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カテゴリー: アジア

台湾の少年(1~4)

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 周 見信 ・ 游 珮芸 、 出版 岩波書店
 日本統治下の台湾で少年時代を過ごした蔡(さい)焜霖(こんりん)は、だから日本語ペラペラです。
日本敗戦後、蒋介石の国民党軍が中国本土から台湾に渡ってきます。毛沢東の中国共産党軍に敗北したためです。そして、台湾を反共の砦とすべく、厳しく民衆を弾圧しはじめました。
蔡少年は台北一中のとき自主的な読書会に誘われ、社会と文化に目を開いていきます。そこには何の思想的背景もありませんでした(少なくとも蔡少年には…)。ところが、それが国民党政府からスパイ罪に該当するとして逮捕され、懲役10年の実刑。台湾の南島部にある小さな緑の島に流され思想改造を迫られます。なんとも理不尽な弾圧を受けるのです。「蔡少年」の仲間が、何ら正当な理由もなく本土へ戻され何人も銃殺されてしまいます。
やがて蒋介石も息子の蒋経国も亡くなり、「蔡少年」は台湾に戻ります。ところが、戻ってから父親は「蔡少年」が緑の島へ送られまもなく自死しているのを知らされます。そして、台湾に戻ってからも、緑の島に何年もいた前科者として就職するのは容易なことではありませんでした。
やがて縁あってマンガ本を出す出版社に就職。このころの台湾では、日本のマンガを少し変えただけのマンガ本が流行していました。
「蔡少年」(大人になっています)は、マンガ本ではなく、子ども向けの教育雑誌「王子」を創刊します。目新しく、宣伝上手なこともあって、大いに売れます。ところが、二度の大洪水で被害にあい、うまくいっていた会社は倒産。破産して一からやり直しです。
しばらく浪人していると、拾う神ありで、広告会社をまかされ、やがて実力を発揮して副社長になります。
こんな台湾の少年ストーリーがマンガで描かれます。よく出来たマンガ(絵)なので素直に感情移入ができ、1巻から4巻まで一気に読み上げました。というか、実在の人物の話なので、いったい、このあとはどうなるのだろうと、外の仕事は手につかず、そっちのけで読みふけったのです。
「蔡少年」は仕事をやめたあとは、1950年代の白色のことをボランティアとして若い人たちに語りつぐ仕事に没頭するようになりました。虐殺された被害者の氏名が刻まれた碑の前に立った「蔡少年」は、「許しておくれ。生き残ったくせに、ぼくは努力が足りなかったよな」と謝罪します。いえいえ、決して「蔡少年」は何も悪くない、そして努力が足りなかったわけでもありません。
緑の島にいた10年間について、「蔡少年」は、子どもたちには「日本に10年間も留学していた」と嘘ついていました。でも、ある日、本当のことを告げて、子どもたちと一緒に緑の島へ渡るのです。この本を読んで救いを感じるのは、このところです。
今では台湾は国民党と民進党とが平和的な政権交代ができるようになっています。かつてのような反共主義で軍部独裁のテロが荒れ狂う島ではありません。そんな台湾の痛みを伴う歩みをマンガを通じて学ぶことのできる本です。
ぜひ図書館で借りるなりしてご一読ください。強くおすすめします。
(2023年1月刊。2640円)

ミャンマー金融道

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 泉 賢一 、 出版 河出新書
ゼロから「信用」をつくった日本人銀行員の3105日。これがサブタイトルの新書です。ええっ、どういうこと…。そんな好奇心から手にとって読んでみました。アフリカのウガンダで銀行員として苦労した人の本を思い出させる本でもありました。
表紙のキャッチコピーは次のとおりです。
「英語もミャンマー語も話せないまま、47歳で初めて海外に赴任した、銀行員が通貨や銀行が信じられていない国で、中小企業のための融資の仕組みをつくり、自分以外が全員ミャンマー人の地場銀行のCOOになった…」
いやはや、すごい冒険物語でもあります。
著者の経歴は、次のとおり。1966年生まれ。神戸大学を卒業して太陽神戸三井銀行に入る。2013年から、ミャンマーで中小企業への融資制度づくりに尽力。2019年に古巣の三井住友銀行を退職し、ミャンマー住宅開発インフラ銀行のCOOを2020年までつとめる。現在は住友林業に勤務。
ミャンマーは長く軍政にあったりして(今も再び軍政)。人々は銀行を信じていない。
2013年の調査では、銀行口座をもっている成人はわずか5%。銀行に口座がないから、「お金を借りる」という発想がほとんどない。
著者の英語力は、初めはTOEICで400点前後だった。そして、心機一転、勉強して2年するとコンスタントに850点とれるようになった。
ミャンマーに1人派遣されるといっても、銀行の利益にはまったく直結しない。
2013年ミャンマーに行って分かったことは三つ。その一、不動産担保しか審査時に考慮していない。その二、銀行には経営目標がない。その三、中小零細業者は銀行を利用する習慣がない。つまり、ミャンマーでは、金融はほとんど機能していなかった。ミャンマーの人々は、通貨に対しても不信を抱いていて、金(ゴールド)で貯めている。
融資期間は最大で1年。1年以上先の情報に対しては信用がない。
ミャンマーの名物料理モヒンガは、ナマズの骨などで出汁をとったスープに、米粉でつくったヌードルを入れた料理、ドロッとした濃厚な味が特徴。
日本では、信用保証と信用保険の二つの制度から成りたっている。ところが、ミャンマーでは、預金を長期の融資に貸し出すことができない。ミャンマーの金融市場では最長1年までの預金しかできず、それを原資とした貸出も最長1年までという規制がある。
著者は、一介の銀行マンだったのに、いきなりミャンマーの住宅金融をつかさどる銀行の実質CEOをつとめることになった。著者は、現場に寄りそって、「一緒に解決する人」たらんと務めた。えらい、ですね…。
COOは、再考業務執行責任者。ただし、事案を決済する権限はほとんどない。ミャンマーには、2017年まで、不良債権という概念は存在しなかった。
ミャンマーが再び軍政に戻ってしまい、コロナ禍もあって、日本に戻った著者ですが、大きなタネをまいたことは間違いないようです。本当にお疲れさま、としか言いようがありません。読んで元気の湧いてくる新書でした。
(2021年12月刊。税込935円)

良心の囚人

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 マ・ティーダ 、 出版 論創社
ミャンマー(ビルマ)の政治犯として監獄に6年を過した人権活動家の体験が切々とつづられています。著者は女性作家であり、医師であり、敬虔な仏教徒でもあります。
著者はアウンサンスーチー(マ・スーフ)と同じくNLD(国民民主連盟)の若き活動家だった。軍部によるクーデターのあと、軍政権ににらまれて、政治犯として刑務所に入れられたのです。本書は、6年ほどの刑務所生活の実情を詳細に描きあげています。さすが作家です。さまざまな嫌がらせに対して、毅然として最後までたたかい続ける著者の不屈さには頭が下がりました。
ミャンマーで政治活動に加わることは棒高跳びのようなもの。扱いにくい長いポールを持って全力で走り、バーに触れることなく、それを飛びこえ、反対側に優雅に着地する。運が悪ければ、地面に叩きつけられることもある。刑務所への着地は、人生が数年間妨げられることを意味し、そこから回復できない者もいる。
刑務所の中では、貴族のように暮らせる人がいた。家族から高価な品や素晴らしい食事を差し入れしてもらい、それをばらまいて「救世主」になることができる。看守の大半は初等教育しか受けておらず、麻薬取引、詐欺、また汚職などの罪で収監されている囚人は、そんな看守を簡単に買収できた。たとえ他の囚人をいじめても、賄賂のおかげで、この場のスターになっているので問題になることはまったくない。
他方、お金がない人、面会に来る者がいない人は、抑圧され、虐待された。ここでは、お金がなければ、自分の名前すら書けない若い看守に下品な言葉でいじめられる。刑務所では毎日それを耐えなければならない。
著者は1993年10月10日、禁固20年の刑を宣告された。緊急事態法によるものが7年、非合法結社取締法が3年、そして非合法出版取締法が各5年だった。
力のある者が常に弱者を打ち負かすというのが刑務所の不文律。看守長は看守たちを抑圧し、その看守たちは、水浴びや寝台の割りあてなどを司(つかさど)る囚人頭を抑圧する。そして、高慢な囚人頭たちは、わずかな権力でもって、その他の囚人をいじめる。
刑務所は無法地帯であり、家族からの差し入れを監査する看守は、検閲委員会よろしく、いつも自分たちの有利になるように、規則をねじ曲げていた。看守たちは、ほとんど教育を受けておらず、刑務所と受刑者しか知らずに人生を送ってきた。いつも受刑者や部下に叫んだり、怒鳴ったりしているので、受刑者から同じことをされたら、どう反応すればよいのか分からなかった。
収容所は、毎日、45分間、午前中に30分と夕方15分だけ散歩するのが許されていた。
看守の給料は決して十分ではなかったので、副収入や食べるものを手に入れるためなら何でもしていた。看守が見て見ぬふりをすれば、監房等にご飯やお茶をもち込んできた受刑者に話しかけることができた。彼女たちも、政治犯に敬意を払い、親交を結ぼうとした。
ミャンマーの刑務所生活がどういうものなのか、民主化を求める人々は、どのように闘ったのかを認識できる、貴重な体験記です。
(2022年1月刊。税込2420円)

彭明敏

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(霧山昴)
著者 近藤 伸二 、 出版 白水社
蒋介石と闘った台湾人というサブタイトルがついています。
失礼ながら、私は、彭明敏という人を知りませんでした。台湾政府のトップになった李登輝と同じ年に生まれ、彭は東京帝国大学、李は京都帝国大学に学び、いずれも日本敗戦後に台湾に戻って台湾大学に編入します。
彭は国際的に名の知れた法学者となったが、李が国民党政権の内部に入って出世し、ついにトップにのぼりつめたのとは対照的に、彭のほうは国民党の独裁体制を厳しく批判し、ついに反乱罪容疑で逮捕された。特赦を受けて自宅に戻ってからも軟禁生活が続いたが、厳重な監視の目をかいくぐって1970年に海外へ脱出し、長くアメリカで台湾の民主化を独立運動にうち込んだ。
そして、ようやく1992年に、22年ぶりに台湾に帰国し、4年後、初めての総統直接選挙で民進党の候補者として国民党現職の李登輝とたたかい、一敗地にまみれた。
この本は、彭への膨大なインタビューをもとにしたもので、1970年の海外脱出の実情が語られていて興味をひきます。
自宅軟禁のとき、24時間体制の監視は三交代制だったが、深夜から早朝にかけては監視員が現場を離れることが多かった。共同通信の横堀洋一記者は、特務にチェックされることなく彭宅に入り込みインタビューした。脱出計画の資金200万円は、東京で病院を開設していた台湾人医師がカンパした。
当時のパスポートは、顔写真が直接印画されているものではなく、紙の写真を張りつけて上から割印を押すものなので、割印さえ偽造できれば、写真を貼り変えて完成する。彭の体型に近い日本人Aを見つけ、彭の変装した顔写真に似せたパスポートを取得する。
日本人A役の日本人を探すのに難航するかと心配していると、ちょうど、南米から帰国した日本人(阿部賢一)が事情を知って引き受けてくれた。海外旅行に慣れていて、勇気があって口が堅い人物にぴったりだった。
自宅にいる彭は、特務の目をくらますため、ひげを伸ばし放題にしたり、坊主頭にしたりと、次々に外見を変えた。
また、1ヶ月間は、日中は外出せず、家にこもった。
どうやって日本人Aが日本からもちこんだパスポートを彭に渡すのか、連絡のための暗号も12種類も用意した。
アメリカのアグニュー副大統領が台湾に来る日程にあわせたので、警備はそちらに関心が向いていた。左腕がない彭は、三角巾で左腕をつっているように見せかけた。
そして、香港行きの飛行機についに乗り込むことに成功した。失敗したときには闇に葬られる危険があったので、目撃者も同じ飛行機に乗っていた。
成功率は50%。失敗したら生命はないと彭は覚悟していた。
結局、彭の向かった先はスウェーデンでした。ベトナム反戦運動のなかで「べ平連」の人たちが脱走したアメリカ兵を贈り届けたのもスウェーデンでしたよね。
台湾当局は、彭が脱走してから3週間もそれを知らずに自宅の監視を続けていた。彭の脱出成功は国際的にビッグニュースとなり、台湾の国民政権は面目を失ってしまった。
彭の脱出については、アメリカのCIAが関与したという説が有力だったようですが、実際にはCIAの関与はなく、日本人をふくめてごく少数の有志による計画と実行だったのです。すごいことです。
それでも、彭は22年間のアメリカ滞在中、台湾当局によって暗殺される心配をしていたそうです。もちろん、これは現実的な危険でした。
台湾民主化運動において彭の果たした大きな役割の紹介は、申し訳ありませんが、割愛します。
(2021年5月刊。税込2750円)

女が学者になるとき

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 倉沢 愛子 、 出版 岩波現代文庫
スカルノ大統領の第三夫人となったデヴィ夫人は、日本がインドネシアに対する戦争被害賠償金の関係で誕生した。つまり賠償資金でインドネシアですすめられているプロジェクトの利権をめぐって日本企業が激しい受注競争を展開した。そのひとつ、東日貿易という小さな商社がスカルノに取り入ろうとして紹介した日本女性がデヴィ夫人だった。彼女は東日貿易のタイピストという身分でインドネシアに渡った。そして、日陰の愛人生活を経て、ついに正式な第三夫人の座をモノにしたのだ。なるほど、そういうことだったんですか…。
著者は東大闘争のとき全共闘シンパとして行動したとのこと。今なお、東大闘争の主役を「もちろん全共闘派だ」と言ってはばからないところは本当に残念です。民青派に対しては「不毛な争いを全共闘派に対して挑んでいた」と非難していて、全共闘の暴力賛美について反省するところがまったくありません。そして、全共闘が暴力行使とともに唱えていた「東大(大学)解体」にもかかわらず、自らが大学教授になったのです。私のクラスにも東大解体を叫んでいたのに東大教授になった人がいます。「転向した」などという決めつけは決してしませんが、せめて全共闘の本質だった暴力賛美だけは反省してほしいものだと願います。
というわけで、この本の冒頭の記述は、ほとんど同世代の私には強烈な違和感がありましたが、それを乗り越えると、あとは、ひたすら著者の行動力に驚嘆するばかりでした。
著者は学生結婚したあと、1972年春に夫はサイゴン(ベトナム)へ、本人はジャカルタ(インドネシア)へ渡ったのでした。私が司法修習生になったのと同じ時期です。そして、1975年4月にサイゴン陥落、ベトナム戦争終結までの3年間をベトナムとインドネシアを行ったり来たりして暮らしていたのでした。いやあ、まさしく激動の時代に、その現場にいたわけですね。私が弁護士になって2年目の春、メーデーの会場でサイゴン陥落のニュースを聞いて、みんなで喜びました。
著者はジャカルタでは寮に入って生活した。お昼ご飯はインドネシア人にとって一日でいちばんのご馳走。夕食ではないのですね…。夜の食事は、昼の残りを食べるだけ。
350年間にわたるオランダの植民地支配は欧米の食文化を庶民にしみ込ませてはいなかった。いやあ、これも驚きですね。
この寮には、テレビも洗濯機も冷蔵庫も、もちろんクーラーもなかった。いやはや、なんということでしょう…。
1623年に、バタヴィアには159人の日本人が居住していた。日本人が鎖国とキリスト教禁止で日本に戻れなかったのです。
第二次世界大戦中、日本軍は2個師団5万人の兵力をインドネシアに投入したが、太平洋方面の戦場へどんどん放出させていって、1943年には1万人となった。それで、ジャワ郷土防衛義勇軍が日本軍の命令によってジャワ全土で編成された。「ジャワのためのジャワ人の軍隊」というもの。義勇軍は最終的にジャワ全土で66個大団(大隊)、3万3千人を擁する兵団となった。
著者は、この義勇軍に参加していた元将兵に会って話を聞いていったのです。もちろんインドネシア語で…。のちに大統領になったスハルトも、青年のとき義勇団に入り、小団長になり、中団長にまで昇格したのでした。
1969年代には、国軍のリーダーの大多数は義勇軍の出身者で占められていた。しかも、軍人だけでなく、政界や財界の実力者にもなっていた。
日本占領時の「ロームシャ(労務者)」という言葉が残っていた。海外に派遣されたジャワ人労働者のこと。「ハンチョ」は班長のこと。
1943年から1944年にかけて、郡長や村長などの要職にあるものが次々にケンペイタイ(憲兵隊)に逮捕された。県下4郡のすべての郡長、4ヶ村中3ヶ村の村長、そして区長など合計37人が逮捕され、ついには県長自身に及んだ。日本軍が大量虐殺したのだ。
日本側の歴史書には、もちろんそんな事実は書かれていない。著者が現地でつかんだことだった。
著者は風呂もトイレもない民家に泊まりこんで調査していったのですから、本当に頭が下がります。たいした根性です。私には、とてもできません。さらに、東京に住む前、インドネシアで日本人と再婚して2人の子どもを育てたというのですから、頭が下がるどころではありません。その勇気というか、ガンバリにはひたすら拍手するしかありません。
1998年の本の増補版です。いやあ、女性が学者になったら、こんなに大変だし、活躍できるんだということを改めて思い知りました。
(2021年8月刊。税込1694円)

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