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カテゴリー: 社会

戦後日本学生セツルメント史の研究

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 岡本 周佳 、 出版 明石書店
 私は大学1年生の4月から3年生の秋まで学生セツルメントにどっぷり浸っていました。2年生のときに東大闘争が始まって1年近く授業がなかったので、なおさら地域(川崎市幸区古市場)をうろうろすることが多かったのです。
セツルメントで初めて社会の現実、そして日本社会の構造というものを認識するようになりました。あわせて自己変革が迫られたり、大変な思いもしました。でも、そこには温かい人間集団(セツラーの仲間たち)があり、とても居心地のいいところでした。
いったいセツルメントって何なの…、そう訊かれると、簡単には今なお言葉で表現できません。ボランティア活動なんでしょ、と言われると、いや、ちょっと違うんだけど…、そう思います。学生の慈善事業なんでしょ、そう言われると、もっと違う気がします。
 私は、地域の子どもたちを相手にする子ども会パートではなく、青年労働者と一緒のサークル(やまびこサークル)で活動する青年部パートで活動していましたが、サークルとは別にセツラー会議を開いて議論していましたから、「お前たちは俺たちをモルモットみたいに観察してるのか?」という疑問をぶつけられたこともありました。もちろん、そんなつもりはまったくありませんでした。
ただ、サークルに来ている若者たちの職場や家庭環境などを踏まえて、出てきたコトバや態度の意味をみんなで考えて深めていきました。これを総括と呼びます。この討論を文章化して合宿のなかで討議するのです。おかげで文章を書くのが苦にならなくなりました。それどころか、ますます好きになり、今もこうやって文章を書き、モノカキと称するようになったのです。
 セツルメントでは、実践記録を書くことが重視された。実践記録を通して「何を書くか」セツラーは鍛えられる。まさしく、そのとおりです。
 著者は、現在は静岡福祉大学社会福祉学部の准教授ですが、大阪府立大学でセツルメントのセツラーとして、児童養護施設に毎週通い、子どもたちと一緒に遊ぶという活動をしていました。
 この本は、学生セツルメントについて、通史として実証的に戦後の展開を明らかにしたものです。「学術書という性質上、全体を通してやや堅く、読みづらいと感じられるかもしれない」とありますが、たしかに、セツルメントに従事していたときの感動、そして、それを今、どのように仕事や生活に生かしているかという生々しい証言レポートがありません(実践記録の紹介はありますが…)ので、面白みにやや欠ける気はします。
 それでも、さすがに学生セツルメントの通史というだけあって、その歴史的変遷がよく分かりました。学生セツルメントは完全に消滅したと思っていましたが、実は今なお全国に10ヶ所ほど残っているということも知りました。でも、それは地域というより養護施設であったりするので、果たして学生セツルメント活動と言えるのかどうか、いささか疑問も感じられるところです。
 私が学生セツルメント活動に参加したのは1967(昭和42)年からのことですが、前年(1966年)に全国で活動しているセツラーは1万人を超えていました。そして、年1回の全セツ連大会は1000人ほども集まり、大盛況でした。大阪か名古屋で開かれた大会に参加するため東京駅から大垣どまりの夜行列車に乗って、みんなで行ったこともありました。東京駅のホームで「団結踊り」を踊ったり、まるで修学旅行気分の楽しさでした。
 私は若者パートでしたが、そこでは労働者教育というものはまったく感じられず(別に労働文化部があり、そこでは学習活動もすすめられていたようです)、むしろ私たち「学生が働く若者から学ぶ部分が非常に大きかった」というのは、まったくそのとおりです。セツラーは実践を通して学ぶということです。
 「労働の場に拠点を置いて労働者を変革するという考え方」を「生産点論」としていますが、私の実感にはあいません。それよりむしろ「学生自身が労働者との関わりを通して、何を学ぶかに力点が置かれている」という評価こそ私にはぴったりきます。「学びの内実は、観念的なものではなく、事実を通して現実を考える」ということです。
子ども会や栄養部の活動においては、「地域や住民らの要求を受けて住民とともにその生活課題の解決を図るという運動的性格」もありましたが、私にとっては、「セツラーの人間形成の場」としての意義が最大でした。
 1989年に全国学生セツルメント連合(全セツ連)は機能停止を宣言しました。しかし、これをもって全国一斉にすべてのセツルメントが解散し、機能を停止したというものではありません。すでに1983年には学生セツルメントの置かれた厳しさの指摘があります。これは1980年代に入って学生運動が衰退していったことと無関係ではありません。ところが、1980年代に入っても量的には拡大していったという事実もあるというのです。1983年時点でも全セツ連には全国67のセツルが加盟していて、新しく加盟しようとしているセツルもありました。
しかし、社会矛盾が以前ほどストレートに見えない状況にあり、セツルが財政難に直面し、運動に意義を見出せないセツラーが増加していくなかで、書記局体制が確立できなくなったのでした。全セツ連が1989年に機能停止をしたあとも、全国的なセツルの交流会は開かれました。1990年には第1回全国学生セツルメントフェスティバルが開かれ、2005年まで定期的に開催されたのでした。
 2019年の時点では、9つのセツルで確認されていますが、北海道、東北、関西であり、関東にはありません。ただし、名称からセツルをはずして子ども会としているのが、池袋や堀の内などにもあります。また、川崎セツルメント診療所やセツルメント菊坂診療所のようにセツルメントの名称をそのまま残しているところもあります。
 大阪府立大学セツルは、地域実践を離れて、児童養護施設で今も実践しています。
 最後に、終章の一文を紹介します。
 「戦後の学生セツルメントは、主体的かつ継続的な地域実践を通して地域の現実や要求に応じて新たな実践を創り出しており、結果ではなく、その過程を重視した。また、徹底的な討論や、地域住民とともに地域の現実に向きあって創り出された実践を通してなされたセツラー自身による主体的意味づけには一定の評価ができるのではないだろうか。また、人間形成・自己教育の側面もあった」
 350頁もの大作です。私も取材を受けましたし、私の本も紹介していただきました。本当にお疲れさまでした。学生セツルの通史を、こんなに立派にまとめていただいて、心よりお礼を申し上げます。著者より贈呈していただきました。重ねてお礼を申し上げます。
(2025年2月刊。5400円+税)

バルセロナで豆腐屋になった

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 清水 建宇 、 出版 岩波新書
 ええっ、こんなタイトルで岩波新書になるの…、それが読む前の第一印象でした。
 読み終わってみると、違和感はきれいさっぱり消えていました。サブタイトルは「定年後の『一身二生』奮闘記」となっています。朝日新聞の記者が定年後、スペインのバルセロナで豆腐屋を開業して10年間がんばった体験記です。家業が豆腐屋というわけではありません。それなのに、なぜ豆腐屋を、それもスペインのバルセロナという地方都市なんかで…。
 著者は記者時代、ヨーロッパ絵画の特集記事のためスペインにも行っています。 そのとき、どこよりもバルセロナが気に入ったのでした。街が美しく、食べ物がおいしい。そして、アジアから来た異国の人という奇異の目で見られることがなかった。これが、バルセロナを気に入った理由です。
 では、なぜ豆腐屋なのか…。豆腐や油揚げ、納豆が大好きなので、それなしの生活は考えられない。ならば、自分でつくってやろう。いやはや、とんだ(飛んだ)思考法ですね。私にはとても真似できません。大学生の長男、中学生の長女、次女に計画を話すと、すんなり受け入れられた。その前に妻(カミさん)の了解は得ている。
 2010年4月、62歳のとき、バルセロナで豆腐屋を開業した。今から15年も前のことなのに、とても詳細かつ具体的に話が展開していくのに驚きます。当時のメールやら計画書、領収書などが全部保存されていたからのようです。さすがは元記者ですね。まずは豆腐づくりの修業です。もちろん日本でします。
 油揚げの生地は、豆腐よりはるかに薄い豆乳でつくる。凝固せず、無数の小片が浮かんでいる状態にしてから水を抜き、型箱で固める。それを短冊状に薄く切り、最初は低温で、次に高温で揚げると、ふくらんでキツネ色になる。油揚げの生地の固さは、親指と人差し指で押して確かめる。がんもの生地は練っている途中でヘラを突っ込み、その手ごたえで判断する。大豆の煮え具合いは湯気のにおいでつかむ。青臭いにおいがするうちは、まだ煮えていない。甘いにおいがするようになれば出来あがりだ。豆腐づくりは全身をセンサーにしてやる仕事。手ごたえやにおいは数字に出来ないから、書くことも出来ない。途中からメモ帳とペンの出番はなくなった。
 なーるほど、手指の感覚にモノを言わせるのですね。私には出来そうもありません。
 著者の妻は佐賀市出身、名門の佐賀西高卒です。バルセロナでは鍼灸師そしてヨガの師匠として活躍しました。
豆腐屋の朝は午前5時起床に始まる。そして、店に着くと豆腐づくりを開始。午前中の販売を終えて、午後3時に一日で最初の食事をとる。
 ええっ、大丈夫なの…と驚くと、なんと著者は体重92キロだったのが、豆腐屋を始めて75キロまで落ちたとのこと。つまり、肥満だったのです。1日2万歩も歩いたそうです。
 豆腐屋には一年中、完全な休日というものはない。丸一日オフとなるのは、年に数回ある連休の初日だけ。忙人不老。忙しい人は老(ふ)け込まない。
 「あなたは、なぜその仕事を辞めないのですか?」
 この質問に対する答えこそ、職業選択の参考になる。なるほど、そのとおりでしょう。五大ローファームに入って企業法務の大きな歯車の一つになって何十年もして、果たして人生に満足できる人がどれほどいるか、私には疑問でなりません。
 奥付の上に著者紹介があり、はたまた驚きました。なんと、私と同世代(正確には私より1年だけ上)、団塊世代なのです。『論座』の編集長、「ニューステーション」のコメンテーター、論説委員を経たあと、スペインで豆腐屋を開業したわけです。その勇気と行動力に対して、心より敬意を表します。
 面白い本でした。
 
(2025年1月刊。960円+税)

ルポ・京アニ放火殺人事件

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 朝日新聞取材班 、 出版 朝日新聞出版
 2019年7月18日、京都アニメーションの第1スタジオの正面入り口から入って、バケツに入れたガソリン10リットルをまいて放火し、たちまち3階建てのスタジオを全焼させた。このとき70人いた社員のうち36人が殺され、32人は重軽傷を負った。犯人の青葉真司(当時41歳)も大火傷して逮捕された。
 火傷の回復を待って青葉被告の裁判員裁判は2023年9月に始まり、23回におよぶ裁判があり、被害者遺族が次々に被告人に質問した。
 青葉被告の弁護人は責任能力のないことを主張したが、判決では責任ありと認定され、死刑判決が下された。
青葉被告の両親は父親のDVによって母親が逃げ出し離婚したあと、無職の父親が兄と本人、そして妹の3人と一緒に暮らしたが、絶えず父親に殴られる生活を送った。青葉被告が21歳のとき、父親は亡くなった。
 青葉被告はコンビニで店員として働いたり、派遣社員になって工場で働いた。やがてネットのゲームにはまり、昼夜逆転の生活を続けた。そして2012年にコンビニ強盗事件を起こして実刑判決を受け、刑務所に入った。刑務所生活のなかで京アニの作品を鑑賞し、自分もノートに小説のアイデアを書いていった。
 2016年、長編小説を京アニ大賞に送って落選。2018年11月、京アニ作品をテレビで見て、自分の小説に書いたアイデアが盗用されたと思った。
 「小説がつっかえ棒だった。そのつっかえ棒がなくなったら、倒れるしかない。どうでもいいやと思った」
 犯行直前、京アニ近く、現場脇の路地に腰かけ、十数分間、考えごとをした。
 「自分のような悪党にも、少なからず良心の呵責(かしゃく)があった」
 法廷で次のように答えた。
 「底辺は押し付けあい。押し付けあいの世界は、食いあいになっている世界で、どう生きるかしか考えていなかった」
 判決は2024年1月25日。朝から京都地裁周辺は雪がちらついていた。
 この本によると、被害者遺族に3回も被告人質問をした人がいるそうです。よほど納得できなかったのでしょうね。そして、意見陳述もしていますので、5回も法廷に立ったとのこと。
 大変むごい、残酷な放火大量殺人事件です。その犯人の人間像を明らかにするのは、この日本社会の病巣を究明するという大きな意味があると思います。再び起こしてはいけない犯罪ですから…。
(2024年11月刊。1980円)

算数を教えてください!

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 西成 活裕 、 出版 かんき出版
 フルタイトルは「東大の先生!文系の私に超わかりやすく算数を教えてください」です。
 私の場合、大学入試は文系一択でしたが、高校3年まで理系クラスにいて、「数Ⅲ」まで履修しました。微分・積分も理解でき、不得意科目ということではありませんでしたが、図形問題は苦手でした。そこは直観がモノを言う世界で、私には直観が欠けていたのです。つまり、図形を眺めて、ひらめくところがありませんでした。こればかりは練習問題や過去をいくら積み上げても身につかないと決断し、高校2年の終わりの春休みに文系志望を固めたのです。今考えても正解だったと思います。論理的思考力とちょっとした文章力(たとえば「30字以内に大意を要約せよ」といった設問を得意としていました)で生きていくことにしたのです。これは今に生きています。
 さてさて、この本です。「実は、算数は奥が深い」と表紙に書かれています。まったくそのとおりです。小学校の算数を身につけ、中学校の数学が理解できたら、世の中に理解できないものはない。私は、そう考えています。
 なので、今回は小学生を対象とする算数の本に挑戦してみました。少し前には中学数学にも挑戦しました。高橋一雄の『語りかける中学数学』(ベレ出版)です。800頁をこす大部の本なのですが、私は中学数学を真面目に学ぼうと思って、最後まで読み通しました。6年前のことです。ただし、「最低でも3回は復習してください」とありましたが、1回通読しただけなので、理解できたという自信はありません。でも、この本には著者の数学を理解してもらいたいという真剣な情熱はよくよく伝わってきました。
 この算数の本に戻ります。ひらめきが必要。あれ、なんか違わない?こっちじゃないの?そんな動物的嗅覚が大切。
 意識的に直感と論理を行き来する脳を鍛えることは算数や数学に限らず、大人になったときに絶対に役立つ。
日本は、計算は10進法、時刻などは12進法と使い分けてきた。
 干支(えと)も12進法。和算は算木やそろばんを使っていたので、計算を紙に書く習慣がなかった。1,2,3…。そして0(ゼロ)を導入したことによって初めて、紙での計算ができるようになった。
 数学とは言語。算数の世界を旅するためには、その世界の言語を覚えないといけない。無駄がなく、解釈の違いが起きないからこそ数学は世界共通言語になれた。
 文章の理解とは、その状況を頭の中でイメージできるかどうかの勝負。
 九九を習う目的は「掛け算の筆算が出来るように、81パターンが暗算できるようにすること。九九のなかで、絶対に覚えないといけないパターンは36しかない。
小数は中国生まれで、ヨーロッパに伝わったのは、わずか500年ほど前のこと。
 分数は数ではなく、計算途中をあらわしたもの。時間、速さ、距離の関係は、実は割合。
 図形は、数学の原点。図形の決め手は、妄想力。想像力や妄想力、イメージをする力をどうやって養うか…。それは、小さいときから、どれだけ遊んできたかによる。いろんな「形」に実際に触れる体験を伴う遊びをどれだけしたか…。円は三角形の集まりでできていると、イメージする。
 予備校で講師のアルバイトをしていた経験を生かした本でもあるそうです。なんとなく分かった気にさせるのは、さすがです。400頁近い本なのに、2000円しないのもいいですよね。
(2024年10月刊。1980円)

フロントランナー、いのちを支える

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 朝日新聞be編集部 、 出版 岩崎書店
 フロントランナーとは、自ら道を切り拓く人。10人のフロントランナーが本書に登場します。
 若者を孤独の淵(ふち)から救い出すサービスを提供するNPO法人。24時間365日体制で、チャットで相談に乗る。大学生のときに始めた大空幸星さん。
 カルト宗教の被害者を救済にいち早く取り組んできた紀藤正樹弁護士。
 野宿者支援、賃貸物件に入るとき保証人を300人分も引き受けた「反貧困ネットワーク」事務局長の湯浅誠さん。
 大牟田市の不知火病院の徳永雄一郎医師も登場します。全国に先駆けて1989年、うつ病専門病棟「海の病棟」を開設したのです。川に面して、陽光が降り注ぐ開放的な病棟です。私も見学したことがありますが、なるほど、こういう施設だと気が安まると思いました。
 天井は雨の音が聞こえる設計、天井には川のゆらぎが映り、潮の満ち引きが感じられる。部屋に入る光の角度や風向きも綿密に計算。徹底的に五感を刺激するため。
 4人部屋だが、座ると本棚の陰になって互いに見られない。プライバシーを保ちつつ、寂しくはない、安心できる空間。38床の病棟を建てるのに4億円かけた。
 海の病棟に入院すると、同じようにうつ病に悩んでいる人に出会って、良くなっていくケースを見ることで、自分も回復するというイメージができ、治療効果が上がることが多い。
うつ病にかかる職種は変化している。開設して初めの数年間は、公務員や教師といった「きまじめタイプ」、バブル末期の90年代初めは接待漬けの商社員、働き過ぎのIT系社員、そして最近は、超高齢社会となっている関係で看護師や介護職員が多い。
 実は徳永医師は私と中学校で一緒だったのです。二代目の医師ですが、時代の要請にこたえて意欲的に取り組んでいることにいつも刺激を受けています。
 徳永医師から贈呈を受けました。ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。
(2024年10月刊。1900円+税)

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