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カテゴリー: ヨーロッパ

せめて一時間だけでも

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ペーター・シュナイダー、出版社:慶應義塾大学出版会
 ナチスの支配するドイツの首都ベルリンで、ユダヤ人音楽家が活動して、無事に戦後まで生き延びたという感動の記録です。ナチス・ドイツのなかでも、ユダヤ人だと知ったうえで、ユダヤ人を生命がけで助けていたドイツ人がいたのです。映画『シンドラーのリスト』に出てくるシンドラーだけではありませんでした。ベルリンで地下潜伏生活をしてユダヤ人   1500人が生きのびたとみられています。相当数のドイツ人がそれを助けました。
 1500人が生きのびたといっても、戦前のベルリンに住んでいたユダヤ人は、実に 16万人いたのです。その半数は外国に逃れました。残る8万人は、強制収容所で生命を奪われました。
 ユダヤ人の夫を持つドイツ人の妻たちは、夫の即時釈放を求めて、数百人の女性が一週間にわたってデモ行進した。収容所の入り口を封鎖し、一歩も退かなかった。ナチの手先はドイツ女性に対して発砲できなかった。とうとう、ゲシュタポは、逮捕したユダヤ人の夫たち全員を釈放した。すごーい。すごいですね。やはり、女性の力は偉大です。
 ユダヤ人のコンラート・ラテは、キリスト教会のオルガン奏者になり、ひっぱりだこだった。天職に向かって自己を完成させたいという意思が、いつ捕まるかもしれない不安感を上まわり、日々、ベルリン中を動きまわる原動力になっていた。
 1人のユダヤ人を救うためには、7人の援助者が必要である。しかし、この推計は控えめすぎる。彼らを行動に駆り立てたものは、危険に対する無謀さなどではなかった。まず追い詰められたユダヤ人の苦境が目に入り、次に支援にともなう自らの危険を察知した。誰も、はじめから生命を失うことを覚悟して行動に出たわけではなかった。しかし、みんなすすんで、同情の念から、自尊心から、危険を引き受け、その後で危険を最小限にとどめようとした。
 ユダヤ人を生命がけで助けた一人のドイツ人の女性が戦後、インタビューを受けて、次のように語りました。
 毎朝、鏡のなかで自分の顔をきちんと正視したいからですね。
 うむむ、なんという崇高な言葉でしょう。
 私はドイツ人です。ヒトラーの時代にドイツで起きたことを、私は心底から恥ずかしく思っていました。それを埋めあわせることはできませんでした。ましてや同調するなんて、考えられないことでした。
 うひゃあ、こんなドイツも少なからずいたのですね。このとき、日本人はどうだったんでしょうか・・・。
 ナチス政府から死刑宣告を受けた政治犯を刑の執行まで拘禁しておくテーゲル刑務所のペルヒャウ牧師は、反ナチの人々をかくまう抵抗グループの一員でもあった。
 うむむ、これもすごいことですね。
 コンラートは、自分がユダヤ人であることを正直に話して救いを求めた。突然のことなのに、それにこたえてくれる人がいたのです。とても危ない日々を過ごしていたわけです。あらためて、人生を考えさせてくれました。
(2007年7月刊。1800円+税)

顔のない男

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:熊谷 徹、出版社:新潮社
 東ドイツの最強スパイの栄光と挫折というサブ・タイトルのついた本です。東ドイツのスパイ・マスターの実像を追跡しています。
 東ドイツには悪名高いシュタージ(国家保安省)がありました。シュタージは、国内の反体制勢力の監視と摘発を主たる任務とし、東ドイツ社会の隅々にまで目を光らせていた秘密警察です。
 シュタージは、ソ連のKGBと同じく軍隊組織だった。この本の主人公であるマルクス・ヴォルフは、陸軍大将の階級を与えられていた。
 東ドイツは盟主ソ連をしのぐ、世界最大の秘密警察国家だった。シュタージの正職員は、ベルリンの壁が崩壊した1989年秋の時点で、9万1000人いた。これは、東ドイツ市民180人に1人の割合で秘密警察職員がいたことを意味する。ナチスのゲシュタポが7000人だったことを考えても、はるかに多い。
 職員のほか、17万4000人の東ドイツ市民が非公然職員(IM)として登録し、情報を提供していた。その数はのべ60万人にのぼる。
 ヴォルフの率いるHVAが利用していた西ドイツ在住のスパイは、1988年の時点で1553人。のべにすると、6000人という推定、また2〜3万人にのぼるという推定もある。
 ヴォルフのつかったスパイのうち、もっとも有名な人物にブラント首相の側近(補佐官)として活躍していたギョームがいる。ただし、ギョーム事件は諜報作戦がうまく行き過ぎると、政治的な利益をそこなうことがあるという失敗例でもある。
 このギョームは、資本主義社会の現実に接しても、自分の使命を固く信じ、社会主義の理想を失わず、性格的にも実直であった。
 西ドイツの対外諜報機関BNDに潜入し、女性として幹部職員となり、その優秀さを買われて、ソ連情勢分析部の副部長にまで出世したスパイもいた。
 HVAにリクルートされた秘書スパイの半分以上はボーイフレンドがいなかった。  1949年からの38年間に、西ドイツの捜査当局が摘発した秘書スパイは58人にのぼる。誰かに愛されたい。もう独りぼっちはたくさんだと悩む女性の心につけいった。
 西側の人間がヴォルフのスパイになった動機は三つある。政治的な信条、恋愛関係、そしてお金。西ドイツの憲法擁護庁の対スパイ課員たちが次々にヴォルフのスパイになっていった。それは、給料や昇進に関する不満が高まっていたことによる。
 西ドイツの諜報機関BNDは、1925年以来、東ドイツの諜報機関を率いていたヴォルフの顔を20年以上も特定できなかった。このため、ヴォルフは、西側のスパイ機関から、「顔のない男」と呼ばれていた。それが発覚したのは、スウェーデンで不審な旅行者団をうつした写真のなかで発見されたため。1979年3月のこと。
 ヴォルフはHVAを隠退して、1989年にベストセラー作家としてデビューした。『トロイカ』という本を出版して、ベストセラーになった。
 その後、ヴォルフは東西ドイツの統一のあと、国家反逆罪で起訴され、一審では有罪となったものの、連邦憲法裁判所において、国家反逆罪は成立しないという勝訴判決を得ている。
 ドイツの検警当局は、統一したあと、2303人のHVA職員に対してスパイ活動などの疑いで捜査したが、そのうちの98%は嫌疑なしとして起訴されなかった。有罪判決を受けたHVA職員は12人にすぎない。
 HVAのスパイとして登録されていた1553人の西ドイツ人に対して捜査をはじめたが、そのうち有罪判決を受けたのは181人にすぎない。全体のわずか12%。2年をこえる禁固刑の実刑判決を受けたのは66人だけ。残り115人は、2年以下の禁固刑か、執行猶予または罰金刑だった。
 ヴォルフが亡くなり、HVAが消滅したあとも、統一ドイツはスパイの影に怯えている。
 HVAが西ドイツに送りこんでいたスパイの半分以上は10年以上も諜報活動に従事していた。なかには40年近くも東ドイツにスパイとして協力していた者がいる。
 うむむ、すごいことですね、これって・・・。
 映画『エディット・ピアフ』をみました。2時間20分、彼女の歌声に聞きほれ、至福のひとときを過ごしました。フランス語を勉強して良かったと思いました。もちろん、全部ではありませんが、今ではかなり会話そして歌詞が聞きとれます。
(2007年8月刊。1300円+税)

青い光が見えたから

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:高橋絵里香、出版社:講談社
 いやあ、日本人の女性って、老いも若きもすごいですね。日本は昔から女性でもっているという実感がますますしてきました。読んでるうちに、なんとなく元気の出てくる本です。サブ・タイトルは、16歳のフィンランド留学記です。そう、あのフィンランドですよ。世界一の教育立国。ノキアの母国、フィンランドです。なんと著者は小学生のころ、ムーミンの本を読んで、フィンランドに憧れたといいます。そして、その初志を高校生になるときに貫徹したのです。たいしたものです。でも、著者の両親も偉いですよね。私は、著者とともに、その両親に対しても盛大な拍手を心から送りたいと思います。日本とフィンランドの親善大使を生んで育てた親に対して、日本人の一人として感謝したい気持ちで一杯です。
 日本の中学生だったころ、著者は、学校と教師が信じられなくなっていた。経験の少ない若い先生たちは体罰や脅しによって生徒に言うことをきかせようとしていた。宿題や教科書を忘れると、こぶしで頭を殴る先生、授業中に生徒が騒がしくなると急に大声で怒鳴ったり、教卓を蹴りたおしたりする先生が何人もいた。
 分かってくれると思った教師のところに、暴力はいけないと思いますと訴えにいったときに言われた言葉は、なんと・・・。
 オレは教師になりたくて、なったんじゃない。
 なんというセリフでしょうか・・・。これでは、日本の将来は真暗ではありませんか。「美しい国」どころではありません。ところが、参院選のとき、自民党は、こんな教育の荒廃をつくり出したのは日教組だと大宣伝していました。とんでもないことです。それは文部省(今の文科省)の責任でしょう。国定教科書をつくり、君が代・日の丸を押しつけ、卒業式で起立して歌わなかったら処分するだなんて脅しておいて、他人のせいにするなんて、みっともない、卑怯でしょう。私は、そう思います。いやあ、いけません。ついつい日本の荒廃した教育環境のことを考えて、怒りのあまり興奮してしまいました。
 フィンランドの学校では、昼食は無料。食堂でセルフサービス式で、好きなものを好きなだけ食べていい。11時から1時くらいまでの間なら、いつでも食べていい。無料なのは昼食代だけではない。授業料もタダ。すべて国の税金でまかなわれている。高校に通ってかかるお金は、教科書代と文房具代くらいのもの。いや、高校だけでなく、大学にも授業料はない。
 試験も日本とは違う。問題文はたいてい一行の文章であり、それに対して授業で習ったことだけではなく、自分のもっている知識をすべてつかって答えを書く。広く、いろいろな観点から考えた答えを書かなければならないので、テストの直前に丸暗記しても効果はない。
 学校は、生徒をお互いに競わせるようなことはしない。試験の結果が出ても、誰が一番良かったなどと先生は口にしない。成績は相対評価ではなく、個人個人の学習の成果に与えられる。だから、ついていけない人がいれば、お互いに助けあることができる。
 卒業試験は、教科ごとに春と秋の年に2回受けられる。しかも、全教科を一度にうけるのではなく、受ける科目の必修コースの単位が全部とれていたら、いつでも試験を受けていい。おまけに、卒業は入学してから3年後と決まっているわけではない。半数以上の人は3年間で卒業していくけど、4年間や3年半、また2年で卒業していく人もいる。著者はフィンランド語の勉強から始めて、なんと4年間で無事に高校を卒業できました。すごーい。パチパチパチ。盛大な拍手を送ります。
 高校を卒業してもすぐに大学へ進学するとは限らない。アルバイトに精を出したり、海外へ行って1年間の休暇をとって過ごす人もいる。
 小中学校、そして高校と休む間もなく勉強を続けてきたので、次の課程に進む前に一休みしようというケースはフィンランドでは珍しくはない。一年間、とくに何もせずに自分と向きあう時間をつくり、将来、自分がどういう道を歩いていきたいのか、もう一度考えなおす期間にする人が少なくない。
 フィンランド語をゼロから学び、高校生として4年間を過ごして立派に卒業し、著者は今やフィンランドの大学生です。すごく励まされました。人生には無限の可能性があることを実感させてくれる本でした。

ティムール帝国支配層の研究

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:川口琢司、出版社:北海道大学出版会
 チンギス・ハンのあとに中央アジアに広大な帝国をうちたてた有名なティムールとその帝国についての研究書です。本格的な内容ですので、難しいところも多々ありました。
 ティムール帝国の時代は、空前絶後の領土を有したモンゴル帝国が解体したあとに到来した。このころ、日本は室町幕府、足利尊氏から義満にかけての時代。中国では明帝国の前半の時代。ヨーロッパでは、百年戦争やバラ戦争を経て、大航海時代に入ったころ。ロシアでは、モスクワ大公国が力をつけ、モンゴル支配の桎梏から自立しようとしていた。
 ティムール帝国は、中央アジアのモンゴル国家チャガタイ・ウルスの領域に成立し、中央アジアから西アジアに及ぶ広大な領域に、6代140年間にわたって続いた。
 ティムールは、青年時代に右手と右足に終生の傷を負い跛者となったが、その類いまれな才覚と人望により、祖先の名望や所属部族の力をあてにすることなく、一代で広大な大帝国をうちたてた。1360年代、ティムールは、旧来の部族に頼らない新しい家臣団を組織しながら、有力部族たちを巧みに味方につけ、宿敵フサインとの権力闘争を制し、1370年、ついにサマルカンド政権を樹立した。
 ティムールは、チンギス・ハンを意識し、モンゴル帝国の再興を目ざしていた。   
 ティムール自身はチンギス・ハンの子孫ではない。バルラス部族の出身である。しかし、当時の中央アジアでは、チンギス・ハンの子孫でなければ君主になれないというイデオロギー(チンギス統原理)が生きており、支配の正当性の根拠となっていた。
 そこでティムールは、チンギス・ハンの子孫を実権のないハンとして擁立し、チンギス・ハンの子孫の女性と結婚して婿(キュレゲン)の地位を獲得することにつとめた。モンゴルの権威を利用して支配の正当性を得ようとしたわけである。
 ティムールは、チンギス・ハンの子孫である4人の女性と正室とした。しかし、その正室から生まれた嫡子は次男のみで、長男も三男、四男もみな側室を母とする。ところが、この4人の息子たちは、いずれもチンギス・ハンの子孫にあたる女性と結婚している。
 ティムール帝国では、明確な後継制度が定められていなかったため、実力で君主位継承争いに勝利した者が新しい君主になる場合が多くみられた。ティムールの遺言は無視された。
 ティムール帝国では、チュルク・モンゴル的な要素とイラン・イスラーム的な要素が融合し、きわめて高度なイラン・チュルク・イスラーム文化が花開いた。ティムール朝の人々はイスラーム教徒であった。
 ティムールは積極的な建築活動を展開した。そこで、チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した、と言われた。
 ティムール帝国の末期には、北方のキプチャク草原からウズベグ族が侵入し、1507年にティムール帝国は崩壊した。1991年、ウズベキスタンが独立すると、ティムール帝国を滅ぼしたウズベグ族の子孫たちが、ティムールを英雄視し、自分たちの文化的系譜をティムール帝国にまでさかのぼらせている。
 ティムール帝国についての本格的な研究書です。素人にも分かるところだけを飛ばし読みしました。
 梅雨空の晴れ間に蝉があわてたように鳴いています。このところ例年より雨が多くて、蝉の出番がなくて、焦っている気がしました。庭にサルスベリのピンクの花が咲いています。お隣の家には、合歓の木が二度目の可憐な花を咲かせています。梅雨明けが待ち遠しいこのごろです。

エリカ、奇跡のいのち

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ルース・バンダー・ジー、出版社:講談社
 柳田邦男氏が推薦していた絵本です。絵はとても写実的です。きれいに整いすぎている感じすらします。
 1944年のことです。1933年から1945年までの12年間に、600万人ものユダヤ人がヒトラー・ナチスによって虐殺されました。600万人といっても、まったくピンときませんよね。でも、福岡県の全人口より多いし、東京都民の半分というと、少しは想像できるようになります。殺されていった一人一人に語られるべき人生があったのですよね。600万人という数字だけで片づけられてはたまりません。
 そのとき、わたしは生まれてやっと2ヶ月か3ヶ月の赤ちゃんでした。父や母と一緒に、牛をはこぶ貨車に押しこめられ、立ったままぎゅうぎゅう詰めで動くこともできなかったでしょう。列車がある村をとおるとき、スピードを落としたので、母は「今だ」と思って、貨車の天井近くにある空気とりの窓から、外にわたしを放り投げてしまいました。
 すぐ近くの踏み切りで、村の人が汽車の通り過ぎるのを待っていて、貨車から投げ出される赤ちゃんを見ていたのです。
 母は、自分は死にむかいながら、わたしを生にむかって投げたのです。
 村人がわたしをひろいあげて、女の人に預けました。ユダヤ人の赤ん坊を預かるなんて、生命にかかわることでしたが、家族の一人として大切に育ててくれました。
 まさしく奇跡が起きたのですね。
 先日、福岡の小さな映画館で「それでも生きる子どもたちへ」という映画を見ました。少年兵として殺し、殺されの毎日を生きているアフリカの男の子、両親からエイズをうつされ、学校でいじめにあうアメリカの女の子、空き缶ひろいなどをしてたくましく生きているブラジルの兄と妹・・・。
 中国の大都会で捨て子として育った女の子は、金持ちの子が両親の不和から大切にしていたお人形さんを投げ捨てたのを拾ってもらって、大切に世話しています。でも、頼りにしていたおじいさんが交通事故で死んでしまうのです。
 たくましく生きていくこどもたちの姿に、何度も目がウルウルになってしまいました。

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