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カテゴリー: 司法

憲法96条改正を考える

カテゴリー:司法

著者  飯田 泰士 、 出版  ラボ
あなたは、改憲?壊憲?怪憲? うむむ、よーく考えましょう。
 そもそも、憲法96条とは何か。憲法96条は、憲法改正手続について規定している。
 現在、改正の動きで注目されているのは、国会の発議要件について。つまり、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会がこれを発議する。この要件を過半数に緩和しようというもの。
日本国憲法のように、憲法改正に通常の立法手続も厳格な手続を要求する憲法のことを硬性憲法という。ほとんど全ての近代憲法は、硬性憲法である。
 96条改正を先行させると、憲法改正を目ざす政党のいう憲法改正が実現しやすくなる。しかし、多くの国民が96条改正を先行させることに賛成していない。
 そもそも憲法は、権力を制限することによって自由を保障するためのもの(立憲的意味の憲法)。つまり、権力によって自由を侵害されてしまうおそれのある国民が、その自由を守るために、権力の側を縛るための道具が憲法なのである。そのため、本来なら、憲法改正の動きは、国民の側から起こるべきなのである。権力の側から憲法改正の動きが起こり、しかも、その憲法改正によって、権力の側が縛られにくくなるというのは、権力の側がより自由に権力を行使できるようになるというのは、それ自体、望ましくない。なぜなら、縛られている権力の側が、「縛らたくない!自由になりたい!自由に権力を行使したい!」と言っているということだからである。
 憲法96条を改正して、憲法改正を容易にすると、第一に権力濫用・社会の混乱につながる恣意的な憲法改正がされる可能性が高くなり、第二に、少数者の権利の保護が困難になる憲法改正がされる可能性も高くなる。
 国民投票を実施すると、1回で850億円の経費がかかる。96条を改正して憲法改正が容易になると、国民投票が何度も実施されることになるが、そのたびに850億円という経費がかかることになる。
 国民には、憲法改正の発案権は認められていない。国民投票にかけられる憲法改正案は、国会が発議したものだけ。
 憲法96条改正論にもとづく憲法改正案は、政府、政党、議員の憲法改正に関する権限を実質的に強化するものである。
 アメリカは、戦後、6回、憲法を改正している。ただし、ここ20年以上は憲法改正していない。最後の改正は1992年。
 ドイツで58回も憲法を改正しているが、その対象になっているのは、日本で法律レベルの規定されているものであったり、連邦と州との権限の見直しであったりするものであって、国のあり方にかかわるものではない。
 韓国では1948年以来、9回の憲法改正があっているが、民主化によって成立した1987年の第六共和国憲法は改正されていない。
 選挙制度が比例代表制になっていない日本では、とくに国民の中で占める割合と議員の中で占める割合を何の変換もせずに比較したり、同列に扱うのはおかしい。
 本当にそうですよね。国会といっても、いまの議員は裁判所が違憲状態にあるという不公正な選挙区割りの制度で選ばれているわけですから、そんな国会議員が憲法を変えようとすること自体が大きな問題だと私は思います。
 憲法96条改正問題にしぼって、いろんな角度から問題点を整理した本です。
(2013年8月刊。1800円+税)

刑事裁判のいのち

カテゴリー:司法

著者  木谷 明 、 出版  法律文化社
ながく刑事裁判を担当してきた著者が、中学生に対して刑事裁判とは何かを分かりやすく語っています。
 被告人が起訴された事実を行ったどうかは、神様と被告人以外には誰も知ることができない。しかし、社会の秩序を維持するためには、一定の証拠が提出されたときには、その被告人を処罰することも考えなければならない。
 ただ、そのとき、まず「被告人は無実である」という前提から出発しなければならない。検察官が提出した証拠を検討するときにも、「犯人らしく見える証拠が提出されているが、本当は被告人は犯人ではないのではないか」という頭で、とことん考え抜き、それでも被告人が犯人でないとしたら容易に証明できない事情があるとき(まず絶対に犯人であると考えられるとき)に有罪と認め、そうでないときには、被告人に無罪を言い渡すべきである。
 「合理的疑いを入れる余地のないまでの立証」という考え方は、真犯人処罰の要請と無実の者を処罰してはならないという要請とのギリギリの妥協点である。この二つの要請のうち、「無実のものを処罰しない」というのを基本に考えるべき。
 無実のものを処罰したときには、それによってそのものにいわれのない苦痛を負わせるだけでは、真犯人を取り逃す結果にもなってしまうからだ。
 刑事裁判において、もっとも重要なことは無実の者を処罰しないことであって、その結果、ときとして真犯人が逃れることがあってもやむをえないと考えるべきだ。
 刑事裁判を担当するなかで、検察官が被告人に有利な証拠を隠蔽するのに何度も出会った。検察官は、証拠開示に関する法制度が不備であるのを利用して、そういうことを日常茶飯事的にしてきた。
 検察官のこのような行為をチェックするのは、裁判所の役割であるはず。しかし、これまで裁判所はその役割を適切に果たしてこなかった。
足利事件の真の悲劇は、一審における弁護人が菅家さんから「事案の真相」を打ち明けてもらえなかったことに始まったと言ってもよい。
 弁護人は、被疑者・被告人の唯一の味方である。
 刑事裁判は、検察官が事実上とりしきっている。検察官が強すぎる。有罪率が極端に高い。検察官が被疑者の勾留を求めたとき、それが却下されることはほとんどない。保釈もなかなか認められない。
被告人が否認していると、まず保釈されないという現実がある。人質司法は検察の有力な武器である。
 重罪事件について、取調べ初日、まだ逮捕もされていない取調べ初日に嘘の自白をさせられてしまう人が現にいる。しかも、かなりの頻度である現実だ。自白の信用性を安易に認めてきた裁判所は深刻に反省するべきである。
 検察官が強く抵抗されると、それをひりきって無罪判決を書くのには、なかなかの勇気がいる。
 裁判官は、日頃、嘘をつく有罪被告人、つまり有罪であるのに嘘をついて責任を逃れようとする被告人を見慣れているから、被告人に騙されたくないという気持ちが強い。そのため、いったん被告人が重要な点について述べた弁解が嘘だと分かったりすると、その反動として有罪の心証に一気に傾く傾向がある。これを心証の雪崩現象と呼んでいる。
 私も40年間、弁護士をしていて、反省させられることの多い本でもありました。
(2013年8月刊。1900円+税)

市長「破産」

カテゴリー:司法

著者  吾妻 大龍 、 出版  信山社
私は長く住民訴訟にかかわってきました。残念なことに、一度も勝訴したことはありません。それでも、一つだけ、マスコミの事前予測では「住民側勝訴」というものがあり、事前に取材を受けましたが、当日、「請求却下」判決が出て、がっかりしたこともあります。第三セクターの破綻によって30億円ものムダな公金支出をさせられたことについて、市長個人の責任を追及した住民訴訟でした。
この本は、住民訴訟をはじめ行政訴訟に精通している学者がペンネームで架空市の行政側の内幕をバクロする仕立てになっていますので面白く、分かりやすく、問題点を理解することができます。住民訴訟を担当している人、とくに裁判官にはぜひ読んでほしいと思いました。
 権利放棄議決というものがあります。これは、市長個人に市への賠償責任があるという判決が確定したとき、市議会が市に対する賠償は必要ないと議決して、市長の個人責任を免責するというものです。いわば脱法的な議決です。この有効性が裁判で争われて、最高裁は個々の事案毎に「諸般の事情を総合考慮」して、裁量権の範囲の逸脱または濫用にあたらないかで判断するとしました。権利放棄決議を無効とした判決もあります。
 京都のぽんぽん山訴訟では、元京都市長に一審で4億円の賠償が命じられ、高裁では、それが26億円にアップしました。最高裁でもそのまま認められて確定したため、元市長の遺族は限定承認をして8000万円を市に支払ったとのことです。
 住民訴訟の対象になるものはたくさんあります。要するに、フツーの市民の感覚からして、それは税金のムダづかいではないか、という公金の支出です。そして、失敗しても誰も責任をとらないというときに、住民訴訟という手法をとるのです(その前に住民監査請求をしなければいけません)。
 行政当局側の、市長と担当部局そして法規担当、顧問弁護士の対話がメチャメチャに面白いものになっています。真相は、あたらずとも遠からず、と言うところではないかと思って読みました。
 行政法の権威である阿部泰隆先生の書いた本です。
(2013年7月刊。980円+税)

憲法とは何か

カテゴリー:司法

著者  長谷部 恭男 、 出版  岩波新書
憲法とは何か、改めてじっくり国民に考え直してもらおうという本です。
 憲法はわれわれに明るい未来を保障するどころか、ときに人々の生活や生命をも左右する「危険」な存在になりうる。憲法を変えたとき、われわれの暮らしが良くなるか否かは、憲法をどう変えるかによる。
 憲法にまつわるさまざまな誤解や幻想を指摘したい。
 憲法が権力を制限することで、人々の自由と権利を守る重要な役割を果たすことができる(立憲主義)。立憲主義は、近代のはじまりとともに、ヨーロッパで生まれた思想である。 
 衝突の調停と限界づけを目ざす立憲主義は、中途半端な煮え切らない立場である。立憲主義を選ぶことは、この「中途半端」な立場にあえてこだわることを意味する。立憲主義は、人間の本性に反している。というのは、人は、もともと多元的な世界の中で個人的に苦悩などしたくない。みんなが同じ価値を奉じ、同じ世界観を抱く「分かりやすい」世の中であれば、どんなにいいだろうかと思いがちなものである。
 プライバシーの権力や環境権を憲法に書き込むべきだという討論がある(いわゆる加憲のことですね)。しかし、これらは、憲法の条文に書き込んだとしても、国会の制定法や裁判所の判断を通じて具体化されなければ、何の意味もない。たとえばプライバシーの権利は、すでに憲法13条の解釈として裁判所によって具体化されており、その侵害に対しては差止めや損害賠償等の救済が認められている。憲法に書き込むことで新たにえられるものはなさそうである。
 憲法がなぜ、通常の法律よりも変えにくくなっているかといえば、意味のないことや危なかったことで憲法をいじくるのはやめて、通常の立場のプロセスで解決できる問題に政治のエネルギーを集中させるためである。不毛な憲法改正運動にムダなエネルギーを注ぐのはやめて、より社会の利益に直結する問題の解決に、政治家が時間とコストをかけるようにと、憲法はわざわざ改正するのが難しくなっている。
 憲法96条を改正して、3分の2を過半数に緩和しようとする考えは、最終的には国民投票で決着がつくのだから発議要件はそれほど厳格でなくてもよいという考えがある。
 これは一見もっともらしくあるものの、にわかに賛成しがたい。憲法の改正に単純多数決ではなく、要件の加重された特別多数決が要求されるのは、第一に、少数者の権利の保障のように、人々が偏見にとらわれるために単純多数決では誤った結論を下しがちな問題については、より決定の要件を加重することに意味があるから。
 第二に、憲法に定められた社会の根本原理をしようとするのであれば、変更することが正しいという蓋然性が相当高いことを要求するのは、不当とは言えないから。
 著者は、国会が憲法改正の発議したとき、国民投票まで少なくとも2年以上の期間をおくことを提案しています。なるほど、まったく同感です。ことを急ぐ必要はないのです。じっくり、あれこれ考えて結論を出したらよいと私も思います。
 立憲主義には広狭二つの意味がある。広義の立憲主義は、政治権力あるいは国家権力を制限する思想あるいは仕組みをさす。「法の支配」という考え方は、広義の立憲主義に含まれる。
 狭義の立憲主義は、近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みをさす。
 アメリカやフランスで何度も憲法が改正されているが、その内容は、道路の交通規制にも比すべきルールの改正である。内容のいかんより、とにかく何かに決まっていることが重要な問題に決着をつけることを目的とするルールが改正されているのにすぎない。フランスでも、同じように、国会の会期の延長や大統領の任期の短縮など、道路の交通規制に比すべきルールの変更のようなものである。すなわち、国家体制の根本的変革をもたらすようなものではない。
やや難しい言いまわしの部分もありますが、じっくり読むと、自民党の憲法改正草案はとんでもないものだということがよく分かる内容になっています。
(2011年2月刊。700円+税)

憲法を守るのは誰か

カテゴリー:司法

著者  青井 未帆 、 出版  幻冬舎ルネッサンス新書
これまでの歴史をひも解いてみれば、権力行使の「行き過ぎ」の例は枚挙にいとまがない。だからこそ、本当に自由を奪われ、人権が侵害されないように、国家権力を縛り、コントロールしなければいけない。どんな人が統治にあたることになっても人権侵害が起こりにくいような「仕組み」をつくっておく必要がある。そうした、権力に服する側の国民の目線でつくられたのが、権力分立をともなう統治の仕組みを定めた憲法である。
 憲法によって国家権力を制限して人権を保障する、つまり政治を憲法に従わせるというのが立憲主義の考え方。
明治憲法の下では、政府のもつ権力がきちんとコントロールされ得なかったために、無謀な戦争に突き進み、多くの人々に生命・身体・財産における犠牲を強いながら、日本は焦土のなかで敗戦を迎えた。
明治憲法には、人々の自由や人権といった概念やその保証のための制度が大いに欠けていた。
 憲法は「道徳本」とは違う。国家は、人の心に入り込んで、その選択に介入してはならない。人権というのは、フワっとした概念で、とらえどころのないもの。
多数者に天賦人権を観念しなくてはならない切迫性はない。天賦人権論をもっとも必要としているのは、多数者から有形無形の圧力を加えられることに起因して苦しむ少数者だ。
選挙で勝った「時の多数者」によって、簡単に人権規定などの重い意味をもつ憲法の規定がコロコロと変えることができるというのは、選挙という民主的政治過程で負けてしまいがちな少数者の人権を危機にさらすことにほかならない。
 憲法96条改正先行論は、憲法改正は、少数者の基本的人権保障がかかわる以上、慎重にも慎重を期そうという現行憲法の狙いとするところを没却するもの。
 劣勢に立つ側の「武器」として憲法論は、法律の論理を外側から変化させる理屈として、もっと使えるはず・・・。
 戦争は、人々の生命・身体・財産・自由が奪われるという人権の問題だ。だから安全保障政策は人権の問題である。だからこそ、国家の統治を人権保障という観点から監視する必要がある。
 自衛隊は、日本政府の説明によると、国家固有の自衛権にもとづいて正当化されるもの。明治憲法の失敗の一つには、軍部の強い自律性を外部からコントロールできなかったことにある。天皇は戦前の軍部などの前に権威づけとして利用されていた。
 立憲主義とは、自由を守るための知恵である。自由や人権が保障されることが、憲法や立憲主義の目的である。
 有事の際に、弾となり、盾となるのは、私たち国民である。どう変えるのかも不明なままで、憲法改正に賛成することは具体的な制度づくりを政治家にゆだねるということになり、これは、無謀であり、危険が大きい。
 10月3日に広島で開かれる日弁連のシンポジウムで著者に基調となる講演をしていただきます。若手の学者による鋭い問題提起が聞けるのを楽しみにしています。
(2013年7月刊。838円+税)

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