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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

日の丸は紅い泪に

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 越 定男 、 出版 教育資料出版会
 戦前の満州(中国の東北部)にあった七三一部隊で技術員(石井部隊長の専属運転手など)として働いていた人の体験・告白記です。本当におぞましい内容です。
著者の話を聞いた女子高校生が言い放ちました。
 「あなた方は、そんなひどいことをして…。中国へ行って謝ってください」
 いやあ、ズバリ正論ですね。女子高校生の言うとおりです。でも、何回謝っても、すむものではないことも真実です。ところが、いまや、七三一部隊の蛮行が日本社会で忘れられつつあるというのが、悲しい現実です。
 七三一部隊で犠牲になった人は3千人と言われています。どこの誰が犠牲になったのか、すべて資料が焼却されていてもはや判明しません。「マルタ」と呼ばれ、番号で管理され、医学文献上は「猿」と表現されました。
 施設に入ると、足錠をつけられ、リベット(ピン)の頭が丸くつぶされ、絶対に外されないようにされました。施設からの逃亡は絶対に不可能でしたが、野外の実験場から集団で逃走しようとした事件は起きたようです。そのときは自動車で全員(40人)がひき殺されました。
 細菌を扱うので、七三一部隊の隊員が感染して死ぬこともあったようです。著者は年に20人ほど隊員が死んだといいます。著者の子ども(幼児)も感染死しました。隊員は死んだら解剖されます。入所時に一札書かされているのです。
 七三一部隊には皇族が何人も視察に来ていますし、関東軍の要職にあった東條英機も何回か訪問したようです。また、ハルビンの日本領事館の地下に「マルタ」を収容する施設もありました。
つまり、七三一部隊は関東軍の暴走によるものではなく、日本の政府、軍の直轄事業だったのです。
 ところが、日本攻戦後、石井部隊長たちはアメリカと取引し、実験材料を高く買い上げてもらったうえ、身分保障され、戦犯となることもなく、戦後日本の医学界・医療業界で重きをなし、君臨していたのです。ひどい、ひどすぎます。
 1983年に出版された本をネットで購入しました。
(1983年9月刊。1200円+税)

甘粕大尉

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 角田 房子 、 出版 ちくま文庫
 関東大震災のドサクサに無政府主義者(大杉栄)とその愛人、そして幼い子ども三人を虐殺した憲兵大尉が、有罪になったとはいうものの形ばかりの服役をして、パリに渡ったあと、まもなく帰国し、満州で我が物顔にのさぼった。それが甘粕正彦。その一生をたどった文庫本です。
 大震災がおきたのは、大正12(1923)年9月1日の昼前。朝鮮人が暴動を起こしたとのデマが治安当局も加担して広がっていった。
 9月4日、亀戸警察では南葛労組の川合義虎など9人が日本軍の将校に虐殺された。
 甘粕ら憲兵が大杉栄を虐殺したのは9月16日のこと。伊藤野枝、そしてその甥の宗一も殺された。
 甘粕は軍法会議にかけられた。軍隊の中だけでなく、一般大衆にも甘粕支持者は多く、減軽嘆願書は65万人の署名が集まった(法廷に提出されたのは5万)。
 判決はもちろん有罪で懲役10年。ところが、2年もしないうちに出所し、フランスに渡る。
 甘粕が本当に大杉栄たちを殺したのか、今なお真相は明らかにされていませんが、軍当局の全体の意向として大杉栄のような無政府主義者を「邪魔者は消せ」とばかりに虐殺したこと、甘粕がその一味であったことは間違いありません。そうでなければ、甘粕のフランス行き(滞在費用も)を軍部が負担するはずはありません。
 そして、1年5ヶ月ほどフランスにいたあと甘粕は日本に戻り、今度は満州に渡るのです。
 満州では、ハルビンにおいて関東軍による爆弾事件の中心人物に甘粕はなった。
 そして、すぐあとに満州国皇帝になった溥儀が満州に連れてこられたとき、派遣されて出迎えたのも甘粕だった。
 甘粕は満州国が建国されると民政部刑務司長となった。日本の内務省警得局長にあたる高官だ。その後、1937年、甘粕は協和会総務部長に就任した。
 甘粕は陸軍士官学校時代、教練班長の東條英機から教育された。そして、甘粕は東條の「一番のお気に入り」だった。満州時代の東條に対して甘粕は機密費など多額の政治資金を渡していた。
 1939年11月1日、甘粕(48歳)は満映理事長に就任した。酒席の甘粕は、しばしばハメをはずして荒れた。しかし、本業の映画製作には力を入れた。
 日本敗戦の1945年8月20日、甘粕はもっていた青酸カリを飲んで、予告どおり自殺した。3通の遺書のほか、「大ばくち、もとも子もなく、すってんてん」と理事長の黒板に書いていた。
 昭和史の黒い謎の一つですよね。
(2011年10月刊。税込1045円)

満州、少国民の戦記

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 藤原 作弥 、 出版 新潮社
 著者の父親は満州国陸軍興安軍官学校で国語(日本語)の教授をつとめていた。
 興安街は前に王爺廟といい、今はウランホトという。コルチン高原をふくむホロンバイル大草原に位置するモンゴル人の多い街。
 この軍官学校は蒙古人の陸軍幹部候補生の養成を目的とする士官学校。
 オンドルの燃料は牛糞(アラガル)とアンズ(杏)の根。
 遊牧の蒙古人は魚をとらないし、食べもしない。なので蒙古の魚は人間の怖さを知らないので、よく釣れる。もちろん中国人(漢人)は魚を釣って食べる。
 蒙古人は、骨相も容貌も、皮膚や髪の色も日本人によく似ているので、人種上の親近感がある。
 満州の1月1日は、日本人はおせち料理を食べるが、中国人は旧暦で正月を祝うので、街がにぎあうのは、2月になってから。
 蒙古人は羊を守るために犬を飼っている。夜の間、パオの周囲で寝る羊を守るため、3匹の犬が起きて周囲を徘徊する。それで、昼間は犬たちはパオの中で寝ることが許されている。
 著者の通った興安街在満国民学校の270人の生徒のうち200人の生徒が避難するため白城子へ徒歩行軍している途上の葛根廟(かっこんびょう)付近でソ連軍戦車隊に虐殺された。8月14日のこと。生きのびて日本に帰国できた生徒はわずか十数人。このほか、蒙古人に育てられた残留孤児が数人いる。
 8月9日にソ連軍が侵攻してきたとき、関東軍は一足先に南方へ撤退していた。
 新京に到着すると、関東軍司令部庁舎はもぬけの殻だった。軍関係の役所もすべて退避していて、ガラ空き。
 避難民150人を引率する渡辺中佐は、こう言った。
 「関東軍があてにならないことが分かったからには、独自の判断で行動するしかありません。一致団結すれば、この難民は切り抜けられます」
 見事な呼びかけですね。150人の家族集団をまとめ、満鉄と交渉して2輌連結の列車に乗り込むことができたのでした。
 「日本人の子ども買います」という貼り紙が電柱にあった。相場は300円から500円だった。日本人の子どもは、頭が良くて、大きくなってからも良く働き、親孝行するので、一族の家運が栄えるという迷信が現地の中国人にあった。
 そして、なんとか8月13日、日本に近い安車にたどり着いたのです。3泊4日の避難行、1人のケガ人も落伍者もなく、150人が全員無事だった。奇跡的なことです。よほど引率していたリーダーが良かったのですね…。
 安東は、今の丹東。8月9日のソ連軍の進攻も、まだここには来ていませんでした。
 ところが、もちろん、8月15日を過ぎると、安東市内の建物には青天白の旗がへんぽんとひるがえっているのです。
 著者たち一家も街頭でタバコ売りをしたりして、食いつないでいく生活を始めます。
 マッチは生活必需品のなかでは一番効果で、小箱1個が5円した。米1斤、味噌1斤に相当する。
 中国人の窃盗団には少年が多く、ショートル(小盗児)と呼ばれていた。
 安東の関東軍第79旅団の部隊は9月に入っても、まだ武装解除されていなかった。
 安東市内には、地元民3万人、難民4万人、計7万人の日本人が生活していた。しかし、治安維持委員会がよく機能したおかげで、他の大都市に起きた大暴動は発生しなかった。
 それでも9月10日、ついにソ連軍が安東市内に進駐してきた。日本人会は、ソ連兵接待用のキャバレーをつくって、兵士たちの欲望を吸収した。おかげで、婦女暴行事件は著しく少なかった。このキャバレーを差配していた日本人女性(お町さん)は、あとで、国民党スパイとして八路軍によって処刑された。
 著者は、八路軍による国民党軍の兵士を銃殺する光景を目撃したとのこと。ここでは、日本人も八路軍から何十人も銃殺されたようです。
 それは、日本人元兵士たちが暴動を企画し、実行しようとしていたからでもあります。
 敗戦当時8歳の少年の目から見た満洲の状況が活写されている本です。
(1984年8月刊。税込1200円)

満蒙開拓、夢はるかなり(上)

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 牧 久 、 出版 ウエッジ
 茨城県水戸市に「日本農業実践学園」があるそうです。全寮制で、学生数は全体で100人ほど。戦前の満州に満蒙開拓青少年義勇軍を送り出すのに大きく貢献した加藤完治の孫が学園長(六代目)をつとめている。
 戦前、加藤完治は「満州開拓の父」と崇(あが)められていたのが、戦後になると一転して、「中国侵略のお先棒を担(かつ)ぎ、侵略の先兵を育てて満州に送り込んだ」と厳しく糾弾された。しかし、本当に侵略軍だったのかと、反論したいようです。
 でも、青少年義勇軍の実態についてのレポートを読むと、そこに参加した青少年たちが、いろんな意味で虐待されたこと、内部ではリンチがひどく、外部に向かっては乱暴・狼藉がひどく、あげくの果てにソ連軍進攻のなかで多くの犠牲者を出しているという現実から目をそらすわけにはいきません。「侵略の先兵」となった青少年は哀れな犠牲者でもあったというのは事実でしょう。すると、それをあおって推進した加藤完治の責任はきわめて重要であることは明らかでしょう。決して美化できるはずはありません。
 この本を読んで、昭和14(1939)年6月7日、明治神宮外苑競技場で2万人を集めて満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会が盛大に開かれたことを知りました。主催したのは、なんと朝日新聞社です。朝日新聞社は戦前、戦争賛美のキャンペーンを張っていました(他の新聞もみな同じですが…)。この点も朝日新聞社は戦後、反省しているのでしょうか…。これは、学徒出陣式よりも前のことです。
 満蒙開拓青少年義勇軍を加藤完治とともに強力に推進していた東宮(とうみや)鉄男(かねお)は、張作霖爆殺事件の実行犯のリーダーでもあった。そして、1937年11月に第二次上海事変後の杭州上陸作戦のなかで戦死した(中佐から死後、大佐に昇進)。
 この本は、青少年義勇軍に参加した青少年たちが、貧農出身なので、大きな夢と希望を抱いて満州に渡ったことから、「彼らの思いや志まで、すべて一括(くく)りにして日本帝国主義の侵略行為として非難できるのだろうか」と問いかけています。
 そこには、明らかに論理のすりかえがあります。貧しい青少年の「思いや志」をうまく利用して過酷きわまりない農場へ送り込み、何らフォローすることもなく、ソ連軍進攻の矢面(やおもて)に立たせてしまった軍部や当局を免罪することが許されるはずはありません。
 満蒙開拓移民がもてはやされたのは、1930(昭和5)年ころ、日本には失業者が150万人もいて、悲惨な状況にあったからです。
 日本全国の都市や農場に失業者があふれ、その日の食事にも事欠く国民の不安や不満が頂点に達しようとしている中で、満州事変は勃発した。多くの国民が、そんな状況で、戦争を待ち望んでいた。
 満州国が建国された1932(昭和7)年は、日本経済が悪化の一途をたどり、貧困問題が拡大し、地方や農村の荒廃はひどく、出口の見えないくらい雰囲気が社会全体を覆っていた。
 下巻では、加藤完治らの責任が明らかにされることを願います。
(2015年7月刊。税込1760円)

満州難民、祖国はありや

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 坂本 龍彦 、 出版 岩波書店
 いま、中国脅威論がしきりに叫び立てられています。それに備えて、石垣島などの諸島に自衛隊が大増強され、莫大な軍事費が投下されつつあります。
 しかし、少し頭を冷やして考えてみてください。石垣島そして沖縄に住んでいる人々は、中国軍と自衛隊が戦闘状態になったとき、どうしたらよいのでしょうか。全員が逃げられるはずは、それこそ絶対にありえません。民間人を乗せた飛行機は飛ぶはずがなく、船だって海上をいくら速く走っていてもミサイル攻撃されたら撃沈してしまいます。いえいえ、飛行機にも船にも、ほとんどの住民は乗れるはずがないのです。ミサイル避難訓練のとき、机の下に潜っている光景がありました。戦前の消火バケツリレーと同じで、気休めにもなりません。戦場になったら、ほとんど全員が座して死を待つしかないのです。ミサイルは一本だけ飛んで来るなんてことはありません。戦争になるのです。
 政治は、私たちが支払う税金は、そうならないために使われるべきです。戦争が始まってからでは遅いのです。シェルターを買おう、売りつけようという人たちがいます。どこに地下室をつくるのですか…。水や食料はどうするのですか…。日本の自給率はとっくに半分以下です。海上封鎖されたら、日本人は食べるものがなくなり、飢餓が待っているだけです。タワーマンションの人々はどうなりますか…。電気も水もあるのがあたりまえ。でも、日本のどこかで戦争が始まったとき、すぐに電気も水も止まってしまうでしょう。タワーマンションで生活しながら自民・公明政権を支持し、維新を支持して軍備拡張策に賛成するということは、明日の生活と生命の保障を喪うことを意味しているということに一刻も早く気がついてほしいと私は切に願います。
 その典型的な見本が、戦前の満州に開拓団として移住した日本人のたどった運命です。満州の開拓団に渡った日本人は三度も日本(国)に捨てられた。一度目は、ソ連軍が8月9日に進攻してきたとき、関東軍は張り子の虎になっていて守ってくれないどころか、真っ先に逃げ出していた。二度目は、引き揚げのとき、対策は不十分だったし、中断したりして捨てられた。多くの日本人が帰国できずに残留孤児となった。三度目は、なんとか日本に帰国しても、生活の保障がなく総合的な対策も援護措置もなく見捨てらえた。
 開拓団の応募者が減って確保できなくなると、世間知らずの純真な青少年をおだてあげて満蒙開拓青少年義勇軍という勇ましい名前をつけてソ連との国境地帯に送り込みました。あまりに過酷な生活環境のなかで、軍隊式の上命下服そして指導者の無能と腐敗のもとで、虫ケラ同然に扱われ、それに反発した青少年の反抗、抗争そして暴走が頻発したのでした。見るに耐えない惨状です。あげくに一部は徴兵され、また、残りはソ連軍の進攻下での辛い逃亡生活を余儀なくされたのです。悲惨すぎます。
 軍隊は「国」を守るものであって、国民を守るものではない。しかし、ほとんどの国民は最後の最後までそのことに無知のまま幻想を抱いている。終戦時に起きた満州難民は決して昔の話ではなく、下手すると、今、これから起きることなのです。クワバラ、クワバラ…です。
(1995年74月刊。税込1000円)

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