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カテゴリー: 司法

わが心の旅路

カテゴリー:司法

著者:団藤重光、 出版社:有斐閣 昭和61年
 高名な刑事法の研究者である著者が最高裁判事を退官するに当たり、その生い立ちから、大学での研究、最高裁での公務に至るまでの日々を振り返り、その時々の師友との関わりを回想したもの。もう何度も読んだ馴染みの随筆集であるが、刑事法制の動きが急展開しているこの時期に感じるものがあるかと思い、改めて読み直してみた。
 著者の先輩であり、著者と同じように大学から最高裁に転身した穂積重遠博士の言葉として、次のような一節が紹介されている。
「孝ハ百行ノ基、であることは新憲法下においても不変であるが、かのナポレオン法典のごとく、または問題の刑法諸条のごとく、殺親罪重罰の特別規定によって親孝行を強制せんとするがごときは、道徳に対する法律の限界を越境する法律万能思想であって、かえって孝行の美徳の神聖を害するものと言ってよかろう。本裁判官が殺親罪規定を非難するのは、孝を軽しとするのではなく、孝を法律の手のとどかぬほど重いものとするのである。」
いうまでもなく、尊属殺重罰規定の合憲性が争われた事件における穂積博士の違憲の意見である。著者は穂積博士に共感し、この意見の中に法の役割を考える上での普遍の価値を見出している。
 また、著者はある人物を語るにあたり、何度も「親愛なる井上君」と呼びかけている。著者の最後の門弟である井上正仁教授のことである。なるほど、著者と井上教授が共に自転車に乗り軽井沢を駈けている写真を見ると、親子のような睦まじさである。井上教授は後に、司法制度改革審議会の主力委員として裁判員裁判の導入など現在に通じる司法制度改革を主導した。さすがの著者も愛弟子がこれほどの大改革を実現するとは予想していなかったであろう。
 著者は、旧刑事訴訟法の研究者として出発し、戦後、公職を追放された小野清一郎教授に代わって新憲法の立案と並行して新刑事訴訟法を立案し、そして現在の司法制度改革を生み出した種を育てた。まさに刑事訴訟法の歴史を体現した大学者である。
 私は大学で、なぜ刑事訴訟法が大陸法に由来する要素と英米法に由来する要素を両有しているのか、その理由を学生に教えるときに、この本から汲み取られる団藤重光が果たした歴史的な役割を紹介している。しかし、学生は田口、白鳥は知っていても、もはや団藤、平野の名を知らない。これも歴史の流れかなと思うのである。

検察との闘い

カテゴリー:司法

 著者 三井 環 、創出版 
  
  元大阪高検公安部長が飲食代などの32万円の贈賄等の容疑で逮捕され、裁判にかけられて有罪(実刑判決)となり、1年あまり刑務所に入ってから自分の検察官人生を振り返った本です。
著者は、福岡高検の検事長にもなった加納駿亮氏を一生許せないと厳しく糾弾しています。現在は弁護士になっている加納氏を検察庁の諸悪の根源の一つだと言いたいようです。加納氏は福岡にもなじみのある人ですから、一度、加納氏の反論も聞いてみたいと思いました。
 著者は、自分が刑事事件となったのは、検察庁の裏金問題をマスコミに内部告発しようとしたからだと主張します。
 1999年に7億円あった検察庁の裏金(調査活動費)が、内部告発があって問題とされた翌2000年に5億円となり、今では7000万円台になっている。ところが、法務省全体の調査活動費は減っていない。つまり、検察庁のほうが減った分を公安調査庁など法務省の組織内で消化されているというわけです。
著者は懲戒免職処分され、もらえたはずの退職金7000円も受けとれず、弁護士資格もなく被選挙権さえ5年間ありません。
 たしかに、裏金問題を告発しようとしていたテレビ出演の3時間前に逮捕されたというのは、告発者の口封じのためとしか考えられませんよね。警察の裏金問題も、かなりあいまいな決着でしたが、検察庁の裏金については大問題になる前に幕引きとなった感があります。
 検事として、著者はかなりアクの強い、スゴ腕だったようです。こんな豪腕検事と法廷でぶつかりあわなくて良かったなと正直いって思いました。それはともかくとして、検察庁や警察の裏金問題の解明のために、引き続きがんばってほしいと思います。
(2010年5月刊。1400円+税)

検察との闘い

カテゴリー:司法

 著者 三井 環 、創出版 
  
  元大阪高検公安部長が飲食代などの32万円の贈賄等の容疑で逮捕され、裁判にかけられて有罪(実刑判決)となり、1年あまり刑務所に入ってから自分の検察官人生を振り返った本です。
著者は、福岡高検の検事長にもなった加納駿亮氏を一生許せないと厳しく糾弾しています。現在は弁護士になっている加納氏を検察庁の諸悪の根源の一つだと言いたいようです。加納氏は福岡にもなじみのある人ですから、一度、加納氏の反論も聞いてみたいと思いました。
 著者は、自分が刑事事件となったのは、検察庁の裏金問題をマスコミに内部告発しようとしたからだと主張します。
 1999年に7億円あった検察庁の裏金(調査活動費)が、内部告発があって問題とされた翌2000年に5億円となり、今では7000万円台になっている。ところが、法務省全体の調査活動費は減っていない。つまり、検察庁のほうが減った分を公安調査庁など法務省の組織内で消化されているというわけです。
著者は懲戒免職処分され、もらえたはずの退職金7000円も受けとれず、弁護士資格もなく被選挙権さえ5年間ありません。
 たしかに、裏金問題を告発しようとしていたテレビ出演の3時間前に逮捕されたというのは、告発者の口封じのためとしか考えられませんよね。警察の裏金問題も、かなりあいまいな決着でしたが、検察庁の裏金については大問題になる前に幕引きとなった感があります。
 検事として、著者はかなりアクの強い、スゴ腕だったようです。こんな豪腕検事と法廷でぶつかりあわなくて良かったなと正直いって思いました。それはともかくとして、検察庁や警察の裏金問題の解明のために、引き続きがんばってほしいと思います。
(2010年5月刊。1400円+税)

後藤田正晴と矢口洪一の統率力

カテゴリー:司法

 著者 御厨 貴 、朝日新聞出版 
 カミソリ後藤田。そして、ミスター司法行政。団塊世代の私にとって、この二人は、「敵」陣営のカリスマ的ご本尊でした。でも、今の若い人には、どれだけ知られているのでしょうか・・・・? 
 後藤田正晴は、東大法学部を出て警察庁長官になり、その後は内閣官房副長官となったうえ政治家となって、内閣官房長官から副総理まで歴任した。
 矢口洪一は京大法学部を出て、裁判所に入ったものの、裁判所の中では「裁判をしない裁判官」として司法行政一筋に歩んだ。最高裁判所事務総長から最高裁判所長官になり、ミスター司法行政と呼ばれるほどのプロになった。
矢口は、裁判の本質は精緻な判決を書くことにあるわけではない、と言う。
 後藤田は、常識さえあれば勤まるのが警察だ。秀才はいらない。秀才はかえって邪魔になる。性格が偏っているやつも邪魔だ、と言った。警察は、軍隊のような先手必勝ではない。後手(ごて)で、先(せん)を取るところ。後手で必勝は情報だ。
 矢口はこう断言する。
 今までの日本は、法律にのっとって物事をやってはいなかった。だから、裁判所が軽い存在なのは当然のこと。
 矢口は、最高裁事務総局に20年間もいた。ミスター司法行政と呼ばれる所以です。
 警察での中での出世のカギは会計課長と人事課長である。この二つをつとめた者が官房長になる。会計課長が政治家との関係が深くなる。このとき、後藤田は田中角栄との関係が深くなった。
 裁判官には、まともな人や普通の人はならない。少し偏屈な、そういう人間が裁判官になる。あれは、会社員とか行政官は、ちょっと無理だな、そんな人がなる。これが矢口の考えである。まことに、そのとおりだと私は思います。これは36年間の弁護士生活の体験にもとづいて断言できます。
 後藤田正晴と矢口洪一は同世代の人間として、私的にも家族ぐるみで交際していた。そして、裁判官に対するいろいろな行政上の問題について、矢口洪一は、いちいち後藤田正晴の了解をとっていたというのです。これには、驚きましたね。ええっ、なんと言うことでしょうか・・・・。司法の独立なんて、これっぽっちも矢口洪一の頭の中にはなかったのでしょうね。
それにしてもオーラル・ヒストリーというのは大切な手法だと思いました。元気なうちに内幕話を聞いておきたい人って、たくさんいますよね。そのうちに・・・・、なんて言ってると、相手が亡くなったり、こちらが忙しくて問題意識がなくなったりします。思いついたときにやるのが一番なのです。そうは言っても、ままならないのが世の中の常ではあります・・・・。
(2010年3月刊。2200円+税)

政策形成訴訟

カテゴリー:司法

 中国「残留孤児」国賠訴訟弁護団全国連絡会
 
本のタイトルだけでは何のことやらさっぱり分かりません。400頁もあり、大変勉強になる本なのですが、タイトルで損をしていて、惜しまれます。本はタイトルで売られ、読まれるという逆を行く本なのです・・・・。
 せっかくいただいたので拾い読みでもしようかと思って読みはじめましたが、意外にも面白く、本当にとても参考になりました。原告団とそれを支えた全国の弁護団に対して心より敬意を表します。
 日本の敗戦時、中国東北部(満州)に少なくとも27万人の日本人開拓団民がいた。うち8万人の婦女子が戦闘に巻き込まれたり、凍死・餓死などで亡くなり、1万人の残留婦人と3000人の残留孤児を生み出した。男性がいないのは、1945年6月に関東軍が「根こそぎ動員」によって17歳以上の男子を現地招集したため、開拓団には老人と婦女子しか残されていなかったからである。
 日本に永住帰国した中国残留孤児2500人は、敗戦当時は0歳から13歳前後だった。当時の満州に取り残され、現地の中国人養父母に養育されて中国人として育った日本人である。
 中国残留孤児の帰国者数がピークとなったのは、敗戦から40年以上たった1980年代のこと。このとき、既に50歳代を過ぎていた。50歳を過ぎて帰ってきた人々は中国での教育・職歴を問わず、日本語の習得に大変な苦労を強いられた。孤児世帯の生活保護受給率は70%という高率だった。
中国にいた日本人は、1950年代頃までに集団引き上げで100万人とか3万人とか日本に帰国していた。1959年の未帰還者に関する特別措置法によって、1万3000人の中国残留邦人が死亡宣告され、その戸籍が抹消された。
  2500人の残留孤児のうち2000人もの圧倒的多数が国を訴える裁判の原告となったのは、なぜか?
 2005年7月の大阪地裁の判決を皮切りに、全国8地裁で判決がでた。2006年12月の神戸地裁の勝訴判決以降、政治的解決の機運が盛りあがり、2007年11月に自立支援法が成立し、裁判はすべて取り下げられた。まさしく、裁判は政策形成訴訟となったのです・・・・。この苦難のたたかいが、400頁の本によくぞコンパクトにまとめられています。
2006年12月の神戸地裁判決(橋詰均裁判長)は画期的でした。
 戦闘員でない一般の在満邦人を無防備な状態においた政策は自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策であった。戦後の政府としては可能な限り、無慈悲な政策によってもたらされた自国民の被害を救済すべき高度の政治的責任を負う。
 日本政府は条理上の義務として、日本社会で自立して生活するために必要な支援策を実施すべき法的な義務を負っていた。
 すごい判決ですね。すっきり目の開かれる思いがします。
 日本の地で、日本人として、人間らしく生きる権利が裁判規範たりうることを明らかにした裁判でもあります。
2007年1月、安部首相(当時)は、原告代表者と首相官邸で面談し、「夏までに新たな支援策を策定する」と約束し、国会で「日本人として尊厳をもてる生活という視点から検討する」と明言した。
このように、裁判が立法につながるという画期的成果を目に見える形で展開してくれた裁判だったのです。関係者の皆さん、本当にお疲れさまでした。いい本を作っていただいてありがとうございます。
(2009年11月刊。3000円+税)

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