ、毛沢東は、劉少奇を主要な打撃目標にしようという決心を固めた。
 いよいよ文化大革命がはじまります。続きは下巻で・・・。
(2012年12月刊。3900円+税)

「中夏文明の誕生」

カテゴリー:中国

著者  NHK取材班 、 出版  講談社
中国の最古の王朝を追求した面白い本です。
 司馬遷が編さんした最古の正史『史記』には、中国王朝は「夏」に始まり、「殷(商)」「周」と続くと記されている。「中華」という言葉の根源にある「夏」王朝なのである。ところが、この「夏」については、考古学の裏づけがなかった。それが、近年ぞくぞくと発掘されている。「殷」についても実在が疑われていたところ、遺跡から文字が出てきて、存在が確実視されるようになった。
 「夏」王朝は紀元前2000年頃に成立し、紀元前、1000年頃に滅亡し、次の王朝「殷」が誕生した。
 「殷」王朝は「商」とも呼ばれる。次の「周」は「殷」と呼んでいたが、「商」と自称していたと考えられる。
 「殷」は強大な軍事力を有していた。青銅器の強さと鋭利は、石器しかもたない勢力を圧倒した。さらに、「殷」は「戦車」という最新兵器をもっていた。エジプトの戦車はスポークが4本なのに、「殷」の戦車は最大で26本もあった。そして、車輪を大きくしたことから、車体も大きく作ることができ、御者に加えて戦士2人が乗り、戦闘力を飛躍的に高めた。
 今から3000年前、「牧野の戦い」で、最強の「殷」軍70万は、「周」の軍4万5000人によって壊滅させられた。「周」軍には8つの異民族が従っていた。
 「周」は異民族に青銅器を贈り、文字で「契約」を保証して、連帯関係を結んだ。
中国史のなかで「中夏」「中華」という世界観はたとえ夷狄の王朝であっても、すべての王朝で引き継がれたことは驚きだ。そして、それぞれの王朝が、それぞれの事情に応じて融通無碍に意味あいを変えていった。
 「夏」の王朝の実在すること、その実情について知ることができました。それにしても中国の広大な土地は掘れば掘るほど、文明の起源を知ることができるのですね。
(2012年5月刊。1800円+税)

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