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カテゴリー: 日本史(江戸)

幕末女性の生活

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 村上 紀夫 、 出版 創元社
 江戸時代の庶民がどんな日常生活を過ごしていたのか、とても興味があります。
 日本人は昔からよく日記を書いていて、またよく残っています。残念ながらくずし字なので、私には原文は読めません。それでこうやって活字になったものを読むしかありません。
 この本では、4人の女性の日記が紹介されています。1人目は、和歌山城下で質屋を営む九代目六兵衛の妻。寛政3(1791)年と文政8(1825)年の日記2冊が残っている。家族で金魚の飼育に熱中していた。
 2人目は、やはり和歌山藩の学習館の校長の妻。天保8(1837)年から明治18(1885)年までの日記が残っていて、東洋文庫で活字化されている。大塩平八郎の乱、ペリー来航、ええじゃないか、なども記録されている。
 3人目は、医師の妻で、曲亭馬琴の息子嫁として、その執筆を助けた。安政地震、飼い猫の様子が紹介されている。
 4人目は、河内国の種屋を切り盛りしていた。夫との離縁、贈答品のやりとりなどが紹介されている。
 嘉永4(1851)年の元日、滝沢家に年始のあいさつにやって来たのは30人にのぼる。
 節分の日は、厄落としをする。路上に下着と銭を落として帰ることで厄を落とす。いやはや、聞いたこともありませんが、正岡子規の書いたものにも出てくるそうなので、明治にも続いていた風習。
 お盆は、旧暦の7月15日。なので、七夕から間もなくすると、お盆になる。このときのお供(そな)えは、三食だけではなく、おやつに「煮あんころもち」、夜には上酒、みりん、冷や奴が供えられた。つまり、帰ってきた祖霊は、三食に加えて、おやつと晩酌付きでもてなされた。
誕生日には、赤飯を炊いて、近所の人も招いて祝う。江戸時代には誕生日を祝う習慣が存在していた。
夏の夜は、子どもたちと一緒に花火をして楽しんだ。
 牛肉も猪肉も食べている。滝沢家では、「かすていら」を食べ、あひるの卵も食べた。
 そして、滝沢家では猫を飼って可愛がった。猫には赤い縮(ちぢみ)織りの絹でつくった豪華な首輪を付けた。猫が病気にかかったときには、猫のための薬を買ってきて飲ませている。
江戸時代金魚の飼育が流行した。金魚飼育のマニュアル本(「金魚養玩草」)まで刊行されている。庭を掘って池にして、和金魚やランチュウを飼った。10疋で銀60匁(もんめ)もした。
 日用雑貨の貸し借りはひんぱんだった。また、いただき物は、そのまま他に廻されていった。ミカンを持ってきた人は、借金の申し込みをした。それが本命だった。
江戸時代にも商品券があって、贈答品としても用いられた。板(かまぼこ)印紙、酒印紙、饅頭(まんじゅう)印紙、湯葉(ゆば)印紙がある。
 大塩平八郎の乱が起きたのは天保8(1837)年2月19日のこと。翌2月20日には和歌山にも伝わっていた。2月21日には、「町与力大塩平八」の仕業(しわざ)という情報が届いた。
 ペリー来航のあった嘉永6(1853)年には、甲冑(かっちゅう)の移動販売が始まっている。
慶応3(1867)年、10月、大政奉還になった。そのころ、京都の街では、「ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカ」と、はやし立てて踊る集団が各地に出現した。
貴重な本だと思います。
(2025年3月刊。1980円)

松の露

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 諏訪 宗篤 、 出版 早川書房
 宝暦郡上一揆異聞。これが、この歴史時代小説のサブタイトルです。
 ときは、徳川九代将軍家重の治世下。宝暦となってからも冷夏、長雨、害虫に襲われ、農村は疲弊していた。その前の享保の飢饉のときは、250万人が飢饉に苦しみ、餓死者が1万2千人をこえた。
 中山道は美濃の関あたりで総州浪人の慶四郎が災いに巻き込まれた。浪人が郡上(ぐじょう)一揆にどうやって巻き込まれていったのか、そのきっかけの展開から読ませます。
郡上の領主である金森家は年貢(ねんぐ)をさらにしぼり上げようと考え、年貢の算定方法を変更することにした。すなわち、それまで一定額であったものを、毎年の稲の出来高を検見(けみ)したうえで変動させることにした。これに対して、村方(むらかた)の百姓たちが一斉に反発した。今でも重い年貢が暮らしを圧迫していて、今後さらなる増税となれば、田畑の枚数が少ない村方は、次の収穫まで家族が生きて暮らすことが困難となる。そこで郡上のすべての村は、検見法採用の申し渡しを拒絶した。村方衆による強硬な反対を受けて、検見法の採用はいったん差し戻しとなった。しかし、金森家があきらめたわけではない。
 検見法が実施されると、村方の人々は強訴(ごうそ)を決行した。刀や槍、鉄砲こそもたないが、武士の百倍以上の村方人員を動員して政庁を取り囲んだ。このときは、ついに、国家老の連判する免許状を出させた。
 この免許状をめぐって、金森家による反撃が始まった。免許状を取り戻そうとするのです。
村方の農夫たちは、実のところ、敗残の将兵を襲って鎧や刀を奪いとり、守護や豪族を叩き出して自治を敷いてきた者の末裔(まつえい)である。理不尽な暴政や増税にははっきり声を上げて抗(あらが)い、強訴したり、江戸まで出向くことも辞さない。対面や掟(おきて)に縛られる武士の弱点を突く、したたかさも持ちあわせていた。
 ここで公事師(くじし)が登場。江戸時代の裁判において、現代の弁護士と似た役割を果たしていた人々がいたのです。
 幕府も、当初こそ公事師を禁圧していましたが、呼出しその他で便利な存在だとして、やがて公事師を公認しています。
金森家は村方の百姓たちの一揆に対抗すべく破落戸(ごろつき)を雇った。
 郡上一揆では、百姓たちは代官所へ向かって集団で要求をつきつける行動をするだけでなく、代表が江戸に出向き、老中の登場駕籠(かご)に駆け込み訴えもした。これが意外に大きな効果があった。
この本は剣豪小説でもあります。登場する浪人は目茶苦茶に剣が立ちます。バッタバッタと悪漢の手先たちを切り倒していくのです。
 刀の優劣は技量の優劣の前では意味をなさない。技量が同等なら勝負を決めるものは、心の練度だ。
遺書で名指しして自ら先に腹を切るのを指腹と呼ぶ。いやあ、聞いたことがありませんでした。ときには書状とともに、切腹につかった刃を相手方に送って死を迫った。そ、そういうこともあったんですか…。でも、ほとんど無視されるでしょうね。
郡上大一揆は江戸時代のなかで、まれにみる大きな成果をあげたことで有名です。
 それは、まず五手掛となったことに示される。通常なら町奉行、勘定奉行、寺社奉行の三者で協議するところ、目付と大目付まで加わることになった。
 そして将軍の意を体してことにあたったのは、将軍御側御用取次役の田沼意次。いわば新参者が、家康の有力家臣だった本多正信の家系の有力老中たちを押え込んだ。
そして、問題の金森頼錦は、改易され、陸奥の盛岡に永預とされて5年後に死亡。金森家の家臣団は全員が召し放ち。勘定奉行、大目付、郡代官なども改易され、御役召放、閉門・逼塞(ひっそく)となった。
 村人のほうも処罰された。4人が獄門、10人が死罪、遠島1人、重追放6人、所払33人など…。
 巻末に参考資料が紹介されていますが、「郡上一揆の会」なる団体もあるそうです。すごいです。歴史を読みものにした、ワクワクする本です。
(2025年2月刊。2300円+税)

本の江戸文化講義

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 鈴木 俊幸 、 出版 角川書店
 大学でゼミの先生から講義を受けている気にさせる本です。
 江戸時代が進むなかで、江戸だけではなく、全国的に無学文盲の人がいなくなり、みんなが本を読むようになりました。そして、本は買う本と借りて読む本の2つがありました。借りて読むほうの本はたくさんの人が読むため、本の表紙は厚い紙で出来ている。
 なるほど、なるほど、そうなんですね。
そして、本を読むのは黙読ではなく、声を出して読みます。素読と同じです。ほら、「し、のたまわく…」というやつですよ。
 戦国時代と江戸時代の大きな違いは、強力で安定的な政権が生まれ、長期にわたって戦争のない時代が誕生したこと、260年あまり一つの政権によって一国が保たれていたのは、世界史上ほかにないこと。
 ええっ、そ、そう言い切っていいんでしたっけ…??
 この長期にわたる安定の最大の要素は、民衆の幕府への信頼。平和の時代をもたらし、維持していることを民衆は素直にありがたく思っていた。
 民衆が平楽を享受していたことは私も間違いないと思いますが、さすがにここまで言い切っていいのか、やや、ためらってしまいます。
 江戸時代の人々は、日本が「鎖国」していたとは思っていなかった。「鎖国」というのは近代になって貼られたレッテルにすぎず、実態のない幻想だ。
 なるほど、朝鮮通信使は何十年かに一度、大行列を仕立てて国内を巡行しましたし、オランダのカピタンたちも江戸まで出かけていますよね…。
 生活の隅々にまで及ぶ厳しい農民統制を示す「慶安の触書」なるものは、今では教科書から一掃されている。これは幕府によって全国的に出されたものではないことが分かったから。
 江戸時代、身分は固定されたものではなかった。有力町人は、お金の力で名字帯刀(みょうじたいとう)を許された。検地にしても農民が自由に売買するため、農民のほうから実施するよう願い出ることもあった。
 江戸時代の百姓は、かなり自由に、したたかに生きていた。
西洋諸国とは違って、民衆が文字を手に入れ、文章を理解することを江戸時代の為政者は怖れなかった。むしろ、触書を理解し、道徳を身につけるのに有用だと判断して、民衆が文字知を獲得することを阻害しなかった。
 寺子屋が全国各地にあった。都市部では「女寺屋」といって女子だけを受け入れるところもあった。千葉県東金(とうがね)の寺習塾の記録によると、文政4年(1821年)に男子59人、女子27人、天保2年(1831年)に男子33人、女子24人。天保9年(1838年)に男子40人、女子33人だった。授業料(束脩。そくしゅう)は半年500文。
江戸時代、本に定価はなかった。売値は、客と交渉して決まった。
日本近世は、パロディの時代。男色を「アブノーマル」として排除しようとするのは明治になってからのこと。江戸時代には、マイノリティでもなんでもなかった。武将に稚児はつきものだったんですよね。
井原西鶴を現代の小説家のように考えてはいけない。江戸時代にそんな職業はない。十返舎一九は初めて原稿料だけで生活できた。たいてい「副業」をもって、それによって生活していた。
「南総里見八犬伝」は発売1年間にせいぜい500部ほどの発行部数でしかなかった。
蔦屋重三郎は、時代の動きを敏感にとらえて、それに対応する天才的な能力のあった希有(けう)な本屋。惜しいことに脚気(かっけ)のため、寛政(1797年)に48歳で亡くなった。ビタミンB1の不足。白米の食べすぎかな…。
江戸時代の本屋と書物そして文化人の動向を詳しく知ることが出来ました。
(2025年1月刊。2200円)

雪夢往来

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 木内 昇 、 出版 新潮社
 江戸時代、雪深い越後の国に住む鈴木牧之(ぼくし)は郷土のことを江戸の人々に知ってもらおうと、郷土の風景、民話そして雪深い冬の景色を書きつづった。書き上げたからには書物として売り出さなくてはいけない。そこで、江戸の書き物問屋にあたり、作家に頼った。
 本書で出てくるのは、山東京伝、十返舎一九そして滝沢馬琴と、今も高名な作家たち。そんな作家たちは、果たして越後の無名の民(たみ)が書いたものに注目し、それを書物として世に出してくれるだろうか…。
 鈴木牧之の書いた『北越雪譜』は今なお語り継がれる高名な書物です。ところが、刊行されるまで、なんとなんと40年もかかってしまったのでした。これでは刊行するまで著者が生きていたというのが不思議なほどです。私も先日、30年ぶりに亡父の歩みを本にまとめ直しました。30年前は自費出版でしたが、今回は出版社から刊行することが出来ました。やはり、うれしいものです。
 書本(かきほん)にして江戸で配ればそれで十分だったのに、山東京伝に送ったことから、話が大きくなり、板本(はんぽん)という、思ってもみなかった夢が手の届くところに立ち現れた。迷走は、おそらくそこから始まった。
夢というのは、一度見てしまうと、そこから逃れられぬものかもしれぬ。必ず板本にしなければならない。妄念に取りつかれて、ここまで来てしまった。いつしか、書く楽しさや良いものを書きたいという純粋な衝動から大きく逸(そ)れて、ただただ己(おのれ)の筆力を証したい。みなに認めさせたい、名を上げたい、という欲心で、ここまで走ってきた。いやあ、よく分かりますね、この気落ち。田舎(地方都市)に住んでいながらモノカキと称して東京の出版社から本として刊行するというのは、みなに認めてもらいたい、あわよくばモノカキとして名声を得たいという欲心からのことです。間違いありません。
 「雪中の洪水の話、熊捕(くまとり)の話、雪の中で、飛ぶ虫の話、雪崩(なだれ)に巻き込まれた人の話…。気がつけば、ずい分と多くの綺談(きだん)を書いたものにございます。この地のことを書いておるとき、私は心くつろいでおりました」
 天保8年の秋、『北越雪譜』初編3巻が板行された。初めこそ、さして話題にもならなかったが、雪深い国の慣習や綺談は江戸の者に驚きをもって迎え入れられ、ふた月も経(た)つと、摺(す)るのが間に合わぬほどの評判となった。『北越雪譜』二編は初編同様、大きな評判をとり、鈴木牧之の名は江戸のみならず、広く知れ渡ることになった。越後塩沢の名士として村の者にも崇(あが)められ、わざわざ遠方から彼を訪ねてくる者まであった。
皐月(さつき)の、心地よい風が抜ける日の暮れ時に、鈴木牧之は静かに人生を終(しま)った。
一番最初に山東京伝の伝手(つて)で、二代目の蔦重(つたじゅう)のところで刊行しようとすると、50両がかかると言われたので、さすがの鈴木牧之も二の足を踏んだのでした。
 そうなんです。モノカキを自称するくらいで無名そのものが出版社から本を刊行しようとすると、現実には頭金を求められるのです。私も当然、毎回、負担しています。印税収入なんて、残念ながら夢のまた夢なのです。それでも、1回だけ福岡の本屋の店頭で私の本(「税務署なんか怖くない」)が並べられているのを見たときは小さな胸が震えるほど感激しました。
(2024年12月刊。2200円)

江戸の犯罪録

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 松尾 晋一 、 出版 講談社現代新書
 長崎奉行「犯科帳」を読む、というのがサブタイトルなので、出島があり、オランダとの貿易の窓口になっていた長崎ならではの密貿易犯罪が多く紹介されています。
ところで、「犯科帳」とは、そもそも何なのか…。
 この新書が扱っているのは長崎奉行所での審理にもとづく刑罰の申し渡し、不処罰の申し渡しが記録されている。期間は1666(寛文6)年から1867(慶応3)年までのもので、145冊ある。
長崎奉行は単独で判断を下すことはできず、必ず上級機関の指示を仰ぐことになっていた。刑事案件については、老中から幕府評定所に下付され、評定所において評議が行われ、その結論が老中にあげられるという手続きだった。
 そして、江戸に伺いを出すときには、長崎奉行は事件の経緯をまとめた報告書に加え、その判決案も添えていた。ほとんどの場合、判決案はそのまま採用されたが、なかには覆されることも時々あった。
 有名なジョン万次郎も日本に帰国したときは、長崎に送られ、揚屋(あがりや。上級身分の者が拘束された)に入れられて取り調べを受けている。
 長崎奉行は原則2人。1人が江戸にとどまり、1人が長崎に常駐する体制がとられている。奉行に伴われて江戸から長崎に派遣される武士は多くはなく、200人ほどで、年々、減っていった。
 通事は通訳するだけでなく、唐人関係の捜査権も付与されていた。
長崎は、幕府にとって「頭痛のタネ」だった。長崎で死亡した長崎奉行も数人いる。
 長崎では公事方御定書が軽んじられる土地柄だった。
長崎には、「ケンカ坂」と呼ばれる坂がある。1700(元禄13)年12月19日に発生した大ゲンカでは、28人が裁かれ、うち18人が死罪となった。これは、鍋島藩の家臣と長崎の町年寄をつとめる名家の下人との大乱闘事件。
 オランダ船を舞台とする抜け荷(密貿易)は多かった。
 1732(享保17)年秋から翌18年の春にかけてウンカ類が大量発生し、西日本は大飢饉となった。そこで、長崎奉行は諸国の米を長崎に送られ、なんとか一人の餓死者も出すことはなかった。しかし、住民の不満から米屋の打ちこわしが起きた。
 1667(寛文7)年には朝鮮への武器輸出が問題になった。
 1675(延宝3)年には、唐船を購入してカンボジアとの交易を図ったことが露見した。信じられないような密輸事件が起きていたのですね…。
 本来、抜荷は発覚したら死罪だったが、将軍吉宗は罰則を寛刑化した。罪人に自訴(自首)を促し、それで抜荷を抑制しようとするものに変わった。死を覚悟しても抜荷するのは、なんといっても利益が膨大だったから。元手の8倍もの利益が上がることがあった。
 1686(貞享3)年、オランダ人8人が関わる密貿易事件が起きた。このとき日本人が28人も関与していたし、日本人には死罪が命じられた。
 朝鮮へ渡海して、人参を買い求めて日本で高く売ろうとする人々もいた。仕入れ値の6倍で日本で売れた。偽(にせ)人参として、桔梗(ききょう)の根を売りさばいた悪人もいた。
「犯科帳」には、長崎で起きた事件であっても、必ずしもそのすべてを記録したものとは言えない。
 「犯科帳」は、現在の犯罪書のような、当時の長崎における犯罪とその処罰が整理され、系統書に記された記録だとは単純に言いきれない。
長崎の遊廊は、丸山町の遊女屋30軒、遊女335人、寄合町には遊女屋44軒、遊女431人いた。遊女は基本的に自由に遊郭を出入りできていた。
 長崎をめぐる犯罪、そして処罰の実例がよく分かって勉強になりました。
(2024年10月刊。1200円+税)

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