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カテゴリー: 社会

公教育の無償性を実現する

カテゴリー:社会

著者   世取山洋介・福祉国家構想研究会 、 出版   大月書店  
 1990年代中葉から推進された新自由主義改革により引き起こされた深刻な社会の危機に対処するため、福祉国家型対抗構想が求められている。政府は、子どもの人間としての成長発達に必要な現物給付を行い、かつ、現物給付をすべて公費でまかない、それを無償とすべきだ。このことが本書で主張されています。そんなことが本当に可能なのか、必要なのか、それをさまざまな角度からアプローチしています。
 大阪の橋下「教育改革」は、一方で、公立学校全体の規範を縮小しつつ、他方で「成長を支える基盤となる人材」「国際競争を勝ち抜くハイエンド人材」という二つの人材像を揚げ、後者の育成を目的として府立学校のなかから10校を「進学校指導重点校」に指定し、1億5000万円の追加的予算措置を行っている。
 ここでは、エリート人材とノンエリート人材を明確に区別し、「選択と集中」による予算配分によってエリート人材の育成をはかるという政策を実現しようとしている。
 大阪では、「学習者本位の教育への転換」と「競争原理」が実際のところ同義である。つまり、選択の機会の拡大と競争原理が教育の「質」を向上させるという論理である。
 2003年の東京を皮切りに、多くの都道府県で高校学区が撤廃もしくは拡大されている。現在、47都道府県のうち23都県が全国全県一学区制を導入している。かつて全国でみられた高校中学区制は兵庫と福岡に残るだけとなっている。
高校通学区域の拡大は、都市部の進学校や人気校への生徒の集中と競争の激化を生み出し、僻地などの周辺にある高校の生徒減と「適正規模」以下校の統廃合を導き出している。
 新自由主義教育改革とは、英米の教育改革をモデルとした国家が決定したスタンダードの達成率にもとづく、学校間・自治体間の競争の国家による組織を内容とし、エリートと非エリートの早期選別を目的として、徹底的な国家統制の試みと定義することができる。
 2006年度から、教職員給与のうち、国が負担する比率が2分の1から3分の1へ引き下げられた。教育公務員においては、労基法や給与法の適用除外があり、時間外勤務手当はしないという特殊な取り扱いだった。その代わり、偉給月額4%の「教職調整額」が支払われていた。
 東京では、1級が助教諭・講師、2級が教諭、3級が主任教諭、4級が主幹教諭、5級が副校長・教頭、6級が統括校長・校長となっている。
 この制度によって生涯給与額が745万円、1271万円、1439万円と差がつくようになっている。こんなに明確なさを見せつけられると、悲しいですよね・・・。2級の教諭が8割を占めるのに、主任・主幹教諭の導入によって一般の教諭の給与は引き下げられたのです。
 1970年代前半までに高校が社会標準化し、その費用も80年代以降、高額化し、90年代には専修学校をふくめた中等後教育への現役進学率が50%をこえ、2011年には70%にまで上昇した。ところが、高校以降の子どもの養育費と教育費は私費負担に任されたままになっている。
 学校外の補助学習が多くの子どもの必要とされている状況は異常だ。これが「子どもの貧困」の重要な要因となっている。公立中学生の通塾率は、7割になっている。
 国が教育機関へ公財政支出する額のGDPに対する比率は、OECD加盟国31ヶ国のうちで日本は31位、最低である。教員給与を除くと、学校運営費の80%が父母の私費負担に日本は依存している。これは異常である。
 公立の小中高校で30人以下学級と授業料・学修費を完全に無償化するために必要なのは、あわせて3兆3700億円。そして、私学助成のためには1兆2000億円の増額が必要になる。それを実現しても、OECD加盟国の平均にやっと届くくらいの金額でしかない。
 この3兆3700億円は港や新幹線のような不要不急の大型公共工事につかうよりも、よほど生きる「投資」(お金のつかいみち)だと思います。
 500頁近い大作で、少々むずかしい本でしたが、一日で必死に読み通しました。
(2012年8月刊。2900円+税)

子育て教育を宗谷に学ぶ

カテゴリー:社会

著者    坂本 光男 、 出版   大月書店  
 8月初めに北海道・稚内に教育事情の視察に行ってきました。そのあとで、この本を読み、そうだよね、教育は学校と教師に任せていいということではなくて、家族ぐるみ、地域ぐるみで取り組むべきものだよね。改めてそう思ったことでした。
 この本は今から20年も前に出版されていますけれど、その意義は今も決して小さくなってはいません。著者は、宗谷教組の支部長から、「9月いっぱい講師にきてほしい」と要請されました。ええっ、1ヶ月間の講師って、すごいですよね。
宗谷地区の管内全域で、教師と親そして子どもたちを対象とした教育講演会が、文字どおり地域ぐるみで大盛況のうちに成功していきました。その模様が本書で紹介されています。感動に心がふるえます。
 たとえば、全校の子どもが35人、全戸数が88軒しかない地区における夜の講演会の参加者が、なんと102人でした。これはすごいことですね。教師への日頃のあつい信頼がないと、こんなこと出来ませんよね。
 宗谷には昭和53年(1978年)11月に成立した合意書があります。校長会、教頭会、教育委員会そして宗谷教組の四者が調印したものです。そこには、憲法と教育基本法の方針にもとづき、学問の自由と教育の自主性を尊重し保障することを基本として教育を進めていくことが明記されています。
そのうえで、学校運営の基本について、「なによりも子どもの教育を中心におき、校長を中心にすべての教職員の民主的協議と協力関係のもとに民主的に運営される」こととされています。
さらに、職員会議の実践的あり方についても、次のように定められています。
 「職員会議は、教育の目的を実現するために、学校運営の中心的組織として、その民主的運営と協議を基本に、校長を中心にすべての教職員の意志統一の場である。
 校長は、協議結果を尊重し、教職員の自主性・自発性が発揮されるよう努力し、教職員の合意が得られず、校長の責任で決定する場合でも、実践的検証による再協議を保障しあう」
 すごいですね、まさにこのとおりではないでしょうか。
 ところが、最近の橋下「教育改革」そして文科省の方針はそうではありません。校長がすべてを決定し、教師はその決定にひたすら従うだけの存在、しかも相互連帯ではなく、相対評価で優劣をつけられ、最下位ランクが続くと免職処分がありうるような仕組みになっています。これでは教師の自主性・自発性は発揮する余地がありません。それは、子どもたちの自主性・自発性を殺すことに直結します。
 著者は、先生たちが自由に意見を述べあい、校長がそれをリードしつつまとめていけば、学校の教育は必ず良くなると強調していますが、文部省と橋下はそれを許しません。
 第一に、子どもたちを人間として大事にする。第二に、大人たちの取り組みに民主主義のイロハを貫く。この二つが大切だと著者は強調しています。まったくそのとおりではないでしょうか。20年も前の、わずか200頁の薄い本でしたが、読んで胸の熱くなる思いのする本でした。
(1990年10月刊。1300円+税)

原発民衆法廷①②

カテゴリー:社会

著者  原発を問う民衆法廷実行委員会 、 出版  三一書房 
 昨年の3.11福島第一原発事故は決して天災ではなく明らかに人災でした。ですから、東電の会長そして社長に厳しく刑事責任が問われるべきです。
 検察庁も告訴、告発を受理したと報道されています。
 私個人は前から死刑廃止に賛成なのですが、東電の会長・社長が死刑にならないというのなら(これは必ず死刑にしろということでは決してありません。念のため)、日本の死刑制度なんて直ちに廃止したほうがいいと思います。
 人間一人を残虐な方法で殺して死刑に処せられるというのなら、東電の会長・社長のように、お金のために単なる一私企業が日本という国を全体として住めなくしようとしたわけですから、当然、何万回と死刑宣告があって然るべきでしょう。
 東京・首都圏に日本人が住めないかもしれなかった大惨事を引き起こしておきながら、当時の会長・社長が今なおのうのうと贅沢ざんまいに明け暮れているなんて、あまりにも許しがたいことです。
 もちろん私は、東電の幹部だけを責めるつもりはありません。財界・政府そしてアカデミーの「原子力村」と呼ばれる人々の責任も厳しく弾効したいと思います。でも、なんといっても、そのためには当時の東電の会長・社長の刑事責任を問うことが先決だと思うのです。
 この本は、原発事故についての刑事責任を追及しようという画期的な取り組みを報告したものです。先駆的偉業に私は心から拍手を送りたいと思います。騙した側に責任はあるけれど、騙された市民の責任も大きいのではないかという冷笑的な指摘があります。これについて、高橋拓哉・東大教授は次のように述べています。
 騙された側にも責任はある。しかし、騙した側には最大の責任がある。騙されていたものが騙されていたことに気がついたら、騙した側の責任を追及するのは、まったく当然のこと。
 今回の3.11原発事故について原発推進を黙認してきてしまったという責任が市民にあるとするならば、むしろ、このような事故を二度と繰り返さないために、市民は、刑事的責任の所在追及する責任がある。
私は、このような高橋教授の指摘にまったく同感です。
 大飯原発の3号機が1機稼働するだけで、関西電力は、1日24時間で5億円、1月30日で150億円、1年12ヵ月で1800億円もの電気料金を得ることになる。ところが、大飯3号機が1日稼働しただけで、広島原発3発分の死の灰が生成される。さらに、普通の海水温度よりも7度も高いし、温水廃水が何十トンも1秒間に吐き出される。
原発に頼るしかないと、まだ多くの国民は信じこまされています。でも、首相官邸の周囲に毎週金曜日の夜に集まっている何万人という市民は、それは完全な嘘だと見破っています。一刻も早く、原発推進勢力の言っているのは真っ赤な嘘だと認識する国民を増やしましょう。
 また、そうでないと、なんのために辛抱して猛暑のなかを原発にたよらないでがんばったのか分かりませんよね。原発なんてなくても、立派に日本の経済が成り立つことをこの夏実証し、体験したわけですから・・・。
(2012年6月刊。1000円+税)

宗谷の教育合意運動とは

カテゴリー:社会

著者    横山幸一、坂本光男 、 出版    大月書房 
 8月はじめに宗谷、稚内に行ってきました。この本に紹介されている地域ぐるみの教育実践の今を知りたいと思ったからでした。
宗谷の教育合意運動が始まったきっかけは、1963年から65年の3年連続して襲いかかった宗谷管内の冷害、凶作、不漁という史上最悪の悲惨な出来事である。
 そして、1961年に強行実施された全国一斉学力テストもある。
当時の組合員の組織率は70%を割るという厳しい状況にあった。今なら、ええっ・・・。70%もの組織率だったのか・・・という反応ですよね。
このころ、教師が署名を求めて地域に入っていくと「先生方は国定忠治だ。自分たちの要求署名のときには山(学校)からおり、あとは出てこない」という不満を父兄からぶちまけられた。
地域の父兄からは、ストライキをしないでほしい、何か他の方法はないのかと問いかけられた。うむむ・・・とても難しい問いかけですよね。
 1967年、北海道教育委員会は、森下幸次郎校長を免職処分した。森下校長は、1961年の全国一斉学力テストのとき宗谷教組の支部長として反対闘争の先頭に立ち、しかも校長として自ら学テ実施の職務命令を返上してたたかった。そして、ながい闘争の結果、1973年に校長として62歳のとき完全復帰した。宗谷の教師の顔に明るさがよみがえった。
 宗谷の教育関係者の合意が成立したのは1978年11月のこと。宗谷校長会、教頭会、教育委員会連絡協議会そして宗谷教組の四者が憲法と教育基本法の理念にもとづき相互に協力しあうことを合意した。
 宗谷の教育運動は、どんな場合でも、住民の意思をたしかめあう、学習宣伝、署名の運動を基本にすえてきた。
 宗谷では、子育ては教師育ち、親育ちからを合い言葉とし、とりわけ教師育ちを重視して学校ぐるみ、地域ぐるみの実践と研究を統一しつつ取り組んでいる。
この本は今から20年以上も前の1990年に発刊されていますが、今なお地域ぐるみの教育実践が地道に続いていることを稚内の現地で目の当たりにして心が震えるほどの感動をおぼえました。
(1990年5月刊。1500円+税)

教育の豊かさ、学校のチカラ

カテゴリー:社会

著者   瀬川 正仁 、 出版    岩波書店 
 橋下「教育改革」は、要するにエリート教育を重視しようというものです。グローバル化社会に勝ち抜く人材を養成しようというのですが、早くから差別と選別を教育分野に取り入れていいことは何ひとつないと私は思います。
 文部省の「日の丸」・「君が代」による教員統制は、子どもの学力を全体として伸ばそうというものではなく、国家にとって必要な人材を確保するために、教師を画一化し、強力に有無を言わさず統制しようとするものです。
 でも、現実の子どもたちは大半がそんなエリート養成教育からはみ出しています。そして、そのはみ出した子どもたちと格闘している教師集団がこの本で紹介されています。
 まずは静岡県の南伊豆町にある「健康学園」です。ここは、東京都中央区立の上東小学校の分校です。全校児童31名が、寮生活をしながら学んでいる。生徒は中央区に住民票のある小学3年生から6年生まで。教員は6名。ここでは心身の健康の回復を第一にしているため、学力を身につけることは期待されていない。だから、授業は伸び伸びした学びの場になっている。好奇心旺盛な小学生時代に、生きた知識や興味をどのように伝えるかに苦心がある。
 教師は一人ひとりに目配りできるし、しないわけにはいかない。
寮にテレビは一台のみ。そして、1時間だけ。テレビゲームもなし。公衆電話はなく、ケータイは禁止。だから手紙を書くしかない。寮生活を支えるのは、保育士の資格をもつ16人というスタッフ。中には発達障害児もいる。そして、この学園で自己肯定感を育てて子どもたちは伸びていく。
児童自立支援施設、そして海外にある日本人学校の様子も紹介されています。世界各地にある日本学校は88校。
 福島県三春町の学校も登場します。3.11の前のことです。
 沖縄には70代生徒の通う夜間中学校があります。そう言えば、山田洋次監督の映画『学校』は東京の夜間中学を舞台とする感動的な映画でしたね。
 さらに、長野県松本市にある刑務所のなかの中学校(桐分校)の今も紹介されています。いまでは、在日中国人が生徒の大半を占めるというのです。また、中学校を出ていても学力のないものを聴講生として受け入れているとのこと。世相の移り変わりを知りました。
『世界』で連載されていたものが本になりました。エリート偏重教育では決して日本は良くならないということを痛感させられる本でもありました。
(2012年7月刊。1700円+税)

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