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カテゴリー: 社会

原発事故と私たちの権利

カテゴリー:社会

著者   日本弁護士連合会 、 出版   明石書店
 東電福島第一原発事故が起きて、その収束の目途もついていないのに、早くも経済界そして民主党政権は原発を再稼働し、さらには海外へ輸出しようとしています。自分たちの目先の利益のためには、他の人がどうなっても知らない、次以降の世代なんて関係ないという無責任さには呆れ、かつ心の底から怒りを覚えます。人間としての良心を悪魔に売り渡してしまったとしか思えません。
 溶けた燃料棒はいったいどうやって回収し、どこに保管するというのでしょうか。そして、それができるのですか。回収できたときには東電の本社ビルあるいは会長宅か社長宅の地下室にでも据え置いてほしいものです。
 日弁連は、昨年(2011年)7月15日、原子力発電と核燃料サイクルからの撤退を求める意見書を発表した。10年以内のできるだけ早い時期にすべての原発を廃止することが、その柱である。
 きわめて当然な意見書だと私は思います。ところが、残念ながら世の中はそのようには動いていません。なぜでしょうか?
この本は弁護士が書いたものですので、当然ながら、これまでの原発をめぐる裁判についても語られています。
 人口密集地であり最大の電力消費地である東京・大阪・愛知県には原発がない。これは、原発が危険なものであるから人口密集地には建設せず、過疎地に建設し、送電ロスの負担を甘受しながらも大口の電力消費地に送電しているのが実態である。
 これまでの原発をめぐる裁判で原告(住民側)が勝訴したのは2件のみであり、その2件も、上級審では逆転敗訴となった。
 過去の原発勝訴において、裁判官は司法による救済を求める人々を救済してこなかった。過去の原発訴訟における裁判官のこのような消極的な姿勢が福島第一原発事故の背景にある。裁判官が人権擁護の役割を果たさなかった結果、司法救済の道が断たれた反面、「原子力村」の専横がますます野放しの状態となり、人災とも言える福島第一原発事故を発生させてしまった。
 ところが、原発訴訟のなかで、裁判官は原告敗訴の判決を書きながらも、同時に異例のコメントも付していた。そこでは、原発の問題点に触れていた。これは裁判官の良心の発露とみることもできるし、裁判官の責任逃れということもできる。では、なぜ、裁判官たちは、原発の危険性を認識しながら、住民の請求を棄却し続けたのか?
 「原子力発電所が、その意味において人類の『負の遺産』の部分をもつこと自体は否定しえない」
 「原子力発電は絶対に安全かと問われたとき、これを肯定するだけの能力をもたない。原子力発電所がどれだけ安全確保対策を充実させたとしても、事故の可能性を完全に否定することはできない。ひとたび重要な事故が起こったときには、多量の放射性物質が環境へ放出され、取り返しのつかない結果を招くという抽象的な危険は常に存在している。国民のあいだで、原発の安全性に対する不安が払拭されているとは言えない」
 「原子炉事故等による深刻な災害が引き起こされる確率がいかに小さいといえども、重大かつ致命的な人為ミスが重なるなどして、ひとたび災害が起こったとき、直接的かつ重大な被害を受けるのは、原子炉施設の周辺住民である」
 日本の裁判官の世界は、最高裁を頂点とする司法統制が幅をきかせており、国策を否定するような判決には裁判官が書くのをためらわざるをえない実態がある。
 原告住民側勝訴の判決を書いた元裁判官(現在は弁護士)は、「一部の人たちが強く反対していても、国民の大多数が原発を受け入れていれば、その段階で『危険だから止めろ』という判決を書くのには、かなりの勇気がいる」と述べました。まことに、そのとおりでしょう。ですから、私は佐賀の玄海原発差止訴訟についての原告を募るときには、他人事(ひとごと)ではなく、自分のこととして受けとめてくださいなと訴えています。
この裁判に原告として加入するのに費用として5000円を求めていますが5000円は高いという声があります。しかし、どうでしょうか。自分たちの生活圏を確保するためのものと考えれば、5000円なんて断然安いのです。多くの福島県民のように故郷を追い出されて仮設住宅に住み続けるしかないようになりたくはないですよね。何事もモノは考えようなのです。
 日弁連の公害・環境委員会には、私もかつては所属していました。著者となった弁護士の皆さんのますますのご発展とご活躍を心より祈念します。
(2012年2月刊。2500円+税)

モノづくりの経営思想

カテゴリー:社会

著者   木下 幹彌 、 出版   東洋経済新報社
 日本は加工貿易国、貿易立国でしか、国家として生きる術はない。日本は資源・資材のない無資源国で1億人以上の人間が生きていくには、どうしても海外から調達した物資を加工し、それを輸出して稼ぐより、日本国民すべてが食べていくことはできない。
 国を守るためには愚直ながらも、モノづくりを日本国内で続けていくことが重要だ。この点は私もまったく同感です。日本国内でのモノづくりを大切にすること、そのためのマンパワー、人づくりそして人材の確保がなにより大切だと思います。それは目先の株主配当より何倍も優先されるべきものと考えます。同時に、日本国内の需要もまた重視すべきです。消費冷えをもたらす消費税率アップは、それに明らかに逆行します。日本は内需とモノづくりで繁栄してきたし、それしか今後も生きのびることは出来ないと思うのです。
 ほとんどの企業の営業は、仕事の80%はクレーム処理と納期管理に追われている。
 ふむふむ、これは知りませんでした。クレーム対応と納期管理は企業にとって、それほど重要・不可欠なのですね。
 この本は、NPS思想を普及しようというものです。それは、小さな設備、少ない人数、少ない仕掛け、そして不良品なしでリードタイムの短い製造技術を確立することを目ざします。
 外注は割高である。外注には2種類ある。手足となってくれる外注、つまり協力企業。そして、必要なときだけ仕事を頼む、松葉杖的な役割の外注。
 技術の社内伝承という点からみると、外注は結局のところ割に合わない。
 なーるほど、社内で技術を高め、そして伝承していくべきなんですね・・・。
 アメリカのGMの失敗は、企業規模を追及した寄せ集めでは、いかに巨大であっても、事業としては永続できないことを証明した。これまた、なるほど、ですね。
 競合企業や隣接業種の大手企業との合従連衡は、苦労と費用ばかり大きく、本当の意味で企業のプラスになるような果実はなかなか得られない。
 大手の銀行がいくつも合併していますが、なかで働く人々は今どんな気持ちなんでしょうか・・・。
在庫は罪子(ざいこ)。必要以上の在庫は、経営の圧迫要因である。資金繰りを悪くするし、倉庫代や人件費をふくらます。
 人間は体力と気力の両方によって生きる力を与えられている。割り切って、自分は運が良いのだと言い聞かせて今を生きるのが大切だ。その結果が後から見てどうであったかをいま気にしてばかりいると、なんの道も開けない。
 実は、私も、自分は運が良いと言いきかせて、不都合なことも自分有利に解釈して生きてきました。
上司は部下を安易にほめてはいけない。ほめてしまえば、その時点で進歩が止まってしまう。
 ええーっ、ほめて育てよ、ではないのですか・・・。たしかに、これにも一理はありますよね。
 日本の政治、経済のリーダーの愛読書が、そろいもそろって司馬遼太郎か塩野七生の本だというには閉口させられる。その本を読み、それだけを良書と感じているような人たちばかり集まれば、思考、知識、理論が似通ってしまい、現状を打破するような抜本的な発想、つまり、シンの戦略は生まれない。「坂の上」をもう一度といった調子で、現代日本に坂本龍馬のような志士、カエサルのような政治指導者、マキャベツのような戦略家といった人物の出現を期待するのは、あまりにも非現実的であり、リーダーとして無責任である。
 私は、なるほどと膝を打ちました。そうなんです。「英雄」待望論が橋下などというまやかしの人物に幻想を抱くもとになるのです。
 この本の言いたいことを理解したとは思えませんが、なかなか含蓄のある話が満載ではありました。
(2012年1月刊。1800円+税)

なぜ日本人はとりあえず謝るのか

カテゴリー:社会

佐藤直樹 PHP新書 2011年3月1日
昨年末あるところの忘年会で、アメリカ文化研究家で沖縄民謡の歌い手でもある峯真依子さんと知り合い、一冊の本をプレゼントされた。それが本書である。
著者の佐藤直樹さんは世間学の大家である。世間学とは世間の空気を研究するという不思議な学問である。その学問の本質は、「”ゆるし”と”はずし”の世間論」という本書の副題からも窺われる。
著者は本書の中で6つのキーワードを用いて世間というものを解剖する。それは「うち」「そと」「けがれ」「みそぎ」「はずし」「ゆるし」の6語である。
著者の理論によれば、人は、ふだん「うち=世間という共同体」の中にあって、権利義務ではなく、気配りによって結びついているが、「けがれ=犯罪等の不名誉な行為」があると、「はずし=共同体からの追放」にあい、やがて「みそぎ=服役、謝罪、反省」を行うことにより、「ゆるし=共同体への復帰」を得られるというのである。これは日本に独特の行動様式であり、個人と個人が権利義務の関係で結ばれる西欧の行動様式とは全く異なるというのである。
そういえば、昨年の東日本大震災の時、被災者が決して略奪に走ることなく、食糧配給所で列を作って我慢強く順番を待っている姿が、西欧のマスメディアによって称賛とともに報道された。このような日本人の規律は、法が妥当しない極限的な局面においても、世間の中で生き抜くためには、人に迷惑をかけてはいけないという気配りを欠かせない共同体ルールとしてよく説明できる。
また、著者は日本の司法にも世間学のメスを入れる。「日本の刑事司法の根幹にある「なるべく刑務所には入れない、入れてもすぐに出す」という「ゆるし」の行使にとって、その中心をなしているのは強大な検察官の権限であり、その象徴としての起訴・不起訴を検察官が自由に決定する起訴便宜主義である。」という。そして、著者は、起訴便宜主義とは「まあ、ゆるしてやるか」の制度化である、という。
なるほど、これはうなづける。私がかつて検察の世界に身を置いていた時期、起訴するか、起訴しないかの決裁の場面で、よくこんな会話を経験した。
主任検察官「これこれの事情があるので、今回は許してやりましょう」
決裁検察官「そうだな、まあ、今回は許してやるか」
まさに著者の指摘通りの世界だ。
もともと、世間学とは、世間の空気という形のないものを研究対象とするだけに、実証的な研究に馴染まないという方法論的制約が大きい中にあって、著者は思惟を巡らし、知恵を振り絞って、懸命に世間を目に見えるものにしようと努力している。その努力は、実験や実証ではなく、読み手に「なるほど」と思わせることにより、その正当性を証明する。私も本書に「なるほど」と思わせられるところが多い。著者の努力に敬服する。
さて、話を冒頭に戻して種明かしをすると、本書を私にプレゼントしてくださった峯真依子さんは、実は著者の奥さんである。こうなると、私の興味は、著者と峯さんの私生活の方に向かう。すなわち、世間学の大家の生活は、いかなるものであるのか、内なる世間とはいかなるものか、という点に、である。

くちびるに歌を

カテゴリー:社会

著者   中田 永一 、 出版   小学館
 この小説の舞台は長崎県の五島列島。しかも福江ではなく、上五島です。弁護士の私にとって、この五島は絶対に忘れることができません。というのも、弁護士になった4月のこと、まだ弁護士バッチも届いていないとき、日教組が時の政府から選挙弾圧を受けました。当時、関東に住んでいた私は、なぜか九州・長崎へ応援部隊として派遣されることになったのです。選挙弾圧に対するたたかいの心得だけを先輩弁護士から教えられて、不安一杯のまま長崎へ向かいました。長崎に着くと弁護士が大勢いるのに安心したのもつかのまのこと、長崎県内のあちこちに弁護士は散らばって警察への対策を弾圧の対象となっている教職員に指導・助言することになりました。五島列島へ向かったのは弁護士2人。そして、五島列島には上(かみ)と下(しも)の2ヶ所に分かれます。がーん。なんと弁護士になりたて、まだ1ヵ月にもならない私が一人で修羅場に放り込まれることになったのです。そのとき私は25歳。迎えたほうも、いかにも頼りない若いひよっこ弁護士が東京からやってきたと感じたことだと思います。それでも若くて怖いもの知らずでしたから、中学校の体育館で200人ほどの教職員に向かって演壇から聞きかじりの選挙弾圧への心得を話しました。冷や汗をかきながらの話でしたから何を話したのか、もちろん覚えていません。私の脳裡に今も残っているのは広い体育館に整列している大勢の教職員の不安そうな目付きです。
 幸いなことに上五島では日教組支部の幹部が検挙されることはありませんでした。黙秘権の行使とその意義をずっと大きな声で言ってまわったことと、五島の旅館で食べた魚の美味しかったことは今でもよく覚えています。
 この本は、その五島列島に住む中学校の生徒たちが佐世保で開かれる合唱コンクールに参加・出場するに至るというストーリーです。そのコンクールで優勝するというわけではありません(すみません。結末をバラしてしまいました)。でも、それに代わるハッピーエンドがちゃんと用意されています。
 中学生の複雑な心理状態がよく描かれていて、今どきの島の中学生って、本当にこんなに純朴なのかなあと半信半疑ながら、ええい欺されてもいいやと腹を決めて没入して読みふけりました。
歌があり、手紙があります。15歳のとき何を考えていたのか、私にとっては思い出すのも難しいことですが。15年後の自分を想像して、その自分に手紙を書けという課題が与えられたというのです。
 中学生のころは、大人になって何をしているかなんて、まったく想像もできませんでした。ただ、中学校の同窓会があったら、ぜひ参加してみたいなという気にはなりました。
 泣けてくる、爽やかな青春小説です。あなたの気分がもやもやしていたら、ぜひ読んでみてください。なぜか、気分がすっきりしてくると思います。
(2011年10月刊。2800円+税)

震災と情報

カテゴリー:社会

著者   徳田 雄洋 、 出版   岩波新書
 3.11から1年になろうとしています。3.11のとき、政府はパニックとなり、東電は真相隠しに狂弄していました。その後、少しずつ真相が明らかになっています。放射性物質を扱うことがいかに危険なことか、それは現在の人類の手に負えないものであることが次第に明らかになってきました。
 しかし、人は嫌なことは一刻も早く忘れ去りたいという本能的欲求につき動かされ、次第に怖さに慣れ、慣らされ、怒りが風化していっています。そんなとき、この本を読むと、改めて政府と東電による情報隠しを知って怒りが湧きあがってきます。
 3.11の前、ある人が雑誌のなかで、「地震のとき、日本で一番安全な場合は原子力発電所のなかです」と言ったとのこと。それほど、原発安全神話は世の中に徹底していたのでした。私も怖いとは思いつつも、まさかという気持ちでした。あってほしくないことは起きないという思いで自分をごまかしていたのです。
 3.11のあと、客観的な状況は深刻になっていくのにもかかわらず、日本のテレビと原子力工学者は、いつも、「直ちに心配することはありません」と繰り返していた。「これから私たちはどうなるのか」という質問は、スタジオでは禁句になっていた。そんなことを口にするのは礼節をわきまえない行為だった。
 日本のテレビ放送は、大きな原子力事故ではない、ただちに健康に影響はないと強調し続けた。しかし、国外の放送は、厳しい状況になる可能性があると説明し、日本から国外に脱出する人々や西日本へ避難する人々の様子を伝えていた。
 3.11の直後、アメリカ政府は80キロ圏内からアメリカ人は脱出するよう指示しました。ヨーロッパの大使館は一斉に関西に移動しました。
 日本政府は、アメリカの大型無人偵察機グローバルホークが撮影した福島第一原発の上空からの温度情報をふくむ赤外線画像を公開しないよう要請した。
 住民のパニックを防止するというのを口実に情報が隠されていったのです。
 この本は、結論として、地震の多い日本では、リスクが巨大すぎて商業的発電方式として合理的に見合わないので、原子力発電は終わらせるべきだと言っています。まったく同感です。
 コンピューター科学者が震災情報がいかに権力によって捜査されていたかを怒りをもってあばく本です。
(2011年12月刊。700円+税)
 日曜日の午後、いつものように庭の手入れをしていると、すぐ近くでウグイスが鳴きはじめました。清澄というイメージぴったりの澄んだ声です。お隣の白梅が満開に咲いているのですが、そこからウグイスの声が聞こえてきます。梅の木にいることは間違いありません。じっと動かず、目をこらして梅の枝を見つめていると、ついにウグイスを発見しました。スズメほどの大きさで、地味な色をした小鳥です。身を震わせながら鳴いている姿を初めて見ました。感激の出会いです。

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