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カテゴリー: 司法

公害・人権裁判の発展をめざして

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 豊田 誠 、 出版 日本評論社
 公害弁護団で大活躍していた豊田誠弁護士(以下、豊田さん)とは私も面識があり、親しくさせていただきました。豊田さんはイタイイタイ病、薬害スモン、水俣病、多摩川水害、ハンセン、えひめ丸事件に取り組み、活動をリードしてきました。全国公害弁護団連絡会議(公害弁連)では、事務局長、幹事長そして代表委員をつとめました。さらに、自由法曹団の団長もつとめています。
 豊田さんは、2023年3月に87歳で亡くなりました。この本には豊田さんの書いた論文そして語った内容が集められています。
この本を読んで圧巻だったのは、1982年に34期修習生に語った「大衆的裁判闘争と弁護士の役割」というものです。講演を起こしたものなので、とても読みやすく、教訓に富んだ内容です。
スモン事件の裁判に取り組んだとき、キノホルムの危険性を調べようと、東大と慶応の図書館に入り浸った。キノホルム(クリオキノール)という単語だけを手がかりとして、英語もフランス語もドイツ語も分からないのに、ひたすらインデックスを頼りにして調べあげていったというのです。豊田さんも同じことをしたのでしょう。ついに金沢の弁護団が東北大学の図書館で発見したのでした。すごいですね。まったくのムダ、としか言いようのない作業を何人もの弁護士がやったというのです。
 岐阜県の村にあるエーザイの図書館に行ったときには、スッカラカンになっていて、ポケットにはもう何千円しか残っていなくて、東京に戻ったときには素寒ぴんだったというのにも驚かされました。
次は労働事件。大日本塗料という会社を相手に裁判をして裁判では33連勝。ところが職場復帰という目的は達成していない。いったいどうしたらよいのか…、深刻に反省した。
 このとき、裁判でいくら勝っても本当に闘いが大衆的に広がっていないと、目的は達成できない。このことを身をもって体覚せざるをえなかった。
運動を広めるためには、弁護士がまず自分自身の目の色を変えなければダメ…。
鈴木尭博(たかひろ)弁護士は「ボンドの鈴木」と呼ばれた。ボンドとは接着のこと。喰らいついたら離れないっていうことでついたアダナ。
 人が変わることに確信をもつ。団結もちつき大会をやったし、全国歌謡大会もした。プラスバンドや琴、そして落語まであるという華々しい取り組みもした。
 最高裁は、公害裁判に関する協議会、裁判官会同をひんぱんに開催した。1969年に1回、70年に1回そして71年と72年には各2回も開かれている。これは、明らかに最高裁による陰湿な裁判統制というのは間違いない。裁判官統制が強められていった。
豊田さんは、ある事件で敗訴判決が宣告されたとき、「裁判長、ありがとう」と言った。いやあ、豊田さんでないと言えないコトバですよね。
 豊田さんの偉大な足跡を詳細に調べあげています。豊田さんが生まれたのは、八郎潟の湖畔の平野部。秋田県琴丘町。豊田さんの父は国鉄マン。8月15日のとき、豊田さんは小学4年生。
 偉大な先輩弁護士の足跡をたどることが出来ました。
(2024年6月刊。2200円+税)

憲法的刑事弁護

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 木谷 明 ・ 趙 誠峰 ・ 吉田 京子 ・ 高山 巖 、 出版 日本評論社
 弁護士高野隆の実践、をサブタイトルとする本です。日本を代表する刑事弁護の第一人者である高野隆弁護士の還暦記念論文集でもあります。
高野隆を一言で表すとすれば、物語力。依頼人が無実である物語をつくり上げ、裁判官と裁判員の前に送り出す。裁判は物語と物語の対決、事実認定者が証拠を見て描く物語を獲得できるかどうか。
 高野隆は法廷のストーリーテラー。この本の末尾には高野隆の弁論集が紹介されている。しかし、高野隆の弁論は法廷にのみある。文字としての弁論は、いわば映画を見ずにシナリオを読んでいるようなもの。
 まあ、それでも、弁論のキレの良さは伝わってきます。
 高野隆は18頁もの弁論要旨を全文読み上げる。書いていないことも、その場でアドリブでしゃべる。
 高野隆は被告人のために情熱的であり、雄弁である。高野隆は、被告人席に座っているこの人も、裁判官席に座るあなたと同じフツーの人間だと示すのか、弁護人としての最初の仕事だと信じている。
 高野隆は国の権力、そして人を懲(こ)らしめたいという強い衝動をもつ者を信用していない。
 高野隆は1982年に弁護士になり、1986年から翌1987年までアメリカに留学して、憲法、証拠法、刑事手続法を猛勉強した。高野隆や小川秀世らは1995年にミランダの会を立ち上げた。日本の被疑者取調べ手続を文明化し、黙秘権を確立することを目的とする会。
 2008年、高野隆は、アメリカから講師を招いて法廷技術研修を開催した。
 日本の裁判では、公判前整理手続で予定を決めてしまって、予定外の証人調べなどすることはほとんどない。しかし、アメリカの法廷は、もっとフレキシブルで、新しい証人の存在が分かったら尋問するし、もう1回あの証人を呼んで訊いてみようとなる。日本では考えられない。
 日本の裁判では「嘘」や「正直さ」というのを極端に重要視している。
 刑事裁判では「嘘」をついたかどうかがすごくクローズアップされることが多くて、日常生活ではありがちな「嘘」が、取り返しのつかない結果を生みかねない。これは本当に、そうなんですよね。弁護士生活50年の私も、「嘘」は致命傷になることがあると、いつも依頼人に言っています。
 日本では、職業裁判官がずっと裁判をやってきたから、自分たちが万能の専門家だと思っている。供述・証言の専門家、心理の専門家、薬物犯罪の専門家、そして精神医学の専門家だと思い込んでいる。でも、彼らの「専門性」というのは、まったく専門性でもなんでもない。有罪の判決文を書くのに必要な証拠は何かという、小役人的な判断の積み重ねにすぎない。そこには法哲学や法政策的な思考も、本当の意味での体験も、職人の知恵もない。世の中に存在する本当の専門家の意見を聞くことは、小役人の生活にとって邪魔な夾雑(きょうざつ)物にすぎない。いやあ、たしかにそうなんですけどね…。
 370頁もの本で、値段も張りますが大変勉強になりました。東京からの帰りの飛行機のなかで、乱気流にもめげず、必死に読み通しました。
(2017年7月刊。4200円+税)

袴田事件

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 青柳 雄介 、 出版 文春新書
 事件発生は1966年6月30日のこと。清水市にあった味噌製造会社の事務宅が放火され、焼け跡から一家4人の惨殺遺体が発見された。「犯人」として逮捕されたのは、従業員で元プロボクサーの袴田巌(30歳)。直接証拠は何もないまま死刑判決となり、1980年に死刑は確定した。それからすでに40年以上がたっている。死刑囚は確定したら数年のうちに処刑されることが多い。しかし、2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は再審の開始と同時に、死刑と拘置の執行停止を決めた。
「捜査機関が重要な証拠を捏造した疑いがあり、(袴田を)犯人と認めるには合理的な疑いが残る」
「拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する状況にある」
袴田厳を取り調べしたときの状況が録音されていて、法廷で再現されました。それによると、長時間の取調べのなか、尿意を訴えても、便器を取調室に持ち込んでさせているのです。そして、取調官は袴田厳に対して、「お前、もうあきらめなさいよ。婆婆に未練をもつのはもうやめなさい。はっきり言ってね、あきらめなさい」と迫った。ひどいものです。
そして、「血染めのパジャマ」とされていますが、実際には、「肉眼で確認できないほどわずかなものだった」のです。そのうえ、袴田のズボンとされたものを袴田はいくら努力してもはくことができなかった。この現実に対して検察官は「袴田厳が太った」とか、強弁しています。 また、衣類に「鮮やかな赤み」が1年2ヶ月間も味噌につかっていたなんて信じられません。
まさしく警察によるデッチ上げ(冤罪事件)ということができる事件です。
袴田厳が福岡拘置所にいたのは19年間のうちに、十数人の死刑囚仲間が死刑へ消えていった。
現在、死刑囚として確定しているのは133人。うち70人が東京拘置にいる。
再審判決が迫っていますが、今度こそ、無罪判決を出してもらいたいものです。
(2024年8月刊。1100円+税)

「挑戦と闘い」の軌跡、そして絆

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 篠原義仁弁護士 、 出版 追悼集刊行委員会
 篠原さんは私が50年前に弁護士になって入った事務所の先輩弁護士の一人です。もう一人、杉井厳一弁護士(故人)がいますが、私は、この二人には絶対に追いつき、追いこすことは不可能だと、たちまち悟りました。
 篠原さんは、ともかく「口八丁、手八丁」の典型です。その手厳しい評言は、ときに言われた人の心を傷つけることもあったことでしょう。公害問題を扱う篠原さんは、自らが「口害」発生源でもあったのです。でもなぜか、その「口害」が私に向けられたことはありませんでした(ひょっとして、私が鈍感だったというだけのことかもしれません)。
 篠原さんは、群馬県の安中(あんなか)公害を初め、川崎大気汚染公害をふくむ公害問題など、数多くの事件を扱い、公害弁護団をリードしていきました。そして、篠原さんは、自由法曹団で幹事長をつとめ、3.11のあとは団長に就任もしています。弁護士会のほうには役職についてはいません。ほかには「九条の会」でも岡田尚弁護士と一緒に活躍していますが、篠原団長のころ、自由法曹団は10年間で団員が500人も増え、2000人を超えました。
 ところが、今では若手が入団せず、老年団員の死亡・脱退という自然減のなかで、絶対数が減少して、2000人を割り込んでいます(と思います)。
 自由法曹団では70歳になった団員を古稀団員として表彰することになっていますが、ちょうど篠原さんは自分自身が対象となり、団長として自らを表彰するという事態になりました。
 篠原さんは、弁護士になってからは「シャイで照れ屋を速射砲の毒舌で隠した」という佐伯剛弁護士の指摘はそのとおりだと私も思います。
 そして篠原さんは、本人が古稀になったときの自己紹介で、小学生くらいまでは、言葉が出ないことを周囲が心配していたというのには、びっくり仰天してしまいました。人間って、変わるものなんですね…。
 篠原さんは、2021年8月26日、まだコロナ禍の真最中に、77歳で亡くなりました。本当に残念です。そして、篠原さんが亡くなってもう3年もたつのかと思うと感無量です。
 私が故郷に戻って10年目の記念パーティーを開いたときには、篠原さんはわざわざ川崎からやって来て祝辞を述べてもらいました。
 本当にお世話になりました。ありがとうございました。いろんな人の思いがあふれている素晴らしい追悼集です。
(2024年2月刊。自費出版)

三淵嘉子

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 神野 潔 、 出版 日本能率協会マネジメントセンター
 NHKの朝ドラ「虎に翼」は大好評のようですね。弁護士のFBにもこのドラムの意義がひんぱんに取りあげられています。世の中には、あまりにも理不尽なことが堂々とはびこっていますが寅子(とらちゃん、こと、ともこ)が「ハテ」と首をかしげて抗(あらが)う姿が共感を呼んでいるようです。
戦前、日本敗戦時まで日本の女性には参政権がありませんでした。なので、女性が弁護士になれなかったのも、ある意味、当然のことです。女性は一人前とは見られていなかったのですから…。
寅子たちが大学に入れたのも明治大学が受け入れたからです。そして、その次に司法科試験を女性も受験できるようになりました。
 寅子(嘉子)が高等文官(高文)司法科試験を受験したのは1938(昭和13)年のこと。女性が受験できるようになったのは2年前の1936年でしたが、合格者はいませんでした。そして、この1938年に初めて3人の女性が司法科試験に合格したのです。
実は、私の亡父も法政大学の法文学部の学生として、5年前の1933(昭和8)年に司法科試験を受験しています。残念ながら合格できませんでした。この年、有名な民法の教授である川島武宜が合格しています。
 父が受けた司法科試験って、どんなものだったのか気になって調べてみました。今はインターネットで国立国会図書館の蔵書にアクセスできて、コピーサービスも受けられます。本当に便利な世の中です。すると、「國家試験」という受験雑誌があることが判明しました。私の受験生のころの「受験新報」みたいなものです。試験問題も分かりましたし、試験スケジュールも判明しました。残念なのは試験会場が法務省の会議室らしいというくらいで、確定はできませんでした。
この年の合格者は240人ほどで、その前年は356人、翌年は331人で、なぜかこの年だけ少なかったのです。ただし、寅子のときも合格者242人と、ほぼ同数でした。
亡父の生前、司法科試験に合格したら、何になるつもりだったのか尋ねると、その答えは意外なことに検察官でした。
 治安維持法があり、その目的遂行罪というとんでもない悪法・恣意的条文によって法廷で共産党員を弁護したら、それ自体が罪となり、弁護士が次に逮捕され、実刑になっていた時代でした。弁護士になっても、それこそ夢も希望もなかったのです。
寅子が弁護士になろうとした動機は、弱い女性を救うためではなく、困っている人間の力になるため。これには、まったく同感です。男も女も関係なく、困っている弱者の救済こそが法律家の任務です。
 そして、寅子は女性だから家庭裁判所で働くという固定概念を打破しようとしたのです。これも、すごいことですよね、なんでも、ワンパターンで決めつけてはいけないのですよね。
(2024年3月刊。1550円+税)

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