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カテゴリー: ヨーロッパ

魅惑する帝国

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:田野大輔、出版社:名古屋大学出版会
 いやあ実に面白い本でした。知的好奇心をしっかり満足させてくれました。多読していると、こんな素晴らしい本にめぐりあることができます。著者はまだ30代後半の若手学者ですが、その問題関心と背景説明には、何度も、なるほど、なるほど、そうだったのかと、うなずいてしまいました。えっ、たとえばどんなことに魅かれたのか、ですか。
 ヒトラーは、スターリンや後世代の毛沢東と違って、その第三帝国が存在した12年のあいだ、彫像がまったくなかったというのです。あれほど絶対的に崇拝され、ほとんど救世主の地位にまで高められたドイツの独裁者の彫像が存在しなかったのはなぜか?
 著者はこのように問題を設定し、さまざまな角度からアプローチしていきます。
 写真集においては、「総統も笑うことがある」というように、制服を着用していないヒトラーが表情もなごやかで、民衆や子どもたちと気さくに談笑している。
 しかし、こうした親密な雰囲気は体制が安定期を迎えた1930年代中頃から次第に後退していき、やがてきまりきった儀礼的賛美へ転化する。とくに戦争がはじまると、ヒトラーは総統本営にひきこもって国民の前に姿をあらわさなくなったため、ますます遠い存在となった。
 ヒトラー自身、民衆との結びつきが何よりも重要なことを自覚し、独裁者のような印象を与えないよう十分に注意していた。ヒトラーは、民衆の感情に配慮して、ヒトラー自身も質素な服装を着用し、粗末な食事をとり、酒もタバコものまず、妻もめとらなかった。ヒトラーの趣味は、専制君主の権力誇示とは対象的に、謙虚さや質朴さを美徳として強調するものだった。
 ヒトラーは、みずからの生を公開し、親密さという価値を政治の中心にすえることで国民の信頼をかちとった。それは、疎遠でない政治、指導者と大衆が同じ目線に立つ政治であり、見とおしのきかない現代社会にあって、人々に政治参加の感覚を与える一種の「民主的」な政治形態だった。
 ヒトラーによる「親密さの専制」は、第三帝国においても市民的価値観が連続性を保っていたこと、それどころか、この価値観こそナチズムの基盤にほかならなかった。むしろ、スターリンのほうが例外的だった。
 ヒトラーが生前に描かせた肖像画は、つねに無表情で直立し、表情やポーズの硬さは、彼が総統として象徴的な意味を担っていることを示している。
 多くの人々は実物のヒトラーを見てぱっとしない印象しか受けず、公式のイメージとの落差に驚きととまどいを覚えた。ヒトラーの目つきには、どこか生気のないところがあり、それが強い印象を与えた。
 ヒトラーによって粛清された突撃隊のリーダーであるレームについても、鋭い指摘があり、目を開かされました。この突撃隊には、かつての共産党支持者が大量に鞍がえして入っていたというのです。あの有名なナチ・デマゴーグのゲッペルスは、闘争期には、共産主義への明かな共感を表明し、「私はプロレタリアートの社会主義を信じる」とさえ述べている。
 国民の圧倒的多数を占めながら、長らく政治的公益性、公共性から排除されつづけていた労働者に対して、ナチズムは門戸開放を約束することで、大きな原動力を手にした。
 しかし、ナチ党が権力を握ったとき、党指導部の統制に従わず、なおも第二革命を要求する突撃隊の急進主義は、国民全体を総合する「民族共同体」の建設にとっても、もはや障害でしかなかった。
 このようにしてレームの粛清は必然だったのです。
 さらに、ニュルンベルグで開かれていたナチ党全国大会についての実情紹介と、その分析もまた興味深いものがあります。参加者が50万人に達し、一糸乱れぬ統制とれた行進を写真でみると、いかに当時のドイツ国民がナチス・ヒトラーに心酔し、熱狂していたか、よく分かります。ところが、その内情はびっくりするものがありました。
 党大会は会場もプログラムも、それぞれの組織ごとに異なり、全体が一同に会することはなかった。独立王国の寄せ集めだった。 第三帝国は決して一枚岩ではなかった。むしろ、激しい権力闘争にひき裂かれた機構的アナーキーというべきものであった。左翼政党や労働組合は破壊されたが、それ以外の大部分の既成集団、とくに官僚機構、軍部、企業などはナチ党の侵入はほとんどなく、自由裁量を維持しており、圧力集団として機能していた。
 人々は概してナチ党全国大会に無関心だった。ニュルンベルグ観光ができるということで参加していた。汽車賃も食事も無料で、こずかいまでもらえた。
 行進や演説といった公式行事よりも、いろいろの催し・娯楽が人々を惹きつけていた。
 泥酔した党員が乱闘騒ぎをおこしたり、制服姿のまま売春宿に殺到したりする事態があり、主催者を悩ましていた。参加者は楽しいお祭りと受けとめていたのだ。
(2007年6月刊。5600円+税)

ある日、あなたが陪審員になったら・・・

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:オリヴィエ・シロンディン、出版社:信山社
 フランス重罪院のしくみ、というサブ・タイトルがついています。日本の裁判員制度にフランスの陪審制は参考になるという紹介がありましたので、フランス語が少々できる私としてはぜひ読んでみようと思った次第です。
 フランスでは、毎年2万人ほどの市民が陪審員になるべく招集される。1978年以来、選挙人名簿に登録された23歳以上のすべての市民は陪審員に任命される可能性がある。パリだと1800人、その他の県だと人口1300人に1人の割合で選出される。
 市長は公衆の面前で、選挙人名簿をもとに23歳以上の人からくじを引いて、定数の3倍までしぼりこむ。そこから、法曹三者などから成る委員会が不適格者を除外する。そして、2度目のくじ引きが裁判の始まる30日前までに行われる。これも公開の法廷でのくじ引き。40人と予備員12人を選び、期日に召喚される。そして、開廷日の初日に3度目のくじ引きとなる。
 重罪院は、3ヶ月に一度、2週間の開廷期で開かれる。
 陪審員は、5年間のうち一開廷に限られる。
 人を裁くなんて、神以外の誰にもできるはずがないと言われた。私が人を裁くなんてできるはずがないと思ったし、自分の意見をもつのも得意ではないので悩んだ。それでも、政治意識から召喚を拒否しなかった。
 理由なく陪審員が欠席したら、3750ユーロの罰金が科される。
 困難な任務にもかかわらず、いつも陪審員の熱意と真面目さと努力に驚かされる。
 もし重罪院が舞台なら、そこで演じられているのは悲劇だ。陪審員のなかには、泣いたり、気を失ったり、部屋を出てもいいかと頼む者がよく出てくる。救急車が重罪院に頻繁にやって来る。
 陪審員は、あなたは心底から確信しているか、と自らに問いかける。
 評議室は閉ざされ、出入り口は守衛によって警備される。評議室から出ることはできず、トイレに行くときも、警備員が付き添う。外部からの接触は一切排除される。
 ここは、人間がふだんの自分以上の、崇高な存在になれる場所なのだ。
 陪審員による投票は2回に分けて行われる。まずは有罪か無罪かについて。そして有罪と決まったときには、量刑について投票する。有罪についての評決は12人のうち8票の多数を必要とする。量刑については7票でもいいが、法定刑の最長期の刑を言い渡すときには8票を要する。ちなみに、フランスは死刑判決はない。
 フランスの弁護士は3万9000人いるが、刑事弁護士と呼ばれるごく少数が重罪院で活動している。
 重罪院にかかった事件のうち無罪になるのは7%。2002年から無罪判決に対して検事長は控訴することができるようになった。控訴率は24%。
 2002年に重罪院の判決は2825件だった。17%は故殺、13%は凶器所持強盗、52%が強姦事件。
 いろいろ勉強になりました。イラスト入りでかかれた読みやすい本です。
(2005年11月刊、3200円)

プーチン政権の闇

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:林 克明、出版社:高文研
 プーチン大統領の支配するロシアって、本当に底知れない恐ろしさをもつ国だとつくづく思いました。もっとも先日みたアメリカ映画『グッド・シェパード』で描かれていたCIAの暗躍ぶりと対比させると、アメリカもロシアと同じような強暴な国だと思いましたが・・・。
 邪魔者は消せ。ロシアは、このひと言に言い表せるような、暗殺天国になってしまった。政府・軍・警察・官僚の不正をあばこうとする人物が、次つぎに消えていく。
 2006年10月7日、チェチェン戦争報道でプーチン政権を痛烈に批判してきたアンナ・ポリトコフスカヤ記者が自宅アパートエレベーター内で射殺死体となって発見された。
 11月23日、ロンドンに亡命していた元FSB中佐のアレクサンドル・リトビネント氏が放射性物質ポロニウム210を盛られて死亡した。
 2004年9月、南ロシアで起きた学校人質事件では、武装勢力が子どもたちを人質にとり、特殊部隊の突入で、330人が犠牲となった。この学校占拠グループで指揮していたのはロシア人である可能性が高く、犯人のかなりの部分を地元民が占めている。何らかの謀略の可能性は相当高い。
 最初の攻撃がゲリラ側からではなく、ロシア諜報部からのものであった。330人もの人質の死の責任はロシア治安部隊にある。
 そうだったのですか。それにしてもむごい事件でした。テロリストが劇場や学校を占拠し、特殊部隊が突撃して「解決」を図るなんて、考えただけでもぞっとします。
 第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要だった。第二次チェチェン戦争はエリツィン大統領が自ら選んだ後継者であるプーチン首相が世論調査で順位を上げるために必要とされた。
 ロシアでは、もう長いこと公式には死刑が執行されていない。しかし、ロシアの特務機関は、邪魔な人々を裁判後に殺してきた。裁判によらない処刑が行われている。
 1994年に戦争が始まって以降の歴代独立派チェチェン大統領は、全員殺害されている。「独立宣言」したドゥダーエフ大統領、あとを継いだヤンダルビーエフ大統領代行、史上初めて民主的な選挙で当選したマスハードフ大統領。さらに、ゲラーエフ国防大臣、有名なバサーエフ野戦司令官。日本の岩手県ほどのチェチェン共和国で、2000年から2004年末までのあいだに、1万8000人が行方不明になっている。
 ひゃあ、チェチェン共和国って、岩手県くらいの大きさしかないのですか・・・。そこから「テロリスト」が東京にやって来る構図を描いたら、ぞっとします。まさに、報復の連鎖しかありませんね。
 2006年に「国境なき記者団」が発表した報道の自由ランキングでは、168ヶ国中、ロシアは147位。プーチンが権力の座についてからのロシアでは、戦場でなく、平時にジャーナリストが暗殺されている。世界でジャーナリストにとってもっとも危険な国のトップはイラク、2位はアルジェリアで、3位はロシアである。
 いやはや、ホント、恐い、怖い、ゾクゾクしてきました。
(2007年9月。1200円+税)

「白バラ」尋問調書

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:フレート・ブライナースドルファー、出版社:未来社
 無責任な暗い衝動に駆り立てられた支配者の徒党に、抵抗もなく「統治」を許すことほど、文化民族の名に値しないことはない。誠実なドイツ人ならば、今や誰でもおのれの政府を恥じているのではないか?
 これは「白バラ」が1943年1月にまいたビラの冒頭の文章です。その格調の高さに圧倒されます。20代も前半の学生が中心のグループが書いたのです。
 ドイツ民族のこのがん腫瘍が、初期にはそれほど目につかなかったとすれば、それを押さえるのに正義の力がまだ十分に力を発揮していたからに過ぎない。しかし、腫瘍がだんだん大きくなり、ついに忌まわしくも政治を腐敗させて権力を握り、同時にその腫瘍が破裂し、全身に毒が回ると、かつて反対した者の大多数が姿を消し、ドイツの知識人たちは地下の穴蔵に逃げ込んで、闇に生きる植物のように、日の光を浴びぬままやがて息絶えてしまった。今や、我々は終末を目前にしている。
 私は諸君に問いたい。もし知っているのなら、なぜ動かないのか。
 人間は、おのれの権利を要求する力すら残っていなければ、必然的に破滅してしまう。諸君の臆病さを、賢明さというマントの下に隠してはならない。
 これも同じく「白バラ」のビラの文面です。すごい問いかけですよね。
 「白バラ」は、ビラを9000部印刷し、計画的に配布した。アレクサンダー・シュモレルは1500通の封筒に入れたビラが入った荷物をもってウィーンに行き、そこから、フランクフルトなどへ発送した。ゾフィー・ショルは2500部のビラをハンス・ヒルチェルに渡した。シュモレルとハンス・ショルは、ミュンヘン市内中心部の路上に、夜間、5000部のビラをまいた。
 これらのビラは、大きな動揺をナチ党指導部に引き起こした。
 ゲシュタポに依頼された古典文献学者ハルダー教授は、次のように鑑定した。
 この作者は天分ある知識人であり、自分のプロパガンダを大学関係者、とくに学生のあいだに広めようとしている。文章にはある程度勢いがあり、政治的な意思による固い決断を感じさせるが、この知的産物は、しょせん机上の空論である。絶望視孤立した者の口調ではなく、背後に一定の仲間はいるようだが、政治的な力を持って活動しているグループから派出したものではない。それには文章が抽象的すぎる。これでは兵士や労働者から幅広い反響を得ようとしているとは、また得られるとは思えない。
 さすがに、なかなか鋭い分析で、感心します。
 「白バラ」の活動家たちは、仮面をかぶるのではなく、ごく普通に生活していた。それが隠れみのとして有効だった。
 「白バラ」はミュンヘン以外の都市にも定着させ、広域で把握しにくい、強力な組織をつくりあげようしていた。それが不首尾に終わったのは、声をかけられた人々の大多数がそれに応じなかったから。「白バラ」の活動がミュンヘン、しかも大学周辺の狭い範囲で行ったため発見される危険がますます大きくなったのは、単に協力者が少なかったからに過ぎない。
 うーん、そうなんですか、そうなんですね。まさしく、悲劇ですよね、これって。
 「白バラ」グループに関わっていたクルト・フーバー教授は、ドイツ人が犯した戦争の残虐行為の責任はひとえにナチス親衛隊にあると考えていた。しかし、前線での戦争体験をもつ「白バラ」の学生たちは、違った。国防軍は、後方での殺人行為を許し、見て見ぬふりをし、ヒトラーを止めようとはしなかった。国防軍は軍人の礼節のよりどころではなかった。ヒトラーの思いのままに操られる道具だった。やはり、軍隊ってー、どんなに起立がたもたれていたとしても、しょせんは人殺し集団なんですよね。
 法廷で「白バラ」のショル兄妹の裁判を目撃した人(司法修習生)は次のように語った。
 被告の態度に深い感銘を受けたのは、私だけではないだろう。そこに立っていたのは、まぎれもなく、自分たちの理想に満ちあふれた人物たちだった。被告たちは冷静沈着で、明晰かつ毅然とそれに答えていた。
 公判の日程は公表されず、傍聴席は、このために動員されたナチ組織のメンバーで占められていた。昼12時45分に死刑判決が宣告された。宣告後、親との面会が許され、看守は3人に一本のタバコを一緒に吸う機会を与えた。そして、17時、3人はギロチンで処刑された。
 「ついさっき、僕にはあと1時間しか残されていないと聞かされました。僕の死は安らかで、喜びに満ちていたと伝えてください」
 なんという気高い言葉でしょうか。
 ショル家の父親は、はじめからナチに対して非常に批判的でした。しかし、その子どもたち(殺された兄妹のことです)は3年間も、リベラルな父親の意見を聞く耳をもたず、ヒトラーを熱狂的に歓迎し、ヒトラー・ユーゲントに所属して、そのリーダーになっていたというのです。
 真実を見抜くには時間がかかる。そして、真実を実現するのは勇気が必要だ。こういうわけです。
(2007年8月刊。3200円+税)

イメージ、それでもなお

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ジョルジュ・ディディ・ユベルマン、出版社:平凡社
 タイトルからは何も分かりませんが、サブ・タイトルに「アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真」とあり、これでようやく本の内容が推察されます。
 いかにもフランス人の書いたと思われる難解な文章が続きます。著者の言わんとするところは、私には難しすぎてよく分かりませんでした。それでも、いくつか知らなかったことを大発見しました。やはり、人は自分のことを人に伝えようとする存在なのですね。
 それは、アウシュヴィッツでユダヤ人の死体処理をしている状況をまさに隠しどりしたユダヤ人がいて、その写真が強制収容所の外へ運び出されていたということ、死体処理の作業にあたらされていたユダヤ人(ゾンダーコマンド)は、いずれ順番に消されていったのですが、その人たちが自分の目撃したことを書いて地中に埋めたりしたものが戦後、何年もたってから掘り起こされているということです。私にとっては、いずれも大きな衝撃を受けました。
 最初のゾンダーコマンドがアウシュヴィッツで結成されたのは、1942年7月のこと。この日から、12の部隊があとに続いた。数ヶ月たつと、部隊は潰され、前任者の死体を焼くことが次の部隊にとっての通過儀礼だった。
 彼らの恐怖の一部をなしていたのは、彼らの全存在が避けがたい部隊のガス室送りの日まで、完全なる秘密のうちに保たれていたということである。すなわち、ゾンダーコマンドのメンバーたちは、他の囚人といかなる接触も持ってはならず、ましてや、ありとあらゆる外部世界とはおろか、不案内なSSたち、つまり、ガス室や焼却棟の正確な役目を知らない者たちとも接触を断たれている。秘密裡に置かれたこれらの囚人たちは、病気でも収容所の病棟に入ることが許されなかった。彼らは完全なる従属と焼却棟
での仕事に対する感覚麻痺、ー アルコールは禁止されていなかった ー のうちにとどめ置かれていた。
 ゾンダーコマンドの仕事は、彼らの同類の死を数千単位で処理すること、最後まで嘘をつきとおすのを強いられること。犠牲者たちに彼らの運命を伝えようとした者は、生きたまま焼却場の火に投げこまれ、他のメンバーは、その執行に立ち会わねばならなかった。
 自分自身の運命を知りつつ何も語らないこと。男たち、女たち、子どもたちがガス室へ入るのを見届けること。叫び声や壁を打ち鳴らす音、最期のうめきを耳にすること。続いて、扉を開けると崩れ落ちてくる、筆舌に尽くしがたい人間の山積み。肉でできた、彼らの肉、われわれ自身の肉でできた「玄武岩の柱」を、まるごと引き受けること。死体をひとつひとつ引っぱり出し、服を脱がせること(これはナチスが脱衣所のトリックを思いつく前のこと)。
 すべての血と体液、積み重なった血膿を、放水で洗い流すこと、金歯を「帝国」の戦利品として取り外すこと。死体を焼却棟の大かまどにくべること。非人間的なリズムを保ち続けること。コークスを供給すること。冷えるにつれて黒味を帯びる、溝から溢れ出す高熱の白っぽい不定形の物質という姿と化した遺灰をかき集めること。産業的破壊に対する身体の最後の抵抗である、人骨を砕くこと。
 これらすべてを山積みにし、近隣の河川に投げ入れるか、収容所近くで建設中の道路の舗装材に用いること。巨大なテーブルで囚人が15人がかりで解きほぐす、150平方メートルの頭髪の上を歩くこと。ときおり脱衣所のペンキを塗り直し、カムフラージュ用の生垣をつくり、想定外のガス殺のために予備の焼却溝を掘ること。焼却棟の大かまどを清掃し、修繕すること。SSに脅かされながら、これらを毎日繰り返すこと。こうして期限の定まらない時間を、酒に酔いつつ、できるだけ早く終わらせようと憑かれたように走り回りながら、昼も夜も働きどおしで生きる続けること。
 ゾンダーコマンドを目撃した囚人によると、彼らは人間の顔をしていなかった、あれは憔悴して狂った顔だった、という。
 ポーランド・レジスタンスの指導部が1944年に写真を発注した。これを受けて一人の民間労働者が強制収容所にカメラをひそかに持ち込み、ゾンダーコマンドのメンバーに手渡すことに成功した。そして、4枚の写真がとられた。
 囚人たちを写したビルケナウの写真を送る。一枚には屋外で死体を焼く火刑場の一つが写っている。焼却棟だけではすべてを焼ききれないのだ。火刑場の前には、これから投げ入れられる死体がある。もう一枚には、シャワーを浴びるためだと言われて、林のなかで囚人たちが服を脱ぐ場所が写っている。その後で彼らはガス室に送り込まれる。
 これは1944年8月にとられた4枚の写真に添えられた文章です。
 ガス室による死はおよそ10分から15分かかる。
 もっとも、おそろしい瞬間は、ガス室を開けるときの、耐えがたい、あの光景だ。
 人々の肉体は、玄武岩と言うのか。まるで石の塊のように凝固している。そして、そのまま、ガス室の外に、崩れ落ちてくる。
 何度も見たが、これほど、つらいものはない。
 これだけは、決して慣れることはない。不可能だった。
 そうなのだ。想像しなければならない。
 この文章を書き写している私の手は震えがとまりません。想像できない世界です。でも、でも、あえて想像しなければいけないのです。
 そして、ビルケナウの地中から、ゾンダーコマンドのメンバー5人の手記が見つかりました。掘り出されたのです。1945年2月、1945年3月、1945年4月、1952年4月、1961年7月、1962年10月、1980年10月にそれぞれ発見されています。フランス語、イデッシュ語、ギリシア語で書かれていました。
 実は、終戦後、近くのポーランドの農夫たちが、この死の収容所にユダヤ人の財宝が画されていると思いこみ、収容所を荒らしました。その難を逃れて発見されたものです。
 自分が何を見たか、何をしたのか、いずれ殺されることが分かっていたユダヤ人たちは、なんとかして、外の世界へメッセージを送りたいと思い、苦労して、苦心して地中深く穴を掘り、ビンの中にメッセージを入れて埋めていたのです。この状況を今の私たちはしっかり想像すべきだと心の底から思いました。
(2006年8月刊。3800円+税)

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