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カテゴリー: ヨーロッパ

フランスものしり紀行

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:紅山雪夫、出版社:新潮文庫
 私は大学生のころからフランス語を勉強していますし、フランスにも5回ほど行きましたので、それなりにフランスのことは知っているつもりでしたが、なんのなんの、まだまだ知らないことばかりだということを思い知らされる本でした。この夏にフランスへ行ってきましたが、フランスへの飛行機のなかで一生懸命にこの本を読んで予習しました。
 パリはフランス語ではパリですが、英語ではパリスと、語尾のスまで発音しますよね。パリの語源はパリシイ族に由来する。
 3年前にはロワールの城めぐりとモン・サン・ミッシェルそしてボルドー、サンテミリオンを歴訪しました。この本にもロワール川流域にある美しい城がいくつか紹介されています。アゼ・ル・リドー城、シノン城、ブロワ城、シャンボール城、シュノンソー城、アンボワーズ城です。その優美さ、壮大さは思わず息を呑み、足を停めてしまいます。素人カメラマンでも美しく撮ることができます。
 そして、この夏は南フランスをまわってきましたので、そちらを紹介します。
 アルルはゴッホが住み、こよなく愛した町です。駅から歩いて10分もかからないところに旧市街入り口の古い門があります。
 ゴッホは、アルルは明るい色彩効果のため、日本のように美しく見える、と言ったそうです。もちろんゴッホが日本に来たことはなく、日本の浮世絵を見ていたことからの連想です。中心部にローマ時代の円形闘技場がほとんど完全な形で残っています。近づくと本当に圧倒されてしまいます。よくもこんな巨大な石造りの建物をつくったものです。この本によると、ローマ帝国が滅亡したあと集合住宅としてつかわれていたのが保存に幸いしたのだそうです。なーるほど、ですね。
 アルルの郊外に有名なゴッホの「跳ね橋」があります。私は20年近く前にアルルの町から歩いていこうとして、見つからずに断念したことがありました。今回、タクシーに乗って「跳ね橋」に行ってみて、歩いていけるような距離ではないことを実感しました。ガイドブックに女性の一人歩きは厳禁と書いてありましたが、私は、女性だけでなく、男性もやめたほうがいいと思いました。なにしろ遠すぎるし、迷い子になるのは必至だと思ったからです。ゴッホの「跳ね橋」は再現されていますが、晴れていたら絵になるロケーションにありました。残念なことに、私の行ったときには曇り空でしたので、絵にはなりませんでした。
 アルルから、タクシーでレ・ボーに行きました。ここは前にも一度行ったことがあるのですが、奇岩城としか言いようのない断崖絶壁の町です。
 松本清張がレ・ボーを題材に『詩城の旅びと』(NHK出版、1989年)という本を書いています。清張は次のように描きました。
 レ・ボーは、アルピーマ山塊の一部が平野に向かって突出した細長い岩山の上にあり、まわりを断崖絶壁で囲まれていて、まさに難攻不落としか言いようがない天然の要塞である。岩山の上に城塞の廃墟が延々と連なっている。
 私も一番高いところまでのぼりましたが、とても風が強くて吹き飛ばされそうなほどでした。写真でお見せできないのが残念です。
(2008年5月刊。590円+税)

ユダヤ人 最後の楽園

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:大澤武男、出版社:講談社現代新書
 ワイマール共和国について、具体的なイメージをもつことができる本でした。ユダヤ人とされる当の本人は、非常にしばしば、あるいはほとんど、自分がユダヤ人だという意識をもっていなかった。ところが、常に周囲からユダヤ人として見られていることを意識することによって、自分がユダヤ人であることを意識するようになっていく。
 うへーっ、そうなんですか・・・。はじめからユダヤ人意識がギラギラしているというのではないのですね。
 ゲットーに閉じこめられていたユダヤ人を次々に解放していったのは、ナポレオンだった。帝位についたナポレオンは征服した各地のユダヤ人を解放し、後の近代市民法に多大の影響をもたらした。ところが、ナポレオンの失脚とともに、ナポレオン法典によってユダヤ人に付与された居住・結婚の自由などが再び制限されていった。
 早くから人権思想に目ざめていたユダヤ人エリートは、いち早くキリスト教社会に同化し、一日も早くドイツ市民になりきろうとした。詩人ハインリッヒ・ハイネも、その一人だった。メンデルスゾーンも、洗礼を受けてキリスト教徒としての体裁をととのえて、ドイツ社会に溶けこもうとした。
 19世紀ドイツで、進取的ユダヤ人3万人が洗礼を受けた。しかし、結局は改宗ユダヤ人だ。ユダヤ人には変わりないと見なされた。19世紀後半の金融都市フランクフルトの銀行業の85%がユダヤ人の経営によるもので、ナチスが政権をとった1933年時点で、全ドイツのデパートの80%がユダヤ人の所有だった。1900年ころのドイツの都市のユダヤ人は、平均してキリスト教市民の4〜7倍の納税者となっていた。
 経済的に独立したユダヤ人は過去の劣等意識を克服しようと、子弟の教育に多大の投資をした。その結果、若い世代から次々にエリートが育っていった。ただし、ユダヤ人は国家の政治・官僚・軍事機構には入りこめなかったため、一匹狼として立身出世でき、しかも社会で高く評価される経営者、医師、弁護士、芸術家、ジャーナリストの分野にすさまじい進出をみせた。な、なーるほど、そういうことだったのですね。
 第一次大戦のとき、ドイツのユダヤ人はその2割、10万人が祖国ドイツのために戦った。このころドイツ最大の経営者になったワァルター・ラーテナウは、AEGグループ 130社の経営者であった。
 ベルサイユ条約の下でドイツ国民の不満と怒りが充満していたとき、ドイツ史上かつてないほどユダヤ人の進出が目立った。そして、きわめて保守的なバイエルンの首相に、ユダヤ人社会主義者クルト・アイスナーが就任した。ところが、1919年に右翼軍人に暗殺された。
 ロシア革命も、ユダヤ人トロツキーのやったことという受けとめ方がなされた。つまり、革命すなわちユダヤ人と理解されたわけだ。
 ワイマール共和国の憲法を起案したのもユダヤ人のプロイスだった。その結果、「ドイツの実情にあわないワイマール憲法」がユダヤ人によってつくられた。そんな批判が高まった。このように、ユダヤ人は、いつも集団的、団体的な責任を問われてきた。
 ワイマール期のドイツで学問・文化をリードしたのは、ユダヤ人エリートだった。アインシュタインもワイマール共和国時代にノーベル賞を受けた(1921年)。
 ドイツの人口のわずか1%にすぎないユダヤ人が大活躍していた時代はワイマール時代をおいてほかにない。
 毒ガス兵器やマイクを開発した主要な人物もまた、みなユダヤ人だった。
 そして、ジャーナリストの多くがユダヤ人だった。反ユダヤ傾向の高まりのなかでユダヤ人が右翼に属するのは不可能だった。そして、そのことが右翼や国粋主義者をさらに怒らせた。
 カフカもフロイトも、この時代のドイツ・ユダヤ人である。ノーベル賞を受賞したドイツ人の3割はユダヤ人だった。
 ユダヤ人はもともと人並みでしかない。しかし、エリート層は認められるために精進し、自己顕示欲のたえざる継続が、結果としてノーベル賞受賞につながった。ふむふむ、なーるほど、そういうことなんですね。ユダヤ人について少し理解を深めました。
(2008年4月刊。700円+税)

美食のテロノロジー

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:辻 芳樹、出版社:文藝春秋
 いやあ、実に美味しい本です。本ごと食べてしまいそうになります。美食の極みですね。ぜひ一度は味わってみたいと思います。でも、たとえばオーストラリアのシドニーにある「テツヤ」という店は、世界でもっとも予約のとれないレストランだというのですから、この本の写真を見てよだれをたらすだけで我慢することにしましょう。
 「テツヤ」は4人の専任スタッフが常駐して予約を受けつけているのに、いつも6ヶ月先まで120席が予約で埋まっている。キャンセル待ちのウェイティングリストにも常時100人いる。うへーっ、恐れいりました。でも、行ってみたいですよ。
 オーナーシェフの和久田哲也は、フランスの雑誌の選んだ世界の三大シェフの一人である。あとの2人は、アラン・デュカスとフェラン・アドリア。アラン・デュカスは私も名前だけは知っています。
 ところが、この和久田哲也は、初めから料理の道を志していたわけではなかった。ワーキング・ホリデーを利用して、22歳のときにシドニーへ渡った。そして、皿洗いから、魚をおろす仕事に移り、工夫しているのが認められて、やがてシェフのアシスタントをしているうちに、料理の基本を叩きこまれた。
 娘の結婚式のレセプション用に200人分の寿司を握ってほしいとシェフに頼まれ、お寿司の雰囲気を感じとれる「かわりずし」を発案した。シャリは型で抜いて、その上に、たたきにした仔牛や、タルタル風にしたマグロをのせる。表面が乾かず、旨みをのせるためオリーブオイルとマヨネーズをつかった。そして、2日間、寝ないで、1人で500個の「寿司」をつくった。仕上がりが美しく、美味しいと大評判をとった。す、すごーい。すごいです。そして、いかにもおいしそうじゃあ、ありませんか。食べてみたいです。私がシカゴの大ローファームに行ったときに出された、とびきり美味しい寿司を思い出してしまいました。アボガド巻きのごまかしばかりではありませんでした。もう20年ほども前のことです。
 試作して納得した料理しかメニューにのせたくなかったので、毎日、試作に明け暮れた。
 店では、一晩に2500皿をつくり、並行して、その場で客の注文を受けての料理も出す。試作品は、まず哲也が1人でつくる。それを2人のシェフに試作させる。次に、シェフがスーシェフに教える。そのスーシェフがつくったものを哲也が食べる。こうやって第三者的な目で見る。
 哲也は、必ず味見をするようにシェフたちに求める。何百回つくっていようと、味見は大事である。味見をしない人間は、料理を単なる作業としか考えていない。パッションのない人間は味見をしない。ふむふむ、なるほど、そういうことなのですね。納得です。
 ミェル・ブラスは料理人にとって必要な資質について、次のように語った。
 繊細な感性が大事だ。料理は写真であるし、建築であるし、科学であるし、感動であるし、幸福である。豊かな感性であればあるほど、その表現は豊かになる。
 2007年。フランス人の料理人の所得番付によると、アラン・デュカスが飛びっきりの1位。2位は、ジョエル・ロブション。その差は大きい。
 アラン・デュカスは33歳で3つ星を獲得した。それ以降、18年間に、3つ星レストラン3ヶ所、1つ星レストラン3ヶ所の合計の星を獲得して、世界中をあっと驚かせた。
 いやあ、一度は行ってみたいですね、こんな美食の店に。写真を眺めているだけでよだれが口中にあふれてきます。美味しい料理を、いかにも美味しそうに撮る写真にもしびれます。
(2008年1月刊。1905円+税)

第三帝国の中枢にて

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ゲルハルト・エンゲル、出版社:バジリコ
 総統付き陸軍副官の日記というサブタイトルがついている本です。総統とは、もちろんヒトラーのことです。本のオビに、「1938年から1943年にわたり、ヒトラーの副官をつとめた若手将校の日記が伝えるナチス・ドイツ深奥の作戦中枢における生々しい人間模様」と書かれています。たしかに、ナチス・ヒトラーとドイツ陸軍との水面下のドロドロとした対立状況が伝わってくる第一級の資料です。先に紹介しましたヒトラー暗殺計画の動きも、この本とあわせて読むと、かなり理解できるところがあります。つまり、ドイツ陸軍内部が必ずしもヒトラー一辺倒だったわけではないことがよく分かります。
 ドイツ国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル長官は、ヒトラーに歯向かうことはほとんどなく、周辺から「おべっか使い」と揶揄(やゆ)されていた。
 ブラウヒッチュ陸軍総司令官も、妻と離婚に際して多額の慰謝料を支払うために引き受けたことから、ヒトラーに借りがあった。さらに新しい妻の素性が怪しかったため、ヒトラーにおもねるしかなかった。
 ヒトラーが任命した軍務大臣フォン・ブロムベルク陸軍元帥は、いかがわしい噂のある女性と結婚したことが原因で失脚した。結婚したすぐあとのことだったので、結婚立会人をつとめたヒトラーは非常にまずい立場に立たされた。保守的な将軍らの抵抗にもめげずに自分の政治的路線を支持してくれた信用できる男、ブロムベルクを犠牲にせざるをえなかったヒトラーは、その後、保守勢力による権力掌握阻止に動いた。陸軍と国家指導層との関係を改善できなかったことから、ヒトラーは常に不安にさいなまれていた。
 イギリス軍がダンケルクから脱出できた裏話も興味深いところです。要するに、ヒトラーが政権を握ったあとに創設されたドイツ空軍に決定的な役割を果たさせる点で、ヒトラーはゲーリングと意見が一致したのだった。ヒトラーが5月24日に停止命令を出したのは、ゲーリングの発言を信頼したから。ヒトラーは、伝統的に保守的傾向の強い陸軍より、空軍には国家社会主義(つまりナチス)の精神がよく浸透していると考えていた。
 ヒトラーは、世界観戦争の観点からも、また国内の士気を高めるためにも、スターリングラードの攻略は欠かせないと考えていた。したがって、ヒトラーは、突撃はやめるべきだという提言には、一切、耳を貸さなかった。
 スターリングラードで、ついにパウルス将軍が降伏したとき、ヒトラーは自分の非を認めようとせず、むしろほかの誰かに失敗の責任を転嫁しようとした。そして、その態度が戦線指揮官らの怒りを買うことになった。
 この日記は危機に直面したときのヒトラーの優柔不断ぶりを伝えている。その一方、ヒトラーには、細かい知識や情報を吸収して記憶する並はずれた才能があった。
 エンゲルが副官になったのは32歳のとき。エンゲルは1943年4月に実戦の指揮官に転出し、最終的には中将にまで昇給し、1944年12月のアルデンヌの森の反撃で負傷した。以下、少し紹介します。
(1938年6月25日)
 ゲーリングは元帥の地位にありながら、次々に陸軍を批判し、偏見にみちた参謀本部攻撃を行い、西部要塞監督局について無礼きわまりない意見をのべた。ヒトラーもこれに同調した。
 (1940年12月18日)
 バルバロッサ作戦の指示が出た。陸軍総司令官から、ヒトラーが本当に戦闘を望んでいるのか、それともこけおどしにすぎないのか探るように命じられた。ヒトラー自身も分かっていないと確信している。ヒトラーは、ロシアは弱い、イギリスの譲歩を期待し、アメリカの参戦はないと信じている。ドイツの空軍力に対する信頼は驚くほど高い。
 (1941年1月17日)
 ヒトラーは、ソ連赤軍の戦闘能力に関して、非常に楽観的だ。武器や設備は時代遅れで、とくに飛行機は少なく、戦車も旧式だ。
 (1941年7月28日)
 レニングラードとモスクワという2つの大きな腫瘍を除去しなければならない。それはロシア国民にとっても、共産党にとっても、大きな打撃となる。ゲーリングは空軍だけでやれると断言するが、ダンケルク以降、余(ヒトラー)は少々懐疑的になっている。
 (1943年2月1日)
 スターリングラードは、もう終わりだ。ヒトラーは深く落ちこんで、ミスや命令不履行がなかったかどうか、くまなく探している。
 軍事戦略の「天才」ヒトラーは、同じ「天才」スターリンとまったく同様の俗物そのものだったことがよく分かります。
(2008年4月刊。2600円+税)

「情熱のシェフ」

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:神山典士、出版社:講談社
 福岡出身のシェフがフランスでミシュランの星を獲得しました。それも、わずか28歳とは、恐るべきことです。この本は、その若きオーナー・シェフである松嶋啓介の足どりを丹念に追いかけています。いやあ、プロの料理人(シェフ)というのは、すごいものです。一度は、ぜひとも味わってみたいものです。
 この本の人物紹介を紹介します。
 1977年に福岡県で生まれる。高校を卒業したあと、上京し、料理学校「エコール辻東京」に学ぶ。渋谷「ヴァンセーヌ」などで働いたあと、20歳でフランスへ渡る。フランス国内で修業を重ね、南仏ニースに2002年12月、25歳のとき自分の店
「Kei’s Passion」をオープン。素材の魅力を存分に生かした斬新な料理が話題を呼び、3年後の2006年、28歳でミシュラン一つ星を獲得した。
 その後、店を拡張し、「KEISUKE MATSUSHIMA」に改めた。近く東京にも進出する。
 ケイは、食材の組み合わせは基本的なものであっても、完成したときに意外性を出す。料理はエンタテイメントなのだから、「驚き」は大切な要素だ。
 まずは食材・素材ありき。食材に対する感動こそ、料理人に対する最大の賛辞となる。料理人は、ある意味で、生産者の通訳である。
 ケイは味覚を複雑にせず、食材の良さを前面に出すような作品を心がける。その代わり、シンプルな料理は味覚の組み立てが完璧でなければいけない。
 ケイにとって料理をつくるのも楽しいことだが、一番うれしいのはフロアーに出て客から「メルシー」と言われた瞬間だ。料理は、自分のためではなく、人に喜んでもらうためにこそある。
 ケイの父は福岡市城南区に住む団塊世代の営業マン。祖父は太宰府に住む。1000坪の農地でニワトリを飼っていた。
 ケイは子どものころ、やんちゃの一言に尽きる悪さ坊主だった。ただし、味覚の良さは抜群だったし、母親はいつも手づくりの料理で、冷凍食品はめったにつかわなかった。
 ケイは東京で調理師学校に通うかたわら、東京の有名レストランを見てまわった。
 ニースのレストランが居抜きで1000万円に売りに出されるのを買ったのです。すごい決断ですね。24歳のときです。25歳の誕生日に店はオープンしました。20歳でフランスに渡って、わずか4年でフランスで店を構えるというのですから、その実行力と決断力は常識はずれのものがあります。
 しかも、開店して3日目には22席が満席になったというのです。
 今や、夏に月商13万ユーロ(2100万円)、冬でも10万ユーロ(1600万円)。1日の売上が平均4000ユーロです。店は150平方メートル(45坪)です。フロアと調理場をあわせて17人。うち日本人が6人(19万円の給与)、フランス人11人。平均年齢は、なんと22.6歳。最年少は15歳。調理場にも16歳2人、17歳、19歳がいる。ニースの料理学校から実習に来ている少年少女たち。
 ところが、スタッフの確保と養成は大変なようです。
 毎朝、市場にまで買い出しに行って、そこで生産者と顔を合わせながら、食材を自分の目で選び、その食材に合わせて料理を考えるというケイのスタイルに大いに魅かれるものがありました。これからも大いに活躍してほしい日本人、いえ福岡県人です。
(2008年6月刊。1700円+税)

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