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カテゴリー: アメリカ

ある奴隷少女に起こった出来事

カテゴリー:アメリカ

著者  ハリエット・アン・ジェイコブズ 、 出版  大和書房
アメリカで黒人奴隷制度が続いていたときの実話です。
 セクハラする白人の主人の手から逃れるため、別の白人男性の愛人となり、2人の子をもうけ、さらには奴隷主の家からひそかに脱出したあと、実はすぐ近くの知人の家の屋根裏部屋に7年間も潜伏していたのでした。7年後、ようやく北部へ逃れました。しかし、そこにも南部から追っ手が来て、気が安まることはありません。19世紀前半の話です。
 7年間の潜伏といっても22歳から29歳という、青春まっただなかを暗くて狭いところに閉じこもって生活していたわけです。周囲の支援体制があったからこそなしえたことでしょうが、それにしてもやっぱり本人の意思の強さには脱帽ですよね。
晴れて自由の身になったあと、南部に戻って、解放奴隷のための学校を設立したり活発な黒人活動家として過ごし、84歳に亡くなりました。
 ところで、この本は自費出版で世に出たものの、120年間も忘れられていたのが、1987年に再発見され、しかも事実に非常に忠実な自伝であることが証明されて、アメリカでベストセラーになったのでした。
2人の幼い子どもと、すぐ身近にいながら別々に生活する日々を7年間も続けたなんて、いやはや奴隷制度というのは、本当に非人間的なものですね。
 ただ、奴隷制度を利用する白人ばかりではなかったことが、少しは救いです。でも、結局、映画『リンカーン』にあったように南北戦争に突入してしまうわけです。
理性が暴力を打ち負かすには、多大なる犠牲が必要なのですね。人間社会の不条理を痛感します。読みやすい訳本になっています。
(2013年7月刊。1700円+税)

アメリカ黒人の歴史

カテゴリー:アメリカ

著者  上杉 忍 、 出版  中公新書
2010年にアメリカの全人口3億9000万人のうち白人は2億人近く(64%)、ヒスパニック系は5000万人(16%)、黒人は3900万人(13%)、アジア系は1500万人(5%)となっている。
ヒスパニック系が黒人を上まわったのは1990年の調査からだった。しかも、統計に出てこないヒスパニック系住民(不法入国者)が1000万人いると推測されている。
オバマ大統領はアフリカから連れてこられた黒人奴隷の子孫ではない。ケニア出身の黒人留学生とカンザス出身の白人女性との間に生まれ、継父とともにインドネシアで育ち、思春期はハワイの白人社会の中で過ごした。オバマは黒人社会で生活したことがなかった。そして、大学を卒業してから、シカゴの黒人コミュニティーで地域活動を開始した。
 いま、アメリカでは貧しい人を中心とする犯罪経歴者500万人は選挙権を剥奪されていて、200万人以上の受刑者は投票できない。
 アメリカの「独立宣言」を起草したジェファーソンは数百人もの奴隷を所有していた。そして、ほとんどの奴隷を解放することがなかった。黒人は生まれつき劣った存在であることを「科学的」に論証した。
 合衆国憲法は、奴隷制と奴隷所有階級の支配権を保障したものだった。1860年のリンカーン大統領のまえの大統領の大半は奴隷主だった。
奴隷主は、家族もちの奴隷のほうが従順であることを知っていたから、奴隷財産をふやすためにも、奴隷の結婚を奨励した。
 奴隷は、自らの意志で相手を選んで結婚することが多く、そこには奴隷の主体性が表れた。
奴隷たちは、さまざまな形で抵抗した。主人が見分けにくい抵抗は「ふり」をすることだった。愚純さを装ったり、主人を喜ばせる幸せな表情を装ったり・・・。
 南北戦争の前までに「地下鉄道」などを通じて、南部の奴隷7~10万人が北部に脱出したと推定されている。
 1861年、南北戦争が始まった。南部の利点は、職業軍人の多くが南部出身で、早くから準備を進めていたこと、イギリスの支援を期待できること。しかし、南部は海外からの補給なしには生活物資や武器の調達が困難だったし、人口の38%を奴隷が占めるという深刻な弱点があった。北部の連邦軍は、途中から黒人を受け入れはじめ、合計40万人が連邦軍に入った。
奴隷解放宣言は、南部社会の基盤を揺さぶり、イギリスの介入を阻止することを狙ったものだった。
 イギリスは既に植民地奴隷制を廃止しており、奴隷制擁護を掲げる南部を支持するのは世論の反発が予測された。しかも、戦況は南部に有利に動く気配がなかった。
 1900年ころ、南部で白人支配層は裁判所を握り、罰せられることを心配せずに反抗的な黒人に暴力を振るった。「人種エチケット」を守らない黒人はリンチの対象となった。
 1889年から1932年までに記録されたリンチ被害者は3745人で、その処刑儀式には白人の指導的人物が加わっていた。特別列車を仕立ててやった2000人の群衆による公開リンチがあった(1899年、ジョージア州)。
 リンチは、白人共同体を白人男性のもとに結束させる儀式でもあった。
1920年代に労働運動が厳しく弾圧され、1921年に500万人だった組合員数は1933年に300万人以下になった。しかし、大恐慌のもとで回顧反対運動やストライキを闘い、反撃体制に入った。そして、ニューディール政策のもとで、労働者の団結権と労働組合の団体交渉権が認められると、労働者は大挙して労働組合に入った。
 CIOには黒人や女性を受け入れる組合が多く、1938年には、AFLよりも多い370万人を組織していた。CIOの運動には、当時、勢力を拡大しつつあった共産党が参加し、彼らの戦闘的反人種主義は黒人労働者をひきつけ、CIOの中に反人種差別的政策をもちこんだ。
 第二次大戦中、100万人の黒人が軍隊に入り、海兵隊や沿岸警備隊にも黒人は配置された。黒人にとって、軍隊での生活の法が一般社会での生活よりもましだった。衣食住を確保したうえ、技術や知識も獲得できた。そのうえ、賃金も定期的に支給された。多くの黒人にとって、人生初めての安定した生活だった。
 黒人新聞は、黒人兵に対する不当な取り扱いを曝露し、糾弾した。軍隊での職業訓練や教育、そして戦闘経験を通じて、黒人はかつてなく誇り高くなった。
アメリカの「監獄通過人口」は年間1000万人。監獄内での暴力的支配関係の形成があり、ギャング組織メンバーを増やして一般社会に流出している。監獄内で暴力化することにより、再び監獄に戻る率が高まっている。
 人口に応じて割り当てられる国からの補助金について囚人には選挙権がないので、白人が人口に不釣りあいに大きな代表権を得る。そして、彼らは、厳罰化を主張する候補に投票し、厳罰主義が政治の世界で大きな影響力をもつようになる。
 カリフォルニア州では、刑務所予算が州立大学予算を上回って久しい。
 大量収監は、「社会を安全にする」というよりは、家庭崩壊を推進し、社会を腐朽させ、貧しい人々から政治的発言権を奪い、貧しい地域を一生さびれさせ、社会をより危険にさせている。しかし、政治家がこの問題に立ち向かうにはあまりに危険であり、政治的な展望もない。
 アメリカにおける黒人の苦しく厳しい課題の一端を知ることができました。
(2013年3月刊。820円+税)

(株)貧困大国アメリカ

カテゴリー:アメリカ

著者  堤 未果 、 出版  岩波新書
アメリカの低所得者層に提供するシステムは、前は「フードスタンプ」と呼ばれていたが、2008年10月からSNAPと名称が変わった。クレジットカードのようなカードをSNAP提携店のレジで専用機に通すと、その分が政府から支払われる。このカードでは食品しか買えない。SNAPは月に1度、夜中0時に支給されるため、毎朝、その日は夜中すぎから全米各地の安売りスーパーに受給者があふれる。
 4人家族で年収230万円以下という、国の定める貧困ライン以下で暮らす国民は4600万人。うち1600万人が子どもだ。失業率は10%に近い(9.6%)。潜在的失業者も加えると、実質20%の失業率だ。16歳から29歳までの若者の失業率は、2000年の33%が、2010年には45%へ上昇した。経済的に自立できずに、親と同居している若者は600万人いる。
 SNAPの受給者は年々増加している。1970年には国民の50人に1人だったが、今では(2012年)7人に1人、4700万人がSNAPに依存して生活している。
 SNAPへの支出は2011年は、2008年の2倍、7兆5000億円。にもかかわらず、アメリカ政府はSNAPの広告予算を増やして、もっと受給するように呼びかけている。なぜなのか・・・?
 SNAPの利用者が増えると、食品業界の消費が増えるからだ。コカ・コーラ社やウォルマートなどがSNAPから大きな恩恵を受けている。そして、肥満による病気が増えているため製薬業界がうるおっている。さらには、SNAPカード事業を請け負う金融業界もSNAPを後押ししている。
貧困児童は、そうでない子どもより肥満率が7割も高い。そして、子どもの医療費は増えている。
 SNAPのコールセンターの仕事はインドの企業に外注している。
アメリカ人は、安い食べ物という幻想を見せられている。食べ物は、加工すればするほど、店のレジで支払う代金が安くなる分、栄養が減り、添加物の増えた食品で健康を損なったり、大量生産工場による環境破壊という形でツケが回ってくる。低価格神話に目がくらんだ消費者は、それをカバーするための公共料金や医療費の請求者は、結局、消費者が支払わされる。
 1990年代から刑務所産業が急速に花開いた。アメリカの囚人人口は、1970年から2010年までの40年間で772%も増え、今や600万人をこえている。
 民間刑務所ビジネスの代表は2社ある。今では、最低時給17セントの囚人労働者が底辺を支えている。
 堤さんのアメリカ・レポートを読むたびに、日本はアメリカを手本にしてはいけない、アメリカのような国になってはいけないと痛感します。でも、まだまだ多くの日本人がアメリカを崇拝し、少しの疑いもせず信じ込んでいるのですよね。怖いですね・・・。
(2013年6月刊。760円+税)

「ローマの休日」を仕掛けた男

カテゴリー:アメリカ

著者  ピーター・ハリソン 、 出版  中央公論新社
ご存知、かの有名なダルトン・トランボの伝記です。ええーっ、ダルトン・トランボなんて聞いたことがないんですって・・・。でも、映画「ローマの休日」なら見たことがあるでしょ?オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックは、これで映画史上、不動のスターになりました。私も、この映画は何回かみました(テレビでも)。みるたびに泣かせてくれますよね。
 そして『スパルタカス』『ジョニーは戦場へ行った』など、たくさんの映画史に残る名画の脚本を書いています。アメリカ共産党員だったダルトン・トランボはマッカーシズムの赤狩りで映画界を追放され、他人の名前で脚本を書くようになりました。その一つが『ローマの休日』なのです。すごいですね。そして、見事に映画界にカムバックを果たすのでした。
 「ハリウッド・テン」といって、赤狩り旋風の吹き荒れるなかで、仲間を裏切らなかった一人なのです。その点、『エデンの東』のエリア・カザンとは違います。人生の最後まで見事に信念を貫き通したのでした。
 ダルトン・トランボは見事なたたかいをした。才能あふれた芸術家であり、情熱的な活動家であり、そして真の「アメリカ市民」である。トランボはハリウッドにおける1940年代でもっとも卓越した脚本家の一人としての地位をいかし、信念を貫く理想的な人間像を描いた。そして、自らの信念を貫いたがために脚光を浴びる立場を失うと、トランボはまったく新しい生活を始め、1976年に亡くなるまで、言論と思想の自由を一層声高に訴え続けた。
トランボは1年近く警務所に入れられた。アメリカの映画産業で最高の報酬を得ていた作家から、一転して、失業した囚人となった。
 しかし、収監されても、トランボの生活の糧(かて)を奪うことも、市民の反抗というトランボ作品の代名詞をねじ伏せることもできなかった。トランボはハリウッドの闇市場で13年間にわたって脚本を書き続けた。
もっとも大切なことは、トランボは政治をムダ話に終わらせなかったこと。トランボの作品に登場する人物が抱いているのは、怒りというより悲しみだ。多くの右翼政治家が「卑怯なアカ」を悪者にして自らの名を上げようとしていた時代に、トランボは毅然とした左翼だった。同時に、トランボは人道主義者であり、詩的とも言える作品を描く類い稀なる職人だった。
『東京上空30秒』という映画があるそうです。知りませんでした。日本への空爆に志願したB25戦闘機の乗組員のストーリーのようです。トランボは、兵士たちが東京の空襲に備える様子を綿密に描いている。
 戦後、1947年10月、トランボはアメリカ連邦議会に召喚されます。
 トランボは、簡単に答えるように求められたとき、次のように答えた。
 「非常にたくさんの質問にイエスとかノーで答えられるのは、間抜けな奴か奴隷だけだ・・・。これは、アメリカの強制収容所の始まりである」
 1950年夏、トランボはケンタッキー州の連邦刑務所に入れられた。そして1951年11月、出所してメキシコに移住。
 トランボは、最盛期に1本の脚本で7万5000ドル稼いでいた。それが地下潜伏中には、1本わずか1000ドルしかもらえなかった。だから、トランボは質ではなく、量に専念した。
 『ジョニーは戦場に行った』は、いかにも衝撃的な反戦映画でした。上肢も下肢もなくし、実は顔まで奪われた元兵士が、モールス信号で自分の意思を伝達するという話です。といっても、それ以上は思い出せません。トランボは、この小説を自分で書いて、この映画の監督になったのでした。ところが著者は、この脚本の出来はひどいものだと酷評しています。そうなんです。この著者はトランボを天まで高くもち上げているのではありません。冷静に客観的に分析しようとしています。ですから、一味ちがった面白い評伝になっています。
私のような映画好きの人には、こらえられない本です。
(2012年5月刊。3200円+税)

真珠湾からバグダッドへ

カテゴリー:アメリカ

著者  ドナルド・ラムズ・フェルド 、 出版  幻冬舎
アメリカの国防長官を2度もつとめた著者の自伝です。世界に冠たる帝国主義の中枢にも想像した以上に激しい競争、権力闘争そして嫉妬心がうずまいていることが分かりました。
 アメリカだって、いつまでも世界の憲兵を気取っておられるはずもありません。とりわけ、最近では例の無人機攻撃は卑怯としか言いようがありません。パキスタンやアフガニスタンの人々の怒りはもっともだと思います。これではテロリストと同レベルで、暴力の連鎖を続けるだけなのではないでしょうか・・・。
 ニクソン大統領についてのコメント。もともと打ち解けない性格のニクソンは、常に人目にさらされる政治の世界で20年以上も生きてきた。本来なら、のんびりくつろぐはずのフロリダの太陽の下でも、ニクソンはどこか堅苦しく事務的な態度だった。
 ニクソンには、いわば側近グループが二つ以上あり、大統領はそのときの関心事や気分に応じて、それらの間を行ったり来たりした。目的が変われば、利用するグループも違った。ニクソンは、しばしば秘密裡にことを進めた。
 ウォーターゲット事件によってニクソンが辞任し、フォード大統領になって、著者は首席補佐官に就任しました。
 たいてい立ったまま仕事をするスタンドアップ・デスクに向かう。その方が1日12~15時間の執務に集中しやすいからだ。手元には常にボイス・レコーダを用意し、口述の内容を秘書に書きとらせ、しかるべき相手に届けさせる。
フォードは人間として善良だが、一国の大統領としての能力に欠けるという評判があった。そしてホワイトハウスの運営は混乱していた。
 著者はブッシュをCIA長官の候補者として「水準以下」と評価しました。
 アメリカがベトナム侵略戦争で惨めに敗北したとき(1975年4月29日)、著者は大統領首席補佐官でした。このとき、私は弁護士になって2年目でした。
ベトナム戦争の不幸な終焉を目撃した大勢の軍関係者やアメリカ市民は、二度と熾烈で忌まわしい反乱型の戦争に足を突っ込まないと誓った。そして、内向きになり、ソ連やその代理国が仕掛ける戦争を見て見ぬふりをしていた。ベトナム撤退は、米国の弱さの象徴となり、さらなる攻撃を招くことになる。
 権力を握る帝国主義者というのは、このように自らの誤りを認めず、反省というものをしないのですね・・・。
我々の敵にとって、ベトナム戦争後の米国は弱体化した国に見え、それが相手側の挑発的な行動を許してしまった。
 このようにアメリカは、もっと軍事的に強くなれというのが教訓だというわけです。恐ろしい軍拡路線です。
 1975年に著者は国防長官に就任する。このころ、アメリカでは核攻撃に備えて死の灰を逃れるシェルター付きの家が多く建てられた。学校では、子どもたちに核攻撃に備えたサバイバル訓練を教えた。今から考えると、本当にバカげたことですよね。核戦争が起きたら、人類は死滅する死滅するしかありません。シェルターなんて、何の役にも立つはずがないのです。
 ところが、戦争の脅威をあおりたてる死の商人と、それに結びついた政治屋がアメリカにも日本にも存在します。
鉄のトライアングルがある。連邦議会と国防総省の軍人・文民官僚そして軍需産業という三者が既得権益で結び付いている。戦争でもうける連中が、今も昔も、そしてアメリカにも日本にもいるわけです。怖い連中ですが、表面的には狼の顔つきをしているわけではないので、見抜きにくく、タチが悪いですね。
 著者はカーター大統領をまるでバカにしています。あまりに弱腰に見えたからです。そして、著者自身が大統領選に打って出ようとしたこともあったのでした。しかし、お金が集まらなかったようで、早々に撤退してしまいました。
 そして、さしもの著者にも家庭の問題が発生します。二人の子どもがドラッグに溺れてしまったのです。
ブッシュ大統領について、著者はとても同情的で、高く評価しています。信じられないほどの持ち上げようです。
 ブッシュは英語の使い方を間違えて自分を自分で笑いものにするが、これは自分に満足し、自信を持っているからだ。その冗談は緊張をやわらげるためで、効果を発揮した。ブッシュは、すぐれた洞察力をもっていて、人間をよく分かっている。うひゃあ、ここまで高く持ち上げていいものですかね・・・。
 コンドリーザ・ライスについては辛口です。会議がきちんと準備されていないことが多かった・・・。
 9.11のとき国防長官だった著者は、これまでのテロリズムへの対応は有効ではなかった。アメリカは遠慮がちで、ときには無力だった、と総括します。これは怖いですね。力ずくでテロリズムを抑えこむことができるものと本気で信じているのです。
アメリカは世界規模の軍事作戦をとって、テロリストを守勢に追い込まなければいけない。
軍事力に頼ることしか頭にない権力者ほど、こわいものはありません。アメリカにとっても世界にとっても不幸をもたらす人物です。
イラク侵略作戦について次のように著者は自慢しています。
 フセインの暴政を排除したことで、より安定した安全な世界が実現したのだ。
本当にそう言えるのでしょうか。軍事力に頼るだけしかない。著者の怖い体質は、必ずや反動(リアクション)を招き、果てしない暴力の連鎖を招くと思います。
 私は、福岡出身の中村哲医師のアフガニスタンにおける地道な努力こそ世界と日本を救うものだと確信しています。暴力と軍隊に頼らない道を実践している中村医師の行動を日本は国家的に今こそ顕賞し、後押しすべきではないでしょうか。
 850頁もの大作です。飛ばし読みして、なんとか読了しました。
(2013年3月刊。2600円+税)

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