著者:熊谷 徹、出版社:新潮社
東ドイツの最強スパイの栄光と挫折というサブ・タイトルのついた本です。東ドイツのスパイ・マスターの実像を追跡しています。
東ドイツには悪名高いシュタージ(国家保安省)がありました。シュタージは、国内の反体制勢力の監視と摘発を主たる任務とし、東ドイツ社会の隅々にまで目を光らせていた秘密警察です。
シュタージは、ソ連のKGBと同じく軍隊組織だった。この本の主人公であるマルクス・ヴォルフは、陸軍大将の階級を与えられていた。
東ドイツは盟主ソ連をしのぐ、世界最大の秘密警察国家だった。シュタージの正職員は、ベルリンの壁が崩壊した1989年秋の時点で、9万1000人いた。これは、東ドイツ市民180人に1人の割合で秘密警察職員がいたことを意味する。ナチスのゲシュタポが7000人だったことを考えても、はるかに多い。
職員のほか、17万4000人の東ドイツ市民が非公然職員(IM)として登録し、情報を提供していた。その数はのべ60万人にのぼる。
ヴォルフの率いるHVAが利用していた西ドイツ在住のスパイは、1988年の時点で1553人。のべにすると、6000人という推定、また2〜3万人にのぼるという推定もある。
ヴォルフのつかったスパイのうち、もっとも有名な人物にブラント首相の側近(補佐官)として活躍していたギョームがいる。ただし、ギョーム事件は諜報作戦がうまく行き過ぎると、政治的な利益をそこなうことがあるという失敗例でもある。
このギョームは、資本主義社会の現実に接しても、自分の使命を固く信じ、社会主義の理想を失わず、性格的にも実直であった。
西ドイツの対外諜報機関BNDに潜入し、女性として幹部職員となり、その優秀さを買われて、ソ連情勢分析部の副部長にまで出世したスパイもいた。
HVAにリクルートされた秘書スパイの半分以上はボーイフレンドがいなかった。 1949年からの38年間に、西ドイツの捜査当局が摘発した秘書スパイは58人にのぼる。誰かに愛されたい。もう独りぼっちはたくさんだと悩む女性の心につけいった。
西側の人間がヴォルフのスパイになった動機は三つある。政治的な信条、恋愛関係、そしてお金。西ドイツの憲法擁護庁の対スパイ課員たちが次々にヴォルフのスパイになっていった。それは、給料や昇進に関する不満が高まっていたことによる。
西ドイツの諜報機関BNDは、1925年以来、東ドイツの諜報機関を率いていたヴォルフの顔を20年以上も特定できなかった。このため、ヴォルフは、西側のスパイ機関から、「顔のない男」と呼ばれていた。それが発覚したのは、スウェーデンで不審な旅行者団をうつした写真のなかで発見されたため。1979年3月のこと。
ヴォルフはHVAを隠退して、1989年にベストセラー作家としてデビューした。『トロイカ』という本を出版して、ベストセラーになった。
その後、ヴォルフは東西ドイツの統一のあと、国家反逆罪で起訴され、一審では有罪となったものの、連邦憲法裁判所において、国家反逆罪は成立しないという勝訴判決を得ている。
ドイツの検警当局は、統一したあと、2303人のHVA職員に対してスパイ活動などの疑いで捜査したが、そのうちの98%は嫌疑なしとして起訴されなかった。有罪判決を受けたHVA職員は12人にすぎない。
HVAのスパイとして登録されていた1553人の西ドイツ人に対して捜査をはじめたが、そのうち有罪判決を受けたのは181人にすぎない。全体のわずか12%。2年をこえる禁固刑の実刑判決を受けたのは66人だけ。残り115人は、2年以下の禁固刑か、執行猶予または罰金刑だった。
ヴォルフが亡くなり、HVAが消滅したあとも、統一ドイツはスパイの影に怯えている。
HVAが西ドイツに送りこんでいたスパイの半分以上は10年以上も諜報活動に従事していた。なかには40年近くも東ドイツにスパイとして協力していた者がいる。
うむむ、すごいことですね、これって・・・。
映画『エディット・ピアフ』をみました。2時間20分、彼女の歌声に聞きほれ、至福のひとときを過ごしました。フランス語を勉強して良かったと思いました。もちろん、全部ではありませんが、今ではかなり会話そして歌詞が聞きとれます。
(2007年8月刊。1300円+税)
2007年10月2日