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カテゴリー: ヨーロッパ

愛と欲望のナチズム

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  田野 大輔 、 出版  講談社選書メチエ
ヒトラーがなぜ独身だったのか、自殺する寸前に愛人のエヴァ・ブラウンと結婚したのはなぜなのか。そして、ナチス・ドイツは禁欲的生活を国民に強いていたのか・・・。いろんな疑問を次々に解明していく本です。
 ヒトラーは、女性について慰みもの以上の価値を認めていなかった。そして、恋愛や結婚も印象操作の道具程度のものと考えていた。
 多くの女性が私(ヒトラー)に好意を寄せているのは、私が結婚していないからだ。闘争期には、これが重要だった。映画俳優と同じだ。彼に憧れる女たちは、彼が結婚したら何かを失ってしまい、もはや彼は偶像ではなくなる。
 ヒトラーは、総統が民族に貢献する私心なき指導者であるというイメージを守るため、若い愛人の存在を国民の目から隠し続けた。
 ヒトラーは、高潔さを装う偽善的な姿勢をとり続けた。ナチス・突撃隊の幹部が粛清された1934年6月30日の「長いナイフの夜」は、隊長のエルンスト・レームが同性愛者であることは周知の事実で、ヒトラーもそれをながく黙認していた。しかし、突撃隊と国防軍の対立が表面化したとき、ヒトラーは政治的理由からレームを切り捨て、道徳的純潔の擁護者になりすました。
「健全なる民族感情」の代弁者をもって自認したナチズムは、疑いなくヌードの氾濫を黙認し、奨励すらしていた。ナチズムは、社会生活にはびこるエロティズムをユダヤ人の責任に帰することで、ナチス自身がそれを促進していた事実を曖昧にしていた。
 ナチス・ドイツでは婚前・婚外交渉が一般化していた。ナチ党が権力を掌握してから、警察は、街娼の摘発・逮捕を通じて「街頭の浄化」を進める一方、売春宿の営業を監視・規制することこそ警察の義務だとした。市当局も売春の存続に関心を払っていた。国防軍も売春宿を必要と認め、売春婦の逮捕は控え目にするよう求めた。
戦争が始まると、政府はただちに政令を出して売春の管理を強化した。国防軍は政令にもとづき、帝国全土および占領地域で軍用売春宿を次々に設立した。
 「公的な不道徳」の撲滅を唱えて売春の一掃に乗り出すかに見えたナチズムが、結局のところ売春の封じ込めと組織化に舵を切った経緯は、道徳的に純潔な体制という外観を守りつつ、実際には性欲の充足を奨励して、これを国家目的に動員しようとする狙いを照らし出している。
 ナチス・ドイツの支配の本質をえぐり出した本だと思いました。
(2012年9月刊。1800円+税)

コムソモリスク第二収容所

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   富田 武 、 出版   東洋書店 
 戦後のシベリア抑留の実像に迫ったブックレットです。
 シベリア抑留については、いろんな研究書や体験記が公刊されていますし、映像としても見られるようになりました。このブックレットは、そこに欠けている視点があるのではないかと指摘していて、なるほどと思いました。
 収容所の食事がいかに粗末だったかがいつも語られている。しかし、1946年から47年にかけては、ソ連でも広範な飢饉を体験していた。一般の食事も配給制下で貧弱だった。むしろ、捕虜から大量の死者を出せば国際的威信にかかわるため、地方当局は必至に食糧確保策をとっていたのも事実だった。
 コムソモリスク収容所のあったアムール流域の工業都市の人口は1945年8月に20万人。冬期の寒さは厳しく、12月に入ると零下30度、1~2月の厳冬期には零下40度を下回ることもある。
 1945年8月、ソ連最高機関たる国家防衛委員会は、日本軍捕虜を50万人選別することを決定した。このとき、ソ連はすでに240万人ものドイツ人捕虜を領内に留置・移送して、生産や都市の復興の労働力として使役していた。
 日本の関東軍首脳は、ソ連に対して、対米英戦争和平の仲介を依頼すべく近藤文麿を派遣するための要綱に「賠償として、一部の労力を提供することに同意する」としていた。要するに、関東軍は日本兵の労務提供を申し出ていたというのです。
 労働力としての日本兵捕虜について、ソ連内の各地方州、共和国から追加要請があっていた。
 日本人捕虜の調査対象30万人の19.5%は体力が衰え、6%が病気になった。1945年から46年に冬に酷寒と飢え、重労働で多数の死者が出た。全抑留期間の死亡者6万人の80%にのぼった。
 1946年4月に、極東・シベリアの捕虜5万人を中央アジアに移送する命令が出た。
 同年5月、ソ連領内の病弱な捕虜2万人を北朝鮮内の健康な捕虜2万2千人と交換するという命令が出された。
捕虜収容所の維持費が捕虜による生産高を上回る赤字が続き、黒字になるのはようやく1949年であった。
日本人捕虜収容所では、最初から反ファシスト委員会が存在したのではない。1947年後半から、反動的な将校団の影響力が著しく低下した。将校は労働力が免除され、それでいて給食は質量とも兵士以上だった。
 1950年4月、日本人捕虜51万人の日本への送還が完了した。捕虜総数は64万人(日本人61万人)、うち死者6万2千人だった。最初の冬の半年間で4万6千人が死亡した。
 最後に、ロシア政府はシベリア抑留関連文書を日本政府に引き渡す義務があること、日本政府と外務省は、ロシア政府に対して堂々と要求すべきだと著者は強調しています。まったく同感です。わずか60頁あまりの薄いブックレットですが、シベリア抑留の実情を知るうえで、欠かせないものと思いました。
(2012年10月刊。800円+税)

そこに僕らは居合わせた

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   グードルン・パウセヴァング 、 出版   みすず書房 
 ナチス・ドイツ時代の社会の醜い実情をも語り伝えるべきだということで書かれた本です。人間の弱さと強みを見つめるということです。全体主義の狂気にフツーの人々がのみこまれていったのでした。今の日本で、ハシモト、イシハラに共通するところがある気がしてなりません。
ユダヤ人家族が強制連行されていく。そのことを知った近所の人々は、すぐにのりこむのです。ユダヤ人一家は連行されるとき、ちょうど昼食をとろうとしていたようです。のりこんだ家族は、そのまま、おいしく他人の昼食をいただくのでした。
 それは、私たちのために用意された食事ではなかった。なのに、みんな、いつものように母に従った。
 学校で、子どもたちはユダヤ人について、教師から次のように教えられていた。
 ユダヤ人は、実直なドイツ人を食い物にしたり騙したりする悪い奴らだ。ユダヤ人は友情を知らないので、つきあってはならない。ユダヤ人は嘘つきなので、信用してはならない。ユダヤ人はたちが悪いので、どんな目にあっても同情してはならない。ユダヤ人は鉤鼻(かぎばな)をしているので、見分けがつく。
 挿絵つきの少年少女向け物語集には、ユダヤ人によるあらゆる悪事が列挙されていた。少年少女に、ユダヤ人に対する敵対心を植えつけ、反ユダヤ主義者を育てるという明確な意図のもとに書かれた本である。
 村の人々は、ユダヤ人の営む商店で、ツケで買い物し始めた。はじめは、みんなためらっていた。しかし、そのうち、みんなツケを利用するようになった。
 村人は、商店が破産していく様子を、冷静かつ満足そうにみていた。そして、ついに本当に行き詰まり、店を売りに出した。示された買値は、本来の値段の10分の1だった。
 戦後、村人は、そんなことをしたということを話すことはなく平穏に生きた。誰かが、戦前の話をしようとすると、みんなでやめさせた。
 こんな暗い歴史でも語り継いでいく必要があると著者は語っています。私も同感です。それは決して自虐史観というのではありません。自らのルーツを全面的にみつめるうえで欠かせないということです。いい本でした。
(2012年7月刊。2500円+税)

心に入り込む技術

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   レオ・マルティン 、 出版   阪急コミュニケーションズ 
 元ドイツの情報局がドイツ・マフィアにスパイを潜入させる工夫を語っています。人間の弱点を巧みについた心理作戦が駆使されていて、大変勉強になりました。
コミュニケーションには、必ず意図がある。何かを言う、または何かをするのは、相手にそれを伝えるためだ。思考は必ず身体に表れる。
人と出会うとき、人は、とても繊細なアンテナを使って、相手の内面と外面が一致しているかどうかをチェックする。言葉や表情がうわべだけではないかどうかを感じとる。思考と行動が一致していれば、その人は調和を発散する。それは相手に好感を与え、信頼感につながる。この人なら信頼して大丈夫。そう、青信号に変わるのだ。
 犯罪学における成功の秘訣の第一は、相手に対する心からの興味である。
 圧力や脅しや強要によって、実りのある長期的な関係を築くことは出来ない。おカネは動機としては、あまり効果がなく、長期的な動機にはなりえない。おカネで情報を買えば、むしろ害になる可能性が大きい。
 安心感、愛情、称賛・・・、これが、誰もが望む基本的な欲求だ。
接触の段階は、初めて視線が出会ったときに始まる。細部の細部まで計画された接触の瞬間に、自然で無意識な印象を与えるのが肝心だ。そして、気持ち楽にして、ほほ笑む。そうすれば楽しい会話がもっと魅力的になる。屈託のない誠実な笑顔を見れば、相手は警戒を解くだろう。
 会話の初めに避けたほうがいいのは、陳腐な決まり文句、笑顔、政治である。無味乾燥で、退屈で、ぎこちないので、気楽で軽い接触に向かない。
 あれこれ質問すると、相手はいぶかしく感じる。
 なるべく人の名前は記憶する。そして、会話をうまく進めるポイントの一つは、共通の体験だ。身体をやや前に乗り出し、視線を相手に向け、適宜うなずく。相手の言った内容をときどき自分の言葉で要約したり、質問を入れたりして、理解していることを表明する。
 人間関係の根底にある前提は責任だ。自分は頼りになるパートナーだと最初から示すこと。一度だけ、これ見よがしに見せるのではなく、繰り返し示す。
 信頼関係を築くためには、やると言ったことは必ず実行する、要求されなくても、進んで約束し、それを必ず守る。
 組織犯罪の世界にいる人間には感情の動きを失ってしまった人間が多い。この世界で暮らそうとすると、そうなってしまう。結果として、顕著なエゴイズムと権力欲、冷淡と無情につながる。大切なのはビジネスだけ。何を犠牲にしようとかまわない。商売の邪魔になるなら。人命すら価値をもたない。
 価値体系は一夜にしてできたのではない。経験とともに生育し、徐々に適応してきた。社会的な境界をこえるたびに、境界の壁は低くなる。
マフィアから復帰した人たちは、心を揺さぶる体験がその価値体系を根底から変えたことによる。子どもの誕生、重い病気、親しい人の死など・・・。これらが方向転換を促し、その結果として思いがけず再び犯罪組織の外で生活することになる。
 相手が嘘を言っているのではないかと薄々感じても、相手の面目をつぶさないように気をつける。相手を面と向かって非難して、袋小路に追いつめられたように感じさせても、得るものは何もない。
 情報局と協働する情報提供者は、緊張度が極度に高い領域で活動している。
 犯罪組織の波にもまれた筋金入りの人間ですら、裏切りは身にこたえるのだ。その罪悪感を理性で追い払うことはできない。そして、罪悪感には大きな不安が伴う。
 そこで、相手に質問を投げかけて、その後しばらく、そっとしておくのが、もっとも効果的な方法だ。
 信頼関係は一方通行では成立しない。互いに相手をよく知り、相手が何を保障してくれるかを理解することが前提となる。
スパイ獲得大作戦の手法なのでしょうが、人間心理をよく衝いていると驚嘆したことでした。
(2012年9月刊。1600円+税)

アンネ、私たちは老人になるまで生きのびられた

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   テオ・コステル 、 出版    清流出版
 オランダに住むユダヤ人のアンネ・フランクとクラスメートだった人たちが65年たって集まったのでした。アンネと同じ中学校に通ったのです。
 このユダヤ人中学校の建物は今もあり、現在は理容美容専門学校として使われている。ユダヤ人中学校の生徒たちは、半数が戦争を生き残ることができた。しかし、オランダのユダヤ人全体でみると、その数はわずか2割だ。裕福であること、コネがあること、頼られる友人がいることが、ある程度までは生き残る助けになった。
アンネはアンネ・フランクという呼び方が好きだった。
アンネが自分の家で開いた誕生パーティーのときには、アメリカの映画の「名犬リンチンチン物語」が上映された。
 アンネには、いつも男の子の友だちがたくさんいた。アンネは胡椒みたいな、おしゃまな女の子だった。教室でのアンネは、教師から指名されなくても平気で勝手に発言するような、生意気な女の子だった。
  アンネはとても活発な子だった。いつも人の輪の中心にいたがっていた。注目を集めるのが大好きだった。正直なところ、アンネは、どこにでもいる普通の女の子だと思っていた。アンネは、正直で一風変わった女の子。アンネは大人っぽくて、しっかりしていた。
あの年代の女の子が、友だちから引き離され、植物や動物からも引き離され、実際すべてのものから引き離されて、大人ばかりに囲まれた環境に身を置くと、いろいろなことが一気に成長するもの。あの特殊な環境のせいでアンネは急速に成長せざるをえなかった。だから、作家としての才能も一気に花開いた。アンネの文章は美しく、とても十代の少女が書いたものとは思えない。
 イギリスに亡命したオランダの政権の教育大臣は、ラジオで日記のような証言記録を残すことを呼びかけた。アンネは、呼びかけに答えて日記を書きはじめた。
 強制収容所ベルゲン・ベルゼンで、アンネはチフスと想像を絶する飢えに苦しみながら4ヵ月のあいだ生き抜いた。そして、1945年3月、解放のわずか数週間前に亡くなった。15歳だった。
 「アンネフランクのクラスメート」というドキュメンタリー映画がつくられたようです。みてみたいものです。読んでいるうちに、なんとなく元気の出てくる、いい本でした。
(2012年8月刊。1600円+税)

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