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カテゴリー: 日本史(江戸)

木挽町のあだ討ち

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 永井 紗耶子 、 出版 新潮社
 いやあ、読ませました。電車に乗る前にホームで読みはじめ、車中ではあっというまに終点に着き、少し時間がありましたので、コーヒーショップに入って読了しました。心地良い感触に浸りながら、梅の香りの漂う目次地へ、いつもよりゆっくり歩いていきました。もう春も間近だと実感しながら…。
 冒頭に仇討ち(かたきうち)が無事になし遂げられたことが知らされます。場所は芝居小屋の裏手、雪の降る中です。赤い振袖をかぶった若い女性が傘を差して立っているところに、おおがらな博徒が歩み寄り、声をかけた。すると、かぶっていた振袖をとると若い男性で、白装束になって仇討ちの名乗りをあげた。
 「我こそは伊能清左衛門が一子、菊之助。その方、作兵衛こそ我が父の仇、いざ尋常に勝負」
 そして真剣勝負の切り合いが始まり、若衆が博徒を切り倒し、首級(しるし)をもって立ち去っていく。見事に仇討ちは成功するのです。目出たし、目出たし…。
 さて、では、この話は次にどう展開するのでしょうか。若衆の仇討ちに成功するまでの苦労話が紹介されるのでしょうか…。
 オビに書かれているのは、「雪の夜の惨劇。目撃者たちの証言に隠された、驚愕(きょうがく)の真相とは」です。読んだあと、このオビのフレーズに私はまったく異議ありません。見事なドンデン返しというか、謎解きが少しずつ進んでいくので、最後まで目が離せません。
 そして、若衆を取り巻く人間模様がなんとも心地よいのです。少しばかり悪人も登場はしますが、全体として、人情味あふれる人たちが次から次に登場してきて、そうなんだよな、この社会もそんなに捨てたもんじゃないよね。自殺するなんて、そんなもったいないことしないで、もう少しだけがんばってみたら…と、お互い声をかけあいたくなります。
 よくできた時代小説として一読をおすすめします。
 この著者の『商う狼、江戸商人杉本茂十郎』(新潮社)も面白かったですよ。
(2023年1月刊。税込1870円)

江戸にラクダがやって来た

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 川添 裕 、 出版 岩波書店
 江戸時代、2頭のラクダが日本にやって来て、西日本一円を巡業していたというのです。
 文政4(1821)年にオランダ船に乗ってラクダがやってきた。これは、オランダ商館のカピタンから江戸の将軍家への献上品のはずだった。ところが、将軍家は献上を認めながらも出島に留め置くようにと指示した。その理由は分かりませんが、ラクダを養うことの大変さを考えてのことだったのではないでしょうか。
 江戸時代の日本にラクダがやってきたのは、実は、これが3度目。ただし、1回目は将軍家光への献上品となって庶民は見物できなかった。2回目は、アメリカ船が運んできたものだったので、すぐに戻された。
 江戸では3年後の文政7(1824)年8月から両国広小路でラクダの見世物が始まり、半年間も続いた。見物料(札銭)は32文。これは、歌舞伎の最安の入場料の4分の1なので、安い。つまり、庶民が楽しめた。
 2頭は、5歳のオスと4歳のメス。夫婦ではなかったかもしれないが、世間は仲の良い夫婦をラクダにたとえるようになった。
 ラクダを見て狂歌師たちはたくさんの句(狂歌)をつくり、また、絵師たちが写生してラクダ絵図として売り出した。
 ただ、ラクダ見物は1回目こそ熱狂的に人が集まったものの、2回目は、不入り、不評となった。というのは、ヒトコブラクダは人に馴(な)れた、おとなしい動物であり、何か芸が出来るわけでもなかったから。それで、日本人が唐人風の装いをして、ラクダの周囲で太鼓を叩いたり、「かんかんのう」を歌い踊ったりして、その場を盛りあげた。
 ラクダが運べるのは長距離だと160キログラム、近距離でも最大300キログラム、そして、平均的な1日行程は48キロメートル。ところが、ラクダ見物を誘うチラシには900キログラムを運べるとか、100里つまり390キロメートルも行くなどと、「白髪三千丈」式の誇張した表現がなされた。まあ、広告とは、そういうものでしょうよね、昔も今も…。
 ラクダを見ることで、悪病退散の効能を庶民は期待したようです。江戸時代も、今のコロナ禍以上に何度も感染症などに襲われて、大量の死者を出していました。
 それにしても、12年間もラクダが日本各地を巡業してまわっていたなんて、知りませんでした。鎖国といっても、日本人は世界への目はもっていたのですね…。
 とても面白い本でした。
(2022年9月刊。税込3190円)

豪商の金融史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 高槻 泰郎 、 出版 慶応義塾大学出版会
 著者には失礼ながら、学者の金融に関する小難しい論文集だろうと、まったく期待もせずに読みはじめたのでした。ところが、予期に反して、意外や意外、とても面白くて、江戸時代の豪商の生きざまを知り、また、その息吹きを感じることができました。
 NHKの朝の連続テレビ小説「あさが来た」(2015年9月より全156回)の主人公である廣岡浅の関係する廣岡家の古文書が発掘され、それにもとづいているので、話がとても具体的で分かりやすいのです。
 旧家の大蔵に古文書が埋もれていたのです。それは2万点超もありました。
 大同生命の創業一族にあたる廣岡家は、江戸時代には、三井、住友、鴻池と肩を並べる豪商でした。姓は廣岡、屋号は加島(かじま)屋久右衛。東の大関が鴻池で、西の大関を加島屋久右衛門(加久。かきゅう)がつとめていたのでした。
 江戸の商人の多くは現金決済していたのに対して、大坂商人は手形決済を主としていた。大坂には「大坂法」と呼ばれる独特な法制度が敷かれていた。債権者を保護する傾向の強い法制度である。
 18世紀までは京都商人のほうが優位にあった。しかし、大名貸がうまくいかずに、京都商人は没落し、その代わりを大坂商人が担った。大坂は物流の拠点にある点に強みがあった。
 大坂の米市場では、米切手(米手形)が登場し、流通した。
 「加久」は、大名貸をするだけでなく、江戸幕府の経済政策のなかで知識の提供を求められた。資金と市場知識の両面で幕府の経済政策に豪商は組み込まれていた。
 大坂の堂島米市場で、帳合米(ちょうあいまい)商(あきな)いという画期的な取引方法が始まった。一種の先物取引である。しかし、今日の先物取引とは異なり、現物の受渡を予定しないものなので、今日の指数取引をみるべきもの。
 江戸幕府が堂島米市場のこの取引を公認したのは1730年8月のこと。米価が底値をつけたとき。
 「加久」は萩藩との関係では「館入(たちいり)」となった。蔵屋敷の出入りを許され、大名の資金繰りや資金調達の相談に応じたり、優先的に融資する関係にあった。
 大名は自らの詳細な財務情報を大名貸商人に開示し、そのことで安定的な融資を受ける。大名貸商人は、得られた財務情報にもとづいて大名の座性運営を監視し、規律を与えることで融資の安定性を担保する。このような長期間で密接な関係を相互に構築した。
 廣岡家(「加久」)は、全国120以上の諸家(将軍家、大名、旗本など)へ貸付していた。そして、維新政府にも協力的だった。要するに、大名貸は得られる利益が大きいかわりに、リスクも大きい。そこで、リスクを少なくする方法があれこれ考えられていたのです。さすが、江戸時代を生きのび、明治以降も苦難を乗りこえたわけです。
 2万点超の古文書を読み解いて、時系列に並べたり、項目ごとに比較したり、大変な作業だったと思います。心より敬意を表します。
(2022年10月刊。税込2970円)

大奥御用商人とその一族

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 畑 尚子 、 出版 岩波書店
 江戸時代、11代将軍家斉(いえなり)の時代に、江戸城大奥や大名家に出入りしていた道具商・山田屋の6代目当主、黒田庄左衛門徳雅(のりまさ。1773年生1855年亡)が書き残した記録を読み解いた本です。黒田徳雅は狂歌師・山田早苗でもありました。
 この「家伝」には、ときに事件に巻き込まれて家業の存続が危うくなったり、火事に見舞われたり、泥棒にはいられたりという状況が書きつづられている。
 江戸時代には、日記を書くという習慣が広く庶民にまで浸透した。
 将軍家族ら御殿の用向きは、一般に御上(おかみ)御用と呼び、長局(ながつぼね)に住まう奥女中たちの用向きを御次(おつぎ)御用といった。広敷(ひろしき)御用は両者を含む。
 大奥の権力者への多くは公家出身者。
 奥女中の出世コースは二つあった。一つは老女となって大奥を牛耳ること。もう一つは、側室となり子どもを産み、やがて将軍生母となる。
 親の身分にかかわらず、奥女中になることはできたが、農民や商人の娘は下位の職制か、大奥女中が自分の部屋で使役する部屋方女中にしかなれなかった。
 奥女中がもっとも多かったのは、11代家斉の時代。家斉には、50人以上の子女がいた。成長して婚礼をあげた娘は12人いて、1人につき50人ほどの女中が大奥より姫君につけられ、輿(こし)入れのとき、一緒に大名家に移った。雇い主は、あくまでも幕府。
 家斉の子沢山は幕府の財政を圧迫したが、同時に御用商人を潤し、その経営を安定させた。それは、ひいては江戸の経済を好景気に導いた。
 商人が幕府や諸大名の新規御用を得たり、獲得した御用を継続して御用商人としての立場を維持していくためには、親類の女性に奥奉公をさせることや、奥奉公をした女性を妻とすることが欠かせない。
 山田屋の当主となった徳雅は、親族が奥女中となって、大奥との取引に深く食い込んだ。力のある女中に気に入られることが大奥との取引では肝要だった。
 文化11(1814)年5月25日未明、山田屋に盗賊が忍び込み、小判やカンザシ10数本とビロードの紙入れなどが盗まれた。
 文化13(1816)年4月15日、江戸城内で上演された能の見物に徳雅は招かれた。
 百姓・町人の娘であっても、奥女中としての奉公を経験すると武士と結婚することが可能となり、実例がある。これを見上(みあが)りという。
 狂歌師・山田早苗は何度も旅に出かけ、いくつもの旅行記を残した。
 江戸時代の上流商人の生きざまを紹介した貴重な本だと思いました。
(2022年10月刊。税込2420円)

知る、見る、歩く!江戸城

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 加藤 理文 、 出版 ワン・パブリッシング
 東京に行くと、必ず皇居周辺を通りかかることになります。皇居1周ランニングをしている人たちをいつも見かけます。
 江戸城の古地図を見て、私になじみのあるのは、なんといっても桜田門です。桜田門外の変を思い起こします。
 大手門は、日比谷あたりのビジネス街ですし、日比谷門は日比谷公園と、公園に面している日弁連会館ですね。
 あと、半蔵門も身近でした。というのも、半蔵門の近くに「ふくおか会館」という安くて、そこそこサービスのいい福岡県の関わる宿泊所があり、日弁連の役員をしていたときに連泊していたからです。
 江戸町奉行所は二つあり、南町奉行所は有楽町駅の近く、北町奉行所は東京駅近くにあったようです。
 赤坂見付(みつけ)とう地名にもなじみがありますが、この「見付」とは見附、つまり見張り番所(ばんしょ)のこと、監視所です。街道の面倒に土台を石で固め、その上に土を盛り、さらにその上に柵(矢来、やらい)を設けて、警戒する番所をいう。
 「江戸」とは、「入り江にある港」をいう。江戸城は水の城だった。
 江戸城の本丸が何度も火災で焼失したというのは事実でしょうか、不思議です。警戒厳重だったはずなのに…。
 江戸城大奥の生活というのには興味があります。たまに外出したりして、それほど窮屈な生活ではなかったようですね。完全な「カゴの鳥」生活ではなかったようです。
 江戸は海を大々的に埋立しています。浜松町駅から新橋駅にかけては深い入江のように海になっていたのですね。愛宕(あたご)山あたりからが地上部になります。
 江戸城の石垣も、たくさんの造り手によって、いろいろな形状の大石が使われています。遠くは九州から大石を船で運んできて、地上部分はモロッコに乗せて運んだというのですから、すごいですよね。
(2021年3月刊。税込1980円)

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