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カテゴリー: 司法

国策捜査

カテゴリー:司法

著者 青木 理、 出版 金曜日
 特捜検察が捜査に乗り出して世を騒がせた事件を「国策捜査」と冷笑的に評することが珍しくなくなってきた。
 今も多くの人は特捜検察に「巨悪摘発」の期待を寄せ、新聞やテレビをはじめとする大手メディアも、その捜査に喝采を浴びせる。その結果、特捜検察による捜査は「絶対正義」かのような装いをまとい、冷静な分析・批判はかき消されがちだ。しかし、その捜査も内実を一皮めくってみれば、実のところ矛盾と不公平が渦を巻いている。
 近年の裁判は、検察捜査をただ追認するだけだ。検察の動きを冷静に分析し報道してチェック機能の一端を果たすべきメディアの惨状は語るまでもない。もともと捜査当局べったりの習性に染まった日本の大手メディアは、特捜検察が動き出すや否や、その尻馬に乗ってターゲットを一方的に糾弾し、ときに狂乱ともいえるような報道を繰り広げ、世論を煽る。
 宗像紀夫氏(元東京地検特捜部長)は、次のように書いている。
 「犯罪捜査は、もちろん人格的に優れた、そして十分な経験を積んだものが行うべき仕事だと思われるが、現実にはそうではない。経験も浅く、人を説得する十分な技術もない者が、ただ相手を怒鳴りつけて力で相手をねじ伏せるというケースも少なくない。参考人を調べるときも、逮捕できるんだと脅して捜査官側の意向にそう供述を求め、体験もしていない、記憶に反する内容の調書が作成されたという報告もしばしば聞かれる。嘆かわしいことだ」
 結局、供述調書というのは捜査側の作った作文である。それを読んでいる限りは非常につじつまが合う、すきのないものになっている。キレイに書いた作文は、素直に頭に入ってくる。
 検察は嘘をつかないが、被告人は嘘をつくと考えるのが、現在の刑事司法である。
 弁護人が取り調べ中に会えるのは、一日に何分間というようなわずかな時間でしかない。そのときに無味乾燥な事件の話しかできない。ところが、検事のほうは朝から晩まで連日、取り調べしてさまざま話をする。外界と遮断された人間は、近くにいる人間にだんだんと情が移っていくものだ。すると、検事の方が自分の良き理解者のように思えてくるようになる。これも取り調べのテクニックの一つなのである。
 日本の刑事司法の問題点を「国策捜査」の被害にあったと訴える有名人の人たちの体験談をもとにしていますので、その真偽はともかくとしても、訴える力があり、共感を呼びます。
 秋田に行ってきました。
 夕方、川反という一番の夜の街を歩きました。よさそうな郷土料理店がないかなと思いながらぐるっと回ったのです。夜が早かったせいもあるのでしょうか、あまり人通りもなく、客引きの男女が目立ちます。
 一件の小料理店の玄関の雰囲気が良かったので、ついふらふらと入りました。テーブルに座って料理を注文すると、なんだか前にきたことのある店のような気がします。メニューに書かれている店の名前に見覚えがあります。美味しい秋田料理をいくつも単品で注文しました。
 ハタハタのすしは絶品でした。そして、ガッコです。こりこりとした歯ごたえがあり、塩味もほどほどで下になじみます。そうです。やっぱりここは、20年以上も前に秋田の弁護士に連れられて入った有名な店でした。ホテルに帰ってガイドブックを見てみると、そこにもちゃんと載っていました。店の名前は「お多福」と言います。偶然の一致でした。 
(2008年5月刊。1500円+税)

民事訴訟・執行・破産の近現代史

カテゴリー:司法

著者 園尾 隆司、 出版 弘文堂
 本書は、法律実務家(現職の裁判官)による法律実務家(とりわけ弁護士)のための日本近現代民事法制史である。
 著者が冒頭にこのように喝破していますが、まさにそのとおりです。ほとんど類書はないと思いますし、何より体系的な法制史であり、また、いま活動している私たちの実務にも大いに役立つ内容となっています。私など、いやあ、そういうことだったのかと、何度もうなずいてしまったことでした。
 アメリカに留学した経験があり、最高裁の事務総局に在職中に何回となく民事関連の立法に関与した著者ならではの豊富な経験に裏打ちされていますので、とても実践的な内容です。この本に書かれていることの一部が判例タイムズで連載されていましたが、それはほんの一部でしかなく、全体を知るためには、この本は必読文献です。
 日本法制史で近現代を語るためには、明治から出発することはできません。江戸時代の法制度は明治時代にしっかりと生きており、それが今日なお尾を引いているのです。私も、江戸時代の法制史を少しだけですが勉強したことがありますので、その点は実感としてよく分かります。江戸時代の法制度というのは、信じられないことかもしれませんが、今の日本にも生きている部分があるのです。著者は次のように言っています。
 明治初期の裁判を理解するには、まず、江戸時代の裁判がどうであったかを知る必要がある。江戸時代の裁判についての正確な知識は、明治以降の裁判手続を理解する上で不可欠なのである。
 江戸時代の裁判制度そして裁判手続は完成度の高いものであったため、明治政府は明治初めには徳川幕府の法令をそのまま借用して国家統治を図っていた。明治政府が新しく法体系を整備をしたあとも、現在に至るまで、江戸時代の法制度と裁判手続は、さまざまな形で影響を及ぼしつづけている。
 江戸時代には、困難・重要事件は、幕府評定所の評議によって決定しており、評定所は将軍の直轄機関であるがために、最高位の意思決定をすることができた。裁判機関の最終判断は、他の行政機関の判断に優先した。
 ところが、明治政府においては、裁判機関の判断が他の行政機関の判断に優先することはなかった。そこで、明治政府は、江戸時代の判例を法源として認めながら、明治以降の判例には法源としての効力を認めなかった。
 静岡県にある徳川幕府による葵文庫を引き継いだ国書館には、2100冊の洋書がある。そのうち、もっとも多いのはフランス語の本、次いで、オランダ語の本、その次が英語の本である。
 ええーっ、なんでフランス語が断トツに多いんでしょうか。オー、ラ、ラーです。不思議ですし、フランス語を勉強している身としてはうれしい限りです。
 明治はじめまで、司法省の西欧情報はフランスに偏っていた。
江戸時代の民事訴訟は、刑事訴訟と区別されておらず、同一の手続で運営されていた。訴訟手続きでは刑事訴訟は優位であり、民事訴訟の過程で刑罰に触れる事実が出てくると、職権で刑事訴訟に移行する。
 明治政府(司法省)は、明治8年、勧解制度を創設した。訴訟になる前に勧解(和解、つまり話し合い)を推奨した。その結果、明治10年には申立件数が年間60万件を超えた。明治16年には、なんと100万件を超えてしまった。ところが、明治19年に勧解吏が創設されると、急激に減り、明治23年には年30万件台となった。いやあ、それにしても、当時の人口(3300万人くらいでしょうか?)を考えても信じられないほどの多さですね。
 資料篇を除いた本分だけでも310頁もあり、微に入り細をうがった内容であり、とても為になる法制史となっています。ただ、私にはいくつかの点でひっかかりましたので、次にそれを紹介します。
まず、村役人については、藩の指名によると断言されています。私も最近まで当然そうだろうと思っていましたが、村役人については、全国的にも公選制であったところが多いようです。
 江戸の庶民が訴訟好きだったかという点について、著者は「軽々に結論付けることはできない」として、消極に解しているように思われます。しかし、私は日本人は十七条憲法の昔から、案外、訴訟好きだったのではないかなと、35年以上の弁護士経験を通じても実感しています。著者の文献目録には登場していませんが、『世事見聞録』などを読むと、それがよく伝わってきます。少なくとも、昔から日本人は裁判が嫌いだったという俗説は成り立たないことを認めてほしかったと思いました。そして、この関係では、あとで佐賀の乱を起こして刑死させられた江藤新平が、国家賠償請求訴訟を認めたことから行政訴訟が増えたということも聞いていますので、その点についても触れてほしかったと思います。明治政府は裁判件数が急増したことへの対処策として、貼用印紙額を大幅に引き上げたといいます。裁判の原告になるには、多額の印紙をはらなくてはいけないことが今の日本で訴訟を抑制することになっていると思います。
分散(今の自己破産)の濫用があったかどうかについても、著者は「考えにくい」としています。しかし、井原西鶴の本に紹介されているような濫用事例は、やはりあったのではないかと私は現代における体験もふまえて、考えています。
 いずれにしても、大変な力作です。明日の実務にすぐに役立つ本ではありませんが、実務をすすめる上で、考えるヒントが満載の本だということは間違いありません。少々、値は張りますが、大いに一読の価値のある本です。
 日曜日に梅の実ちぎりをしました。紅梅の方にはまったく見が付いていませんでしたが、白梅はたくさん緑みどりした実がなっていました。一つ一つ手でもいでいったのですが、緑葉の陰に隠れるようにしていますので、取りこぼしがあったかもれません。たちまち小さなザル一杯になりました。あとで数えてみると、60個もありました。これで梅ジュースを作ります。たっぷりのハチミツにつけると、美味しいジュースになります。
 隣にスモークツリーが輝くばかりの赤い葉と花をつけています。フワフワとしていて、まるで煙というかもや(スモーク)が木にかかったようです。
 ヤマボウシが白い花をつけ、新緑の中に存在を誇示しています。
(2009年4月刊。6000円+税)

ロイヤー・メンタリング

カテゴリー:司法

著者 マラン・ダーショウィッツ、 出版 日本評論社
 ハーバード・ロースクールの現役の教授ですが、なんと28歳で終身的地位を持つ教授に就任したというのです。もちろん、これは同校始まって以来、最年少です。
 同時に、数々の著名人の弁護人としても活躍しています。誘拐されたあと自らもテロリストになったパトリシア・ハースト、ジャンク・ボンド王マイケル・ミルケン、キリスト教テレビ伝道者ジミー・バッカー、元ヘビー・ウェイト級ボクシング・チャンピオンのマイク・タイソン、元フットボール・スターのO・J・シンプソンなどです。
 弁護士活動の半分は、プロ・ボノ活動を実践しているそうですから、本当に大したものです。
 著者は、アンビュランス・チェイサー(救急車の追っかけ弁護士)は、決して悪いことはないとしています。私も、なるほど、そうなのかと、反省させられました。
 保険会社に有利な和解を成立させるために救急車を追いかけている保険会社の査定係と渡り合う一般の弁護士が嫌われる合理的な理由はない。むしろ、彼らは、一般市民が大企業と対等に戦うため、不公平な土俵を平にする役目を果たしている。
 そして、弁護士が広告を出して「訴訟を煽っている」と世間が非難するのもおかしいと批判します。
 訴訟が増えることは大企業にとってはよくないことかもしれないが、社会にとっては良いこと、とりわけ力のないものが力のあるものに対して訴訟するのは良いことだ。
 訴訟が多いことを非難するのは、金持ち、権力者、他人を搾取する者にとっては非難に値するものであっても、貧乏人や権力を持たないもの、被害者にとっては不利になる。
 このような非難は、訴訟が多くなることによって失うものが多い企業が組織したものである。
 ふむふむ、なるほど、なるほど、たしかにそう言えますよね。
 著者は、アメリカの裁判官に対しても大変きびしい見方をしています。アメリカでは、裁判官が今ある地位につけたのは、政党政治にうまく関わって来たからだ。
 ゴアとブッシュの選挙で、連邦最高裁の裁判官はゴアに勝たせたくないために、判例をねじまげた。
 古くは、ナチスによるユダヤ人虐殺の事実を告げられたユダヤ人のフランクフルター判事は、ルーズベルトにとても信用してもらえそうもない報告をして、自分の信用に傷がつくのを恐れて、真実を告げるのを拒んだ。うーん、そういうことがあったのですか……。
 アメリカの裁判官も、より高い地位に昇りたいと考えている。ほとんどの裁判官は、政党や政治家に忠誠をつくすことで裁判官になる。裁判官というのは、そもそも政治的な存在である。なーるほど、そうなんですね。
 弁護士についてのアドバイスも、とてもシビアです。
 誰にでも好かれるケーキのような弁護士になってはいけない。対峙主義の制度で働く弁護士であるにもかかわらず、もし誰からも好かれるというときには、その弁護士のしていることは、どこかが間違っている。
 弁護士は、仕事を愛しすぎてはいけないし、法律を愛してもいけない。法律は道具であり、仕組みであり、知識の集合体にすぎないからである。
 一流の法廷弁護士のほとんどが、一流のロースクールの卒業生ではない。事件は、準備段階で勝ち負けが決まる。一生懸命に働く以外にはないのだ。
 この本で、アメリカでは被告人に証言させないことが原則だという理由をはじめて理解できました。陪審員が、被告人の証言が信用できるかどうかばかりに気をとられて、他の証言の信用性の検討がおろそかになってしまうからだというわけです。これまた、なるほどと思いました。
 大変、実践的に勉強になる本でした。とりわけ若手弁護士の皆さんに一読することを強くお勧めします。
 
(2008年1月刊。1900円+税)

労働法はぼくらの味方!

カテゴリー:司法

著者 笹山 尚人、 出版 岩波ジュニア新書
 いやあ、実によくできたテキストです。若い人たち、パートで働き、派遣切りにあって泣いている人たちにぜひぜひ読んでほしいと思いました。ストーリーがあります。それ自体も無理なく読ませます。そして、労働法がすーっと入ってきて理解できます。若手というか中堅というべきか、弁護士による数多くの実体験に基づいた、労働基本権の解説がなされています。こんな分かりやすい本が書けるなんて、とても素晴らしいことです。
 ジュニア新書ということでひっかからず、大人も弁護士も読んでほしいと思います。弁護士にとっては、どうやったら難しい権利を何も知らない人に分かりやすく伝えるか、その見本がここにあります。
 ハンバーガーショップに高校2年生の真吾君がアルバイトを始めます。自給800円です。この店で正社員なのは店長だけで、あとは全員がアルバイト。ところが、身内の不幸があっても代わりの人が見つからないからアルバイトなのに休みがとれない。店のお金がなくなったら、アルバイトをふくめて全員の連帯責任として、給料から天引きで弁償させられる。店の売り上げ不振のため、賃金カットをする。
 ひどい話ですが、現実によくある話です。これって、みんな法律違反なのです。
 パートタイム労働者に労働条件を示すときには、第一に昇給の有無、第二に賞与の有無、第三に退職金の有無を明確に告知しなければいけない。
 うへーっ、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。ゴメンナサイ!
 そして、店長が労働法上の管理監督者にあたるかどうかも問題となります。例の、名ばかり店長という問題点です。
 そして、派遣と業務請負の違いも説明されています。要するに、仕事をしている現場での指揮を誰から受けるかによって違ってきます。今の世の中、あまりにも脱法行為が横行しすぎです。
 労働者の権利を守る上で決定的に大切なのは、労働組合です。残念なことに、日本の労働組合の力は悲しいほどありませんね。昔、総評という存在がありましたが、今の「連合」はほとんど力がありません。派遣切りの問題でも少し動いているという程度でしかないのがとても残念です。企業内組合の連合体から来る限界ということでしょうか。
 私は、若い人たちが労働者に入って、仲間と団体行動をともにして連帯感を深めつつ、少しずつ要求実現していくという日本になってほしいと心から願っています。
 
(2009年2月刊。780円+税)

アメリカ人が見た裁判員制度

カテゴリー:司法

著者 コリン・P・A・ジョーンズ、 出版 平凡社新書
 陪審制度と裁判員制度を一緒にするのは、陪審制度に対していささか「失礼」なことだ。陪審制度は、個人を公権力から守る最後の砦である。これに対して、裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度でしかない。
 ううむ、なるほど、そういう見方もあるのですか……。この本は日本の大学で教えているアメリカ人弁護士の書いた本です。
 日本の法律は、まず、お役所のためにある。アメリカ的考えによると、法律とは市民による市民のためのルールである。このルールにのっとって行動している限り、公権力の介入は受けないし、公権力が介入してきても、そのためのルールに従わなければならない。
 ところが、日本の法律は、まずは国民を公権力に屈服させるためにある。ふむふむ、なかなかに鋭い指摘です。
裁判官は事実を科学的に検証して究明するようなトレーニングは受けていない。重大なことは専門家に任せようという考えには、民主主義の終焉が内在している。
 陪審は、評決にあたって理由を示す必要はなく、評決の内容について責任を取らされることもない。この原則は、陪審にすごいパワーを与えている。それは、法律を無視するパワーだ。うーん、ズバリ、こう言われると、考えさせられます。
 裁判員制度についてのPRパンフレットには、裁判員があたかも裁判の「主役」であるかのように書かれている。しかし、実のところ与えられている権限や決定プロセスにおける影響力の度合からすると、裁判員は裁判官に服従する「脇役」になることしか期待されていない。
 裁判員裁判ははたして誰のためのものなのか? その答えは、裁判官のための制度である、ということになる。いま出来上がった裁判員裁判は、裁判官にとってかなり有利なものである。
 なぜなら、裁判員制度は、裁判に対する批判をなくすためにあるから。司法制度に対する批判回避が裁判員制度の一つの目論見である。裁判員制度は、司法が国民の威を最大限に借りながら、最小限の影響力しか国民に付与しない制度である。今までにあった司法制度への批判を排除しながら、今までどおりの裁判の「正しい」結果、つまり警察が逮捕して取り調べ、検察が確信を持って起訴した被告人が何らかの罰を受ける結果、を実現するための制度である。
 しかし、このように言ったからと言って、著者が裁判員制度に反対しているのではありません。むしろ、逆に、うまく機能してほしい、日本における国民の司法参加がシンボリックなものに終わらなければよいと考えているのです。
 法曹の中で、裁判員制度の行方について一番の決め手になるのは弁護士だろう。
 日本では、いったんお役所を敵に回せば、アメリカより怖い。それも、お役所が「悪い」からではなく、99%善意と良識のある人たちが「正しいこと」をやっているつもりだからこそ怖いのだ。
 うむむ、この本には日本の弁護士として耳の痛いことが満載です。でも、いよいよ5月から始まる裁判員制度について、単に「ぶっつぶせ」などと叫んでいるだけでなく、被告人との十分なコミュニケーションをとって、裁判員裁判の法廷で市民を強く惹きつける弁論をやりきらなければならない時代が到来したのです。すごく胸のワクワクしてくる時代に、いま、私たちは生きています。そう考えると、この世の中にも楽しいことがたくさんあることに気づかされます。
あさ、雨戸を開けると、ウグイスのさわやかな鳴き声がすぐ近くに聞こえます。軽やかな澄んだ声に春を感じます。黄水仙が庭のあちこちに鮮やかな黄色の花を咲かして眼が現れる思いです。
 隣家のハクモクレンが今を盛りにたくさんの純白の花を咲かせていて、あれ、これってどこかで似た光景を見たぞ、と思いました。そうです。ベルサイユ宮殿の鏡の間のシャンデリアをちょうどさかさまにしたような、あでやかさです。花にはいろんなものを連想させ、思い出させてくれる楽しみもあります。
(2008年11月刊。720円+税)

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