法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: ヨーロッパ

スペイン巡礼

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 渡辺 孝 、 出版  皓星社
団塊世代(1950年生)の男性が1ヶ月あまりのスペイン巡礼一人旅に出た記録集です。
表紙のカラー写真がいいですね、果てしなく広がる大草原の一本道を世界各国から来た巡礼たちが1人で、カップルで、集団でテクテクと自分の足だけを頼りに歩いていきます。
といっても途中で、膝や足が痛くなると、バスやタクシーも利用し、一休みしながら歩いていくのです。
朝5時20分に起床し、朝食をとって6時40分に出発。外はまだ暗い。歩いている途中で夜が明ける。夜明はいつも感動的だ。
最近、スペイン巡礼に行く人が急増している。2006年に10万人となったあと、2017年には30万人をこえた。10年で3倍。日本からの巡礼者は2005年に282人だったのが、2017年に1500人近くへ5倍も増えた。といっても、まだまだですよね。著者は日本人の若者、女性も男性も、に出会っていますが、同じくらい韓国人も多いようです。
前にこのコーナーで大阪の弁護士の巡礼体験記を紹介したと思います。斉藤護弁護士(1939年生まれ)が2007年4月から6月にかけて、「サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」を歩いたのでした。『アシナガがゆく』という写真集にまとめられています。古稀の年が近くなると、一人旅、しかも人里から隔絶した荒野ではなく、同じように歩いて巡礼の旅をしている仲間がいるところを歩きながら、自分の人生をふり返り、将来を見すえるというのは、とても大切なことだと思いました。
泊まるところも、巡礼者用の安宿(アルベルゲ)だけでなく、ときにそれなりのホテルにも泊まっています。ただ、私には出来ないと思ったのが、スマホを使ったホテルなどの予約です。昔はありえなかったものですが、今はどうやら必須の道具のようです。そうなると、スマホをもたない私には無理だということになります。
そして、語学です。日銀に長くつとめ、フランス駐在の経験もある著者は、英語はもちろんのこと、フランス語も話せます。そして、スペイン語も必死に勉強したとのこと。やはり旅先ではその大地の人と会話ができるかどうか決定的ですよね。ですから私はスペインには行きたくありません。行くなら、やっぱりフランスです。フランスなら、カタコト以上の会話ができるので、なんとかなるのです。
それにしても、巻末に照会されている、たくさんの紀行文には驚きました。その半数は女性です。日本人女性は昔も今も行動的ですね・・・。
読んで楽しい巡礼記です。苦しいこともあり、辛いこともないではないけれど、たくさんの出会いもあり、やっぱり行って良かった、そして読んで良かったと思える本でした。
(2019年5月刊。2000円+税)

パスタぎらい

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ヤマザキ マリ 、 出版  新潮新書
私はパスタが大好きです。日曜日の昼食には、よく食べています。福岡空港でも、よく日替わりパスタを食べます。赤ワイン1杯とともにいただきます。
ところが、長くイタリアに住んでいた著者は、若いころ過剰に摂取したため、パスタに食欲をそそらなくなったといいます。悲しいことです。パスタの代わりにソバやソーメンを食べるとのこと。
著者がたまに食べるパスタはカルボナーラ(私の好物のひとつです)ではなく、また和製ナポリタン(私はこれも好きです)、納豆パスタ(私の大好物です)なのです。
イタリアのパンは、あまり美味しくない。日本のパンは、すこぶる美味しい。私もパンは好きなのですが、いかんせん腹持ちしないので、むしろコンビニのおにぎりを買ってしまいます。
この本では、著者も、そして日本に来たことのある海外の人に圧倒的に好まれているのは、なんとラーメンだというのです。これには驚きました。私はトンコツラーメンが好物なのですが、実は最近あまり食べていません。体重制限と健康管理を意識している身として、ラーメンはあまりにも身の毒というイメージが強すぎるからです。
それに反して、日本のおにぎりは、海外では、あまり受けがよくないようです。私は、ときに近くの小山にのぼりますが、そのときに見晴らしのよい頂上で食べるおにぎり弁当は最高です。おにぎりを包むノリの「独特の臭いを放つ海苔」がハードルを高くしているとのことです。これは食習慣の違いでしょうね。
日本人の舌が肥えているという例証として、著者があげたのはなんとポテトチップスです。私は久しく食べたことがありませんし、食べるつもりもありません。味覚と食感が徹底的に追及されて、世界最高だといいます。まあ、これは好みの問題でしょうね・・・。
海外では卵かけご飯を食べたら、すぐに病院送り、医師は、「生卵を食べたって・・・、死にたかったのかい?」と言う。生卵にはサルモネラ菌が多く生息している。生卵のもたらす食中毒の苦しみは半端なものではない・・・。
博多駅にある「卵かけご飯」の店は、入ったことがありませんが、いつ前を通っても満席です。
著者のマンガは読んでいないのですが、先にこのコーナーでも紹介しました『ヴィオラ母さん』は絶賛します。
軽く読める世界の美味しい食文化紹介の本です。
(2019年5月刊。740円+税)

ボランティアとファシズム

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 池田 浩士 、 出版  人文書院
ええっ、ボランティアとファシズムと何の関係があるんだよ・・・。本のタイトルを見て、センスを疑いました。ところが、この本を読んで、すっかり納得がいきました。400頁近い大作の前半は、戦前の東京帝大セツルメントについて詳細に紹介しています。私も戦後の学生セツルメントに関わっていましたし、川崎市古市場に住んで(レジデントと呼んでいました。要するに、下宿したのです)、セツラーとして若者サークルに関わって活動していました。つい先日、大学を卒業してもう50年も会っていない「カッチャン」から突然電話があり、びっくりしました。先輩セツラーに尋ねて私の連絡先を知ったのだそうです。若者サークルに参加していた青森出身のリンゴさんとは昨年も会って懇親を深めてきました。
日本でセツルメント活動が始まったのは1923年に発生した関東大震災のとき、東京帝大生たちが被災者救援のボランティア活動を始めたことがきっかけでした。法学部の末弘厳太郎教授や穂積重遠教授が学生たちの活動を励まし、支援しています。どちらも今でも高名な民法の大家です。
東大には既に「新人会」というマルクス主義の影響を受けた思想団体がありました。学生たちは、活動の主人公は自分たちではないという基本理念を共有していたので、被災者たちに自治組織をつくるよう働きかけた。当事者自身の自治と主体性を尊重したのだ。この根本理念は帝大セツルにも受け継がれた。
1923年12月14日、東京帝大に学生50人が集まって、第1回総会が開かれた。法律相談部や児童部、医療部など6部に分かれて活動を始めたのです。
帝大セツルは、慈善事業ではなく、また「救援」を名とする特定の定数や主義思想の「伝道」でもない。学生の自発的な活動は、他者に何か恵みを与えることではなく、自分自身に課題を与えることだった。
帝大セツルの初代の代表者は末弘厳太郎、後任の代表者は穂積重遠だった。
帝大セツルの卒業生を紹介します。武田麟太郎、福本和夫(共産党の福本イズムの提唱者)、林房雄(転向作家)、志賀義雄、村田為五郎(NHK解説委員)、森恭三(朝日新聞論説主幹)、扇谷正造(評論家)、正木千冬(鎌倉市長)、服部之総(日本史)、清水幾太郎(転向学者)、戒能通孝(民法)、山花秀雄と足鹿覚(いずれもセツルの労働学校の卒業生)。
帝大セツルは昭和13年(1938年)1月末に名称を変更して解散し、14年間におよぶ活動に終止符を打った。ただし、セツルメント解散は、ボランティア運動の歴史の終わりではなかった。戦時体制の下、これまでとは異質な段階へ移行した。それが満蒙開拓団だった。官製ボランティア活動が始まり、あとで悲劇的結末を迎えた。
官製ボランティアという共通点で、ヒトラー・ナチスのボランティア活動が紹介されます。
自発性と主体性を組織化し、任意制度から義務制度へと変える道をすばやく歩んだのが、ヒトラー・ドイツだった。
ドイツの企業にとって、自発的労働奉仕の失業者を受けいれたら、人件費を格段に安くおさえられて好都合だった。安価な労働力は、国家の財政負担を軽減させ、とりわけ企業に莫大な利益をもたらした。
ナチ党は、政権発足時に、10数万人のボランティア青年たちを獲得した。
ヒトラーは、本当に失業をなくした。現役兵以外の兵役適齢者が相次いで召集される状況下で、ドイツの労働力は底をつき、マイナスに転じた。そこを労働奉仕制度が埋めた。今や失業対策事業ではなく、その反対に不足している労働力を補うための手段となった。
ボランティアの2面性というものをしっかり認識することができました。
戦前の帝大セツルについては、加賀乙彦の大河小説『雲の都』の第1部『広場』に生き生きと描かれています。そして、戦後の川崎・古市場の学生セツルの活動については東大闘争と同時並行的に描いた『清冽の炎』(花伝社)第1~5巻が詳しいので、あわせて紹介します。
(2019年5月刊。4500円+税)
盆休みに天神の映画館でイギリス映画『ピータールー』をみました。マンチェスターの悲劇というサブタイトルがついています。イギリスのウェリントン将軍がウォータールーでナポレオン軍に完勝した直後のイギリスで起きた事件です。
当時のイギリスの国王はジョージ四世で、フランス革命から20年しかたっていないので、フランス革命のような事態がイギリスで起きることを恐れていました。
マンチェスターの紡績工場で働く労働者は食うや食わず、仕事や見つからない状況にありました。そして、議会は地主と企業家たちが独占しています。1人1票、毎年改選をスローガンとしてかかげてマンチェスターの市民6万人がピーターズ広場に集まり、平和な集会を進行させていたのです。そこへ支配層の意向を受けた「義勇軍」と国王の正規軍が襲いかかりました。公式発表で死者18人、負傷者650人以上といわれる大惨事となりました。
この事件が直接のきっかけとなったのではありませんが、選挙法が改正され、庶民の生活も少しは改善されたようです。
私のまったく知らなかったイギリスでの出来事でした。よくぞ映画にしたものです。日本でも、このように大泉が広く深く盛りあがりつつあることを実感しています。
そのときの支配・権力側のえげつない対応が予測されるような迫真の映画でした。
それにしても、このように血と汗で勝ちとられた普通選挙を現代日本では6割近い人が行使しないのですから、その現実に思わずため息をついてしまいます。

敗北者たち

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ローベルト・ゲルヴァルト 、 出版  みすず書房
第一次世界大戦と、それが終わったあとのヨーロッパの状況を詳しく紹介しています。
第一次世界大戦では1000万人近くが死亡し、2000万人以上が負傷した。そして、そのあとに暴力的な激変が続いた。その凄惨な殺戮(さつりく)の様子が読んでいて気分が悪くなるほど語られていて、人間の狂気はこんなにまで落ちるものかとおぞましく、絶望感すら覚えます。京都のアニメーション会社での大量殺人事件を一気に拡大した感があります。
ロシア革命に至るとき、ケレンスキーは、軍の最高司令官であるコルニーロフ将軍から革命を「守る」ために、ギリシェヴィキの助けを借りた。ボリシェヴィキの指導者たちを監獄から解放し、武器と弾薬を与えた。このとき、ちょうど組織づくりの天才であるトロツキーが亡命先のアメリカから帰還したこともボリシェヴィキに有利に働いた。レーニンは土地の国有化とあわせて、戦争からの撤退を公約として、国民の好評を博した。
第一次大戦においてドイツ軍は初期こそ華々しく勝利したものの、援軍がなく、無理に無理を重ね、病気と攻勢による大損失で弱体化してしまった。形勢がドイツの不利に転じたことが明白になると、兵士の士気も民間人の戦意も、急激に低下した。
ロシア内戦は、300万人以上の命を奪うという規模と激しさだった。
食糧供給の危機を打開するため、レーニンは銃をつきつけた食糧徴発を断行した。名の知れたクラーク、富裕者を少なくとも100人は絞首刑にせよ(必ず吊るせ、民衆に見えるように)というのがレーニンの指令だった。
いかに内戦時であったとしても、これはいけませんよね。
もっとも、レーニンの赤軍兵が敗退したときには、公開での絞首刑があり、捕虜になった赤軍兵士は生きたまま焼かれた。このような状況も一方ではあったのでした・・・。
1919年7月16日、捕えられていたツァーリの一家は地下室で全員が殺害された。レーニンの指令による。
ロシア内戦で赤軍が勝利したのは、ボリシェヴィキの悪のほうが白軍という悪よりもましだというのがロシア国民の大方の見方となったことによる。
ローザ・ルクセンブルグは、1871年に棄教したユダヤ人材木商の末娘として生まれた。
ミュンヘンは、ヴァイマル・ドイツのどこよりも強固にナショナリスティックで、反ボリシェヴィキ的な都市だった。そして、このバイエルンの首都はナチズム誕生の地となった。
ムッソリーニは、第一次大戦前は、名うての社会主義者だったが、急進的ナショナリストに転向した。ムッソリーニは戦線で負傷したのではなく、梅毒にかかっていた。
ヒトラーは、しがない税関役人の息子であり、バイエルン軍の伝令兵として西部戦線に従軍し、上等兵(伍長は誤り)として退役した。ヒトラーは社会主義に関心をもったことがあったが、すぐに極右に「転向」した。
ヴェルサイユ条約によってドイツ陸軍は最大で10万人、そのうえ戦車や軍用機、潜水艦の保有は禁止された。また、海軍は、1万5000人に削減され、大型軍艦の新建設も禁止された。丸腰にされたも同然である。
ドイツ軍は、第二次大戦のとき、惨憺たる敗戦を迎えるまで、無益な戦闘を続け、そのため戦争の最期の3ヶ月間で150万人もの兵士が戦死した。
日本が満州によって中国を支配することになったとき、それについてヨーロッパ各国が激しく抗議することがなかったことから、イタリアのムッソリーニは、日本と同じことを真似するようにした。
第二次世界大戦の始まった状況を見るときに忘れてはいけないのが、その前の第一次世界大戦の状況だということがよく分かり、私には、とても興味深い記述でした。
400頁もある、ぎっしり詰まった本格的な歴史書です。
(2019年2月刊。5200円+税)

ネオナチの少女

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ハイディ・べネケン・シュタイン 、 出版  筑摩書房
18歳までナチと過ごした若きドイツ人女性が過去をふり返った本です。
ドイツでヒトラーを信奉してひそかに活動している人々がいるのは私も知っていましたが、その実態を自分の体験にもとづき赤裸々に暴露しています。
著者の父、祖父母、親の友人、みなナチでした。ナチの親のもとでナチ・イデオロギーを刷り込まれ、ひそかに軍事的な訓練まで受けています。
著者が幼いころ、ナチの父親は、マックからコーラに至るまで、アメリカの商品はすべて禁止した。ナチの父親は、すべてにおいて厳格で、誰もが従わなければいけない。父親にとって大切なのは常に結果、つまり勝ち負けだった。
父は税関職員で、ナチの団体のリーダーの一人だった。
その父親とは15歳のとき絶縁を決意した。父親は18歳の誕生日まで養育費を支払ったが、あとは、お互いに没交渉となった。
母親は、ナチの父親から去った。
父親にとって、ユダヤ人虐殺のホロコーストはでっち上げられたものでしかなかった。ホロコーストを否定するため、絶えず陰謀や思想操作をもち出した。まるでアベ首相のようですね・・・。
ナチの団体の親は、高学歴、高収入の狂信的な大人の集まりだった。貧しい人や庶民はおらず、大学教授や歯科医だった。
著者はアメリカ人とユダヤ人が嫌いだった。アメリカ人とユダヤ人はグルだ。アメリカ人は石油を我が物にしようと戦争を仕組んでおきながら、世界の警察という顔をして、帝国主義的な目的を追求している。
著者は強いと思っていたけれど、弱かった。勇敢だと思っていたけれど、意気地なしだった。成熟していると思っていたけれど、未熟だった。自由だと感じていたけれど、囚われていた。正しいと思っていたけれど、間違っていた。
いま私の娘の住んでいるミュンヘンに生まれ育ち、ナチから脱却した今は保育士として働いている27歳の女性による本です。
親の影響の大きさ、恐ろしさをひしひしと感じさせられました。
(2019年2月刊。2300円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.