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カテゴリー: アメリカ

リンカン(下)

カテゴリー:アメリカ

著者    ドリス・カーンズ・グッドウィン  、 出版   中央公論新社
 南北戦争が進行していきますが、北部軍の将軍には問題行動が目立ったりして、なかなか南部軍に勝てません。
 それでも、リンカンは、政府と広く全国の両方で派閥の均衡を巧みに操縦するという無類の手腕を発揮した。半島での大敗退で、連邦を救うには並々ならない政策を必要とすることが明白になった事態は、リンカンに、より直截に奴隷制度に取り組む突破口を与えた。
戦場から日々届く戦報は、南部連合がいろいろの方法で奴隷を使役している様子を歴然とさせた。奴隷たちは、軍のために塹壕を掘り、防御施設を建造した。奴隷たちは駐屯地に連行され、御者、料理人、病院の付き添いとして働いたので、兵士たちは雑務から解放されて戦闘行為に専念できた。
 1862年、奴隷解放宣言は、奴隷の身分にあった350万人の黒人に自由を約束した。この宣言書には軍事上の価値があった。北部軍は兵站の問題に直面していた。奴隷の提供する膨大な労働力が南部連合から連邦側に移るなら、とてつもない利益が得られることになる。奴隷解放宣言は、その適用範囲が叛乱軍の戦列の背後にいる奴隷身分の黒人に限られるという点で即効性には乏しかったが、それは、中央政府と奴隷制度の関係を永遠に変革した。それまで中央政府が奴隷制度を保護していた地域で、今やそれは禁止されたのだ。
 黒人連隊を結成しようとする、やる気満々の動きに、リンカンは大々的に賛意を示した。当初は黒人を武装させる提案に抵抗を示したものの、今では、その計画の実施に全面的に打ち込んでいた。
 南部連合議会は、捕虜になった「武装ニグロ」と「ニグロ隊」を指揮する白人士官は死刑か奴隷刑に処すという条例を議決した。したがって、下手すると自由身分あるいは生命まで失う危険があった。
 1863年11月19日、リンカンがケティスバーグの戦場跡で演説したときの状況も紹介されています。このとき、9000人もの聴衆が演台を囲むように半円をなして広がっていた。リンカンの前の演者は、2時間かけて劇的な3日間にわたる戦闘の一部始終を見事に再現した。そのあと、リンカンが演説しはじめた。わずか2分間の演説だった。
 我々がここで語る内容に世界はまず注意を向けないでありましょうし、記憶に留めもしないでしょうが、ここで彼らの成し遂げたことを世界が忘れ去ることは絶対にありえないのです。・・・この国家に、神の道に適った新たな自由の誕生を実現せしめることなのであり、かつまた、人民による、人民のための、人民の政体をこの地上から死滅させないためなのであります。
 聴衆は微動だにせず、言葉なく立ち尽くした。聴衆は、演説のあまりの簡潔さとその唐突な幕切れに息を呑み、その場に釘付けされた。
 リンカンは祖国の物語と戦争の意味を、すべてのアメリカ国民に通じる言葉と現実に置き換えて話した。父親から聞いた作り話を、少年なら誰でも理解できる物語に夜を徹して手を加えた子どもが、今や祖国のために、過去、現在そして未来を編み込んだ理想の物語を完成させたのであった。そして、それは学生たちによって永遠に朗読され、暗誦されることになる。
 常日頃から緊張をほぐすために物語を人前で話すことを習い性にしていた人間(リンカン)にとって、芝居見物は清涼剤であった。リンカンは、定期的に劇場に通い詰めていた。
 リンカンを生涯支え続けたのは、その内面的な底力であった。そして、大統領としての4年間は、彼の自信を計り知れなく増進させた。就任の初日から直面させられた耐え難いほどの重圧にもかかわらず、リンカンが自信を喪失することはなかった。リンカンは周囲にいる者たちの意気を折にふれて鼓舞し、快活さ、やる気、一貫した目的意識をもって同僚たちを心優しく引っぱった。リンカンは最初の過ちに自ら学び、そのおかげでライバルたちの嫉妬を超越し、また年が改まるごとに人間と事象を貫徹する洞察力を深めていった。
リンカンは内閣のなかの内輪もめに気づいていたが、各自がそれぞれの職務を十分にこなしている限り、陣容の改造はまったく不要だと固く心に決めていた。内輪ゲンカを繰り返す内閣たちも、最終的にはほとんど全員が、自分たちのライバル意識と短気に仁慈をもって対応し、ユーモアに訴えで緊張感をやわらげるリンカン大統領に忠節を尽くし続けた。
暗殺犯が3人いて、リンカンだけでなく、副大統領と国務長官の三人を同時に謀殺する企てだったことを知りました。副大統領を暗殺するはずだった男は直前に気が変わった。国務長官は事故にあって寝ていたところを襲われたが、なんとか助かった。
 そして・・・。きちんとしたいでたちの男があらわれて、ホワイトハウス付きの従僕に名刺を渡し、ボックス席に案内された。ひとたびなかへ入ると、拳銃を構え、リンカンの後頭部に狙いを定めて引き金を引いた。
 南北戦争の実情、奴隷解放宣言が出されるまで、そしてゲティスバーグ演説、さらに大統領暗殺・・・。どれもアメリカという国をよく知るうえで不可欠の出来事だと思いながら興味深く、上下2巻の大作に読みふけってしまいました。
 オバマ大統領の愛読書だそうです。本当かもしれないなと思いました。
(2011年3月刊。3800円+税)

アメリカの公共宗教

カテゴリー:アメリカ

著者    藤本 龍児  、 出版   NTT出版
 宗教の熱は、自由と知識の増大とともに否応なく消え去る。これは、19世紀フランスの社会哲学者トクヴィルが当時のアメリカを観察して導いた命題です。私は真理ではないかと思うのですが、現実は必ずしもそうとは言えません。
このトクヴィルの理論は、現在における事実に合致していない。アメリカでは、宗教右派が全人口の15~18%を占め、大統領選挙の帰趨を左右する勢力となっている。福音派は全人口の30~40%を占め、高学歴・高収入の人々の4分の1が自分は福音派だと答えている。
 オバマ大統領は就任演説において、神を信仰する人々だけではなく、信仰をもたない人々をもアメリカ国民としてかぞえあげた。就任演説という公共性のきわめて高い場で、アメリカ大統領が信仰をもたない人々にまで言及したのは異例のことである。
 現代のナルシズムは、屈折したかたちではあれ、他者を必要とする。ナルシストは、喝采を送ってくれる聞き手がなくては生きてゆけない。
 原理主義は、もともとはイスラムではなく、アメリカのプロテスタント神学の一潮流として生まれた。原理主義という思想や世界観は、1910年代から1920年代にかけてアメリカで生じてきた。世界中で原理主義がテロをあおり立てていて、とても危険な状況をつくり出しています。宗教者って、宗派を問わず、もっと他人に寛容であってほしいものです。
 イギリスにおける宗教改革は、ヘンリー8世の離婚問題という、主に世俗的な理由から始まった。分離派の一部の人々は、1608年弾圧を逃れてオランダへ渡り、次いで1620年にアメリカへ巡り来た。ピルグリム・ファーザーズである。しかし、その乗船者の半数以上はピューリタンではなかった。メイフラワー号には、経済的な余裕がなかったので、聖徒だけではなく、よそ者が乗船していた。
 分離派のピューリタンは貧しい農民や労働者だったのに対して、非分離派のピューリタンは富も地位も持っていた。この非分離派のピューリタンは、あくまで自分たちの信仰の自由を認めたのであって、信仰を異にする人々の信仰の自由までは認めず、それどころか迫害までした。
 ワシントンやジェファーソンなど、独立革命の指導者が持っていた思想は、ピューリタニズムではなく啓蒙主義だった。建国の父たちをはじめ、現在のオバマ大統領に至るまで、神に言及していない大統領は皆無であるが、同時にキリストの名に言及した大統領も皆無である。そうすることで、多様な人々が、多様な神のイメージをそこに読み込むことができるようにしている。
 アメリカで政教分離とは、あくまで国家と教会との分離のこと。アメリカにおける政教分離とは、政治と宗教の分離でもないし、国民と宗教の分離でもない。その理念は、あくまで国家が特定の宗教と深くかかわってはならないことを意味するだけで、政治的領域に宗教的次元があることを否定してはいない。
 リンカーンは、アメリカ史上もっとも宗教的な大統領であるとされるが、実際は、一生を通じて洗礼を受けたことはなかったし、どの宗派にも属していなかった。人民の、人民による、人民のための政治というリンカーンの言葉は、アメリカにおいては、神の後ろ盾なしには成り立たないものである。
こうなると、アメリカって日本人の私たちからすると、まるで変てこりんな国としか言いようがない気がします。こんなことを言うと怒られるのでしょうか?
(2009年11月刊。2800円+税)

チルドレン・オブ・ザ・レインボー

カテゴリー:アメリカ

著者  高砂 淳二    、 出版  小学館 
 ハワイをめぐる素敵な写真集です。ともかく色がいいのです。みるみる眼と心が惹きつけられます。豊かな色彩のなか、動物も植物も、そして空と海までが生き生きと表現されています。
 残念ながらハワイ島には行ったことがありません。でもこんな豊かな大自然の真っ只中に自らの身を置いてみたいと思わせる躍動感あふれる写真集なのです。
 カラフルなヤモリの写真があります。ヤモリなら、我が家にも夜になると、台所の窓にいつもへばりついています。ハワイのヤモリは舌を出して、おどけてみせています。その愛らしさはたとえようもありません。
 小鳥たちもいます。ペットの小鳥たちが野生化したようです。仲むつまじいブンチョウのカップルは枝で身を寄せあっています。ほのぼのと心温まる情景です。
 海に行くと、巨大なマンタが悠然と海中を泳いで通り過ぎていきます。大きなクジラが海面に頭を出して、思い切り息を吐き出します。遊び好きのイルカは、ヤシの実をつかまえてキャッチボールをします。若いザトウクジラが寄ってきて、あんた、だーれと問いかけます。
日頃つい忘れかけていますが、私たちだって大自然の中にいきていることを実感させられる写真集です。
(2011年5月刊。2500円+税)

フィデル・カストロ(下)

カテゴリー:アメリカ

フィデル・カストロ(下)
著者    イグナシオ・ラモネ  、 出版   岩波新書
 キューバから27万人がアメリカに向けて脱出していった。1959年から62年にかけてのこと。これには医師、技術者などの知識人が数多くふくまれていた。その結果、キューバは専門職の欠乏に直面し、それに耐えた。彼らは、20倍も多い給料や物質的価値を求めてアメリカへ行った。キューバ政府は、教育面で甚大な努力を払うことによって専門職の欠乏に耐え、しのぐことが出来た。
 アメリカは、キューバからの不法移民を促進する法律をつくった。船や飛行機を乗っ取ってアメリカへ脱出しようとする者に、アメリカはあらゆる権利を認めている。これは犯罪を奨励しているようなものだ。逆に、アメリカ人がキューバを許可なく訪問したりすると、最高25万ドルの罰金が科せられる。それに企業がからむと、罰金は最高100万ドルにもなる。
 キューバ高官が汚職・腐敗で逮捕され、死刑に処せられた事件がありました(1989年)。そのことについて、カストロは次のように語っています。
 権力は権力だ。権力をもつものにとって、もっとも重要なたたかいはたぶん己とのたたかい、自分自身を統御するたたかいだろう。それは、恐らく、たたかいのもっとも難しい部類に属す。その高官たちは麻薬密輸業者と取引していた。コロンビアのエスコバルから海上で6トンもの麻薬を受けとってアメリカに運ぶという話だった。そして、彼らは、それがキューバに役立つと信じていた。
 この事件では高官たち4人が反逆罪で有罪となり、銃殺刑に処せられたのでした。
カーターは、カストロの知るもっとも良いアメリカ大統領だったと高く評価されています。そして、エドワード・ケネディについても、文句なしに才能のある人物だとされています。
 キューバには政党が一つしかなく、反体制派がいて、政治囚がいるという批判に対して、カストロは次のように弁明しています。
 我々は唯一の政党ではなく、世界で一党制を維持している唯一の国でもない。
チリのアジェンデとベネズエラのチャベスについて、クーデターに対する対処法のアドバイスが違っていたとカストロは語ります。
アジェンデには兵士が一人もいなかった。チャベスは陸軍の兵士と士官の大部分、とりわけ若い兵士をあてにすることが出来た。だから、カストロは、辞任するな、辞めてはならないと伝えた。
これに対して、アジェンデに対しては抵抗するよう伝えた。アジェンデは誓ったとおり、英雄的に死んでいった。
キューバには、現在、1959年当時に残っていた医師の15倍もの医師がいる。このほか、何万人もの医師が世界40ヶ国で無料で働いている。キューバ人医師は7万人いて、医学生は2万5000人いる。医学関係の学生総数は9万人にもなる。今、キューバは世界一の医療資本を築こうとしている。
 幼稚園から、9学年までの通学率は99%。生徒一人あたり教師の多さと一学級平均の生徒数の少なさは世界一だ。国が報酬を与えながら教育する制度が17歳から30歳まである。博士課程まで、誰でも一銭も払わずに教育を受けられる。革命前の30倍もの大学卒業者、知識人、職業芸術家がいる。芸術学校で2万人の若者が学んでいる。
キューバ人民の85%は住宅の所有者で、住宅に関連する税金はタダ。残り15%は、月給の10%の格安賃料を支払うだけでよい。
 キューバに行ったことはありませんが、アメリカのマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』にも出てきましたが、キューバの医療水準は高くて無料だというのですから、日本人からすると夢のような話です。国家経済は大変ですし、決して豊かな生活を人々を過ごしているということでもないようですが、安定した生活が続いていることは間違いないところでしょう。
 キューバのカストロの話を一度聞いてみるのもいいことだと思い、紹介しました。
(2011年2月刊。3200円+税)

リンカン(上)

カテゴリー:アメリカ

著者    ドリス・カーンズ・グッドウィン  、 出版   中央公論新社
 人民の、人民による、人民のための政治。
 忘れることの出来ない、きわめて簡潔な民主主義政治を言いあらわした言葉(フレーズ)です。アメリカを二分して何十万人もの戦死者を出した南北戦争。それを引っぱっていったアメリカの大統領として、リンカン大統領ほど有名なアメリカの大統領はいません。そのリンカンは、実は貧乏な家に生まれ無名の弁護士としてスタートしたのでした。そして、意外にも大統領選挙に勝ち抜くや、それまでの政敵たちを自らの内閣の有力メンバーに取り込み、しかも相互に深い信頼関係を築き上げたというのです。オバマ大統領がヒラリー・クリントンを国務長官にしたのと似ていますね。ただ、リンカンも、軍隊の指導部の人選には苦労したようです。さまざまな派閥均衡人事が軍事作戦にプラスするとは限らないのでした。ただ、リンカンには時の運がありました。
 リンカンの容貌は、とても美男子に属するものではなかった。漆黒のもじゃもじゃ頭、しわの深く刻まれた褐色の顔、深く窪んだ両眼は、実際の年齢よりも老けこませていた。しかし、リンカンがいったん口を切ると、悲哀にみちた表情はたちまち霧散した。愛嬌のある笑顔を輝かせ、一瞬前まで悲しみで凍てついていたところに、鋭敏な知性を、心底からの本物の優しさを、そして真の友情の絆を認めることができた。なーるほど、すごいですよね。
リンカンは、人生を肯定するのに十分なユーモアのセンスと失敗からはいあがる絶大な回復力を有していた。若いリンカンに強い自信をもたせたのは立派な体格と腕力だった。明るく冴えた、好奇心の強い、そして極端に辛抱強い心根は、リンカンの持つ生来の資質だった。
 子どものころ、父親のにっちもさっちもいかない田畑で長時間はたらかされた経験のあるリンカンは、土を耕すことがロマンチックだとも気晴らしになるとも一向に思えなかった。
 当時のアメリカは、若者たちの国だった。28歳のリンカンも文化講演会で熱っぽく語った。リンカンの父親は、読み書きを一度も学んだことがなく、文字を書くといっても、自分の名前をへたくそに署名するだけだった。
 リンカンの育つ過程で最初の自信を植えつけたのが実母の愛情と支援のなせる業であったとしたら、それを後々支払えたのは、リンカンを実子のように愛した継母だった。
 1850年ころのアメリカは、人口2300万人。その大部分は田園地帯の広がる国で、人々の最大の関心事は政治と公共の問題だった。政治の闘士の第一の武器は弁舌力だ。雄弁の才能は政治の世界で成功を手にするカギだった。リンカンも幼いころから、その切り株の上に立って遊び仲間に演説しては腕を磨いていた。
 1852年に発刊された『アンクル・トムの小屋』は、1年のうちに30万部を売り上げた。リンカンは奴隷所有者を手酷く叱りつけるよりは、むしろ彼らの立場に立って共感することで理解しようと努めた。
リンカンは、努力、技量、幸運の組み合わせによって着実に地歩を固めていった。リンカンは確実に知っていること以外はみだりに口にしなかった。言葉に対する生来の細心な感受性と精確さ。また、さまざまな聴衆を前にして滅多に迎合しなかった。
奴隷制度問題だけに争点をしぼって選挙を戦っていたら、リンカンは敗北していたかもしれない。
 南北戦争が始まったとき、北部の熱狂的な連帯意識は、南部の勢力と覚悟を見くびっていた。戦争を60日以内に終結するものと予測していた。しかし、ブルラン戦での目をむくばかりのどんでん返しと壊滅的な敗走を経て、北部人たちの抱いていた勝利への容易な錯覚は霧散した。
 上巻はリンカンが大統領になるまでの苦労、そして南北戦争がついに勃発したところで終わっています。リンカンを知るって、アメリカを理解するためには不可欠なんだと改めて思いました。上巻だけで630頁をこす大作であり、読みごたえ十分です。
(2011年2月刊。3800円+税)

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