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カテゴリー: 人間

挑戦する脳

カテゴリー:人間

著者   茂木 健一郎 、 出版   集英社新書  
 人間の脳の成り立ちは複雑で、多様である。脳の100億の神経細胞がお互いにどのような結合し、パターンを作るのか。その組み合わせの数は、無数にある。
天才とは、すなわち世間の既成概念にとらわれずに物事をなす人のことである。高度な創造性を示した人は、物理世界に提示される情報に支えられた視覚的一覧性に拘束されずに考え、感じるということを実行していたケースが多い。
 人生は続く。なんとか生きていかねばならない。ながらえる術(すべ)を見出さなければならない。そのとき助けになる「認知的技術」の一つが「笑い」である。
 「笑い」の背後には厳しい人生の現実がある。不安がある。恐怖さえある。「笑い」は、存在を脅かす事態に対して脳が機能不全に陥らないための、一つの安全弁である。そして、「笑い」は私たちが生きるエネルギーを引き出すことのできる、尽きることのない源泉なのだ。人は、笑うことができるからこそ挑戦し続けることができる。
大らかに笑うことができる人が、結局のところもっとも深く人生の「不確実性」というものの恵みを熟知している。杓子定規な真剣さは、往々にして臆病さの裏返しでしかない。
 本来、人間の脳のもっともすぐれた能力は、何が起こるか分からないという生の偶有性に適応し、そこから学ぶことである。予想できることばかりではなく、思いもかけぬことがあるからこそ、脳は学習することができる。
 今の時代、日本人は、「挑戦する」気持ちが足りないとされている。なぜ、日本人は「挑戦しない脳」になっているのか?
 脳は、自分の置かれた環境に「適応」する驚くべき能力を持っている。この世に生まれ落ち、育っていく中で、周囲の環境に合わせて脳の回路が形成されていく。日本人が「挑戦しない脳」になっているとすれば、挑戦しないことの方が適応的であるという、そんな因子があるのに違いない。
人間の脳は、本当に不思議です。たとえば、人前で話すとき、あらかじめ思っていたこととかなり違う話を自然と口にすることがあって、我ながら驚くことがしばしばあります。そんなとき、いったい、この思考回路は誰に指示されているのかと不思議に思えてなりません。
 これも100億個の細胞と無数の回路の組み合わせのなせる技(わざ)なのでしょうね。
 脳への関心は尽きることがありません。
(2012年7月刊。740円+税)

大往生したけりや医療とかかわるな

カテゴリー:人間

著者   中村 仁 、 出版   幻冬舎新書  
 40歳になってから20年以上年に2回、1泊ドッグを続けています。でも、幸いなことに病欠したことは弁護士生活40年近くの今日までありません。1泊ドッグは私にとって読書タイムなのです。分厚い本を6冊もち込み、読了してきます。
風邪で寝込むということもありませんが、風邪気味になることはあります。そんなときは、卵酒を飲んで早々に布団にもぐり込みます。西洋医学には頼りたくありませんので、薬を飲むことはありません。いえ、皮膚科は別です。自然に近い生活をしているので、虫さされなどは避けられません。それにハゼマケにもなります。そんなときには皮膚科からもらった軟膏の効き目が抜群です。
 この本は、れっきとした医師が、西洋医学に頼りきるのは考えものだというのですから、説得力があります。
 そうだ、そうだ、そうだよねと思いつつ読みすすめていきました。そして、「がん検診」とか「人間ドッグ」に疑問を投げかけています。最近、私の身内にがんが見つかって手術をした人がいます。目下、抗がん剤の投与を受けています。
 果たして抗がん剤を受けたほうがいいのか、私には疑問があります(使いたくないということです)。でも実際に、自分がそう診断されたらどうするか、まったく自信はありません。
 この本で、そこまでやるかと思ったのは、自分の葬儀をリハーサルのようにやってみるというところです。
 私などは、死後は「無」というか「空(くう)」の世界に同一化するだけ、意識はないと考えていますので、そんなリハーサルは本当に必要なの?・・・と思うだけです。
 いずれにしても、西洋医学だけ、薬漬けだけにはなりたくありません。
(2012年5月刊。760円+税)

勝ち続ける意志力

カテゴリー:人間

著者   梅原 大吾 、 出版    小学館101新書 
 ゲームの世界なんて、とんと無縁の私ですが、この本には、なるほどと思うところが多々ありました。
 私も、昔々流行したインベーダーゲームを何回かしたことがあります。でも、すぐに、これは私の性分にあわないと思いました。瞬発力というか、手の器用さが求められます。私の不得意とするところです。それでも、何回かやってみたのはどこの喫茶店にも、そのコーナーがあったからでもありました。
多くの人が現実逃避のためにゲームセンターに足を運んでいる。
 著者は、2010年8月、ギネスブックから、「世界でもっとも長く賞金を稼いでいるプロ・ゲーマー」として認定を受けた。
著者の勝ち方には、スタイルがない。そもそも勝負の本質は、その人の好みやスタイルとは関係ないところにある。かつために最善の行動を探ること。それこそが重要なのであって、趣味嗜好は瑣末で個人的な願望にすぎない。勝ち続けるためには、勝って天狗にならず、負けてなお卑屈にならないという絶妙な精神状態を保つことでバランスを崩さず、真摯にゲームと向きあい続ける必要がある。
著者が勝ったのは、知識・技術の正確さ、経験、練習量といった当たり前の積み重ねがあったから。得体の知れない自分という存在が相手を圧倒して手にした勝利では決してない。勝ち続けたり、負け続けたりすると、バランスが崩れてしまう。自分はすごいと勘違いしたり、どうしようもなくダメな奴だと落ち込んだりしてしまう。どれだけ勝とうが負けようが、結局は、誰もが一人の人間にすぎず、結果はそのときだけのものだ。勝敗には必ず原因があり結果は原因に対する反応でしかない。センスや運、一夜漬けで勝利を手にしてきた人間は勝負弱い。
 これまでの人生で何度もミスを犯し、失敗、そのたびに深く考え抜いてきた。だから、流れに乗って勝利を重ねてきただけの人間とは姿勢や覚悟が違う。
 集中力とは、他人の目をいかに排斥し、自分自身とどれだけ向きあうかにおいて養えるものかもしれない。人の目を気にせず、自分と向きあう時間、深く考え思い悩む時間を大切にしてこそ、集中力は高まっていく。
 「世界最強の格闘ゲーマー」と呼ばれるほど頑張ってこれたのは、ゲームといえども、自分を高める努力を続けていれば、いつかゲームへの、そして自分自身への周囲の見方を変えることができる、評価させる日が来ると信じていたからだ。そうやって15歳、17歳、19歳のとき、ゲーム大会で3連覇を達成した。すごいですね、これって・・・。
でも、4回目は勝てなかったのでした。この4回目に勝てなかったのが良かったのです。頑張っても結果が出ないことがあることを初めて知った。がんばり方にも、良いがんばりと、悪いがんばりがあるのに気がついた。
 自分を痛めつけると、努力することとは全然ちがう。格闘ゲームは心理戦でもあるので、心から勝ちたいと願っているプレイヤーの行動は、読まれやすい。動きが慎重で、セオリーに頼りすぎる傾向がある。
新しいものを否定しないこと。そして、新しいものから素直に学ぶ姿勢を忘れないこと。
 1日15時間以上勉強して身につけた知識は、一時的には結果を残すかもしれない。だが、その知識が持続するとは限らない。限界をこえた努力で身につけた力は本当に一瞬で失われてしまう。努力が自分にとっての適量かどうかを考えるなら、その努力は10年は続けられるものなのかを自問自答してみることだ。
 まだ30歳ですが、さすがは世界チャンピオンの言葉です。じっくり、その重味を味わいました。
(2012年4月刊。740円+税)

続・悩む力

カテゴリー:人間

著者   姜 尚中 、 出版   集英社新書  
 『悩む力』は、最新の広告によると100万部も売れたそうです。すごいベストセラーになりました。どうぞ、10月4日(木)午後の佐賀市民会館での姜教授の話を聞きにきてください。「教育の原点をとりもどすために」という内容です。お願いします。
 3.11のあとの日本社会をともに考えようという呼びかけもなされています。
 人間はなぜ生きるのか。生きる意味はどこにあるのか。何が幸福なのか。この問いをギリギリまで問い続け、答えを見出そうとした先駆的な巨人がいる。夏目漱石とマックス・ウェーバーである。漱石やウェーバーが重要なのは、東西でほぼ同時代を生きた2人の巨人が既に100年以上も前に、慧眼にも「幸福の方程式」の限界について、ほかの誰よりも鋭く見抜いていたことにある。
 いまの私たちの日常世界を圧倒的に支配しているのは、幸福の弁神論である。つまり、自由競争のルールに従って優勝劣敗が生じることは当然であり、強者、適者が栄え、弱者、不適応者が滅びることには一定の正当性があるという考え方である。
 そのためか、自殺した人が亡くなるときには、「すみません」という言葉を残して生命を絶つことが多い・・・・・。
近代までは、自然や神といった、実態を反映していると考えられた秩序に慣習的に従っていれば、よくも悪くも人生をまっとうできていた。ところが、近代以降の人々は、自分は何ものなのかとか、自分は何のために生きているのか、といった自我にかかわることを、いちいち自分で考えて、意味づけしていかなければならなくなった。
 しかも、一人ひとりがブツブツと切り離されていて、つながりがなく、共通の理解もない状態なのだから、お互いに何を考えているのか分からない。そのため、それぞれ内面的には妄想肥大となり、対人的には疑心暗鬼となり、神経をすり減らしていくことになる。
 近代文明のなかで個人主義が進行し、人々の孤独が強まり、また自意識がどんどん肥大していくからこそ、逆説的に、宗教は昔よりも自覚的に、かつ熱烈に求められるようになった。
 ホモ・パティエンス(悩む人)である人間は生きている限り悩まずにはおれない。そのほうが人間性の位階において、より高い存在なのだ。
 『吾輩は猫である』のなかに次のような記述がある。気狂いも、孤立しているあいだは、どこまでも気狂いにされてしまう。しかし、団体になって、勢力が出てくると、健全な人間になってしまうかもしれない。大きな気ちがいが金力や威力を濫用して多くの小気ちがいを使って乱暴を働いて、人から立派な男だと言われ続けている例は少なくない。
 100万人のうつ病患者と、年間3万人をこえる自殺者がいて、10人に1人は仕事の状況で、しかもやがて訪れるという年金だけの生活におののきつつ、自分はどう生きていくかという、切羽詰まった自分探しをしている。
 そして、「ホンモノを探せ」と叫び、私たちをあおっているのは、ほかならぬ資本主義なのである。ホンモノ探し、自分らしくありたいという願いが、自分に忠実であろうとする近代的な自我の一つの「徳性」を示しているとしても、それが時には、ナルシズムや神経症的な病気をつくり出しかねないことにもっと注意を払うべきである。
漱石やウェーバーなどの生き方にあやかる意味でも、あの3.11の経験を、どうしても「二度生まれ」の機会にしなければならないと思う。ところが、マスコミの動向は、忘れることの得意な日本人たちは、早々と3.11を忘れ去ろうとしている。
 日本人は、世界のなかでことさら宗教心の乏しい国民というわけでもない。それは、鎌倉時代のころ、12ないし13世紀に登場した、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍といった人々が次々にあらわれ、宗教改革を起こしたことからも分かる。ただ、戦前そして戦中に、政治的エネルギーを一種の宗教のように進行した結果、手痛い敗北をきっしたトラウマはとても大きかった。そのため、政治と宗教については、色をもたないほうがよいという教訓が導かれた。そして、ひいては何事に対しても、無逸透明であることが習い性のようになってしまった。
過去をもっと大切にしよう。いまを大切に生きて、よい過去をつくることだ。幸福というのは、それに答え終わったときの結果にすぎない。幸福は人生の目的ではないし、目的として求めることもできない。よい未来を求めていくというよりも、よい過去を積み重ねていく気持ちで生きていくこと。
恐れる必要もなく、ひるむ必要もなく、ありのままの身の丈でよいということ。いよいよ人生が終焉する1秒前まで、よい人生に転じる可能性がある。何もつくり出さなくても、今そこにいるだけで、あなたは十分あなたらしい。だから、くたくたになるまで自分を探す必要なんてない。心が命じるままに淡々と積み重ねてやっていれば、あとで振り返ったときには、おのずと十分に幸福な人生が達成されているはずだ。
 漱石とウェーバーをこれほど深く読み込むとは、さすがに大学の先生は違いますね。正編が100万部売れたとして、続編のこの本も何万冊と売れるのでしょうね。それはともかくとして、10月4日午後は、ぜひ佐賀市民会館に足を運んでくださいね。私も姜教授のナマの話を楽しみにしています。
(2012年6月刊。740円+税)

なぜ男は女より多く産まれるのか

カテゴリー:人間

著者    吉村 仁 、 出版    ちくまプリマー新書 
 アメリカには、13年とか15年に一度、セミが大量発生する地域があります。どうして、そんなことが起きるのか?
 セミの幼虫は、木の根っこから葉っぱに水を運ぶ導管というパイプに口を突っ込み、本の根が吸い上げた水を分けてもらって、その吸い上げ量に比例して成長する。植物はある程度以下の気温になると休眠するので、冬に木の根が休んでいるあいだはセミも冬眠する。そして、春になって木が水を吸い上げ出すと、セミたちもその水分をもらう。温度が高くなると、それに比例して水分の吸い上げ量が増加する。セミの成長は、植物の水分を吸い上げ量に比例している。だから、気温が高くなると、セミの幼虫の成長がどんどん早くなり、アブラゼミなら成虫まで7年かかるのが、2年とか3年に短縮してしまう。
 氷河期になって気温がどんどん下がってしまった。成長できない冬が長く、短い夏もあまり暖かくないので、5年で成虫になっていたセミが10年たってもまだ成虫になれなくなった。
 そして、13年とか17年という素数周期は絶滅の出会いをうまく避けていた。このように、変動する環境への対応の本質は、「絶滅の回避」なのである。
モンシロチョウの雌はキャベツ畑で卵を生み付けると、近くにあるアブラナ科の野草にも卵を生みつける。なぜか?
 キャベツ畑は効率はよいが、モンシロチョウにとっては、殺虫剤散布の危険、そして人間が収穫して絶滅してしまうリスクがある。そこで。絶滅のリスクを分散させるため、野生のイヌガラシにも卵を生み付ける。
 なーるほど、モンシロチョウの絶滅回避作戦って、すごいですね。
人間の性比は、男子がわずかに多く、55対45の比になっている。これは日本だけでなく、多くの社会で共通の普遍的な現象である。そして、幼児に限らず、あらゆる年代で男子の死亡率は高く、寿命やがんの死亡率にも、その違いが反映されている。
オスがメスに比べて死にやすいということは、人間だけでなく、広く動物にみられる現象である。なぜなら、オスは種付けで役割が終わるが、メスは出産・子育てと長生きが必要だからである。
 つまり、男子の死亡率が高いときには、いくらか男子を余計に生むと、全員が女性となって絶滅してしまう可能性(確率)を最小にできる。
 人間がモンシロチョウほどは賢くないのではないかという指摘もあり、なるほど、そうかもしれないと思わされたことでした。面白い本です。
(2012年4月刊。780円+税)

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