法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: ヨーロッパ

シェフの哲学

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ギイ・マルタン、出版社:白水社
 パリの三ツ星レストラン『グラン・ヴェフール』のシェフが語った美味しい話です。読むだけで思わずよだれがこぼれ落ちてきます。フランス人は食に人生をかけているのです。
 私がフランスが好きなのは、そこに魅かれるのです。あっ、中国人も食を大切にしていますよね。それに比べてアメリカ人って、なんであんなに食事を粗末にするのでしょうけ。ファーストフードなんて、身体にも良くありませんよ。
 原産地証明つきの食材でしか仕事をしない。そのためには納入業者の質が重要だ。その質こそが食文化を洗練するための基礎になる。そして、もっとも時宜にかなった最良の食材を探し求める。季節の移り変わりに完全に合致した旬の食材追求を片時も中断してはならない。これには、強い好奇心が必要だ。
 著者は冷凍魚や長期にわたって氷漬けになっていた魚は断固拒否します。ブルターニュや地中海から直接に取り寄せたものですし、養殖物ではありません。
 食材のなかの最良のものを探し出すのが、シェフの挑戦なのだ。
 な、なーるほど。やっぱり、まずは素材なんですね。インチキ産地はいけません。
 人は単に食べるためだけにレストランにやって来るのではない。期待にみち、喜びを求めてやって来る。だから料理には、香り、味わい、彩りはもとより、質感、たとえばぐっと凝固しているとかスポンジ状であるとか、蜂の巣状であるといった姿。さらに柔らかい、溶ろける、パリパリした、カリカリしたという食感が求められている。
 料理は、感覚全体、つまり味覚は当然のこととして、さらに嗅覚、視覚、触覚そして聴覚の五感で賞味されるものだ。シェフはこんなあらゆる要求を満足させるように、あらゆる期待感を呼び起こすように自分だけのレシピを入念に仕上げる。
 シェフは幸福を売るセールスマンのようなものである。
 多くのシェフと違って、著者はゼロから始めました。業界内にコネはなく、家系も別にありません。今日の有名シェフの多くは、その両親もこの業界に身を置いていたそうです。
 プロフェッショナルな試食・試飲は、冷静に、技術的に、客観的に行われなければならない。著者が自店でつかうすべての食材をパリで試食・試飲するのは、そのためだ。余人を交えずに比較し、メモをとり、議論し、最後に自分たちだけで決める。
 たとえば、フォワグラの生産者が売り込んできたら、その鴨はどのように飼育されたのか、どこから来た鴨か、何日間肥育したのか、肥育にはどのような穀物のどのバリエーションをつかったのか、その原産地はどこか、などを訊く。それに答えられなかったら、話はそこで終わる。それに詳しい説明ができたら、その人が有機農法規則にしたがって仕事をしていたら、見本を求める。そして試食してみる。見本をみて、このフォワグラは、処理場まで生きたまま運ばれたのか、殺されて処理場で取り出されたのか、などを確認する。
 うむむ、おぬし、そこまでやるか・・・。驚きました。
 私はフランス料理のなかでは、リ・ド・ヴォーが大好物なのですが、日本ではなかなかめぐりあうことができません。もし、あなたがリ・ド・ヴォーを食べたことがなかったら、一度、挑戦してみてください。もちろん、人によって好きじゃないということになるかもしれませんが・・・。
 厨房では、舞台裏と同じく、秩序ある興奮が支配していなければならない。
 料理という芸術を実践することは、毎日、綱渡りをしているようなものなのだ。シェフは独奏者であると同時に、オーケストラの指揮者でもある。常に自分の協力者たちの真ん中にいて、ジュを味わい、火入れの加減を確認するまさにその瞬間に、これから起こることを想定し、うまくいかないであろうと思えることを見分け、修正し、改めて必要な説明を行ない、安定して質的に統一されたやり方で、正確なリズムをチームにもたらすことができなければならない。
 もし、シェフが美食の殿堂の警護を自認するなら、それぞれの皿のごく細かい部分までコントロールしなければならず、料理人たちの驚きを誘うことにこだわりながら、新しいレシピを構成しなければならない。そのためには、まず何をおいてもオリジナリティ、創造性、新しいアイデアが不可欠である。
 あらゆる料理は、いくつ作っても同じ出来でなければならない。シェフと同等と考えられているセカンドたちと、スー・シェフは、シェフが不在であっても、火入れの加減、香り付け、盛り付けを変えることなく、それぞれのレシピが料理できなければならない。
 シェフの協力者たちは、単に創造のプロセスを全体として理解しているだけでなく、シェフ固有の感受性にいたるまで、ミリ単位ですべてを転写するように、また、シェフのどんな細かい眼差しの違いにもいちいち対応させられるように同化していなければならない。
 うひょー、これってすごいことですよね。たしかに、毎回ちがった味では困ります。といっても、マックといったファーストフード店のように、全世界どこでも同じ味つけというのはいやですね。私はマックは食べません。合成的な味つけに舌を慣らしたくないからです。あんなものを食べるくらいなら、メロンパンにしておきます。
 フォワグラは、曲げの力を加えたときに割れずに曲げられなければならないし、かといって、あまりにも柔軟であり過ぎてもいけない。つまり、固すぎても柔らかすぎてもよろしくない。その次に、見た目、色、肌理(きめ)が検証される。目に快い仕上がりでなければならない。小さな粒子感があって、高密度に締まっており胆汁の痕跡は無視できる程度でなければならない。
 料理人には味覚がもっとも重要だ。味覚を訓練し、繊細なものにしていかなければならない。これは一朝一夕ではつくり出せない。さまざまな味に徐々になじんでいく必要がある。繊細な舌、繊細な味覚をもつというのは、必ずしも生まれつきの才能ではなく、勉強であり、一つ一つの味や匂いを記憶していくことだ。薫り(アローム)は、個々の食材や香辛料の香りがきわめて複雑にまざりあって出来あがっているものだが、シェフであるからには、さまざまな香辛料を含んだ料理を味わったとき、直接的に何がつかわれているかを識別できなければならないし、つかわれた主な香辛料は何か、これをだいたい把握出来なければいけない。
 むひゃあ、すごーい。とても私にはできそうもありません。さすが三ツ星レストランのシェフですね。そのプライドがよく伝わってくる本です。
 高級レストランの経営も大変なんだという話も出てきます。こんなお店で、気のおけない友だちとおしゃべりしながら美味しく味わいたい、そんな本です。
(2008年2月刊。2700円+税)

ヒトラーとは何者だったのか?

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:阿部良男、出版社:学研M文庫
 文庫本なのに、700頁もあります。ナチス・ヒトラーについて書かれた本を3000冊以上も読んだ人が、そのうちの220冊を厳選して要旨を紹介した本です。なんと、学者ではありません。銀行に勤めながら、長いあいだ、ヒトラー関連の文献を集めたというのです。私も、この220冊のうち、かなりの本は読んでいますが、負けました。といっても、私も、ナチス・ヒトラーに関連する本は300冊は読んでいると思います。
 ある分野について一応読んだと言えるためには最低300冊は読了することが必要だという説を読んだことがあるからです。ですから、私の書庫も、同じテーマのものは、集中しておくようにしています。そのテーマで書くときに必要な文献を、すぐに取り出せるようにするためです。私は、ヒトラーと同じように、ソ連とスターリンについても多くの本を読んでいます。
 ヒトラーは臆病で、総統などという柄じゃない。優柔不断で、考えがぐらつき、人の意見に左右される。いま誰かと話すと、そのたびにころっと意見が変わる。だが、抜け目がなく、立ち回りはうまいし、気の弱い人間に限ってそうなのだが、残忍なところがある。
 これはヒトラーと同時代の人の評価です。なるほど、と思います。ヒトラーは単純な精神異常者ではありませんでした。
 ヒトラーは、暴力行為がもっとも効果的な政治の手段であることはよく理解して実行していた。その効果は噂と恐怖の拡大現象で増殖し、次第に民衆の独立的な抵抗意識を奪っていった。
 アメリカのフォードは、ユダヤ人嫌いで、ドイツに輸出した自動車の売り上げから、ヒトラーに資金援助した。
 ナチス突撃隊(SA)のレームは、資本家と決別することをヒトラーに要求した。それは旧体制との妥協を考えているヒトラーには同意できないことだった。
 ヒトラーが1934年6月にSA隊長レームなど89人を粛清したことからナチ党の腐敗に対する断固たる処置としてヒトラーを高く評価し、神話が生まれた。
 ナチス・ヒトラーは、生きるに値しない障害者を計画的に抹殺した。精神障害者、結核患者、知的障害者など20万人がドイツ内の6施設で薬物やガスで殺された。
 この本で私が初めて知ったのは、アメリカ軍が200万人のドイツ兵を捕虜としたのに、通常の捕虜(POW)として扱わず、扶養する義務のない「新しい身分の捕虜」(DEF)と扱ったことから、100万人ものドイツ人が消えて(死んで)いったということです。アイゼンハワー元帥の考えによるものでした。
 「水晶の夜」の真相は、ゲッペルス宣伝大臣がチェコ人女優と恋に落ちて結婚を望み、宣伝大臣の辞任と日本大使を希望したのに対してヒトラーが怒ったことから、ゲッペルスが名誉挽回を図ったものだというのです。ひどーい話です。
 ホロコーストは、並の人間の想像力をはるかに超えていた。だからこそ、ホロコーストを否定する人々は、現在に至るまで、そんなことはウソだと言いはることができた。ナチ犯罪はあまりにも特異で、容易には理解しがたいものであるからこそ、これを否定しようとする、よどんだうねりは絶えることがなかった。
 それでも、ウソはウソなのです。日本軍が南京で大虐殺をしたことが事実であるのに、あたかもウソであるかのようにいいつのる日本人が絶えないのが悲しい日本の現実です。 1944年7月のヒトラー暗殺計画に直接加担したのは200人近い。21人の将軍、33人の将校、2人の大使、7人の外交官が含まれていた。処刑されたのは年内に5764人、年が明けてさらに5684人だった。ヒトラー最大の危機だったのですね。
 ヒトラーは、人種的観点からはむしろ問題の多い日本人との同盟を拒否はしなかったが、日本との対決を遠い将来に覚悟していた。ヒトラーは、日本が話題になるたびに、いわゆる黄色人種と手を握ったことを残念がる口ぶりを示した。
 ヒトラーは黄色人種、つまり日本人も蔑視していました。ヒトラーの言葉が紹介されています。
 白色人種の国々が結束していれば、極東を手に入れて、日本がこれほどのさばることもなかったはずだ。
 ヒトラーと妻エヴァの遺体は、埋葬場所を転々と変え、1970年4月、ソ連のアンドロポフKGB議長が最終処分を指示した。遺体は火葬され、灰はエルベ川支流に捨てられた。
 ヒトラーについて、その全体像を知る手がかりを与えてくれる本です。
 昨日は絶好の春うららかな日和でした。車で山間部の支部まで出かけました。桜の花がハラハラと散っています。ナシの白い花が満開です。民家の庭先に咲くハナズオウの赤紫色の花があでやかに輝いていました。レンゲ畑となっていた田んぼにトラクターが入って、すきおこしをしています。
 わが家のチューリップは今400本咲いています。いまが真っ盛りで、写真でお見せできないのが残念です。
(2008年1月刊。1300円+税)

オルガスムの歴史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ロベール・ミュッシャンブレ、出版社:作品社
 表紙に書かれていたヌードの絵といい、タイトルといい、みるからに怪しげ気な本ですが、書かれていることはきわめて真面目な本なのであります。
 王妃マルゴは、彼女の奔放さにほとほと手を焼いた兄のアンリ3世から追放されるまでの自身の生涯を才能豊かに語った。おそらく夫のアンリ4世から請求された離婚の交渉を、より有利に運ぼうとして筆をとったのだろう。離縁され、王座からはるかに遠ざけられた王妃マルゴは、自分にとってもっとふさわしいイメージを、自分自身に対して与えようとしたのだ。
 16世紀ころのフランスでは、どれだけ殴っても生命を危険にさらさない限り、妻に体罰を加えてよいという権利が夫の与えられていた。妻は何よりもまず、夫の「所有物」であった。
 強姦は、被害者のほうが、生まれつき持っている好色に身をゆだねたのではないかと疑われるので、法廷でこれを証明するのは、きわめて困難だった。
 イギリスでは、1597年、離婚後の再婚はいかなる場合にも認められないという教会法をイギリス国教会が発布した。このようにカトリックでは結婚は解消することができないとされた。これに対してピューリタンは、結婚をただの非宗教的な契約であり、救済に何の関係もなく、完全に当事者同士の合意にもとづくものであるとみなした。
 フランス革命期の1792年につくられた法令は、離婚権は個人の自由にもとづくものである。離婚は、夫婦相互の合意によって行われる。配偶者の一方は、性格不和を申し立てることのみによって離婚の言い渡しを求めることができるとした。これはすごいですね。今と同じです。
 イギリスの首都には、1750年から1850年にかけて、庶民のあいだに風変わりな離婚の形態があった。妻を競売にかけるのである。もっとも、取り引きは、あらかじめ決めてあった。
 19世紀のイギリスでは男の2重性が発達した。昼は良き家庭の父親であったのが、夜になると厚かましい売春宿通いに変身するのだ。だからこそ、ポルノ文学が隆盛を誇った。そして、この時期は、本能を抑えるように口やかましく説いてまわる啓蒙哲学が盛んだった。
 イギリスでは、マスターベーションは18世紀のはじめに正真正銘のタブーとなった。
 イギリスでは、19世紀のあいだずっと、夫婦生活の営みのとき全裸になるのはワイセツの極みと見なされていた。
 1700年のロンドンには、2万人以上の徒弟がいて、1万人以上の娼婦がいた。
 19世紀のパリとロンドンは、地方からやって来る娼婦であふれていた。ロンドンは 1801年の人口が90万人だったのに1901年には450万人となった。このとき街娼の人数は8万人から12万人だった。パリの娼婦も同じく12万人だった。
 1746年にフランスのトゥールーズで処刑されたプロテスタントの牧師の公開絞首刑には、4万人もの見物人が押しかけた。そのうち2000人は子どもだった。公開処刑は、熱狂的な見せ物だった。
 教科書に書かれていないような生活の真実をいろいろと知ることができました。
(2006年8月刊。3200円+税)

虚栄の帝国 ロシア

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:中村逸郎、出版社:岩波新書
 プーチンのロシアからは目を離せません。どうやら景気はいいようです。
 高騰する原油価格に支えられるロシアは、近年、石油バブルの様相を呈している。2006年の世界主要都市の生活費ランキングで、モスクワが前年の4位から一気にトップに躍り出た。3年連続して首位だった東京は3位に転落した。
 世論調査によると、82%の回答者がロシアでの生活を気に入っていると答え、この5年間で収入が36%上昇したという。
 1970年代から80年代までのモスクワに長期滞在するソ連邦構成国の出身者は5万人だった。いまや、250万人の出稼ぎ労働者がいる。旧ソ連構成国で外国への出稼ぎを希望する人の75%がロシアに来る。その90%が不法就労者であり、ロシア社会の闇の部分に囲いこまれている。彼らは家族を故郷に置いて単身赴任でやって来る。家族への毎月の平均的な送金額は100ドルほど。
 出稼ぎ労働者はロシア経済に貢献している。しかし、その働く場所は、たとえば建設現場のように危険と隣りあわせ。もし災害で負傷したらどうなるのか。
 転落死亡事故が起きて遺体の処理に困って、建物の壁のなかに埋めこまれ、あとで悪臭に気がついた入居者が遺体を発見したケースもある。
 うむむ、これってポーの『黒猫』でしたか、同じような話がありましたよね。
 ロシア全土の警察署で姿を消す外国人が急増しているという噂がある。警察に抗議して消された人は、永久に遺体が発見されることはないだろう。
 モスクワ市警察が正式に確認した外国人の合法就労者は10万人にみたない。300万人の外国人労働者の3%ほどでしかない。
 警察官は抜きうち検査にやって来て、お金を徴収する。警察官の規律の乱れはひどい。社会秩序の再生は、警察官の犯罪をいかに取り締まるのかにかかっているとさえ言われている。警察官たちの大規模な犯罪集団が形成されている。
 タジキスタン大使館は、自国民がモスクワの警察官に不当な暴行などを受けたときの心得を新聞にのせている。モスクワの警察官による傷害事件が後を絶たないために、その未然防止策と、暴行を受けたときの対処法を示しているわけだ。そのいくつかを紹介します。
 自分が取調室にいた痕跡を残す。机の裏に何かを書き記し、殴られたときの血痕を残す。暴行を受けたら、医師の診察を受ける。殴った警察官の特徴をよく覚えておく。同情的な警察官がいないか、見つけておく。
 ところが、この対処法は形ばかりで、ほとんど効果はあがっていない。大使館は、ロシアに抗議することができないでいる。
 ロシアにも外国人嫌いのスキンヘッドが台頭している。
 いやあ、ロシアの闇の深さは恐ろしいものがありますね。
(2007年10月刊。2600円+税)

アレクサンドル?世暗殺(下巻)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:エドワード・ラジンスキー、出版社:NHK出版
 1866年の暗殺未遂のあと、学生紛争に参加した若者たちの多くが、退学処分となった。彼らはたいてい裕福な家庭の出だったから、ロシアの大学を追われた者たちは外国に留学した。
 マルクスは、喜んで彼らに「いろは」から説明した。マルクス以後の哲学は、すべて世界を説明するだけのものだった。マルクスの哲学は世界を変えなければならないというものだ。だが、ロシアはまだ早すぎると厳しく釘を刺した。ロシアにはまだプロレタリアがいないからだ。バクーニンは、ロシアにおける革命の希望をロシアの国民性、圧政者と貴族に対する農民の憎悪においた。地主であり、地主の子孫であるバクーニンは、地主たちが首を吊され、その屋敷が焼かれたステンカ・ラージとプガチョフの乱を楽しそうに想起した。
 マルクスは頭のばかでかい浅黒いユダヤ人であるのに対して、エンゲルスは頭が非常に小さくて、背の高い、亜麻色の髪のアーリア人だった。そして資本家で金持ちのエンゲルスが、天才で反資本主義の闘士であるマルクスの面倒をみていた。
 1868年から翌年にかけて、首都ペテルブルグで学生紛争の新しい波が起こった。ちょうど100年後の1968年6月から東京でも学生紛争が起きました。私は大学2年生のときに体験しました。『清冽の炎』(花伝社)は、そのときの東京大学の様子が詳細に描かれています。
 ナロードニキは、プ・ナロードと叫んで、人民の中へ入っていった。ところが、人民は、想像もできないほど汚い住居と服、非常に不健康で貧しい食事のなかで生活していた。これは動物の生活なのか、それとも人間の生活なのか、疑問を発せずにはいられない。ナロードニキたちは、愛する民衆との交流に耐えきれず、次々に農村を離れていった。4000人のナロードニキが逮捕された。38人が発狂し、44人が獄死し、12人が自殺した。1877年、193人のナロードニキが現体制の転覆を謀って組織をつくったという容疑で裁判にかけられた。その弁護人として、ロシアの花形弁護士が全員集合した。ロシアのインテリに名を知られた35人の優秀な弁護士たちがナロードニキを弁護した。
 判決は、28人に懲役労働、75人に刑罰の宣告、90人が無罪となって、うち80人が流刑された。この迫害は、民衆の中へ入るという平和的な考えを死滅させた。ナロードニキは危険な変貌をとげた。
 ロシア皇帝を暗殺するため、宮殿の地下にダイナマイトが持ちこまれた。鉄道爆破が失敗したあとのことだ。皇帝と息子たちが宮殿内の「黄色の食堂」に入ろうとしたとき、突然、ただならぬ轟音がして足元の床が盛り上がり始めた。もしも床が固い花崗岩でなかったなら、食堂はすべて吹き飛ばされ、皇帝一家は全滅しただろう。
 もし、悪漢どもが皇帝の宮殿にさえ爆弾を仕掛けることができるのなら、どこに安心と安全を求めたらいいのか・・・。
 ペテルブルグは前代未聞のパニックに襲われた。ドストエフスキーの住むアパートの隣にバランニコフが住んでいた。憲兵隊司令官暗殺の共犯者であり、お召し列車爆破事件に参加したテロリスト「人民の意志」一味の一人だった。
 1880年10月、逮捕された「人民の意志」党員たちの「16人裁判」が行われた。うち5人が死刑判決となった。
 アレクサンドル皇帝は3人を減刑し、2人を絞首刑とした。久しぶりの死刑だった。世間の人々は暗殺事件と死刑を忘れていたのに、久しぶりに思い出させられた。
 皇帝を暗殺しようとするグループは、皇帝の外出を常時見張る監視班をつくった。その結果、日曜日に通るコースはいつも同じことが判明した。
 テロリストたちは、皇帝を殺しさえすれば、民衆の反乱が始まると信じていた。彼らの偏執的な願望は、皇帝を暗殺して、革命を起こすことだった。
 1881年3月1日。午後2時15分。アレクサンドル2世が馬車に乗ってすすんでいると、小柄な男が白いハンカチに包まれた爆弾を投げつけた。皇帝は無事で、その男はすぐに捕まえられた。皇帝は、すぐに現場を立ち去ろうとせず、むしろ、現場を見ようと歩いて戻ろうとしたところ、運河の柵のそばにいた若者が皇帝の足元に物を投げつけた。皇帝も周囲を囲んでいた将校たちも、全員いっせいに倒れた。
 出血多量で衰弱した皇帝を運ぶのを手伝った者の中に、3人目の暗殺者がいた。彼は脇の下に書類鞄を抱えていた。これも爆弾だった。彼は前の2人が失敗したときの暗殺者だった。
 ロシアのアレクサンドル2世皇帝が暗殺されるまでのロシア社会の実情、そして暗殺者たちのことがよく分かります。これほど皇帝暗殺に執念を燃やす集団がいて、それを受けいれる素地がロシア社会に会ったことを初めて知り、驚いてしまいました。先日のパキスタンのブット元首相の暗殺も知りたいと思ったことです。
(2007年9月刊。2300円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.