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カテゴリー: 日本史(江戸)

江戸のパスポート

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  柴田 純 、 出版  吉川弘文館
江戸時代、旅行している旅人が病気になったり、お金がなくなったとき、病人の郷里まで安全に送り届ける仕組みがあったというのです。
56歳の女性が旅の途中で仲間とはぐれて一人旅になってしまったあと、足を痛め、所持金も乏しくなったので、保護願いを出したら、村役人が郷里まで無事にリレー式で引き継いで届けてくれた。
保護から送り出しまでの過程がシステム化していた。旅の途中で困難にあい、しかも所持金がなくても、往来手形さえ携帯していれば、何とか国元まで送ってもらえた。このように十分な旅費をもたない旅人が、途中で野垂れ死にを心配せず、旅に出る条件が生まれていた。
往来手形を発行してもらえる人々にとっては、パスポート体制は福音だった。他方、往来手形を発行してもらえない無宿(むしゅく。無国籍の人々)は、パスポート体制から完全に除外されていた。
江戸時代の庶民の旅は、元禄時代、つまり17世紀末から18世紀初めから増えはじめ、18世紀後半から急増し、19世紀前半にピークを迎えた。旅行難民対策が整備され、旅行難民救済システム体制が日本列島全体で機能しはじめたので、19世紀前半のピークを迎えたのだ。
加賀藩は、歩行できなくなった旅人に対して、本人が希望すれば、馬や駕籠を使い、足軽を差し添え、「宿送り」を続けていた。ただし、全国どこの藩でもそうだったというのではない。このように旅行難民対策は、諸藩がそれぞれ異なった対応をとっていた。
19世紀前半のころ、田辺城下には、少なくとも年間10万人ほどの順礼が宿泊していた。うひゃあ、これって、すごく多人数ですよね・・・。
日本の往来手形に保護救済規定が入ったのは、往来手形が領主の側からではなく、民衆の救済慣行をもとにして、自律的に形成されたものであるからと考えられる。
江戸時代の日本人は、現代日本人と同じく、旅行が大好きだったようです。女性の一人旅も珍しくなかったというのですから、まさしく平和の国、ニッポンならでは、ですよね。
そして伊勢参りやら、「ええじゃないか」の大群衆など、旅行好き日本人の面目躍如だったのですね。江戸時代の世相を知ることのできる本です。
(2016年9月刊。1800円+税)

天文学者たちの江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  嘉数 次人 、 出版  ちくま新書
 星を見ていて、それを数式にあらわして計算できるって、私の理解をこえます。暦をつくるというのも同じで、月の満ち欠けを見て美しいなんて思ってないで、それを1年365日と結びつける、なんていうのも私の想像をこえます。そして、和算です。アラビア数字をつかわないで、漢数字で、どうやって微分・積分などの計算が出来たのでしょうか。もう、私の小さな頭は破裂してしまいそうになります。
 日本の天文学の歴史は古く、文献によると、6世紀にまでさかのぼる。そして「日本書紀」にも天文学が登場する。
中国の天文学は支配者のための学問として発展した。「天」は自らの意思をもち、支配者にメッセージを下す存在だった。
6世紀から日本の朝廷内に天文や暦学をつかさどる「陰陽(おんよう)寮」という役所がつくられた。
17世紀の終わりに、800年ぶりに新しい暦が一人の日本人によってつくられた。渋川春海である。中国の暦法に独自の改良を加え、日本の天象にうまく合うように工夫した。
渋川春海のバックには、保科正之や水戸光圀といった幕府の有力者がいた。また、陰陽頭の土御門泰福の援助もあった。
そのころ、星座の名前もつけていたのですね。おどろきます。もちろん、オリオン座なんてものではありませんよ。大宰府という名前の星座までありました。
渋川春海は、望遠鏡にも接しています。望遠鏡は、1613年、徳川家康にイギリスから献上されたそうです。
日本で地動説を本格的に研究したのは、18世紀の後半。伊能忠敬が日本全国を実測してまわったころの江戸時代です。彗星の正体をさぐる研究も日本で始まった。
ところが、1828年に有名なシーボルト事件が起きてしまった。国家機密だった伊能忠敬による日本地図の写しをシーボルトに渡したことが発覚し、高橋景保は逮捕され、翌年には獄死してしまった。45歳だった。
江戸時代の人々の天文学の研究は、それなりに進んで、成果もあげていたのです。ところが、明治維新になって、一時は、まったく価値ないものとされてしまいました。それが明治の半ばになって、ようやく見直されたのでした。
江戸時代の人を今の私たちがバカにできるはずはありません。
(2016年7月刊。780円+税)

漂流の島

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  髙橋 大輔、 出版  草思社
 あまりの面白さに、乗るべき列車を乗り過ごしてしまいました。ホームに立って列車を待ちます。カバンから本を取り出して読みはじめました。実は、読む前は期待していなかったのです。いくつかの漂流記を、そのさわりを紹介する本なんだろうという誤った先入観があったからです。ところが、これは探検家である著者が、かの鳥島へ行って苦労したという体験記なのです。面白くないはずがありません。ホームに立って列車を待っていると、いつまでたっても来ません。実は、この時間は別のホームから列車が出るのです。案内放送が耳に入らないほど、本の世界に没入していました。列車が出ますというので、ふり向くと、ちょうどドアが閉まったところでした。ええっ、まあ、いいや、この本をじっくり読もうと思って、また別のホームに向かったのでした。
 探検家の著者は、何とロビンソン・クルーソのモデルが実際に生活していた住居跡を探しあてたといいます。すごいですね。モデルはスコットランド生まれの船乗りで、アレクサンダーセルカーク(1676-1721年)。南太平洋の無人島での4年4ヶ月間の一人で生きのびた体験をダニエル・デフォーが28年間にひきのばした小説にしたのだ。
 島は南米のチリにあり、今ではロビンソン・クルーソー島といって、700人ほどの住民がいる。そこで、次は日本。そして、あのアホウドリで有名な鳥島を狙います。なにしろ、この鳥島には、ジョン万次郎をはじめ江戸時代の160年間になんと13回、およそ12年に1度の割合で漂流民がたどり着いて、無人島での生活に耐えて生きのびた記録があるのです。でも、鳥島はアホウドリの貴重な生息地であり、再生プロジェクトが進行中ですから、漂流民の発掘なんて、とても許可がおりそうにありません。
 著者は、アホウドリの支援、そして火山島の調査、そんなグループの下働きの一員としてついに鳥島に上陸できたのです。まさしく執念の勝利です。
それにしても著者は、漂流民に関する記録を丹念に読みこなしています。そして、それを題材とした小説を読み、鳥島で生活したり滞在したことのある人々に何回となくインタビューしています。こんな下準備があってのことなんですね、探検に成果が出るのは・・・。
鳥島は活火山でいつまた大噴火があってもおかしくないところ。そこに、かの長谷川教授は一人で何ヶ月も寝泊まりするのです。火山の噴火があったら、逃げようがありません。
「覚悟を決めています」
なかなか言えるセリフではありませんね・・・。
 漂流民のなかには、アホウドリの肉だけを食べているうちに高脂血病になって病死した人もいたようです。やはり、人間が健康に生きるためには魚とか、いろんな食べ物をとったほうがよいのです。
 逆に、アホウドリは殺さず、その子に与えるエサを横どりするだけだった漂流民もいたとのこと。信じられません。
 この無人島で、漂流してくるものを待って集めて、5年がかりで船をつくったというのにも驚かされます。すごい執念です。そして、生きて帰れることが分かったとき、死者の名前を呼び、また、遺骨を拾って持ち帰ったのでした。
一番長い人は、なんと19年3ヶ月も一人で生きのびたのです。なんとも強靭な生命力です。恐れいります。
 私自身は、とても探検しようなんて勇気はもちあわせていません。本を読んで、その気分に少し浸るだけです。面白い本を、どうもありがとうございました。
(2016年8月刊。1800円+税)

川原慶賀の「日本」画帳

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  下妻 みどり 、 出版  弦書房
 これは素晴らしい画帳です。江戸時代の情景が総天然色写真のように再現されています。総天然色映画って、分かりますか。団塊世代の私の子どものころ、チャップリンの白黒映画からカラー映画に移行していきました。そのとき、カラー映画とは言わず、総天然色映画と呼んだのです。心の震えが今もくっきり思い出せるほど鮮やかな色彩でした。
浮世絵もすごいと思いますが、ここで描かれている江戸時代の長崎の日々の生活のこまやかな情景描写には、思わず息を呑むほど微細です。
 川原慶賀という人は町絵師ですが、長崎・出島の出入りを許されたのでした。
 1786年に生まれ、1860年まで生きていたと推測されています。カメラがないので、腕のいい絵師が出島に派遣されたのです。オランダ人の本国へ持ち帰るみやげものにするためです。ですから、川原慶賀は「シーボルトのカメラ」という別名もあるのでした。ともかく、描写がこまかいのです。圧巻です。
残念なことに、川原慶賀の絵は、現在、ほとんどオランダ、ドイツ、ロシアなど海外にある。そんなわけで、この本が貴重なのです。
 年末年始の大人そして子供たちの過ごしかたが絵で紹介されています。正月にタコ揚げするのです。踏絵のときは人々が厳しい顔つきをしています。驚くべきことに、ひな祭りのときには、子どもたちにもお酒を飲ませていて、酔っぱらった子どもたちが盛りあがってウロウロしてにぎやかだったというのです。まさか、と思うような情景です。
 いろんな仕事の風景も描かれています。山菜(きのこ)採りや石灰づくりがあります。かえる捕りなんて、どういうことなのでしょうか・・・。まさか食べていたのですが、ガマの油をつくっていたのでしょうか・・・。町には、メガネ屋もあります。どうやって度を合わせていたのでしょうか。菓子屋、魚売りの行商、大道芸人・・・、なんでもあります。
 お見合いの場まで描かれているのです。もちろん、祝言、結婚式もあります。花嫁は全身白装束でが、これは死装束なのです。友人、縁者に死別して、新しい夫の家の人となったわけです。でも、江戸時代には、夫婦別姓でしたし、死後は別墓でした。嫁盗みという便法も紹介されています。婚礼費用を節約する便法でした。
 いながらにして、江戸時代の人々の生活・習俗を知ることのできる画帳です。ありがたいです。ありがとうございました。
(2016年7月刊。2700円+税)

南部百姓・命助の生涯

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  深谷 克己、 出版  岩波書店
 『殿、利息でござる』は、いい映画でした。江戸時代も末ころの百姓・町民が自分のことのみ考えるのではなく、マチやムラ共同体全体のことを優先して考え、必要なら自分を犠牲にするのもいとわないという生き方をしていた実践例です。
この本の主人公も、同じく江戸時代の末ころに生きていました。
奥州・南部藩の城下町、盛岡の牢内で、1人の百姓が安政6年(1859年)に3冊、文久元年(1861年)に1冊、合計4冊の「帳面」を書き上げた。この4冊は、今も子孫筋の手元に保存されている。
 この帳面を残した百姓の名は命助(めいすけ)。文政3年(1820年)に生まれた。肝煎(きもいり)格の家とはいえ、生活はそれほど楽ではなく、天保の飢饉のときは17歳で秋田藩院内の鉱山に出稼ぎに行った。
命助は身長174センチ、体重112キロという巨漢だった。
ペリー来航という「外患」をかかえた嘉永6年(1853年)、南部三閉伊(さんへい)地方に一揆が起きた。命助34歳のときである。この一揆は仙台藩領への越領(えつりょう)強訴(ごうそ)という方法をとり、8千余の百姓が南部藩領を出た。そして、やがて45人の総代だけを残して帰国した。命助はこの一揆の頭人(とうにん。リーダー)の一人として活躍した。
 一揆のあと命助は村役人となるが、代官所の追及があって、家族を残して村を出て、仙台藩領内で、修験者(しゅげんしゃ)として暮らした。そのあと、京都へ上がり、公卿二条家の臣となった。そして、朝廷の権威を借りて南部藩に戻ったところ、南部藩に命助だと見破られ、牢に入れられた。
 獄中生活は6年8ヵ月に及び、命助は45歳のとき牢死した。それまでの牢生活のときに書いた帳面が4冊残っている。
 百姓の子が習学するのは、江戸時代も後期になればそれほど異例ではなく、命助も10歳をこえたら四書五経を素読で学んだ。
 一揆というと、勝手放題の打ちこわしというイメージがありますが、実際には、きちんと統制のとれた行動をしていたようです。そして、45人もの総代がいて、犠牲者を出さない工夫をいくつもしていたのです。
 すごいですね。現代日本人のほうが、負けているんじゃないかという気がします。やっぱり自分の納得できない社会状況に置かれたら、声を上げるべきなんです。安倍首相の言うとおりにしておいたら、いつか良いこともあるだろう、とか、政治家なんて誰も彼も同じようなものだから、投票所へ足を運んでもムダなんて思い込んでいると、もっとひどいしっぺ返しがあるのです。やはり、目を見開いて、いやなことはノーと言い、平和なニッポンに生きたいという自分の要求を声をあげるべきです。
 1983年に発行された本が30年ぶりに復刊されました。江戸時代の一揆の実際を知る有力な手がかりになるものです。
(2016年5月刊。420円+税)

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