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カテゴリー: 日本史(江戸)

秋月記

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 葉室 麟、 出版 角川書店
 うむむ、これは面白い。よく出来ている時代小説です。思わず、ぐいぐいと話にひきこまれてしまいました。このような傑作に出会うと、周囲の騒音が全部シャットアウトされ、作中の人物になりきり、雰囲気に浸り切ることができます。まさに至福のひとときです。
 ときは江戸時代も終わりころ(1845年)、ところは筑前秋月藩です。秋月藩は、福岡藩の支藩でありながら、幕府から朱印状を交付された独立の藩でもあった。秋月藩の藩主黒田長元(ながもと)のとき、御用人、郡(こおり)奉行、町奉行などを務めた間(はざま)余楽斎が失脚し、島流しの刑にあった。この本は、その余楽斎がまだ吉田小四郎という子ども時代のころから始まります。
 小四郎たちは、秋月藩家老の宮崎織部が諸悪の根源であるとして一味徒党を組んで追い落としにかかります。秋月藩は大坂商人から5千貫にも及ぶ借銀をかかえているのに、家老の織部たちは芸者をあげて遊興にふけっている。許せない、というわけです。秋月藩で新しく石橋をつくるのにも、洪水対策でもあるのに、藩財政窮乏の折から無用だという声もあるなかで、強行されるのでした。
 小四郎たちは、家老織部の非を本藩である福岡藩に訴え出て、ついに家老織部は失脚し、島流しになるのです。そして、秋月藩の要職を小四郎たちが占めていくわけですが、そう簡単に藩財政が好転するはずもなく、また、不幸なことに自然災害にも見舞われます。
 やがて、小四郎たちは、家老織部が実は福岡藩の陰謀の犠牲になったのではないか、自分たちも手のひらの上で踊らされているだけではないのか、と思うようになりました。
 手に汗にぎる剣劇もあり、ドンデン返しの政争ありで、登場人物たちの悩みも実によく描けているため一気に読みすすめました。
 ちなみに秋月藩の生んだ葛湯は、私が今も大変愛用しているもので、全国にいる友人に贈答品として送ると大変喜ばれています。それはともかくとして一読をおすすめします。
(2009年1月刊。1700円+税)

それでも江戸は鎖国だったのか

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:片桐 一男、 発行:吉川弘文館
 オランダ連合東インド会社の日本支店であるオランダ商館における責任者、商館長=カピタンは、貿易業務を終えた後の閑期を利用して、江戸に「御礼」の旅をした。これをカピタンの江戸参府(さんぷ)と呼ぶ。カピタンの江戸参府は、オランダ商館が平戸にあったときから、不定期に行われていたが、寛永10年(1633年)から毎年春1回に定例化された。寛政2年(1790年)以降は、貿易半減に伴い、4年に1回となり、嘉永3年(1850年)までに166回の多きを数えている。
 これは、朝鮮通話使の12回、琉球使節の江戸登り18回に比べて断然多く、注目に値する。そして、カピタンは随員とともに江戸で宿泊し滞在した。そのときの定宿が本石(ほんごく)町3丁目の長崎屋である。本石町はお江戸日本橋に近い。いま、その場所は、JR新日本橋駅のあたりである。
 長崎出島からカピタン江戸参府の一行は、「鳥小屋」まで持ち運び、鶏を飼いながら旅を続けてきた。カピタンが江戸参府で献上・進物用に持参した毛類反物のうち、老中、側用人、若年寄、寺社奉行に贈られた「進物」が、それぞれのお屋敷において「御払物」になって売られた。長崎屋の手を経て、それを引き請けたのが越後屋であった。
 長崎屋はオランダ文化のサロンになっていた。平賀源内も客の一人である。医師の前野良沢、同じく杉田玄白も長崎屋を訪問している。大概玄沢そして青木昆陽も。うひゃあ、す、すごーい。なんと有名人ばかりではありませんか。すごい、すごい。
 若い医師シーボルトは、一か月以上も長崎屋に滞在して江戸の学者たちと親交を深め、情報の収集・資料の交換・買取、対談、教授、診療と、多忙な毎日を過ごした。
 前の中津藩主だった奥平昌高(中津候)は、オランダ語を身につけ、なんとオランダ語の詩まで書いた。うへーっ、これって驚きですよね。フレデリック・ヘンドリックというオランダ名前も持っていました。いやあ、すごいですね、これって。そしてこの中津候は、シーボルトが携帯して運び込んだ小型ピアノを大変気に入ったというのです。江戸時代に日本人がピアノの音を聴いていたとは、まったく想像もしませんでした。
 長崎屋の2階にシーボルトが滞在していたとき、そこは多目的ホールと化していた。民族学・民族学・動物学・植物学・機械工学・芸術学・飲食物の学など、教室であり、研究室であり、レクリエーション室であった。
 すごいですね、すごいですよ。ちっとも知りませんでした。花のお江戸に、こんな長崎屋があったなんて……。
(2008年11月刊。1700円+税)

江戸子ども百景

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:小林 忠・中城 正堯、 発行:河出書房新社
 いやあ、実にカワユーイ。江戸時代に子どもを描いた浮世絵があったなんて、ちっとも知りませんでした。それがまた実に愛らしいのです。江戸時代の子どもたちが実に伸びのびと生きていたことを実感させてくれる絵のオンパレードです。そしてまた、子どもたちの遊びが少なくとも私たちの子どものころとあまり変わらないのにも驚きです。どうなんでしょうか、今の子どもたちも、こんな遊びをしているのでしょうか。少子化、ケータイ、ネットの時代には、もうなくなった遊びも多いのではないかと、ちょっぴり心配もしました。
幕末から明治はじめに日本にやってきた外国人は一様に、日本は「子どもたちの楽園」のようだと賛嘆を惜しまなかった。モース(日本考古学の父)は、「世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」と、目を細めた。
 グリフィス(化学の教師として福井や東京で教えた)は、「日本ほど、子どもの喜ぶ物を売るオモチャ屋や縁日の多い国はない」と、驚きを隠さなかった。
親は、西洋の親のように体罰を加えてまでしつけを強制することはなかったが、それでいて子どもたちは、みな聞き分けが良く、利発で、礼儀正しかった。
 浮世絵の一ジャンルである「子ども絵」は、江戸の社会にあっては、かなり需要の高い商品であった。
 江戸の子どもたちの遊びは、第一に季節感に富んでいた。正月は追い羽根、2月は凧あげ、3月はおままごと。4月は花見や金魚遊び・・・。第二に、子どもの遊びとオモチャの種類の豊富さに驚かされる。第三に、大人たちの周囲でのイタズラだったり、大人たちの姿の巧みな真似であったりした。
 江戸時代は、子どもをかけがえのない後継者として大切に育てようとする社会であり、子どもは「子宝」とされた。
銀も 黄金も花も なにせんに まされる宝 子にしかめやも(万葉集。山上憶良)
 浮世絵に描かれている子どもたちって、どれもこれも丸々と太って、いかにも大切に育てられているという、幸せ一杯の笑顔を見せています。
カラー図版がたくさんありますので、本当に実感できます。「子をとろ子とろ」「芋虫ころころ」「鬼ごっこ」「めんない千鳥」などのゲーム的な遊技は、仲間との競争や助け合いなど、仲間遊びであった。
 「子をとろ子とろ」は、子をとる鬼から親が子を守る遊びとされるが、本来は、地蔵菩薩が子を守る姿で、地蔵信仰に由来する。私も幼いころ、「こーとろ、こーとろ」というかけ声で遊んだような気がします。
 輪回しという絵が描かれていますが、私も、自転車のタイヤを外した輪に棒をあて立てて転がす遊びをしていた覚えがあります。江戸時代の子どもたちは竹製の輪をどうやってまわしていたのでしょうか・・・。
 江戸時代には職人がつくるおもちゃが豊富で、子どもにとって歴史はじまって以来の「玩具天国」となった。黒田日出男は「子どものおもちゃや遊びどうぐをつくる職人の登場は近世社会の文化現象」とみなしている。
 わずか90項ほどの大判の浮世絵による子どもの百景なのですが、眺めているうちに何やら童心に返って、ほんわか心があったまりました。
(2008年5月刊。2800円+税)

絵が語る知らなかった江戸のくらし

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:本田 豊、 発行:遊子館
 前に「庶民の巻」というのがあるそうで、この本は「武士の巻」です。豊富な絵によって、ビジュアルなものになっていますので、活字で想像していたものとの異同を味わうことができます。
 隠れキリシタンは全国各地にいた。そして、「踏み絵」は全国どこででも行われていたのではない。実際には、キリスト教徒の多かった九州の天草や、その周辺に限られていた。ええーっ、本当でしょうか?
 隠れキリシタンの多くは非人に紛れ込んだ。鎌倉・由比ヶ浜の長吏頭(ちょうりがしら)のように江戸時代を通して隠れキリシタンだった者もいる。甲州(山梨県)をはじめ、各地の銅や銀山の鉱山労働者の中には、かなりたくさんの隠れキリシタンがいた。うへーっ、そうなんですか、ちっとも知りませんでした。
 江戸時代の武家屋敷は、大から小まで、表札は掲げていいなかった。武士は常在戦場を建前としていたからだ。これは前にも聞いたことがあります。時代劇で表札が出ているシーンを見た覚えがありますが、間違いなんですね。
 江戸をはじめ、城下町には必ず武士専門の口入屋(くちいれや)があり、かなり繁盛していた。口入屋には、武士専門の業者と商工業者向けの派遣業者の2種類があった。田舎から出てきた単身赴任の武士は浅黄裏(あさぎうら)と呼ばれて、からかわれた。着物の裏におもに浅黄木綿をつかっていたから。実用的で丈夫ではあったが、野暮天だった。
 この本は、「武士や名主・庄屋といった人たちの間では、離婚はありえなかった」としていますが、これは間違いだと思います。江戸時代の離婚は、上は大名・旗本から、下は町人・庶民にいたるまで、ありふれたことでした。日本は昔から離婚王国の国だったのです。それほど日本の女性の力は偉大でした。この点は、戦国時代の宣教師ルイス・フロイスの観察記にもありますので、間違いないところだと思います。
 江戸時代の出版物には、かなりの影響力があった。たとえ300部しか出版されなかったとしても、繰り返し読まれ、総計では何万人もの人たちがよんでくれる。したがって、出版物に対する幕府による統制は、厳しいものがあった。
 江戸時代の日本人も、けっこう伸び伸びと趣味を楽しんでいたりしていたようです。今の日本と共通するところが多いのは、やはり400年くらいで人間が変わるわけはないということなのでしょうね。
(2008年10月刊。1400円+税)

荷抜け

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:岡崎 ひでたか、 発行:新日本出版社
 信濃(しなの)、安曇(あずみ)地方に実際に起きた牛方集団の「荷抜け」事件を題材として書かれた小説です。青少年読書感想文全国コンクールの高校生向けの課題図書となっていますが、なるほど、とうなずける内容です。
 文政7年、信州・松本藩では、戸田氏が藩主になって100年の祝いを華やかに行った。松本城の城門前には、祝いの品を山と積み、家臣には紋付袴、裃、真綿などを下賜し、町は芝居や踊りに興じた。下されものの酒樽を町中に置き、誰にも自由に飲ませた。
 地主層は、より財を蓄えるため、飢饉で困窮した農民から高利貸しで稼ぎ、米・麦を買い占め、売り惜しみして値を釣り上げた。食うに困った農民の怒りが爆発したのは当然のこと。それが赤蓑騒動だった。3万の群衆が松本城へ押しかけた。藩の鉄砲隊によって解散させられたものの、それ以降、藩は農民たちの力を恐れるようになり、農民の要求は無視できず、力関係が逆転しはじめた。
 犠牲者は農民4人が永牢を命じられただけで、見せしめの磔(はりつけ)はできなかった。これが世直し一揆のはしりだった。3万人が起ち上がったこの百姓一揆にも、首謀者名を残さない工夫などがしてあった。
 「荷抜け」とは、荷主に頼まれた送り荷を横領すること。もちろん、発覚したら厳罰に処せられる。それが、牛方26人衆が集団で荷抜けしたという。その総額は76両にもなる。
 牛方26人衆は、問屋とかけあい、借用したことにして、年賦返済を承知させた。半分にもならないうちに、荷主問屋側はあきらめ、事件の幕を引いた。
 牛方の10歳になる子どもを主人公として話は展開します。次はどうなるのか、ハラハラドキドキの展開です。やがて、牛方は一揆勢の情報伝達などの役割を担って活躍していきます。百姓一揆は、きわめて組織的に、百姓の知恵と力を総結集して長い準備期間をかけて取り組まれていったことが分かる本でもあります。
 島根の弁護士から待望のノドグロが到来しました。干物なのですが、軽く焼くと、ねっとり柔らかい白身で、淡白な味というより、もちっとした味わいがあります。信じられないほどのおいしさです。一度食べると、病みつきになってしまう魚ですよ。まだ食べていない人は、ぜひ食べてみてください。
(2008年6月刊。800円+税)

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