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カテゴリー: 日本史(江戸)

実録 ・ 龍馬討殺

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   長谷川 創一    、  出版   静岡新聞社 
 坂本龍馬を京都の宿舎に押し入って斬った犯人は京都見廻り組の今井信郎(のぶお)だった。その今井信郎は明治末期まで生きのび、なんと静岡で村長になったりしていたのです。
 慶応3年(1867年)11月15日、京都の蛸薬師通りに面した味噌商、近江屋の二階にひそんでいた坂本龍馬と中岡慎太郎は突然押し入ってきた武士たちに斬られた。
龍馬が殺された3日後の11月18日夜、新撰組の近藤勇、土方歳三らの主流派が御陵衛士と称して高台寺に分離対立した元新撰組参謀の伊東甲子太郎一派を謀計にかけて暗殺する油小路事件が起きた。
 土佐藩に君臨した山内容堂は郷士階級に結成された土佐勤王党自体を認めておらず、志士の勤王倒幕運動を許すことはなかった。佐幕派の容堂の主導により、幕末期の土壇場まで徳川家を組み込んだ公式合体策にこだわった土佐藩は朝廷内の倒幕派が優位に立つにつれ劣勢に追い込まれていく。政争活動に立ち遅れた土佐藩は失地を回復するため、藩重役の後藤象二郎は、薩摩・長州藩に深いつながりをもつ郷士階級の脱藩浪士である龍馬や中岡の利用を思い立ち、慶応3年に至って海援隊や陸援隊の設立を助け、支援する。したがって、藩官僚と龍馬や慎太郎たちとの関わりが深まったのは、彼らの死のわずか半年たらず前のことだった。
 龍馬襲撃班は、龍馬に拳銃を発射させないため、隙をついて一気に討ちとる覚悟を固めていた。見廻組の捜索網は、事件の前々日から龍馬の所在を突き止めていた。というのも、謀史(スパイ)が、こもをかぶって乞食となって龍馬の下宿する醤油屋の庇下に寝伏していた。
 名祖を出して取次させ、2回に上がっていくのに尾いていく。そして、襖をあけて、「やや、坂本さん、しばらく」と声をかける。すると、入り口にすわっていた方の男が「どなたでしたねえ」と答えた。これで龍馬だと分かったので、それっと言って手早く刀を抜いて斬り付けた。横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた腹を斬った。
 今井信郎は、天井の低い室内の戦いに適した直心陰流必殺の一撃を打ち込んだ。
 中岡慎太郎は、名札に気をとられて襲撃者に気付くのが遅れ、いきなり攻撃を受けたため、竜馬への最初の信郎の一撃は目にしていない。
 龍馬の死後、見廻組の武士たちは襲撃者を新撰組と疑う市中の噂に安堵していた。龍馬討殺命令は、徳川の最高機密事項になっていた可能性がある。実行責任者が榎本対馬守であったとしても、この事件は老中板倉勝静、若年寄永井尚志ら重職者の了解のもとに実施されたと思われる。
 京都の治安が悪化したため、幕府は京都守護職を新設して対応に乗り出した。会津藩主・松平容保を守護職に就任させ、会津藩兵1000人が常駐した。しかし、手がまわらず、文久3年に会津藩預かりの新撰組、続いて翌年に見廻組をもうけて治安維持活動にあたらせた。
 京都見廻組は、幕府によって元治元年に設立された幕府公認の組織であり、譜代の旗本、御家人の子弟から隊士を選抜するとし、1隊200人、2隊合計400人の編成だった。これに対して新撰組は浪士組織であって、まったく異なる。
京都見廻組を指揮した実力者は佐々木只三郎である。坂本龍馬暗殺を指揮した只三郎は勇猛果敢かつ緻密な計画性をもつ有能な幕臣だった。
龍馬暗殺の実行犯が明治になってキリスト教を信じたり、村長になっていたなんて・・・・。驚きました。子孫による掘り起こしの書です。
(2011年2月刊。1000円+税)

歴史のなかの江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  速水 融    、 出版  藤原書店 
 江戸時代のイメージは、ひと昔前まで暗かった。搾取と貧困。鎮国、義理人情。これらが江戸時代をあらわす常套句だった。
 ところが、江戸ブームが起こって、一転して賛美する風潮になった。今度は、江戸時代は決してバラ色ではなく、少なからず暗黒面を有する社会であったと述べざるをえない状況になった。
天保の大飢饉といっても、じつは飢饉以上に感染症による被害が大きかった。都市における公衆衛生の欠如から、平均寿命も実は農村より都市のほうが短かった。
庶民を対象とする寺子屋の存在は大きく、基本的な読み書きソロバンの教育により、地域差はあっても一般庶民の識字率はかなり高かった。そこで、出版物の市場が開け、多数の書籍が世に出た。貸本屋によって村々をまわり、書籍が買えない人にも余沢が与えられた。民衆全員が知的好奇心にあふれる社会が出現した。
日本人って、本当に昔から好奇心のかたまりだったようですね。
 江戸時代に農産物の生産量はかなり増大していった。武士層は剰余部分を自分のものにするのに失敗し、商人と農民が手にした。農民の生活水準は向上していった。
 中下層の商人もビジネスチャンスを求めて走り回った。ひとり乗り遅れた武士層は、本来、政治支配層であるのに貧窮化する。藩全体としても貧窮化がすすみ、武士層の富商からの献金・借財は増え続け、中下級の武士のなかには「御仕法替え」と呼ばれた一種の破産宣告を受け、年貢の収取権を失い、決められた額でのつつましい生活を余儀なくされた者までいた。実は、江戸時代が本当に封建社会だったのか、大いに疑問なのである。
 江戸時代の人々は、都会でも田舎でも、非常に穏やかに生活していた。殺しのようなものは、ほとんどなかった。
朝鮮貿易は、ある時期、長崎での中国・オランダ貿易よりも多く取引されていたこともあった。これは、対馬藩が貿易の実態を江戸の幕府に極力隠していたために、最近まで判明しなかった。釜山の倭館には、500人から1000人もの日本人の住む町があった。朝鮮貿易は、銀のほか朝鮮人参、白糸が入ってきていた。
幕府としても、中国大陸で何が起きているかを正確にキャッチしたい。その情報網が必要だった。
 徳川幕府は、日本の銀を朝鮮から結局、中国へ輸出していた。そして、代わりに日本は金を輸入していた。日本は金の島ではなく、銀の島だった。
 江戸時代、年貢は高いとしても、相続税はないし、消費税などの財産税もなかった。
江戸では、武士も町人も一緒になって生活していて、士農工商と、はっきり分けられてはいなかった。
日本人が裁判を重視する習慣は鎌倉時代にまでさかのぼる。
 ザビエルが日本に来て、日本人が次々にとんでもなく難しい質問するので、朝も夜も眠れない、これは法難であると嘆いた。好奇心のかたまりの日本人から質問責めにあって困ったという話です。うそのような本当の話です。
 江戸時代についてのステロタイプな常識を見事にひっくり返してくれる本です。
(2011年3月刊。3000円+税)

武士の評判記

カテゴリー:日本史(江戸)

著者    山本 博文  、 出版   新人物ブックス
 寛政の改革で有名な松平定信がつくらせた『よしの冊子』をもとに、当時の江戸城内や江戸市中に起きている出来事を分かりやすく紹介した面白い本です。
 松平定信は、八代将軍の孫。定信は田沼意次を恨み、敵視していた。刺し殺そうと決意したこともあるほど。そして田沼を厳しく批判する長文の意見書を将軍家治に提出した。将軍家治が没し、11代将軍家斉が跡を継いだ。
 このとき、田沼時代の老中たちは定信が老中になることを嫌って妨害した。しかし、天明の打ちこわしが起きたりして、ついに定信は老中になった。このとき、幕臣や江戸の庶民から喝采をもって迎えた。ところが、やがて厳しい倹約政策によって不景気となって期待がしぼんでいったのですよね。
 『よしの冊子』は、定信が部下に命じて江戸の実情を探らせたレポート集のようなもの。
定信は田沼とちがってワイロをもらわなかった。そうすると、老中になって、わずか2ヵ月で2332両(4億6千万円ほど)の経費がかかった。当時、老中が進物や賄賂を受けとっていたのは必要悪という側面があった。
定信が大奥の御年寄(大崎)を辞めさせたという話がある。しかし、大奥の人事は、それこそ将軍の専決事項であり、定信といえども即座に辞めさせられなかったはず・・・。
田沼意次の評判の多くは事実無根のことで、単なる噂にすぎない。意次が失脚したあと、悪いことは何でも田沼のせいにされてしまった。実際、田沼意次は相応の賄賂を受けとっていたが、当時は、他の老中を初めとして、役人たちはみな賄賂を受けとっていた。田沼意次は破格の出世を遂げただけに周囲の嫉妬は強く、権力の座から落ちた時の世間の風は冷たかった。
 老中人事は、老中が将軍に提出する複数の候補者のなかから、将軍自身が選ぶという形でおこなわれる。老中に任じられたのは、おおむね早くから評判のよい譜代大名だった。大名の役職は持高勤めで、役職手当はつかないので、基本的に持ち出しになる。
 旗本がつとめる幕府の役職では、第一の大役は町奉行で次が勘定奉行だった。裁判をする人は公事宿(くじやど)という訴訟に出てきた百姓向けの旅館に滞留する。公事宿の主人は、幕府の裁判に精通しており、現在の弁護士のような役割を果たしていた。
 定信が推進した政策はデフレ時代を現出させた。バブルに浮かれた田沼時代と比較され、予期せぬ不満も受けることになった。定信が御役御免になったという情報が伝えられると、幕臣たちはみな驚愕し、江戸城内は大混乱になった。町奉行池田は、城中、人目をはばからず大声で泣いた。というのも、このころの幕閣中枢部は、ほとんど定信の人事による。そのため、誰もが驚き、悲しんだ。表の役人は誰もが定信の辞職を嘆いた。だから、定信を追い落とした黒幕は中奥役人以外には考えられない。
定信の老中辞任は、まず将軍家斉が思いつき、その相談を受けた奥兼帯の老中格大名がそれに賛意を示したことで突然の仰せ出されになったものではないか。家斉は定信がいると、自分の思いどおりにならないことから定信の退任願いを許可したのだろう・・・。
 寛政の改革の裏話のひとつとして面白く読みました。
(2011年2月刊。1400円+税)

長崎奉行のお献立

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 江後 迪子     、 出版   吉川弘文館   
 
 江戸時代の長崎を中心とした食生活が紹介されている面白い本です。
 徳川幕府は長崎を直轄地とし、遠国(おんごく)奉行の一つとして長崎奉行は幕末まで常置された。長崎奉行の役割は、唐およびオランダとの貿易の管理、そしてキリスト教の浸透を監視するほか、市政や訴訟を担当した。長崎奉行は、はじめ一人制だったが、二人制、三人制そして元禄12年(1699年)からは四人制となった。この四人のうち二人は江戸詰だった。任期は決まっていないが、4年つとめた人が多い。
 長崎奉行は、役目から中国やオランダからの輸入品の中から希望の品を一定の額内で先買いすることが許されていて、それを京都や大阪で高く売って利益をあげることが出来たので、羨望の的だった。役料以外の副収入が他の遠国奉行に比べて多かったということである。内外の商人や近隣の諸藩からの贈物もあって、副収入のほうが多かった。
 丸ぼうろやかすていらが登場します。今も、長崎名物のしっぽく料理は中国渡来の食作法です。日本の様式は畳の上に、一の膳、二の膳、三の膳というように御膳で銘々に出されるもの。テーブルにたくさんの料理が並ぶのは、まったく新しいスタイルだった。江戸時代初期に長崎に来ていた唐人たちの多くは、祖国の混乱を避けて日本に永住帰化し、その子孫たちも日本社会に溶け込んでいった。この唐人たちは、キリスト教徒でなかったために、自由に町中に宿泊していたので、その風習は広く、深く、浸透していった。その後、密貿易が横行したため、元禄2年(1689年)に唐人屋敷が設けられて隔離された。そのとき5000人近くの唐人がいて、出島のオランダ商館ほどの厳しい管理はされていなかった。
 江戸末期までオランダ、中国から砂糖が輸入されていたので、長崎には砂糖が豊富にあった。国産の砂糖は八代将軍吉宗のころからで、砂糖は長崎街道に広まった。将軍家への献上物として、佐賀藩と福岡藩は氷砂糖を送った。
牛肉食は、蘭学者をはじめとする知識欲旺盛な人々によって広まっていった。豚肉が長崎土産として家臣に配られたという記録がある。豚や鶏は、オランダ商館や唐館で日常的に使われる食材だった。
てんぷらは一般的に普及しなかった。その理由は、明かりのための燈油としての油の需要のほうが大切だった。
かすてらは、天皇に出されるほど珍しい高級な菓子だった。かすてらが全国に広まったのは朝鮮通信使の餐応の影響が大きい。坂本龍馬もかすてらを長崎で食べていた。
 日本人が卵を食べるようになったのは、南蛮菓子かすてらやぼうろの影響が大きいとされている。寛永3年(1626年)、玉子ふわふわという料理が後水尾天皇に供された。
佐賀藩の殿様が参勤交代で出発するときの餞別に玉子80個が贈られたという記録がある。
江戸の食生活の実際を追究した貴重な本です。
(2011年2月刊。3000円+税)

江戸絵画の不都合な真実

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著者    狩野 博幸 、 出版   筑摩選書
 
 東洲斎写楽とは誰なのか、というテーマは永く論じられてきたわけですが、著者は、一刀両断、明快に断じます。今から30年も前に、俗称斉藤十郎兵衛、阿彼候の能役者(斉藤月岑(げっしん))である、としたものです。ですから、表現の自由はされているといっても、オランダ人説などが今もって登場するのをみて溜息さえ出ない、というのです。この点については、中野三敏著の『写楽、江戸人としての実像』(中公新書)が詳しいとしています。
 つまり、能役者の絵を描くのは、遊女を描くのとは違って、士分の者には許されないことだった。大名お抱えの能役者には非番の年があった。だから、士分の斉藤十郎兵衛は能役者をこっそり描くしかなかった。なーるほど、と思いました。
また、葛飾北斎が幕府の隠密だったどころか、逆に幕府から徹底的に弾圧されていた富士講に関係していたというのを初めて知りました。富士講というのは、富士山信仰から出てきた組織なのですが、幕末まで禁止され続けてきた宗派でした。
食行身禄(じきぎょうみろく)は、政治の無策に対して、自分の「食」を断つことで、異議申立した。食行身禄は、仏とは人間の思念が作ったもの、仏だけでなく神もまた一切は人間がつくりあげたものなのであると断言した。むむむ、すごいですね。
富士講は、富士信仰を指導した。江戸中に富士の五合目より上の形を模して築山をつくった。明治25年、富士講の一派(丸山講)だけで、137万9180人の信者がいた。
北斎は、そこに関わっていた。うへーっ、そうなんですか・・・。江戸のいたるところにミニ富士山があったと聞いていましたが、それには幕府への反抗、そして幕府による弾圧もあったのですね・・・。
若沖(じゃくちゅう)についても、町年寄として京都町奉行と果敢にたたかった側面が発掘され、紹介されています。絵だけでなく、実社会でも素晴らしく活躍した人だったのですね・・・。
英一蝶(はなぶさいっちょう)という画家が三宅島に流されたことは知っていましたが一蝶が幕府から厳しく弾圧されていた不受不施派のメンバーだったとは知りませんでした。不受不施派とは、異教の者からの布施は決して受け取らず、異教の者に対して布施もしないというもの。要するに、一蝶の信じた不受不施派は、禁教となったが、地下に潜行しただけで、教養は滅びることがなかった。
私と同世代の学者なんですが、団塊世代と容易にひとくくりするのに抵抗しています。私も、あまり世代論はしたくありません。
(2010年10月刊。1800円+税)

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