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カテゴリー: 司法

最高裁判所は変わったか

カテゴリー:司法

滝井繁男「最高裁判所は変わったか~一裁判官の自己検証~」 2009年 岩波書店
今年7月7日、最高裁第3小法廷は「嫡出でない子の相続分は、嫡出子の相続分の2分の1とする」旨の民法900条4号の規定に従って決定された遺産分割審判が違憲だとして特別抗告された事件を、大法廷に回付した。周知のとおり平成7年7月5日の大法廷決定では、「本件規定は、合理的理由のない差別とはいえず、憲法14条1項に反するものとはいえない。」と判示された。もっとも、この決定には5裁判官の反対意見があった。
このような経緯から察すると、今回は第3小法廷で「違憲説」が多数を占め、裁判官会議でも「この時期にこの事件について最高裁の見解を示す必要がある」という意見が多数を占めたのであろうと想像される。そこで、前に学会から最高裁に入った団藤重光の著書を読んだことに引き続き、比較的最近弁護士会から最高裁に入った著者の著書を読んでみることとしたのである。
予想通り、著書には「さし当り、国民の間で見解のわかれる問題について近いうちに改めて判断が迫られることになるであろうと思われるのは、非嫡出子の相続分が嫡出子の半分となっている民法900条の規定ではないだろうか。」との問題提起の一文があった。著者は、この問題についての私見を明らかにしていないが、どうやら違憲と考えているような書きっぷりである。
著者は、上述の問題のごとき個別の問題を紹介しつつも、最高裁の果たすべき役割を強く訴えている。すなわち、最高裁が①憲法裁判所の役割、②通常事件の最終審の役割、③司法行政の最高機関の役割を持つことを前提として、上告事件・上告受理申立事件の激増により、憲法裁判所としての役割が十分に果たされていないのではないかと憂いている。例えば、著者は、先例となる大法廷判決を引用して「その趣旨に徴して合憲であることは明らかである。」と論ずる小法廷判決が少なからず見られることを指摘し、憲法判断を回避する傾向があることを率直に認めている。そして憲法裁判所としての役割を重視すべきことを提言している。
さてわが身を振り返り、どうか。たしかに私も上告や上告受理申立てを濫発しており、著者の指摘が身にしみる。しかし、司法手続の利用者の立場からは、「第一審、控訴審の判断が誤っていたとしても、最後は最高裁が救ってくれる」という希望があるからこそ、通常事件の最終審としての最高裁に期待するところが多大なのである。そして実際に最高裁は、下級審では決して見られないような新しい判断を示すことがよくある。私どもはそのような最高裁の良識を信じて、最高裁の扉をたたくのである。
そもそも現行憲法下の最高裁は、旧憲法時代に通常事件の最終審であった大審院の役割と、違憲立法審査権を有するアメリカ連邦裁判所の役割を共に担うものとして設計されており、その意味で責任過多なのではないかとの根源的な疑問が感じられる。このような憲法の二重性格は、大陸法の要素と英米法の要素を相備えている刑事訴訟法の二重性格とも共通している。わが国法体系のねじれは、このようにときどき顔を現わす。
さて私が近時注目している最高裁継属中の事件は
①上述の非嫡出子の相続差別の事件
②衆議院の一票の格差の事件
③海の中道の交通事故の事件
である。①と②は憲法14条の判断に踏み込むであろう。③は憲法31条の判断に踏み込むのであろうか、それとも事実認定の問題として処理するにとどまるのであろうか。
最高裁の役割をいろいろ考えさせてくれる一冊であった。

名もなき受刑者たちへ

カテゴリー:司法

 著者 本間 龍、 宝島文庫 出版 
 
 日本の刑務所人口が高齢化し、福祉行政の一部と化している実情が哀愁ただようタッチで描かれている佳作です。著者は、栃木県の黒羽刑務所に収監されていました。
黒羽刑務所には関東圏最大の初犯刑務所で1700人の受刑者がいる。
 日本には77の刑務所があり、7万5千人の受刑者がいる。初犯で刑期が8年以下だと初犯刑務所、強盗などの重罪犯、再犯者、暴力団関係者は累犯刑務所に入れられる。毎年3万人の入出所がある。
 刑務所には年齢制限がないので、相当な高齢者も入ってくる。近年は、高齢者の犯罪が激増し、60歳以上の高齢受刑者は2割に近い。
刑務所に働く1万7千人の刑務官のうちキャリア以外はほとんど高卒である。
 独居房は3畳。雑居房だと15畳ほどの部屋に9人以上が詰め込まれる。狭いし、プライバシーもない。医療も十分な水準にない。刑務所生活は決して楽なものではない。
 刑務所内で一番怖いのは同囚といざこざをおこして懲罰を食らうこと。過密状態の雑居にいたら、その危険性は高まる。ここでのケンカは、両成敗が原則なので、一方的に売られたケンカであっても、自分にも懲罰される可能性は高い。1回でも懲罰になると、等級が下がり、仮釈放も遠ざかる。
 刑務所にいる受刑者には、生まれてこのかた他人(ひと)に褒められたことがないという人が非常に多い。いろんな事情で子どものときから、いつも馬鹿にされ、叱られ、けなされているうちに粗野で凶暴になり、いつしか道を誤ってしまう。
 1960年代にアメリカの刑務所では暴動が頻発した。その原因の多くが食事のひどさにあった。そこで刑務所では食事だけは継続的に最重要改善項目になっている。3食合計で1日のカロリーは、主食が1600キロカロリー、副食が1000キロカロリーの合計2600カロリーと定められている。副食の予算は一日500円。だから、けっこう美味しくて栄養効果のある食事になっている。
 刑務所での医療は健康保険が効かないが、すべて無料。医療予算は年36億円、年々増加している。2007年度の新受刑者3万450人のうち、いわゆる正常な人とのボーダーラインIQ69以下の人が6720人、さらに知能の低いテスト不能者も1605人いた。
 つまり、刑務所に入る3割に知的障害の可能性がある。
年間3万人の出所の半分1万5千人は満期出所である。
 福祉から切り捨てられた触法障害者や認知症高齢者などの人々を、刑務所が塀の中で守ってやっているのが今の日本社会の実態である。うむむ、なんとなんと、そういうことでしたか・・・・。  
 一人の受刑者にかかる予算は年間300万円。これに、逮捕から裁判、それに至るまでの勾留費用をふくめると、一人あたり年1000万円ほどかかっている計算である。
 うへーっ、そ、そうなんですよね。刑務所のなかは、外の実社会の本質をうつし出す社会的な鏡をなしているという印象を受けました。
 こんな刑務所のなかで著者は精一杯、高齢受刑者の面倒をみていました。頭の下がる努力です。刑務所のなかの実情はもっと広く世間に知られるべきですね。
 同じような体験記である山本譲司元衆議院議員による『獄窓記』(ポプラ社)にも感銘を受けましたが、本書も一読をおすすめします。 
(2010年11月刊。457円+税)

刑務所の中の中学校

カテゴリー:司法

 著者 角谷 敏夫、 しなのき書房 出版 
 
 読んでいるうちに胸がきゅんと締めつけられ、心臓が燃えたち、目から涙があふれ出て止まらなくなりました。
「きみの田舎では、正月にはどんな料理を食べますか?」
「帰ったことがないから、分からない」
子どものころの正月の話をする生徒は誰もいない。年賀状を出すところもなければ、年賀状が来ることもない。小学校も満足に通っていない。中学校は中退した。そんな彼らが、今、刑務所にいながら中学校の勉強を必死になってするのです。人間って、本当に変わるものなんですよね。この本には、いくつもの感動があります。
 自分はどんな存在なのかな。何のために生きているのかな。なぜ本を読んだり、勉強したりするのか、本当にそんなことが生きるうえで必要なのか・・・・。そんな疑問を胸に抱いている若い人には絶好の本です。
 最近、テレビの番組にもなったようですね。私は観ていませんが・・・・。テレビ映像もいいでしょうが、この学校で30年間も実際に教えていた人の書いた本を読むのもいいものですよ。人間って、まだまだ捨てたものじゃないと実感させてくれ、明日に生きる力を分け与えてくれます。
 長野県松本市立旭町中学校の桐分校は、全国で唯一の刑務所の中にある中学校。松本少年刑務所のなかにあり、そして中学校ではあるが、そこに学ぶ生徒は未成年とは限らない。それどころか60歳をはるかに超える生徒までいる。
桐分校のスタートは1955年(昭和30年)のこと。以来、55回生までの卒業生が691人いる。ここは全国の義務教育未終了の受刑者の中から希望者を募集する。そして、中学校の第三学年に編入学させる。1年間の勉強で卒業が認定されると、卒業証書が渡される。この間、刑務作業は免除される。
この中学校では大変な猛勉強をします。1年間で中学3年間分の勉強をするのですから、大変です。朝は8時から夕方4時半まで、1日7時間の授業を受けます。夜は10時まで勉強します。なんと1日10時間の勉強です。そして、夏休みも冬休みもありません。英語ももちろんあります。教師は、教員免許をもった法務教官7人と旭町中学校の教諭1人があたります。
生徒は、年齢にかかわらず、詰襟の学生服、夏はワイシャツ。入学者は、このところ減ってきて、1年に7~8人くらい。年齢は、17歳から67歳まで。このところ日本人だけでなく、外国人受刑者も増えてきた。入るためには面接を受ける。そのとき重視されるのは学力ではなく、本人の勉学意欲の確認。しかし、意思がないという生徒を説得することもある。うむむ、すごいですね・・・・。
入学式の当日から授業は始まる。教科書は中学3年生用のものが無償で配布される。
梅雨が明けるまで、なんとか持ちこたえられれば、1学期が乗り越えられる。そうすると、翌年3月の卒業までたどり着ける。6月には中間テスト、工場対抗ソフトボール大会。7月には七夕、8月にはプールで水泳。9月には運動会がある。そして、10月には遠足まであるのです。しかも、手錠も捕縄もなく・・・・。付き添いの職員が緊張する一日です。遠足は、決して事前には知らされません。当日の朝、初めて知らされます。朝、机の上にブレザー、スラックスそしてネクタイが並べられ、朝食のあと、今日は遠足だと告げられるのです。そして引率の教師が宣言します。
 「今日、ぼくは手錠も捕縄も持っていきません。ただ一つの武器を持っていきます。それは『信頼』です」
 いやあ、すごい言葉ですね。胸がじーんとしてきます。そして、なんと、開所以来、一度も逃走事故はないのです。すごいですよね。うれしくなります。
 2月の遠足は本校にあたる旭町中学校を訪問します。音楽交流授業で本校の中学生たちと心を通いあわせるのです。いいですね・・・・。
 そして、3月。あっというまに一年間がたち、卒業式を迎えます。卒業したら、クラス会や同窓会もありません。しかし、やがて卒業生がこの桐分校に誇らしげにやって来ることがあるのです。これって、うれしいですよね。
 桐分校は犯罪の道から更生の道への架け橋である。桐分校には、学びと教育と人間の原点がある。そうですよね。一人でも多くの人に、この本が読まれることを心から願います。とりわけ若い人々に・・・・。著者は私と同じ団塊世代です。お疲れさまでした。今後とも、お元気にご活躍ください。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

波浮の港

カテゴリー:司法

 著者 秋廣 道郎、 花伝社 出版 
 
 楽しい本です。子どもの時代の楽しくも切ない思い出がたくさん詰まった本なのです。
 波浮(はぶ)の港と言えば、伊豆の大島のことです。著者は大島の名家に生まれ育ったのですが、5歳のときに父を亡くしました。そのときのエピソードが心を打ちます。
 通夜や葬式の日に、近所の人は、父を失った幼い私を哀れんで、「みっちゃん、可哀想ね」と来る人来る人いうので、それがたまらなく厭だった。それで、(近所の)史郎ちゃん、六ちゃん(いずれも著者の子分である)を連れて、お葬式の日に波浮の港へ泳ぎに行ってしまった。そして、ひどく怒られた記憶が残っている。しかし、誰かは定かではないが、「みっちゃんも辛いのよ」と庇ってくれた人がいた。その言葉の優しさが今も忘れられない。
 そうなんですね。5歳には5歳なりのプライドというものがあるのですよね・・・・。
大島の三原山に日航機の木星号が墜落したのは、著者が小学3年生のとき。早速、三原山の現場へかけのぼり、スチュワーデスと思われる女性の死体を見たというのです。この木星号の墜落事件についても松本清張が本を書いてますよね。よく覚えていませんが、アメリカ占領軍と日本の財閥をめぐって何か略謀の臭いのある事件だと描かれていたように思います・・・・。
 小学生の著者たちは、なかなかおませだったようで、美空ひばりを本気で好きになったり、美人の先生が男性教師とデートするのを子どもながら嫉妬し、木の上からおしっこかけて邪魔しようとしたりしています。
 著者の家は旧家で名望があったとはいえ、小学生のころから家業の牛乳屋の牛乳配達をしていました。そのおかげで小柄な身体つきですが、頑強な身体になったそうです。
著者は、小学校も中学校も一学年一クラスの中で育ちました。9年間も一緒だと、その性格はもちろん、その家庭の様子も手にとるように分かる。ごまかしや格好付けのできない世界だった。なるほど、だから、いじめられる側にまわると悲惨なんですよね・・・・。
教師には恵まれたようです。伊豆の大島は都内からすると一級の僻地なので、若い新任の教師も多かったのでした。
 小学二年生のときに髄膜炎にかかって長く自宅療養しているなかで、著者は孤独との戦いを余儀なくされ、いろいろ考えさせられたのでした。そのころ、大島の三原山は投身自殺の名所となっていました。漁船の遭難事故も多く、人の死と向きあう日常生活があったのです。著者自身も大島での子ども時代に九死に一生を得る体験を二度もしています。
当時の写真だけでなく、素敵なスケッチがあり、また、漫画チックな著者たちのポートレートもあって、終戦後間もない大島における子ども時代が彷彿としてきます。
 著者は先輩にあたりますが、私と弁護士になったのは同じ年で、一緒に横浜で実務修習を受けました。運動神経が抜群で、ボーリング試合での成績がいつもとても良いのに感嘆していました。これからも、どうぞ元気で頑張ってください。よろしくお願いします。
  
(2010年10月刊。1500円+税)

カネミ油症

カテゴリー:司法

 著者 吉野高幸、 海鳥社 出版 
 
 カネミ油症は古くて新しい食品公害事件です。ふだんはテレビを見ない私ですが、宿泊先のホテルで日曜日の朝、たまたまテレビを見ていましたら、カネミ油症の特集番組があっていて、著者も登場していました。カネミ油症の被害者が今なお大量に存在して苦しんでいること、原因企業であるカネミ倉庫が治療費をこれまで負担してきていたのに、経営難から負担を打ち切ろうとしていることがテーマとなっていました。
この本は、カネミ油症の弁護団の事務局長として長く奮闘してきた著者が、カネミ油症事件とその裁判について振り返ってまとめたものです。ハードカバーで260頁もあります。読むのはしんどいな、でもせっかく買ったので読んでみようかなと渋々ながら重い気持ちで読みはじめました。ところが、なんとなんと、とても分かりやすい文章で、すらすらと読めるではありませんか。これには日頃、著者に接することも多い私ですが、すっかり見直しました。ええっ、こんな立派な分かりやすい総括文が書けるなんて・・・・(失礼!)、と改めて敬服したのでした。
 カネミ油症裁判で何が問題だったのか、どんな意義があるのか、実務的にもとても明快に紹介されています。とりわけ若手弁護士にはぜひ読んでほしいと思いました。
カネミ油症が初めて世間に報道されたのは、1968年10月のことです。私は大学2年生であり、東大闘争が始まっていました。初めは「正体不明の奇病が続出」という記事でした。翌1969年7月現在、届け出た患者は西日本一円で1万4320人といいますから、大変な人数です。それはカネミライスオイルを使ったからで、その原因は製造過程で金属腐食があってPCBが製品に混入したからだということが判明しました。
 PCBは「夢の工業薬品」と言われていましたが、PCBを食べた例は世界のどこにもなく、したがって治療法がありません。このことが被害者を絶望のどん底に突き落としました。
 1970年11月16日、被害者300人はカネミ倉庫と社長、そして国と北九州市を被告として損害賠償請求訴訟を提起しました。
 このとき、弁護団は訴訟救助の申立をしました。印紙代として必要な数百万円の支払いの猶予を求めたのです。また、弁護士費用についても、法律扶助協会(今の法テラス)に支給を求め、300万円が認められました。
 弁護団は訴訟費用を被害者に負担させないという方針をとっていました。だから、大カンパ活動を始めました。支援する会は200万円ものカンパを集めました。そして、1971年11月にPCBを製造したメーカーである鐘化を被告として追加しました。
 裁判では1973年夏に、原告本人尋問がありました。長崎県の五島にまで出かけ、裁判官が出張尋問したのです。朝9時に現地の旅館前に集合し、「平服でげた履きの裁判所関係者は三班に分かれて出発」し、「各家庭で本人尋問が始まった」と記事にあります。
 一人の裁判官が40時間にわたり、40人をこえる被害者や証人から各家庭で証言に耳を傾けた。すごいですね。裁判官が被害者である原告本人の自宅にまで出向いて、その訴えに耳を傾けたのです。
 原告弁護団は、損賠賠償を請求するのに個別に逸失利益を算定するのではなく、包括一律請求方式を採用した。請求額は死者2200万円、生存患者1650万円(いずれも弁護士費用こみ)を請求した。これは患者の苦しみに個人差はないという考えにもとづく。たしかに被害者の苦しみについて簡単には格差はつけられせんよね。
 裁判の最終弁論は、1976年6月に3日間おこなわれた。2日間が原告、残る1日が被告の弁論に充てられた。うひゃーっ、す、すごいですね。今どき、そんなもの聞きませんね。
 判決に向けて、弁護団は大変な努力を重ねたことが紹介されています。なんと、判決前の6ヶ月間、そのためにずっと大阪に弁護士(今は大分にいる河野善一郎弁護士)が滞在していたというのです。熱の入れ方が違います。いったい、その間の生活はどうしていたのでしょうか・・・・?
 弁護団は判決直後に大阪のカネカ本社で3日連続の交渉、東京の厚生省で交渉をすすめるほか、大阪で強制執行できる準備を着々とすすめていきました。
 1978年3月10日の判決は、残念ながらカネカとカネミ倉庫の責任は認めたものの、国と自治体の責任は認めませんでした。しかし、原告弁護団はカネカの高砂工場で、工場内に積まれていた岩塩1万トンあまりを差し押さえました。執行補助者が岩塩に「差押」とスプレーで書いている写真があります。大阪本社では社長の机や椅子も差し押さえました。ところが、カネカには現金や預金がまったくありませんでした。そこで、強制執行妨害(不正免脱)罪として、弁護団は大阪地検特捜部に告発したのです。これは起訴猶予となりましたが、これ以降は、カネカも現金か小切手を用意するようになりました。
 原告弁護団は、カネカの強制執行停止申立書を高裁受付で待ちかまえ、その不備を発見して受理させなかった。すごいですよね。受付で申立書を点検するなんて・・・・。そして、そもそも執行停止すべきでないと裁判所に申し入れたのです。裁判所は、結局、1人300万円を超える部分については執行を停止するとの決定を下しました。ということは、逆に言えば一人300万円までは執行できるということです。
判決後のカネカとの本社交渉では、執行停止が認められなかった20億円のほか6億円を上乗させることが出来ました。
ともかく、あきれるばかりのすごさです。交渉というのは、このようにすすめていくものなのですね。さらに、原告弁護団は、第一陣訴訟に加わっていない被害者について、仮払い仮処分を申立して、一人150万から250万までの支払いを認めさせたのでした。これによって、カネカによる被害者の分断工作を封じてしまったのです。
1984年3月、福岡高裁は国の責任を認める画期的な判決を下した。1985年2月に、小倉支部でも同様に国と自治体の責任を認める判決を出した。
ところが、1986年5月、福岡高裁(蓑田速夫裁判長)は国と自治体の責任を認めないという判決を下したのです。私は、こんな冷酷非道な判決を下す裁判官がいるなんて、信じられませんでした。たとえ裁判官が温厚な顔つきをしていても、決してそれに騙されてはいけないと思ったものです。
危険性は予測できなかったから、行政に落ち度はなかったとしたのです。まるで行政追随の非情な判決です。これでは裁判所なんかいりませんよ・・・・。
最高裁で口頭弁論したあと、和解交渉に入ります。カネカには責任がないことにしながら、カネカは21億円を支払う。これまで被害者が仮払金として受け取っていたものは返す必要がないというものです。この和解で一応私の決着はついたのですが、あとで、訴訟を取り下げたところから、さらに新しい問題が発生します。仮払金を受け取っていたのが根拠がなくなったので、返せといわれたのです・・・・。いやはや、いろいろあるものです。裁判がいかにミズモノであって予測しがたいか、そのなかでどんな知恵と工夫をしぼるべきか、しぼってきたか、手にとるように分かる本になっています。
ぜひぜひ手にとってお読みください。裁判闘争の実際を知りたいと思うあなたに強くおすすめできる本です。 
(2010年10月刊。2300円+税)

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