法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(江戸)

潜伏キリシタン村落の事件簿

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  吉村 豊雄 、 出版  清文堂
まったくのオドロキです。福岡の筑後平野に今村天主堂があり、最近も『守教』(帚木蓬生)という小説になりました。大刀洗町の今村地区は江戸時代を通じて、ずっと切支丹として村ごと維持してきたのでした。
同じことが天草でも起きていたのです。しかも、その信者の規模は少なくとも5千人だったのです。幕府への公式報告書には6千人とされていました。そして、なんと、一人も刑死者を出していないというのです。信じられません。
島原の一揆のあとでも天草に、それだけのキリスト教信者がいることを知って、幕府当局は事なかれの穏便な処理方針をとったのです。なぜか・・・。
私も天草には行ったことがあります。エイのヒレ(エイガンチョと呼びます)を食べた覚えがあります。そして、今ではイルカ・ウオッチングで有名ですし、恐竜の化石が出たところでもあります。ですから、また機会をつくって天草に行ってみたいと考えています。
江戸時代の後期、文化・文政のころ、19世紀にさしかかるころです。肥後国天草郡の最大の島、下島西海岸の村々で5千人をこえる潜伏キリシタンの存在が明るみに出た。いま、天草氏にある大江天主堂の近くの天草ロザリオ館には、数多くのキリシタン遺物が展示されている。それは天草の村人たちが「隠れ部屋」をつくって、キリシタン信仰を守り続けてきた、何よりの証拠である。
最後のバテレン(宣教師)、斎藤パウロが寛永10年(1633年)に天草の上島の上津浦で捕まった。
なぜ、天草にキリシタン信仰が根づいていたのか。それは、貧困と貧富の格差がひどかったからだ・・・。
天草の人口増加はすさまじい。万治2年(1959年)に1万6千人だったのに、寛政6年(1799年)に11万2千人、文化14年(1817年)には13万2千人となった。
全国的にみると、江戸後期の人口は微増でしかなかったのに、天草の人口増加は驚異的である。これもカトリックの影響でしょうか・・・。
潜伏キリシタンは、仏教を信仰する「正路の者」と日常生活をともにし、仏教関係の行事をこなしつつ、その裏でキリシタンだけの信仰生活を送っていた。
潜伏キリシタンは、7日間を区切りに生活し、7日目を「ドメンゴ」(ドミンゴ、日曜日)と呼んで、仕事を休み、神に祈りをささげた。
天草を統治する島原藩の基本方針は、「5千余」の潜伏キリシタンを処罰せず、もとの状態、仏教信仰の「正路」の状態に戻すというもの。そのため、性急な取り調べをせず、余裕をもって、柔軟に対処していくことにした。
なぜ、そうしたか・・・。急に村民を吟味(ぎんみ)すると、徒党、逃散などの騒動が起きたり、村つぶれになったりするので、気長に取り扱えという。要するに、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」と同じで、百姓を確保しておきたかったのでしょう。
幕府も潜伏キリシタンの処遇には困った。結局、5千人もの潜伏キリシタン5千人全員が、その罪を問われることはなかった。それどころか、対処にあたった関係者は幕府から褒賞(ほうしょう)された。時代は変わった・・・。
5千人とも6千人ともいう天草の潜伏キリシタン(実は、もっといたようです)は、藩当局から黙認されていたというわけです。そのおかげで、このような文献を読むことができました。
(2017年11月刊。1800円+税)

潜伏キリシタンは何を信じていたのか

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 宮崎 賢太郎 、 出版  角川書店
筑後平野の真只中に潜伏キリシタンがいて、明治になって名乗り出て、今では今村地区に壮大なカトリック教会堂がそびえ立っています。踏み絵だとか五人組という厳しい試練をくぐり抜けて江戸時代も信仰を捨てず、現代に続いているのです。信じられない奇跡です。帚木蓬生の『守教』は、今村地区の潜伏キリシタンの存在(存続)をテーマにしています。
この本は同じように江戸時代を生きのびた長崎県の潜伏キリシタンを分析しています。長崎県の生月(イキツキ)島などでは、今もカクレキリシタンのまま信仰を続けている人たちがいます。しかし、それも次第に減っています。
カクレキリシタンが350年以上の時を隔てて今日まで続いてきたのも、日本仏教とまったく同じ受容と土着の原理にしたがって、日本の諸宗教の中に溶け込んでいったからだ。キリシタンを隠れ蓑として、仏教というスタイルを用い、先祖に対する篤い信仰を守り通してきたのだ。カクレキリシタンはオラショの言葉の意味を理解して唱えていたのではなく、ありがたい呪文として唱えていた。
当時の人々がキリシタンに改宗したのは、それまで日本人がおすがりしてきた諸々の神仏の上に、さらに効き目のある、何でも願いごとをかなえてくれそうな南蛮渡りの「力あるキリシタンの神」を、ひとつ付け加えたに過ぎなかった。つまり、従来の神仏信仰の上に、さらにキリシタンという信仰要素をひとつ付け加えたに過ぎなかった。
 領主たちはポルトガル船から期待される収益のために、領民を強制的にキリスト教に改宗させた。
キリシタン思想をある程度まで、理解できた日本人は、京阪地方を中心とした一部の知識人層のみだった。そして、キリシタン弾圧が始まると、まず多くの武士層や知識人層が放棄した。
長崎県下のカクレキリシタンは、昭和60年代初めに400~500軒、1500~2000人ほどだった。現在では、激減して120軒(厳密には80軒)ほどでしかない。
カクレキリシタンにとって、仏教や神道は、キリシタンであることを隠すためのカモフラージュではなく、この三つの要素が完全に一つとなり、三位一体のような形をとって、これまで続いてきた。カクレキリシタンの信仰対象は先祖が命かけて今日まで伝えてきたもの。大切なのは、それが何かではなく、誰が大切なものとして伝えてきたか、ということ。カクレキリシタンは、ごく当たり前の仏教徒として、また神道の氏子として、その努めを果たしてきた。
17世紀はじめの日本にキリスト教信徒が45万人ほど、人口の3%ほどいた。現在、日本のキリスト教カトリック信徒は44万人ほど。まったく同じだけど、人口比率では0.34%でしかない。プロテスタント(合計57万人)を含めても0.81%でしかない。
キリスト教系の大学はたくさんあるのに、日本人のキリスト教信者が一向に増えないのはなぜなのか・・・・。
宗教とは何か、など、いろいろ考えさせられる本でした。
(2018年2月刊。1700円+税)

北斎漫画2

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 葛飾 北斎 、 出版  青幻舎
漫画といっても、いわゆるマンガではありません。「漫然と描いた画」だというのですが、実際には、なかなかどうして、とても精密な絵のオンパレードです。
北斎は、一瞬をとらえ、それを一瞬のうちに描き切っている。
19世紀にヨーロッパで巻き起ったジャポニズムのきっかけをつくったのは浮世絵、なかでも「北斎漫画」だった。
北斎は、独立したときに自分の師匠は「造化」だとした。「造化」とは、「天地万物を動かす道理」のこと。北斎が生涯かけて求めていたのは「造化」であり、世の真理だった。誰も気に留めないような、画題になりそうもない日常風景までもが北斎の「師」だった。
北斎は、当時の町人としては、破格の知識人だった。北斎は、西洋画(油彩画)。知識や技術を知っていた。
北斎は、画面手前の描き方は墨絵(すみえ)の中国的な描き方、全体の構図は西洋の透礼画法(三ツ割りの法)、人物は大和絵の伝統的なテクニック、背景の山並みは絵の具を重ねて塗る油絵独特の描き方で描いた(潮干狩図)。
北斎は、実際には関西までしか行っていない。しかし、「琉球八景」というシリーズも描いている。
この第二巻「森羅万象」では、「自然博物図鑑」とでも言うべきように、ありとあらゆる生き物を詳細にかつ生き生きと描いています。そのすごさは筆舌に尽くしがたいものがありますので、ぜひ手にとって眺めてみてください。
(2017年8月刊。1500円+税)

勘定奉行の江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 藤田 覚 、 出版  ちくま新書
江戸時代というと身分によってガチガチに固まっている窮屈な社会だったというイメージがありますが、その実態は必ずしもそうではなくて、運と能力次第では、かなり上の役職・身分までのぼりつめることも出来ていたようです。
能力が求められるという点では、江戸時代の勘定奉行は、その筆頭に来ます。なにしろ破綻しかけている幕府財政をなんとか立て直すという課題について、父子相伝のボンクラ頭でつとまるはずはありません。
江戸時代は、福沢諭吉が「親のかたき」と言ったような厳しい身分制・家格制でガチガチに固められていたとみられがちだ。なるほど基本的にはそうだったけれど、勘定奉行をみてみると、必ずしもそれだけではなかった。
勘定奉行の第一の特徴は、職掌のように幅が広く、しかも職務が重要なことにある。幕府財政の運営、全国の交通体系の維持、裁判の運営、さらには三奉行の一員として江戸幕府の重要な政策・意見決定に参画していた。
勘定奉行は、それほど江戸幕府の重職・要職だった。
勘定所内部の職階を上ってトップの奉行に昇進した人が、少ないとはいえ、10%いた。この事実こそ、勘定所の昇進システムの特異なところであり、重要なことだった。このように、勘定所の職員が内部昇進する仕組は、幕府の重要役所として異例なことだった。
なるほど、なるほど、と思いながらあっというまに読了しました。
(2018年2月刊。780円+税)

北斎漫画(1)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 葛飾 北斎 、 出版  青幻舎
江戸時代を生きていた日本人がどんな生活をしていたのか、ビジュアルに分かる漫画です。
「北斎漫画」は葛飾北斎(1760~1849)が弟子たちに絵の手ほどきをするための教科書として描いた絵手本。弟子はかりでなく、一般の庶民にも親しまれ、江戸時代のベストセラーとして、10編で完話しても、さらに続編が続き、ついに15編がプラスされた。
ただし、その15編完話編が出版されたのは明治11年といいますから、なんと西南戦争の翌年なのです。もちろん北斎自身は30年近く前に亡くなっています。
「北斎漫画」の総ページ数は970。図版は4000をこえる。
人物、動植物、風俗、職業、市井の暮らしぶり、建築物、生活用具、名所、名勝、天候、故事、説話、妖怪、幽霊と百科事典さながら。
この第一巻は、「江戸百態」として、市井の人々の姿や風俗、生活用具や建物などの江戸の日常が描かれている。
「北斎漫画」は19世紀後半にヨーロッパで巻きおこったジャポニズム旋風の引き金となった。かのシーボルトは、「北斎漫画」をひそかにオランダに持ちかえったとのことです。
江戸時代の後期には、江戸だけで学術書を扱う出版社が70軒、娯楽性の高い絵草紙などを扱った出版社が150軒あった。そして、600軒以上の貸本屋があり、本が買えない庶民でも、気軽に読書できる状況がつくられていた。
子どもたちが将棋をして楽しんでいる絵もあります。
人々が農作業をしていたり、また旅姿の人々がいます。日本人は昔から旅行大好き民族だったことがよく分かります。
私も江戸時代のことについては、いろいろ本を読んできましたが、やはりこのようなイメージをしっかりもちながら、江戸時代の社会を論じる必要があると思ったことでした。少々値がはりますが、読む価値は十二分にあります。
(2017年10月刊。1500円+税)
春らんまんの候です。形も色もとりどりのチューリップが全開、青紫と紅いアネモネと美を競っています。シャガの白い花、白いなかに黄色の気品あるアイリスも咲きはじめました。足元にはピンクのシバザクラも地上を飾っています。
春の味覚、アスパラガスが昨日にひき続いて今日も一本、収穫できました。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.