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カテゴリー: 社会

日米核密約、歴史と真実

カテゴリー:社会

著者:不破哲三、出版社:新日本出版社
 核兵器のない世界は私たち誰しもが願うところだと思います。オバマ大統領がプラハ演説のなかでそのことを高らかに宣言したことは、この分野での具体的前進に期待を持たせるものでした。そして、この6月に、ニューヨークで開かれたNPT(核不拡散条約)の再検討会議は、それを前進させることで一致をみました。素晴らしいことです。ただし、私たちは他人事(ひとごと)のように手を叩き、腕を組んで模様眺めをしていてはいけないと思います。
 日本政府は「非核三原則」(核兵器をつくらず、持たず、持ちこませず)を守ってきたと言っています。おかげで佐藤栄作首相はノーベル平和賞を受賞したのでした。ところが、実は、佐藤首相はアメリカとのあいだで核に関して、日本に持ち込むことを認める密約を交わしていたというのです。それが核密約の問題です。問題は、これが単なる過去の話ではないということです。
 アメリカは、今でも(オバマ政権においても)、依然として先制核攻撃戦略を基本としている。そのため、アメリカは「重大な緊急事態」が起きたときには、核兵器をふたたび沖縄に持ち込む必要がある。日本は、そのとき、直ちに承諾する。これが核密約の中味である。沖縄にあるアメリカ軍基地に、今は核兵器はない。しかし、何かあったら、アメリカが核弾頭を持ち込む。すると、直ちに核攻撃基地として活用できる機能をもった基地として整備され維持されている。
 いやはや恐ろしい内容です。
 アメリカ政府は、事前協議の制度はつくるけれども、肝心なことは、日本政府と相談しないですむ、これまでどおり、アメリカが勝手にやれる、この道を見つけ出すことが、安保条約改定交渉(1958年10月)の一番の核心だった。
 そして、日本政府は、それを受け入れた。しかし、日本政府は万一それが明るみに出たときに言い逃れができるように、この秘密の合意文書に「討論記録」という名前をつかった。しかし、どんなタイトルをつけようと、それは国家間の法的拘束力をもつ合意文書なのだから、まさに条約にあたるものなのである。
 日本政府は表向きでは事前協議なしに核兵器の持ち込みはありえないと言いつつ、実は、こっそり事前協議を事実上、空洞化させる取り決めをアメリカと結んでいたわけです。
 この核密約について、アメリカ政府は、「密約」の秘密性を維持する必要はなくなったと考えて、機密指定を解除して「核密約」の内容を公表している。そこで、日本共産党の調査団がアメリカの公文書館の膨大な書類のなかから、この「核密約」そのものを探り宛てることが出来た。
 しかし、日本政府は、核密約なんて存在しないと今も言い張っている。
 そして、現在の民主党政権も自民党政権と同じく核密約を廃棄するつもりはないと明言している。
 こんなインチキはありません。許せないことです。
 アメリカ軍のある提督は、「1950年代の早い時期から核兵器は通常、日本の港湾に寄港している空母の艦上に積載されてきた」と発言した。
 核密約の問題は、決して過去の歴史問題ではない。アメリカは、今は艦船や航空機に日常の体制としては核兵器を持たせない体制をとっているというが、核戦略を放棄したわけではない。現在も、核戦略を強固に堅持しており、その発動を必要とする事態が生まれたら、アメリカの艦船や飛行機は核兵器を積んで行動することになる。
 そのとき、核兵器を積んだ艦船や飛行機が日本に自由に出入りできる仕組みが、この秘密協定によって今なお存在し、その意味で、被爆国である日本が現在も核戦争の出撃拠点となっているのであり、ことは重大である。
 この本を読んで、なにより腹が立ったのは、日本政府は表向きは「非核三原則」を口にするものの、実は、日本を守る「核」がなくなったら困る、だからアメリカには核兵器は積んでいてほしい、おろさないでくれと頼んでいるという事実です。ひどい話です。許せません。
 沖縄の普天間基地の「県外移設」が、いつのまにか「県内移設」で収拾されようとしています。しかし、そもそも、このような核密約をふくめて、日本政府はあまりにもアメリカ言いなり過ぎます。弱腰だというのではありません。まるで主体性がないのです。こんなことでは世界から笑いものにされるだけではないでしょうか。
(2010年6月刊。1300円+税)
 日曜日、雨が上がりましたので、午後から庭に出て少しだけ手入れをしました。いま、ぐんぐんとヒマワリが伸びています。朝顔のツルも塀にそって上へ上へと伸びあがっているので、楽しみです。
 近くのレストランの店主さんからいただいたキューリの苗が、みごとにキューリを実らせてくれました。早速、3本もいで、水洗いして、マヨネーズを少しかけて丸かじりしました。とても新鮮な味です。産地直送、完全無農薬、もぎたての野菜は本当においしいですよ。

イラクで航空自衛隊は何をしていていたか

カテゴリー:社会

著者:「イラク派兵差止訴訟」原告・弁護団有志、出版社:せせらぎ出版
 名古屋高等裁判所(青山邦夫裁判長)は2008年4月17日、「現在、イラクにおいて行われている航空自衛隊の空輸活動は、政府と同じ憲法解釈に立ち、イラク特措法を合憲とした場合であっても、武力行使を禁止したイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反し、かつ、憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」という判決を下しました。この判決は確定しています。
 そして、原告側弁護団はイラク復興支援の名目で派遣された航空自衛隊の空輸実情報告文書の開示を求めたのでした。ところが、肝心の部分は真っ黒に塗りつぶされていて、内容を知ることが出来ませんでした。
 政権交代によって民主党政権が誕生したあとの2009年9月24日、すべての記録が開示されました。この本はその開示された文書を集約し分析して紹介しています。
 陸上自衛隊がイラク(サマーワ)から撤退したのは2006年7月19日。この撤退のあと、航空自衛隊の輸送は1.4倍に増えた。その前が346回なのに対して、撤退後は475回となっている。
 撤退前には、陸上自衛隊が6割を占めていたが、撤退後はアメリカ軍が6割を占めている。軍属やオーストラリア軍その他の軍人をふくめると8割になる。全期間の合計は3万人をこえる。逆に「国連」関係者の輸送は1割以下でしかない。
 アメリカ軍兵士は武装していた。イラク航空隊の空輸活動は、主としてアメリカ軍の指揮・調整のもとで、アメリカの戦略と軍事作戦に深くコミットして行われた。アメリカ軍にとって危険な陸路で兵員を輸送する必要がないという大きなメリットがあった。
 日本の航空自衛隊は、「他国による武力行使と一体化した行動」を行い、「自らも武力行使を行ったと評価を受けざるを得ない」のである。
 つまり、日本はアメリカのイラク侵略戦争に加担したのです。このことを多くの日本人は真剣に考え、自覚すべきだと思います。
 わずか60頁ほどの薄いパンフレットですが、ぎっしり中味の濃いものです。おかげで首・肩・背すじがこってしまいました。お疲れさまです。
 今度の参院選で沖縄の普天間基地の移転問題が大きな焦点となっていないようなのは、とても残念です。鳩山前首相の迷走ぶりは菅首相に交代したからといって解消したわけではありません。
 沖縄の海兵隊が日本の平和維持のために抑止力になっているというのは果たして本当なのか、また日米安保条約はまだ今のまま保持してよいのか、選挙の争点にして問われるべきではないでしょうか・・・。
(2010年5月刊。600円+税)

比例削減・国会改革

カテゴリー:社会

著者:自由法曹団、出版社:学習の友社
 いま、衆議院議員の比例定数を80議席も削減しようという動きがあります。
 国会議員なんて、ろくでもない者がムダ飯くってるだけだから減らして当然だ、という声もありますが、決してそんな問題ではない、と、この本は強調しています。
 小選挙区・比例代表並立制となったのは1994年のこと。それまでは、中選挙区制でしたので、少数政党も3番目とか5番目に当選することが出来ていました。
 既に1996年10月から5回の総選挙が実施されている。政権交代が実現した2009年8月30日の総選挙で308議席を獲得して圧倒的な第一党となった民主党の得票率は、実は5割を越えておらず。42.4%(比例)でしかない。
 「4割の得票で6割をこえる議席」が実現した。これは、小選挙区制によるもの。ただし、小選挙区制だから政権交代が可能になったというわけではない。
 日本が完全比例代表制をとっていたとしたら、民主党204議席、自民党128議席、公明党55議席、共産党34議席、社民党21議席、みんなの党も同じく21議席、国民新党8議席。つまり、自公の議席数(合計83議席)は、民主党の単独議席数に及ばず、政権交代は不可避だった。
 そして、比例定数を80削減すると、どうなるか。
 民主党は308から274議席に減るけれど、議席占有率は64%から68%に増える。自民党は119が94議席に減り、議席占有率も25%から23%へ少し減る。
 ところが、第三党以下は致命的な打撃を受ける。あわせて6党の議席は46から25に大きく減り、議席占有率も10%から6%に下がる。共産党は9が4議席に半減し、社民党はゼロになる。
 いま、小選挙区制の本場といわれるイギリスでも見直しの動きが強まっている。この流れに逆行するのが、「比例定数80削減」なのである。
 なーるほど、そうですよね。「少数」意見といっても、国民のなかの声としては大きいものがあったり、実は「多数」だということもあるものですからね。
 80議席を削減して年に54億円の経費削減となる。しかし、その前に、政党助成金 320億円が問題である。なるほど、なるほど、まったくそのとおりです。政党の活動が国家丸がかえというのは本当におかしい話だと思います。
 それに、アメリカ軍への思いやり予算(年2000億円)もムダづかいです。こっちこそ、バッサリ削るべきでしょう。5兆円もある軍事予算をまずは20%削減すると1兆円も浮くのですよ。民主党政権はそこに手をつけないのでしょうか。事業仕分けはごまかしがありすぎます。
 日本の国会議員が諸外国に比べて決して多いとは言えないことも数字で証明されています。
 イギリスは、人口は日本の半分なのに下院は646議席。
 スウェーデンの人口は日本の14分の1なのに、国会議員は349人もいる。
 今のように価値観が多様化しているなかで、少数意見を次々にバッサリ切り捨てていったら、国民の声なき声が反映されなくなり、あとは暴動を待つのみという危うい国になってしまうのを心配します。
 80頁もない薄っぺらなパンフレットですが、大事なことを問題提起していると思いました。
(2010年4月刊。600円)
 ちょこさん、名前を間違えてごめんなさい。庭の花、また近くアップします。赤・黄・白のグラジオラスア、アジサイ、そして黄色いヘメロカリスが咲いています。ノウゼンカズラそしてアサガオも咲いて、目を楽しませてくれます。

タケ子 Ⅱ

カテゴリー:社会

 著者 稲光 宏子、 新日本出版社 出版 
 
私が弁護士になる前のことです。1973年(昭和48年)6月、私は司法修習生でした。大阪で参議院の補欠選挙があり、自供対決の一騎打ちで共産党の女医さん(50歳)が自民党の資本家(製薬会社の社長)候補を打ち負かしたのです。しかも、劇的な逆転勝利でした。
これを知って、ずっとずっと長く続き、不敗と思われていた自民党政権も変えることができるんだとまだ20歳代だった若き私の熱い血が騒ぎました。あれから40年たち、自民党政権が本格的に退場し、民主党政権の迷走ぶりはともかくとして、日本の政治だって国民が選挙によって変えることができるという確信を持てたことは大変すばらしいことだと考えています。
それはともかくとして、この本は40年も前に自共対決で共産党がなぜ自民党に勝てたのか、勝った女医さんとはどんな人だったのか、等身大で明らかにしています。とても読みごたえのある本で、青森への出張の帰りの機内で私は一心に読み耽りました。
ドクタータケ子は大阪の下町(姫島)で地元の人々に支えられて診察所を開設します。まだ20代でした。ともかく、昼となく夜となく診察し、その合い間には自転車で患者宅へ往診に出かけていくのです。そして、大水害が起きると、小船に乗って被災者のなかの患者を診てまわります。いやはや、その行動力や、馬力のすさまじさに圧倒されてしまいます。若いって、やっぱり素晴らしいですね。還暦を過ぎて、つくづくそう思います。
そして、推されて市会議員に立候補します。地元の圧倒的な支持をもとに、たちまち当選。32歳の市会議員が誕生しました。医者と「二足のわらじを履く」生活が始まったのでした。
市会議員になってからも、市民とともに要求実現の運動にとりくみます。旧来の政治家のように、「オレに、私にまかせておきなさい」というのではありません。これだったら、財界本位の自民党候補者にたしかに一騎うちで勝てたんだろうなと納得できました。
読んで元気と勇気の湧いてくる本です。若返ります。少なくとも気分だけは……。 
(2010年4月刊。1800円+税)

「沖縄核密約」を背負って

カテゴリー:社会

 著者 後藤 乾一 、岩波書店 出版 
 
 私は国際政治学者だった若泉敬(けい)なる人物をはじめて知りました。沖縄返還の日米首脳交渉に首相の特使として深く関与したという人物です。当時は、まだ30代半ばの気鋭の学者でした。佐藤栄作首相の特使として、隠密裡にアメリカ側のキッシンジャー大統領補佐官(のちに国務長官)と交渉していたのでした。
表面に出た日本合意は、実はは裏に密約があり、それを否定しつつ、佐藤首相は「非核三原則」を貫いたとしてノーベル平和賞を受賞したというのです。とんでもないペテンです。でも、考えようによっては、表に出た「非核三原則」がノーベル平和賞をもらったということで、日本政府をしばり、国際平和の維持に結果として多少なりとも貢献したことになるのでしょうね・・・・。
 若泉敬は戦後の東大で新人会に関わったが、これは戦前の同名団体とはまったく関係なく、むしろ反共リベラルの団体だった。沖縄がまだアメリカ軍政下にあり、復帰運動に対して、そんなことは共産主義者に利用されるだけだからやめとけという脅しが公然となされていた時代です。
 佐藤首相は、1965年1月、マクナマラ国防長官との会談のとき、海上の核兵器の持ち込みは容認すると発言した。いやはやひどいものです。二枚舌も、ここまで来ると許せません。といっても、鳩山前首相も同じようなものでしたね。いずれも、アメリカには、ひたすら従順に服従するのみです。菅首相も、就任直前、いのいちばんにアメリカのオバマ大統領に電話して日米合意を守ることを約束しました。国民に対して十分な説明をするより前にですよ・・・・。
 1965年1月、佐藤首相は初めて訪沖し、沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わっていないという声明を発表した。1969年5月、日本は沖縄にあるアメリカの核兵器の存続を認める秘密合意議事録を作成した。つまり、緊急時にアメリカは核兵器を沖縄に持ち込むことが出来ることを日本は認めたのです。
 表向きは「核抜き全面返還」としつつ、裏では「暗黙の了解」としてアメリカの核持込みを日本政府は許したのでした。これこそ二枚舌の典型です。アメリカは、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、カデナ、ナハ、ヘノコ、・・・・の基地をいつでも使用できる状態としておき、重大な緊急事態が生じたときには、活用できるものとする・・・・。(1969年11月21日)。
 「核密約」なるものは、いくつも存在したようです。今もって、その全貌が明らかになっているとは考えられません。
 また、主人公の晩年が幸福なものだったとは思えない記述もあります。「核密約」の一端を知るうえで、大変貴重な資料となる本でした。
(2010年4月刊。3600円+税)

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