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カテゴリー: 日本史(戦前)

昭和文化、1925-1945

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 南博・社会心理研究所 、 出版 勁草書房
 亡父は17歳のとき、働くあてもないまま単身、上京しました。昭和2年(1927年)3月のことです。それから7年間、東京で生活しました。この7年間、日本はまさしく激動の時代であり、戦争へひた走りに突き進んでいきました。軍部の横暴を止める力がなかったのです。
 金融恐慌があり、満州事変があり、五・一五事件が起き、「満州国」が建国しました。国際連盟も脱退します。
 亡父は幸いにも逓信省にもぐり込むことが出来、仕事が決まると、次は法政大学で学ぶようになりました。初めは夜間の文学部国語・漢文科、そして法文学部の法律学科に移りました。我妻栄に学び、司法科試験を受験しました(不合格)。
 そのころの学生生活をしっかり調べ、刻明に再現していきました。『父の帝都東京日記』というタイトルをつけて出版したところ、父が日記をつけていたのが残っていたと誤解する人が出てきました。もちろん、そんな「日記」なんて、何もありません。私が亡父になりかわって当時の社会状況との関わりあいを明らかにしていったのです。亡父の日記はありませんが、法政大学の古ぼけた卒業記念アルバムが残っていて、その余白に父が貼りつけた写真が何枚もあり、学友たちと肩を組んでいる写真もあります。
 根が真面目な亡父は、きっと「マルクス・ボーイ」たちから、いろいろ勧誘されたのだろうと思いますが、「道」を踏みはずすことはなかったようです。
兵隊にとられて(応召)中国に渡りましたが、幸いにも病気にかかり、無事に日本に生還することができました(そのおかげで今日の私がここにいるわけです)。
 昭和6(1931)年ころの給料(賃金)は、陸軍少佐160円、陸軍大尉130円、中尉85円、軍曹67円。
1円で買える「円本」なるものが売り出され、爆発的な人気を得た。
 「現代日本文学全集」は各巻が1冊1円だったのに、第1回配本(尾崎紅葉集)は予約購読者が25万部だった。「世界文学全集」も刊行され、「レ・ミゼラブル」は58万部もの予約読者がいた。まさしく、すさまじいばかりの数字です。それにも大量ですね…。次に岩波文庫が対抗するように出現した。
 雑誌「キング」は、1927年に売り出したとき、140万部を発行した。これはすごいですね。
 日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年3月のこと。10年たっても(1934年)ラジオの普及率は15.5%しかなかった。ラジオの普及率が65%に達したのは戦後の1953年のこと。
軍歌が一般に普及したのは案外に遅く、「勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからにゃ」(露営の歌)は、1930年代も後半のころ。
 「出てこい=ミッツ、マッカーサー。出てくりゃ、地獄へ蹴落とし」
 かけ声だけは勇ましいのですが、裏づける物質がありませんでした。兵站無視の日本が戦争に勝てるはずもなかったのです。
 戦前を複眼的に見るときには欠かせない本だと思いました。
(1987年4月刊。4800円+税)

不条理を生き貫いて

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 藤沼 敏子 、 出版 津成書院
 「34人の中国残留婦人たち」というサブタイトルのついた本です。550頁もある部厚い本ですが、読後感もずっしり重たいものがありました。
戦後生まれの著者による、戦前、満州に渡り、日本敗戦後も中国に残留していた女性(その大半が日本に帰国)にインタビューしたものが中心です。
日本敗戦直後の日本政府の方針は、日本への帰還を進めるどころか、「居留民はできる限り定着の方針をとる」というものでした。これは、敗戦直後は日本国内の食糧が良くないことを理由とするものではありましたが、「満州」国にいる日本人がどのような悲惨な状況に置かれているかを無視したものであり、まったく人道的配慮のない方針です。
その結果、1945年6月、満州国にいた日本人166万人のうち、敗戦直後に24万5千人が死亡した。日ソ戦により6万人、終戦後18万5千人だと厚生省は推計している。そして、日本から満州に渡っていた開拓団の死亡者が8万人を占めた。
満州に残留した日本人女性は、敗戦直後の混乱の中を生きのび、やっと収容所や避難所にたどり着いたときは裸同然。飢餓と戦い、寒さと戦い、怒涛の大河に飲み込まれつつも、浮き沈みしながら、奇跡的に命をつないだ。収容所では、「今日、死ぬか、明日、死ぬか」って、朝、目が覚めてみると、「あ、今日も生きとった」と。
 中国残留孤児たちは、中国では「リーベンクイズ(日本鬼子)」と言われ、日本では、「中国人、中国へ帰れ」と言われ、いったい「自分は何人なのか?」と悩む人が多かった。
 それに対して、残留婦人は、日本人としての揺るがぬ自覚が強く、それは中国にいたときも日本への帰国後も変わらない人が多い。なかには戦前のまま封印された美しい日本語を話す人も多かった。
 残留婦人たちは、身をもって体験した満蒙開拓の真相を語った。
 満蒙「開拓」とは名ばかりで、実は中国人の畑や家をタダ同然で奪ったものだった。また、「五族協和」と言いながら、トップは日本人だった。
日本の敗戦後、ソ連兵や現地中国人の襲撃・略奪そしてレイプ(強姦)にあったとき、「日本人が悪いことをしてきたから、仕返しされた」とつぶやいた。
 収容所では、飢えと寒さと伝染病が延し、バタバタと仲間の日本人が死んでいくなか、「野垂れ死にか、さもなくばトンヤンシー(幼な妻)か、現地人の妻妾になるか」の選択肢しかなかった。
著者が1995年ころ、残留婦人にインタビューに行ったとき、正座して何度も何度も謝る女性がいた。「中国人と結婚して申し訳なかった」と言う。
 日本人のいない田舎、ラジオも新聞もなく、いわば閉じ込められてしまったような生活を過していた。その生活が嫌だといっても逃げ出すことのできない生活が続いていた。情報も通信手段もない状況に置かれたのが日本人女性たちだった。
 中国では、嫁さんもらうのにお金かかるし、貧しい人は中国人の嫁さんがもらえない。小さいときには養女として引き取って、大きくなったら自分の子どもと結婚させる(トンヤンシー)。
 開拓団って、関東軍のために食料つくっていたんだけど、国(日本)にはそう思ってもらえなかった。軍人だけが国を守ってきたんじゃない。軍人と開拓団への扱いがあまりにも違いすぎる。日本の政府って、あんまり不公平だ。軍人には恩給あるのに、開拓団には何にもない。
今になると、「あの戦争は間違っていた」と分かる。でも、あのころはそんなことは考えもしなかった。働くばかりで、そんな暇なかった。
 とても貴重なインタビューを集めた本だと思います。
(2019年7月刊。2500円+税)

九月、東京の路上で

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(霧山昴)
著者 加藤 直樹 、 出版 ころから
 1923年9月1日、午前11時58分、関東大地震が発生した。昼食どきだったので、火災が発生し、広がった。同時多発的で、しかも強風にあおられ、東京市の4割以上、横浜市でも8割が焼失した。倒壊・焼失家屋は29万3千棟、死者・行方不明者は10万5千人以上。被害総額は当時の国家予算の3.4倍。
 このとき、「朝鮮人暴動」の流言が広がり、実際に朝鮮人へ危害を加えることになった。
9月2日の未明、品川警察署は数千の群衆に取り囲まれ、「朝鮮人を殺せ」と人々は叫んでいた。
 当時、日本に仕事を求めて多くの朝鮮人がやってきていて、女工や建設労働者として働いていた。少なくとも8万人以上とみられていた。彼らの半数近くは日本語が話せなかった。
 自警団は、「パピプペポと言ってみろ」「15円50銭と言ってみろ」と、朝鮮人には発音が難しい言葉を言わせて判別していた。
 内務省の警保局長は2日、「朝鮮人が各地で放火しているので、厳しく取り締まるよう」という趣旨の通牒を発した。「流言」が事実として公認されてしまった。
 世田谷区千歳烏山(からすやま)にある烏山神社の境内に13本の椎の木が植えられている。これは「殺された朝鮮人13人の霊をとむらって地元の人が植えたもの」と語り伝えられているが、よくよく真相を調べてみると、実は、朝鮮人を虐殺した地元の自警団員12人が殺人罪で起訴されたことから、郷土愛として起訴された被告への「同情」として植樹されたものだった。朝鮮人虐殺は当時の状況では仕方のないことだったとされたというわけです。
 多くの朝鮮人・中国人が虐殺されたが、一人の軍人も裁かれることはなかった。
 「このたびのことは、天災と思ってあきらめるように」と役人から申し渡されたという。
亀戸警察(江東区)では南葛労働組合の幹部を逮捕・連行してきて、虐殺した。平沢計七や川合義虎など10人以上の人々が殺害されたことが判明している。
 埼玉県内でも200人以上の朝鮮人が虐殺された。その下手人たちは起訴されたが、執行猶予が95人、実刑になったのは21人、無罪2人だった。
 デマを信じて行動した人々は、それこそ普段は「善良な市民」だったのでしょう。それが、殺人鬼のように「殺せ、殺せ」と叫んで、実際行動に移ったわけです。
 先日の兵庫県知事選挙で斉藤知事を「正義の味方」と誤信して、駅前に出かけて拍手し手を振っていた人々と同じ現象ではないでしょうか。心底から恐れおののきます。
 そんな状況も考えたら、関東大震災のときの朝鮮人大虐殺は決して過去のことではないことを今しっかりと確認する必要があると思います。それにしても、デマなのか、本当(真実)なのか、簡単には分からないことが多くなったというのも事実ですね…。
 福岡県弁護士会が昨年12月14日に著者を招いて開いた講演会の会場で購入した本です。
(2024年3月刊。1980円)

ゾルゲ事件、80年目の真実

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 名越 健郎 、 出版 文春新書
 ロシアの独裁者のようなプーチン大統領は、高校生のころ、「ゾルゲのようなスパイになりたかった」と語ったそうです。
 「20世紀最大のスパイ」とも呼ばれるゾルゲは、石油業を営む裕福なドイツ人の父とロシア人の母の子として、アゼルバイジャンのバクー郊外で生まれた。3歳のとき、一家はドイツに移住した。第一次世界大業ではドイツ陸軍に志願し、戦場で3度も負傷した。
その入院中にマルクス主義に目覚め、ドイツ共産党に入党。ドイツで活動中にコミンテルン本部で働くようにすすめられ、モスクワに移り、ソ連共産に入党した。そして、赤軍参謀本部の情報本部にスカウトされて上海に赴任(1930年)。
 そこで、尾崎秀実(朝日新聞記者)やアグネス・スメドレーらと知りあい情報網を築き、中国共産党との連絡役もつとめた。
 1933年9月、東京に来てドイツの新聞社の特派員を隠れ蓑(みの)として、8年のあいだ活動した。
 1941年10月に摘発され、1944年11月7日、処刑された。検挙されたゾルゲ機関関係者は35人という多数だった。
戦後長くゾルゲの存在は忘れられていたが、今では、ロシアでは英雄として称賛されている。ゾルゲ通りがロシアの50もの都市にあり、モスクワの地下鉄にはゾルゲ駅もある。
 ゾルゲの墓は多摩霊園にあり、ロシア政府の要人が来日したら参拝している。
 当時のソ連にとって、日本軍が北進(ソ連を攻める)するのか南進(東南アジアへの進出)するのかはぜひ知りたいところだった。ゾルゲは、日本の南進政策を知り、ソ連に通報した。それによって、ソ連は極東にいた数十個師団そして数千の戦車を西部戦線に移動させ、対ナチス戦を勝利に導いた。これが「ゾルゲ神話」。
ゾルゲは駐日のドイツ大使オイゲン・オット大使に気に入られ、ドイツ大使館内に部屋まで与えられていたようです。ゾルゲはナチスにも入党しているが、もちろん偽装入党であり、転向したのではない。
 ゾルゲが日本で情報を入手してせっせとモスクワに送っていたとき、ソ連ではスターリンの粛清が猛威を振るっていた。ゾルゲを派遣した上司たちも次々に処刑されていった。そして、ついにゾルゲ自身もドイツのスパイではないかとまで疑われた。そんなゾルゲが送ってきた情報(日本は南進を決定した)をスターリンが信用しなかったという説は信憑性がある。
 スターリンは、ゾルゲが送ってきたドイツのソ連への侵攻が迫っているという情報も無視した。そのため、ソ連の人々は大変な災難を蒙ったわけです。
 それでも、ソ連は結局、日本の北進はないと正しく判断はしたから、ゾルゲの通報はムダにはなりませんでした。ゾルゲ事件を振り返ることができました。
(2024年11月刊。1100円+税)

まだ見たきものあり

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 永尾 広久 、 出版 花伝社
 父の帝都東京日記というサブタイトルのついた本です。
 著者の父は17歳のとき単身上京しました。大学に入るためではありません。従兄弟(イトコ)の伝手で、どこかの官庁に採用してもらうことに望みをかけてのことです。つまり、就職先が決まっていたのではなかったのでした。大胆といえば大胆、無鉄砲な気もしますが、ともかく百姓の長男でありながら、百姓が嫌で、田舎(大川市)を逃げ出したのです。それでも運良く、逓信省にもぐりこむことが出来ました。昭和2年(1927年)のことです。それから1934年まで7年間、東京にいました。
 この7年間というのは、日本も世界もまさしく激動の日々でした。なんといっても、日本は着々と戦争へと突き進んでいったのです。
 満州の関東軍は独断専行を繰り返します。1928年6月、張作霖を爆殺してしまいます。田中義一首相(陸軍大将)が天皇に「日本軍は無関係」と嘘の報告をして、天皇に叱責され、辞職してまもなく失意のうちに死亡。
 1932年1月には上海事変が勃発。日本軍が中国軍をなめてかかっていたところ、ドイツ軍事顧問国のテコ入れもあり、中国軍は頑強に抵抗し、日本軍は大苦戦を余儀なくされた。
政府は1928年2月、普通選挙を実施すると同時に治安維持法を施行した。特高警察による違法・不当な検挙が横行し、拷問も至るところで野放し。
 そして、治安維持法に死刑が導入され、「目的遂行罪」なる、とんでもない条項が追加された。
 茂青年は、逓信省で働きながら法政大学に通うようになった。そして、休日は映画をみ、また銀座で銀ブラを楽しんだ。初めは無声映画なので「カツドー」と呼ばれ、徳川夢声のような活弁が活躍していた。やがてトーキーになった。銀座には百貨店があり、カフェーが続々オープンした。
 軍人の横暴がひどく、政府要人や経済人が次々に暗殺された。
 法政大学では夜間の国語・漢文科から、昼の法律学科に移り、我妻栄教授の講義を受け、ついに高文司法科試験を受験するに至った。NHK朝ドラ「虎に翼」の主人公のモデルとなった三淵嘉子が受験する3年前のこと。
 当時すでに「受験新報」のような受験雑誌があり、茂は大いに参考にした。
 地下鉄争議は成果を勝ちとり、紡績工場の大きなストライキは会社と警察によって切り崩されてしまった。ターキー(水の江瀧子)たちの劇団員たちもストライキに突入した。
 茂は司法科試験に合格したら検察官になるつもりだった。というのも、弁護士は法廷で共産党員の弁護をしただけで治安維持法の目的遂行罪で有罪とされた。そして、裁判官のなかには「赤化判事」がいて、逮捕された。残るのは検察官という消去法の選択だった。大学教授も捕まり、華族の子弟も次々に検挙されていく。
 毎日毎日、目まぐるしいほど世の中は動いていたのです。それを日記風に再現した本です。この本にはとても信じられないエピソードが2つ登場します。
その1は、特高刑事が賭博罪で捕まり裁判になったとき、穂積重遠教授が法廷傍聴にやってきたら、裁判官が判決言渡しと同時に被告人の釈放を命じたうえ、傍聴席に向かって、「先生、これでよろしいでしょうか?」とお伺いをたてたということ。
その2は、警察署の留置場で看守たちが見守るなか、布施辰治弁護士の盛大な歓迎会がもたれたということ。歌あり、モノマネあり、踊りありのにぎやかさで、さすがの布施辰治も感極まった。
戦前の暗黒政治・社会のなかにも、こんなことがあったのですね…。
ぜひ、みなさん手にとってご一読ください。
(2025年1月刊。1650円)

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