法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 人間

薬石としての本たち

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  南木 佳士 、 出版  文芸春秋
  この著者の書いたものは、心の奥底に何かしら触れあうものがあるので、どうにも私の得意とする飛ばし読みができません。わずか190頁足らずの本なのですが、読み終えるのに1時間どころか、半日もかけてしまいました。なんといっても、医師の体験を通して人間の生死と絶えずかかわっていること、そして著者自身がパニック障害そしてうつ病にかかってきたことからくる文章の重みが、頁をめくる私の手を遅くしているのでしょう・・・。
  私は床屋には月に1度、行くのを楽しみにしています。格好の昼寝タイムなのです。瞬間的にぐっすり眠ることができる心地よさが何とも言えません。ところが、著者は、一人で床屋に行けなくなってから20年以上になるというのです。
著者は60歳のとき、還暦記念出版として短編小説とエッセイを集めた本を出した。文学界新人等を受賞してから作家登録して30年、全部で30冊の本を出した。
  小説やエッセイを仕立てる気力がないときには、他者の話を聞いて編集者とともに一冊の本に仕立て上げる行為は、かろうじて作家であることを確認する一所懸命の力仕事だった。
漢字をひらがなにするのを「ひらく」という。ひらきすぎると、わざとらしくなる。しかし、漢字が適度にひらかれた文章は風通しがよくなる。
  人間ドッグの受診者は、自費で安心を買いに来ている人たちだから、可能なかぎり安心を売ってあげる。ただし、安心の安売りはしない。
  私は、40代前半から、人間ドッグに入るようにしてきました。これは、「安心を買いたい」からなのですが、平日に公然と休んで本を読む時間を確保するためでもあります。歳をとるに従い、あちこち不具合が発見されるようになりましたが、あまり気にしすぎないように努めています。まあ、それでも気にはなるのですが、、、。
  作家は書いたものを何度も推敲し、一応の完成稿をしばらく寝かせたのち、読者になりきって読んで不満な部分をさらに加筆、修正し、納得のいったところで編集者に送り、その意見に耳を傾け、主として書きすぎた部分を削ってから世に問う。それが作家のあるべき姿だ。
  これって、モノカキ思考の私にとって、よく分かる言葉です。10年ほど前に映画にもなった著者の「阿弥陀堂だより」っていい本でした。そして、すばらしい映画でしたね・・・。
(2015年9月刊。1500円+税)

職業としての小説家

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  村上春樹 、 出版  スイッチ・パブリッシング
  私と同じ団塊世代の著者による作家論です。モノカキを自称し、今も小説に挑戦中の私にとって、大いに共感するところが多々ありました。
  小説家の多くは、円満な人格と公正な視野を持ち合わせているとは言いがたい人々である。
  むむむ、法律家の一人として、いつも常識的には・・・と法律相談に来た人に説示している私には、小説家になる資格がないということになるのでしょうか・・・。
作家というのは基本的にエゴイスティックな人種であり、プライドやライバル意識の強い人が多い。
小説家には数多くの欠陥があるけれど、誰かが自分の縄張りに入ってくることには寛容だ。というのも、小説なんて、書こうと思えば誰にだって書けるものだから・・・。
  しかし、リングに上がるのは簡単でも、そこに長く留まり続けるのは簡単ではない。小説を長く書き続けること、小説を書いて生活をしていくこと、小説家として生き残っていくこと、これは至難の業であり、普通の人間にはまずできない。
  小説家であり続けることがいかに厳しい営みであるか、小説家はそれを身にしみて承知している。
  小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である。
  小説を書くということは、基本的に鈍臭い作業であり、やたら手間がかかって、どこまでも辛気くさい仕事である。
  著者は、29歳のとき、自宅近くの新宮球場に野球を見に行った。バットがボールにあたる小気味の良い音を聞いたとき、ふと、そうだ、僕にも小説が書けるかもしれないと思った。これで、著者の人生が一変した。
  言語のもつ可能性を思いつく限りの方法で試してみることは、すべての作家に与えられた固有の権利なのである。そんな冒険心がなければ、新しいものは何も生まれてこない。
  著者は、ものを書くことを苦痛だと感じたことは一度もない。小説が書けなくて苦労したという経験もない。小説というのは、基本的にすらすらと湧き出るように書くものだ。35年間にわたって小説を書き続けてきて、スランプの時期は一度も経験していない。小説を書きたいという気持ちが湧いてこないときには書かない。そんなときには、翻訳の仕事をしている。
  小説家になるには、とりあえず本をたくさん読むこと。そして、自分が目にする事物や事象を、とにかく仔細に観察すること。
  1日に400字詰原稿用紙に10枚書く。もっと書きたいと思っても10枚でやめておく。今日は乗らないと思っても、なんとか頑張って10枚は書く。
長い仕事をするときには規則性が大切だ。朝早く起きて、毎日、5時間から6時間、意識を集中して執筆する。毎日外に出て1時間は体を動かす運動をする。来る日も来る日も、判で押したみたいに同じことを繰り返す。
  一人きりで座って、意識を集中して物語を立ち上げていくためには、並大抵ではない体力が必要となる。
  忠実に誠実に語源化するために必要とされるのは寡黙な集中力であり、くじけることない持続力であり、堅固に制度化された意識なのである。
  村上春樹は、原発に反対の立場を表明していますが、表だっての行動はあまりしていませんね。
  身体が大切だし、そのためには規則ただしい生活、そして身体を動かす運動する必要があることを強調しています。この点は、私もまったく同感で、それなりに実践しています。
  それにしても、35年間の作家生活で、スランプを一度も経験していないって、すごいことですよね・・・。それほど、たくさんの引き出しを脳内に貯えているのですね。さすがプロの作家です。
私はプロの作家にはなりたくないし、なれそうもありませんが、目下、小説に挑戦中なので、心身ともに充実した日々を送っています。
(2015年9月刊。1800円+税)

作家という病

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  校條 剛 、 出版  講談社現代新書
 21人もの作家の業(ごう)を編集者の立場で赤裸々に暴いた本です。作家という存在のすさまじさの一端を知ることができました。モノカキを自称し、毎日毎日、こうやって書いている私ですが、とても「作家」にはなれそうもないと思ってしまいました。
 ちなみに著者の名前は「めんじょう」と読みます。同じ団塊世代ですが、私よりも少し年下になります。
作家であるということは、ある恍惚感をともなう。
 作家であり続けるために、自然と、自らに常人の感覚から外れた習慣や義務を課することになる。この作家という職業がもたらした特殊な習慣や傾向、それを「作家という病」と名づける。
 渡辺淳一は「鈍感力」と言った。それは、無神経で単なる鈍感というものではない。苦しいこと、辛いこと、失敗することにあっても、そのまま崩れず、明るく進んでいく力のこと。すごいですね。見習いたい、身につけたい力です。
 「いい人」と評価されるだけの作家だったら、恐らく読者に面白い小説を提供することは出来ない。作家には、必ず奇妙な癖と呼べるような資質を内に秘めているものだ。
作家は、他人の目をきにする必要のない普段の生活では想像の世界に常時入り浸っている。
 モノを書く、とくに小説を書くということは、とてつもなく心身の集中を要求される。
 井上ひさしは、単に謙虚で優しい人柄ではなかった。この作家の心の底には確固たる自信と完璧性への激しい要求が横たわっていた。仕事に取り組むときには、世間の常識や気兼ねを一蹴りしてしまう激しさが水面下から姿を現す。
 井上ひさしには、常識より優先すべき信条がある。完全な作品を提供しなければならないという掟である。その固い決意は誰にも動かすことができない。
 妥協というこの二文字は、井上ひさしがもっとも嫌だった言葉だ。井上ひさしは締め切りに遅れても昂然たる態度をとる。コトバは「すいません」だが・・・。
 いやはや、なんという非情かつ、非常識な世界なのでしょうか・・・。心やさしき私などは、ついつい恐れをなして尻込みするばかりです。と言ながら、私は目下、小説を書きつづっています。
 乞う、ご期待です。
(2015年7月刊。880円+税)

オープンダイアローグとは何か

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 斎 藤  環   出版 医学書院
 
統合失調症について、フィンランドですすめられている画期的な治療法を紹介した本です。それが、あまりにもシンプルな内容なので、本当に治療法として有用なのか、いささか心配になりますが、まずは紹介してみます。
このオープンダイアローグを導入した西ラップランド地方における統合失調症の入院治療期間は平均して19日間も短縮された。この治療によって、服薬を必要とした患者は35%。2年間の予後調査で82%は症状の再発がない。再発率は24%にすぎない。いわば、これは魔法のような治療なのである。
オープンダイアローグは、急性期精神病における開かれた対話によるアプローチとも呼ばれる。主たる治療対象は、発症初期の精神病。
最初に相談を受けた人が責任をもって治療チームを招集し、依頼から24時間内に初回ミーティングを行う。治療チームの源流は、家族療法である。
ミーティングには、対話を先導したり、結論を導いたりする「議長」「司会者」はいない。そして、専門家が指示し、患者は従うだけという上下関係はない。本人を抜きにして、いかなる決定もなされない。ミーティングは、1時間半程度で終える。
オープンダイアローグでは、はじめから診断がなされることはない。あいまい。
このあいまいな状況に耐えながら、病気による恐怖や不安を支えていく。不確実性への不安を支えるのが、繰り返されるミーティングと継続的な対話である。
オープンダイアローグでは、参加者全員が尊重される。平等で自由な「空気」をつくり出し、何かを決定するのではなく、対話の継続それ自体が目的であるような対話がなされる。
ミーティングでは、全員がひとつの部屋で車座になって座り、その場で自由に意見交換する。
同じチームが一定期間がかかわりを持ち続けることが、とても大切なこと。
オープンダイアローグにおいては、聴くことは質問することよりも重要。意見がくい違ったときに大切なことは、正しいか間違いか、白黒をはっきりさせることではなく、すべての声が受け入れられ、傾聴とやりとりが促されること。
精神病的な反応があったら、それは患者が自分の経験したことをなんとかして意味づけようとする試みとして理解すべき。
ミーティングにおける治療チームの重要な仕事は、患者との関係者が対話の主導権を握れるようにもっていくべきこと。
ミーティングのプロセスをゆっくりと進めることが、ことのほか重要。
ダイアローグ(対話)は、モノローグと異なり、他者を受動的な存在とみない。
治療チームは、早口で話したり、結論を急いだりすることがないよう用心する。
精神病患者の幻覚には、トラウマ体験が隠喩的な形で取り込まれている。
人は、自分の言葉がきちんと聞いてもらえていることが分れば、自身も他者の経験や意見に耳を傾けて、関心を持つようになる。
 とても分かりやすい本でした。でも、本当に治療法として大丈夫なのか、いささか心配になったのも正直なところです。
(2015年8月刊。1800円+税)

鏡映反転

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 高野 陽太郎   出版 岩波書店
 
鏡に映ると左右が反対に見える。なぜか、、、。上下は反対にならないのに、なぜ左右だけが反対に見えるのか?
あまりにもあたりまえの現象なので今さら、なぜと問われても、、、。
実は、これって昔から難問であり続け、今も正解の定説がない。ええーっ、そ、そうなの、、、。
鏡映反転は、じつは、「左右が反対に見える」という単純な現象ではなく、かなり複雑な現象なのである。
鏡映反転というのは、物理の問題ではなく、認知の問題である。すなわち、鏡のなかでは、物理的には左右が反転しないにもかかわらず、人間が左右反転を認知するのはなぜかという問題である。
この難問を説明すべく、昔からいろんな仮説が提唱されてきたが今なお、定説というものはない。うひゃあ、そうなんですか、、、。
著者は、その説明のために「多重プロセス理論」を提唱する。これは、鏡映反転は、ひとつの現象ではなく、複数の現象の集まりだとする。視直反転、表象反転、光学反転の三つから成る。
文字の鏡映反転はすべての人が認知するのに対して、自分自身の鏡映反転は2~3割の人が認知しない。つまり、この二つの反転は、別の原理で生じている、別の現象なのである。
多重プロセス理論によれば、人体の鏡映反転を生み出しているのは、視点変換と光学変換である。したがって視点変換をする人は、鏡映反転を認知し、視点変換をしない人は、鏡映反転を否認する。
鏡映反転は、見かけとは裏腹に、非常に複雑な現象である。
うむむ、なんと、そういうことなんですか、、、。鏡の前に立って、左右あべこべに見えてるのに解けない謎があるなんて、考えたこともありませんでした。
その謎を解明しようとする本ですが、やや私にとっては高度すぎる内容ではありました。
(2015年7月刊。2700円+税)
 

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.