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カテゴリー: ヨーロッパ

フランス組曲

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  イレーヌ・ネミロフスキー 、 出版  白水社
アウシュヴィッツで殺されたフランス人の女流作家の原稿が戦後60年たって出版され、アメリカで100万部ものベストセラーになった小説です。
 著者はカトリックに改宗したユダヤ人でした。父親はロシアで裕福な銀行家であり、その一人娘として何の不自由もなく暮らしていました。しかし、ユダヤ人の両親はロシア革命によってフランスに亡命します。そして、イレーヌは、同じくユダヤ人銀行員の息子ミシェルとパリで知りあい結婚し、2人の娘をもうけるのでした。
 イレーヌは、『ダウィッド・ゴンデル』を書いて有名になり、その本は映画化されています。日本でも、1931年に翻訳・紹介されたそうです。
 イレーヌは、母から十分な愛情を注いでもらえませんでした。イレーヌの作品にもそれがあらわれているとのことです。
 それは富裕階級の一見華やかな暮らしの裏側にひそむ空虚、その精神的負担の摘出であり、親子とりわけ母と娘のあいだの憎しみと葛藤の描写である。そこには、少女時代の不幸の清算という側面も感じられるとはいえ、作品は個人的な感情に溺れるものではなく、人間の心理と行動に対する透徹した視線によって際立っている。卓越した人物造形に加え、同時代のヨーロッパ社会の抱える矛盾や歪みを大胆にとらえる強靱な批評的精神も認められる。印象的な場面の積み重ねによってスピーディーに物語を展開していく手腕も発揮されている。
 イレーヌたちは、パリを逃れて、ブルゴーニュ地方の小さな村にひっそり暮らしていた。そこへ、フランス人憲兵がやってきた。1942年7月13日のこと。当時12歳と5歳の娘たちへ、「何日か旅行に出かけるけれど、いい子にしていてね」と声をかけてイレーヌは家をあとにした。
 さらに、同年10月9日、夫のミッシェルも憲兵たちに連れ去られた。その別れ際、父は長女に小型のトランクを託した。
 「決して手放してはいけないよ。この中にはお母さんのノートが入っているのだから」
二人ともアウシュビッツ収容所で絶命したことを娘たちが知ったのは、終戦後しばらくしてからのこと。
子どもにとってはかなり重いトランクを懸命に運び続けた。そして、読む勇気もなく長年月がたっていった。娘は、母のプライベートな日記のようなものだと考えていた。
 ところが、これは、イレーヌが不吉な予感にとらわれながらも、それを振り払うようにして書き続けた最後の長編小説だった。ついに2004年、1冊の本として出版された。
 舞台は1940年初夏のパリ。ドイツ軍がパリへやって来る。太微とはパリを出そうとしている。そして、ドイツ軍はパリから地方都市へとやってきた。
 ドイツ軍占領下の田舎町の人々の生活がつづられています。
 正月休みに一人、事務所にこもって読みました。重たい本でした。近く映画になるということです。才能ある人を無惨に殺し、子どもたちから親を奪った戦争を私も憎みます。
 強制収容所で非業の死を遂げた24歳のユダヤ人女子学生、エレーヌ・ベールの日記を前に紹介したと思います(岩波書店)。こちらも、60年たって2008年に一冊の本になったのでした。
 さらに、同じようにベトナム戦争でアメリカ軍によって戦死したベトナム人の女医「トゥイーの日記」(経済界)があります。これは泣けて泣けて仕方のない本でした。いずれも忘れることのできない本です。
(2012年12月刊。3600円+税)

私はホロコーストを見た(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ヤン・カルスキ 、 出版  白水社
ナチス・ドイツの魔の手から救出・解放されたあと、ヤン・カルスキは農村地帯に匿われます。そこで、健康を回復するのです。ポーランド・国民の全体として抵抗する風土がカルスキを助けました。しかし、著者を匿った一家も無事ではありませんでした。あとでナチス・ドイツに銃殺されているのです。
ポーランド亡命政府はイギリスのロンドンにあったが、ポーランド国内に地下秘密政府(レジスタンス)がしっかり根づいていた。
 これがよその国と決定的に異なるところです。フランスにもレジスタンスはありましたが、地下(秘密)国家というべきものはありませんでした。
 たとえば、地下政府は、金曜日に、ナチの新聞をポーランド国民は買ってはならないと指示した。すると、たちまち、金曜日発売のドイツ語新聞の発行部数は大幅に減った。それほどレジスタンスは、ポーランド国民から信頼されていた。
 さらに、レジスタンスの財政危機を打開するため、亡命政府は国債を発行することにした。そして、国債発行は大成功をおさめ、レジスタンスの活動を続けることができた。
レジスタンスは新聞も発行した。それは、4頁から16頁のものである。そして、発行人はワルシャワのゲシュタポ本部に1部を郵送してやった。ポーランド国民の気持ちを伝えるためである。レジスタンス機関は、地下新聞を介して住民との接触を絶やさずにいた。地下新聞のおかげで何が起きているのか、住民はいつでも知ることができた。住民の希望の日を燃やし続けているのも、地下新聞だった。
 地下活動における鉄則は「目立つな」である。秘密文書を個人宅に秘匿するための技術は、ポーランド国内で信じられないほど発展を見せた。二重壁、二重天井、二重の床板、抽出の二重底、浴室の偽配管、偽オーブン、細工家具など・・・。
地下活動には女性が適している。危険をすばやく察知するし、不幸に見舞われても男のようにいつまでもくよくよしない。人目につかない点でも男にまさっている。およそ女性の方がより慎重で、無口、良識を備えている。
 男は、大げさだったり強がったりと、往々にして現実を直視しない傾向がある。そして、何か謎めいた雰囲気を漂わせてしまう。それが遅かれ早かれ、致命傷となる。
 地下活動に携わるものが忘れてはならない重要な原則は、可能なかぎり自分の住まいを任務から無関係にしておくこと。政治活動をする者は、準備をしない、誰とも待ち合わせをしない、自分の寝る場所に秘密文書などは置かない。それを行動規範にする。それをしていれば、最低限の安全を確保したという気分になれ、絶え間ない不安から逃れられるし、恐怖心を抱かずに眠れる。
 女性連絡員の活動(寿命)は数ヶ月をこえることがない。女性連絡員こそ、占領下ポーランドにおける女性の運命を象徴している。より多く苦しんだのは彼女たちであり、その多くは命を失った。1944年に600人いたワルシャワの連絡員の50%は、ガールスカウト出身だった。
地下政府は地下学校を開いた。ワルシャワにあった中学と高校の103校のうち、90校が地下学級を持ち、2万5000人の高校生が授業を受けた。1944年までにワルシャワのみで6500のマトゥラ(大学入学資格)が秘密裡に授業された。高校教育(大学)は、ワルシャワだけで5000名の学生がいた。
 これらのおかげで、戦後のポーランド公教育の復活・維持が可能となった。
 ヤン・カルスキはユダヤ人ゲットーの中に潜入した。それは可能だった。地下室の出入り口がゲットー内に続く構造になっていた。絶望収容所までヤン・カルスキは見ています。
 この本を読んで残念なのは、ヤン・カルスキが自分の目で見た事実をアメリカのルーズヴェルト大統領などに直説話して伝えたのに、アメリカそしてイギリスを動かすことにならなかった事実です。アメリカもイギリスも、ソ連のスターリンへの遠慮そして国内政治状況の下で、ヤン・カルスキの訴えが結果的に無視され、何百万人ものユダヤ人殺戮が止まらなかったのでした。
 しかし、それにしてもヤン・カルスキの知恵と勇気そしてポーランド国民の不屈さには脱帽です。
(2012年9月刊。2800円+税)

ワルシャワ蜂起1944 (下)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ノーマン・ディヴィス 、 出版  白水社
1944年8月に始まったワルシャワ蜂起は2ヶ月間続いたわけですが、その間ワルシャワ市内で文化行事が続いていたというのです。信じられません。
 パラデュム映画館では、朗読会、演奏会、演劇が連日開催された。平穏な夕方には、アマチュア劇団が野外劇場で劇を上演した。蜂起の期間中、ラジオ、映画、演劇、写真、マンガ、美術、文学などがワルシャワ市民の文化的生活を支える働きをした。
 詩が奔流のように生まれた。自然発生的に数十人もの新進詩人が現れた。
 西部戦線の英米軍は北西ヨーロッパとイタリア戦線で100万のナチス・ドイツ軍を相手に苦戦していた。東部戦線のソ連軍は200万のナチス・ドイツ国防軍と対峙して圧倒していたが、ベルリンの首相官邸の窓から東をのぞめば、ワルシャワまでわずかな距離でしかない。ワルシャワを手放すわけにはいかない。ソ連軍の到来前に、蜂起軍を粉砕しなければいけなかった。
 イギリスのメディアは、ワルシャワ蜂起について報道しなくなっていった。フランス国内のレジスタンス運動は華々しく報道されているのに、ワルシャワ蜂起の動きについては何も報道されなかった。
 アメリカのルーズヴェルト大統領は、ワルシャワ支援はソ連(スターリン)の協力を前提とするという態度をとった。ソ連はポーランド国内の抵抗運動が絶滅することを、むしろ望んでいた。
 イギリス空軍がワルシャワ蜂起支援のために空中から投下したコンテナ1284個のうち、8割はドイツ軍の支配地区に落下した。
 ソ連軍は蜂起軍を味方と考えていなかった。そして味方のはずの人民軍というのには実体がなかった。ワルシャワにおける共産党系勢力は質量ともに、とるに足りない存在でしかなかった。スターリンが戦前にポーランド共産党の幹部を絶滅していたからです。
 ついに蜂起軍はドイツ国防軍と降伏協定を結ぶことになりました。
 投降する国内軍(蜂起軍)兵士は10月3日、4日、5日の3日間、朝から夕方まで続いた。全部で1万1668人の兵士が降伏した。女性兵士2000人がふくまれていた。兵士は、対戦車ロケット砲、ステンガン、ライフル銃、拳銃をもって行進した。昂然と頭を上げ、誇り高く4列また6列で行進していった。見ていたドイツ軍士官は「あの誇らしげなポーランド人たちを見ろ」と大声で部下に向かって叫んだ。そして、数十万人の市民が歩いてワルシャワ市内を脱出した。
 その中に国内軍の予備司令部の要員もまぎれていたのです。これまたすごいことですね。ポーランド南西部の町に行き、抵抗軍の司令部を再建するという任務をもっていたのです。壊滅したかにみえたポーランドの偉大な抵抗運動は、まだ生き残っていた。
 ワルシャワ蜂起が敗北したあとも、ポーランド国内には20万人を上回る一の国内軍兵士が依然として戦闘態勢を維持し、ドイツ軍を悩ましていた。そして、1945年1月に国内軍は解散した。
 10万人をはるかにこえるワルシャワ市民がドイツ本国に送られ、降伏協定に反して奴隷労働を強制された。
 ヤルタ会談にのぞんだアメリカのルーズヴェルト大統領は死期を間近にしてうつ状態にあった。イギリスのチャーチルはもっとも弱い立場だった。チャーチルとルーズヴェルトは、スターリンによる東ヨーロッパ支配を黙認した。
 ドイツ軍青年士官が親にあって書いた手紙に、ワルシャワ蜂起軍について次のように書いた。
 「蜂起軍は実に英雄的に戦い、降伏に際しても名誉を失わなかった。蜂起軍の戦いぶりはドイツ軍よりも優れていた。学ぶべきところは、
 第一に、こんなかたちで外国を征服しても、何ら意義のある結果は得られないこと。
 第二に、不屈の精神、忠誠心、愛国心、自己犠牲の精神などはドイツの専売特許ではないこと。
 第三に、都市の抵抗は何ヶ月も持ちこたえることができる。攻撃側も重大な損傷を免れない。
 第四に、人間は戦闘精神や純粋な勇気があれば、多くを成しとげることができる。しかし、最後には、どんな精神力も物質的優位の前に屈することになる」
 「ぼく自身、もしポーランド人だったら、ドイツの支配下で生きたいとは思わないだろう」
 「降伏の行進のとき、ポーランド蜂起軍の兵士は民族の誇りを失わず、昂然と頭を上げて行進し、絶望の表情を少しも見せなかった。見上げた人々である」
 私は、この手紙を読んで、これだけでも、この書評で紹介する価値があると思いました。ポーランドの底知れぬ力強さ、不屈さには、ただただ圧倒されてしまいます。
 ワルシャワ蜂起の敗北のあとも、ワルシャワに潜伏した人が3000人以上もいたというのですから、これまた驚きです。やがてドイツ軍が去るのを待っていた。彼らの大半は、ユダヤ人であり、国内軍の医療班で働いていたユダヤ人が多かった。そして、映画『戦場のピアニスト』で有名になったシュピルマン(当時33歳)もその一人だった。
 ソ連軍がポーランドを占領すると、ワルシャワ蜂起は否定されます。そして、戦後のポーランド政府も同じでした。ソ連崩壊を待つまで、50年間、否定され、隠されてきたのです。
 下巻も500頁ほどの大作ですが、一心不乱に読み通しました。
 記念すべき歴史書として、一読をおすすめします。
(2012年11月刊。4800円+税)

ワルシャワ蜂起(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ノーマン・デイヴィス 、 出版  白水社
この本を読んで、すっかりポーランドびいきになってしまいました。国民が全体として自由をかちとるためには死をも恐れず、団結していたなんて、心が震えるほどの感動を覚えました。
 ワルシャワ蜂起というと、ナチスに対する無謀なたたかいだったというイメージがあります。また、ワルシャワ市民が決起して何か月も死闘を目の前で繰り広げているのをソ連赤軍は腕を組んで見殺しにしたという暗いイメージがあります。
 蜂起が成功しなかったのはたしかですが、それでもポーランド市民の不屈の勇気は大いなる称賛に値するものと思います。蜂起なんて無謀だった、愚かな過ちだったなどと非難するのは許されないことだと、上巻だけでも550頁もある本書を何日もかけて読んで痛感しました。
 ワルシャワ蜂起が起きたのは1944年8月。6月にノルマンディー上陸作戦があった、連合軍がフランスを経て、ドイツに迫ろうというときです。パリではレジスタンス勢力が蜂起し、ワルシャワとは違って、パリ市内に残ったナチス・ドイツ軍を降伏させることができました。ワルシャワで蜂起した国内軍はパリ蜂起を祝っています。ところが、ナチス・ドイツ軍はワルシャワから撤退するどころか、各地から応援部隊を投入し増強したのです。そして、ソ連赤軍はスターリンの指示によって対岸から動かず、ひたすら情勢の推移を見守るのでした。
 イギリスは、大陸戦を自力で戦う能力をもっていなかった。1939年当時、英国陸軍の地上軍はチェコスロヴァキアよりも小規模だった。そのうえ、イギリスの財政事情は破綻寸前だった。イギリスの厳しい財政状態は、欧州戦争を戦うか、それとも大英帝国を救うかの二者択一を迫っていた。当時、たよりになる唯一の支援国であるアメリカから莫大な財政援助が得られない限り、勝利する可能性はほとんどゼロだった。
 ソ連は政治的粛清と大量処刑の渦中にあり、国家機能をマヒさせるような重大危機が進行していた。そして、赤軍はモンゴルで日本軍と戦争状態にあった。
 ポーランドは、ナチス・ドイツとソ連軍が分割支配した。ソ連のNKVDは、占領の前に占領したあと即刻逮捕すべき者の住所・氏名の膨大なリストを用意していた。そして、ポーランド軍将校と警察部隊の士官2万5千人がNKVDの捕虜となり、数か月間の取り調べの後、冷酷に射殺された(カチンの森事件)。
 1930年代にソ連国内で結成されたポーランド共産党はスターリンによる粛清の対象となり、ほとんど党の全活動家に相当する5000人の男女が、大部分はユダヤ人だったが、スターリンの命令で銃殺された。そのため、開戦当時のポーランドには、組織的な共産主義運動は存在しなかった。
 1940年7月から10月にかけて続いた英国本土上空の空中戦、バトル・オブ・ブリテンは、英国空軍がゲーリングのドイツ軍に粘り勝ちした。このときイギリスから出撃した英国空軍の操縦士の10%はポーランド人パイロットだった。そして、撃墜した敵機の12%はポーランド人パイロットの功績だった。
 ポーランド空軍飛行中隊の比類ない勇気と目覚ましい戦果がなければ、果たしてイギリスがバトル・オブ・ブリテンに勝利できたかどうか疑わしい。
 これは、イギリス空軍大将の言葉である。そして、連合国空軍によるドイツ爆撃作戦についてもポーランド空軍兵士の貢献には目覚ましいものがあった。
 イタリアを進んでいた連合軍はモンテ・カッシーノ要塞を攻めあぐねた。この攻防戦においてもポーランド軍2個師団の勇敢な兵士たちの活躍は目覚ましかった。
 ワルシャワは、世界でもっともユダヤ人の数が多い都市だった。やがてニューヨークが世界一になるが、そのニューヨークのユダヤ人の多くは、ワルシャワからの移民だった。
1918年、ユダヤ人はワルシャワの全人口の40%をこえ、まもなく過半数を占めると思われていた。ユダヤ人は、少なくとも500年前からワルシャワ住民だった。貴族階級がユダヤ人を保護していた。ワルシャワに住むユダヤ人の大多数は、ポーランド人とまったく同じ権利を持ち、ポーランド人と同じような考え方をしていた。
 あの有名なコルチャック博士も、ポーランドに同化したユダヤ人だった。
 ユダヤ人は、ポーランド全人口の10%でしかなかったが、大学生の比率は、はるかにそれを上回っていた。ワルシャワ大学の法学部と医学部の学生の過半数はユダヤ人だった。
 アドルフ・ヒトラーは、心の底からポーランドを憎悪していた。ポーランドは、スラヴ人とユダヤ人が住む国だったが、ナチスの教義では、その両方ともが人間以下の存在だった。
 ヒトラーは部下たちに対して、ポーランドでは可能な限り残忍に行動するよう命令した。
 ドイツのポーランド占領作戦は、他の西欧諸国に対する占領政策とは大きく異なっていた。総督府の使命は、「あらゆる手段をつかってポーランド人を最終処理する」ことにあった。
 ワルシャワ・ゲットーの人口は、最大時には38人に達した。1939年11月から1943年5月まで存在した。ゲットーの唯一の自衛手段はユーモアだった。誰も彼もが、必至の思いで現実から逃避しようとしていた。
 1943年4月、ゲットー蜂起が始まった。しかし、ゲットーの住民の中にも同胞の苦悩にまったく無関心な富裕層がいた。ゲットーの中でも、少数の金持ちは豊かな生活を送っていた。1943年のゲットー最後の日までダンスとコンサートを欠かさず、外で銃砲が飛びかっているなかでフルコースの料理を楽しむ一家も存在した。
 ええっ、ウソでしょ、そんな・・・と思ってしまいました。
 密使ヤン・カルスキがゲットーの中に立ち入り、イギリスにわたって、報告したことは別の本で紹介しました。
 ゲットー内のユダヤ人警察は、ナチス親衛隊の手先となってユダヤ人を殺害した。そうすることで自分自身が生きのびる期間が見つかると愚かにも信じていたからだ。
 これを愚かと言うには、あまりに残酷すぎますよね・・・。
 コルチャック博士は、自分の孤児院の子どもたちと一緒にゲットーに囲い込まれ、最後は子どもたちの手を引き、歌をうたいつつ、楽しい「ピクニック」へ出かける夢を語りながら絶滅的収容所への道を歩いていった。
 その気高さには、何度も涙が出て止まりませんでした。
 ゲットー蜂起とその失敗を多くのワルシャワ市民は聞いたことがないか、聞きたいとも思わなかった。噂が耳に入っても、どう理解すればよいか分からなかった。
 ポーランド人を奴隷民族にするという目標にあわせて、ナチスは強制労働システムを導入した。
 戦争中に200万人のポーランド人労働者がドイツ本国に強制移送された。
 ウッチ少年収容所に収容されていた1万3000人の子どものうち、1万2000人が収容所内で死んだ。
自由を求めて闘う気風はポーランドの長い伝統である。祖国を分割した列強勢力(ロシア、オーストラリア、プロイセン)に対して19世紀に繰り返し発生した武装蜂起は、ポーランドの歴史を語るうえで欠かせない重要事件である。
 決定的に重要な役割を果たしたのは女性だった。ポーランドの女性は、妻として、女として、また祖母として、民族の伝統を受け継ぎ、社会の基本構造を守り、活動家を支え、男たちにその果たすべき役割を教えた。女性がみずから武器をとって戦いの先頭に立つことさえあった。
 ポーランド地下抵抗組織は、誕生の最初の段階から確固たる命令系統と正統な法的枠組みの中で活動する組織だった。抵抗運動の最終目標が占領軍に対する一斉武装蜂起であることは、関係者全員にとって暗黙の了解事項だった。
 ポランド市民がドイツ侵略軍に協力するというのは、例外的な場所を除けば皆無だった。ポーランドのレジスタンスが選んだのは、危険と孤立と犠牲の道だった。
 勝利とは、敗北に耐えること。そして降伏しないことだ。抵抗運動を自発的、本能的に支えるという雰囲気が社会全体にあった。
 1944年7月は、ポーランドの地下国家閣僚会議が成立した。秘密国家は機能していた。地下国家の司法制度は地下の秘密裁判所と国内軍の軍事法廷によって支えられていた。対独協力者は処刑され、判決は公表された。ワルシャワの地下裁判所は220人に対して死刑判決を下した。
 1944年8月に始まった蜂起について、一般市民がこぞって熱狂的に蜂起を支持したというのは単なる伝説だ。正確に言えば、ワルシャワ市民の大多数は蜂起軍に共感していたが、蜂起とは無関係の立場を維持し、ひたすら自分が生き残ることのみを考える市民も多かった。 
 蜂起に対して、ソ連のスターリンは見殺しにし、アメリカも放置し、イギリスのチャーチルのみ空爆その他で援助したようです。
 蜂起したあとの経緯をたどるのは、心苦しいばかりではありますが・・・。下巻に続きます。
(2012年11月刊。4800円+税)

知られざる大英博物館

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  NHKプロジェクト 、 出版  NHK出版
実はイギリスにはまだ行ったことがありません。ヒースロー空港に乗り換えで降りたことはありますが、外には出ませんでした。大英博物館でロゼッタストーンの原物、そして、カール・マルクスが通っていた机と椅子を見てみたと思っているのですが・・・。
ニューヨークにあるメトロポリタン美術館には行ったことがあります。そのエジプトの館に足を踏み入れたときの、膨大な物量に圧倒されると同時に、これってみなエジプトからの略奪品じゃないのかしらんと疑ってしまいました。ヨーロッパの帝国主義列強のアフリカ分割支配の「成果」ではないでしょうか。
 大英博物館にしても、ナポレオンのエジプト遠征の失敗から、イギリスがその成果を横取りしたというものです。それにしても古代エジプトの栄華はすごいものです。しかも、それが何千年も脈々と続いていたというのですからね。
 そして、なんと言っても古代エジプトについて文字があって、それが解読されているため、当時の生活そして社会構造まで分かると言うのがすごいことですし、読んで楽しいのです。
 大英博物館の展示室で公開されているのは膨大な収蔵品のわずか1%のみ。残る99%は人知れず収蔵庫に眠っている。古代エジプトコレクションは15万点、展示室にはそのうち3500点のみ。
 古代エジプトにもパンがあり、給与としてパンが支給されていた。通貨はまだなかった。
 古代エジプトの人々は、死後、再生復活できると固く信じていた。来世には「イアル野」という楽園が待っていて、そこで幸せに暮らせると信じて疑わなかった。そのために必要と考えられていたのがミイラだった。
 ミイラを腐らせるものは、とにかく除去された。内臓は取り出され、死後も来世で必要と考えられていた4つの臓器、つまり肝臓・肺・胃・腸は専門の壺カノポスに入れられ、ミイラとともに埋葬された。体に残された唯一の臓器は心臓だった。心臓は、その人物の人格そのものであり、死後、冥界の神オシリスの前で受ける「最後の審判」を通過するときに必ず必要だった。
 逆に、脳は「鼻水」だと勘違いしていて、鼻の骨を砕いて、そこから特殊な棒ですべてをかき出していた。
そうなんですか・・・。頭の脳を大切なものと思わなかったというのは、不思議です。
古代エジプトでもワインが飲まれていた。ただし、ファラオ(王)や貴族など、裕福な人々の飲み物だった。庶民は主にビールを飲んでいた。
今から3200年前、古代エジプトに生きた「ケンヘルケプシェフ」という名前の書記は、手紙、教科書、会計簿などのパピルスを集めていた。
 子どものころは、とにかく勉強させ代、そうしないとダメな大人になってしまうぞ、お前が学問に通じていれば、人々は皆お前の言葉を信用するだろう。
 これは、「アニの教訓」と呼ばれているものです。
 古代エジプト社会では、文字が書けることは、想像する以上に重要なことだった。人々は書記になることを望み、そのための教育を受けることを切望した。
 パピルスのなかにはラブレターもある。男女が交互に語りあうかたちで、17篇の愛の詩が書かれている。
 古代エジプトでは、結婚は夫婦間の契約を結ぶ意味もあった。結婚すると、夫婦の財産の3分の1の権利を得ることができた。また、夫が死んだときには、遺産の3分の1が妻のものとなり、残りの3分の2は継承者のものとなった。その継承者のなかにも妻がふくまれていて、子どもたちと財産を分けることになっていた。
 さらに、離婚する権利は男女双方が持っていた。古代エジプトは、女性の権利も認められた、男女平等の社会だった。
王墓はファラオの罪名中に造り終えることが求められた。もし、建設途中でファラオが亡くなってしまえば、その時点で作業は中止された。
 パピルスにはピラミッドのつくり方を解説し、その計算問題などまであるというのには、驚きました。しかも、かなり高度な数式が使われているのです。
パピルスには、ファラオから支払われる給料の遅延に抗議してストライキが発生したことまで記録があるとのこと、これには腰を抜かしそうになりました。
知られざる古代エジプトのいくつかを知ることのできる本でした。
(2012年6月刊。1800円+税)

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