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スリーパー・エージェント(潜伏工作員)

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 アン・ハーゲドーン 、 出版 作品社
 原爆開発を進めていったアメリカの「マンハッタン計画」の立役者だったオッペンハイマーを主人公とする映画をみました。広島・長崎の原爆投下後の惨状こそありませんでしたが、原爆の怖さは、それなりにあらわされていたと思います。
 原爆も原子力発電所も人間のカブ制御できないものですから、どちらも人類の生存のためには廃絶するしかありません。ところが、目先の利益しか考えない悪徳まみれの政治家・経済人がいかに多いことでしょう。そして、それに騙されて、疑問を感じない人々の多さには呆れてしまいます。
 この本は、オッペンハイマーによる「マンハッタン計画」にもぐり込んだソ連スパイの1人を主人公としています。スパイは、このほかにも何人もいました。
 映画「オッペンハイマー」をみた人は、1930年代のアメリカにはインテリのなかに共産党員とその支持者がゴロゴロしていたことが分かったと思います。オッペンハイマーの妻は、元共産党員でしたし、愛人も党員だったのです。
 この本の主人公、ジョージ・コヴァルはアメリカで生まれ育ったものの、1932年5月、一家をあげてソ連に移住して、ソ連の大学で学び、それからスパイとして1940年9月、アメリカに戻ってきて生活し、ついにマンハッタン計画に潜入することに成功したのでした。
 プーチン大統領は、コヴァルの死後に勲章を授与しています。原爆製造に使われるプルトニウム、濃縮ウラン、ポロニウムを生産するアメリカの極秘核施設に潜入し、ソ連に機密情報を送っていた功績をたたえたのです。その結果、スターリンはアメリカの核爆弾製造を知り、また、わずか4年で原爆開発を成功させることができました。
 コヴァルは、アメリカ生まれで高校までアメリカで育ちましたから、ロシア語なまりなどは全くありません。完璧なアメリカ英語を話したのです。大学をソ連で過ごしたことは、もちろん完全に秘匿し続けました。コヴァルはソ連に戻ったあと、ユダヤ人として不遇な時期もあったけれど、大学の教員として過ごし、2006年1月に自宅で死亡。
 ジョージ・コヴァルのスパイ活動を監督するハンドラーのラッセンは、ニューヨークのブロンクスで電気店を営んでいた。銀行員、旅行業者、科学者、大学教授などがスパイ網を構成していたが、ジョージ・コヴァルはハンドラーのラッセン以来の誰とも会っていない。これが鉄則だった。
 コヴァルは、マンハッタン計画のなかでは「数学者」として登録された。
 後で、アメリカ人349人がソ連のスパイとして特定された。これって、やはり多いですよね。スパイって、お金のためだけではないのです。共産主義思想を信じていた人も少なくありませんでした。
 アメリカで活動したソ連のスパイは、全員、アメリカ共産党とはまったく関わりをもたなかった。そして、その多くがユダヤ人だった。コヴァルもユダヤ人。
 コヴァルは1948年11月、ソ連・モスクワに無事に帰還した。
 ソ連の科学者は理論的にすぐれていても、原爆製造に必要な実際的知識に乏しかった。そこを埋めたのが、コヴァルたちがもたらした実際的な手法だった。
 いやあ、こんなスパイもいたのですね、まったく知りませんでした。科学上の知識と好奇心を生かして原爆製造の秘密を探ったわけです。たいした人物がいたものです。
(2024年1月刊2700円+税)
 日曜日(16日)、福岡の大学でフランス語検定試験(1級)を受けてきました。1995年から毎年欠かさず受験していますので、30回目になります。1級のペーパーテストなので、残念ながら合格したことは一度もありません(準1級には何度も合格しています)。しかも、年々、年齢をとるとともに成績は低下しています。前は5割(合格点は6割)を目ざしていましたが、今年は、「目ざせ、4割」でした。ところが自己採点ではなんと74点(150点満点)。5割です。いやー、やったー、と叫びました(もちろん、不合格ではあります)。年に2回のボケ防止の受験勉強です。今回も必死に勉強しました。

森の鹿と暮らした男

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 ジョフロワ・ドローム 、 出版 エクスナレッジ
 フランスの若い男性が、ルマンディー地方の森の中に入って、そこで生活して、鹿と仲良くなって7年間も暮らしていたという驚くべき話です。信じられません。
夜の森は退屈とは無縁だ。夜行性の動物はたくさんいて、サイズもさまざま。昼夜を問わず活動する動物もいる。たとえばリスは、日中は庭をちょろちょろしているが、夜は森を縦横無尽に駆けまわっている。
 森で過ごすようになって、人生はより濃密になり、喜びと発見に満ち、おだやかだった。
両親が私を縛りつけようとすればするほど親子の絆(きずな)はほころびていき、ついに切れた。私は森で暮らすことにした。
森の冒険は4月に始まった。できるだけ森で採れるものを食べ、完全には難しいとしても、菜食主義に近い食生活をしようと決めた。同じ森にすむ動物を狩って食べるなんてことは考えられなかった。
ある晴れた朝、道端で葉っぱを食べていると、1頭のノロジカが私の目の前を横切り、数歩先でとまった。この出来事がきっかけで、ノロジカと暮らし、彼らの生き方を学ぶことにした。正しいサバイバル法はノロジカのダゲを観察することで分かった。
ノロジカは昼夜を問わず、短いサイクルで休む。1回に1、2時間ほどの休憩を何度もとる。こまめに眠れば、夜にまとまった睡眠をとる必要がないことが分かった。
そして、森では、昼よりも夜のほうが生産性が高い。完全なる自給自足は一朝一夕で達成できるものではない。私の貯蔵法は、採取した植物を日中はメッシュ生地の袋に入れて日当たりのよい枝につるし、夜は湿気ないようにジップロックに入れるというもの。
イラクサ、ミント、オレガノ、オドリコソウ、セイヨウナツユキソウ、セイヨウノコギリソウ、シシウド・・・。食べられる植物と毒のある植物を正確に見分け、それぞれの栄養価を把握する、これには長い時間がかかった。量にも注意が必要。スイバはとてもおいしくて食べやすいが、大量に摂取すると、ひどい消化不良を起こす。小さな花をつけるアカバナの根は万能薬。
食料の蓄えがあり、大きなケガをせず、適当な体力があれば、1年ほどで栄養面の自活・自立は成し遂げられる。
シカと生活し、移動を共にするうえで、いちばん難しいのは、雑念を払うこと。
いたずら好きで、遊び心のあるノロジカたちに、私はすっかり魅了された。
森に善悪はない。しかし森は、常に私たちに自問することを強いてくる。
シカは習慣の生き物だ。だから、シカに会いたいと思ったときは、いつも現れる付近に腰をおろして待つのが賢い。
森で生活するとき、洗濯はしない。人間社会のにおいを森に持ち込みたくないからだ。
ノロジカは美食家だ。栄養価が高く質の良い食べ物を選んで食べている。
神経質そうに見えて、ノロジカはおだやかで、生きることを楽しむ生き物だ。
冬のもっとも寒い時期は発汗が命取りになるので、なるべく汗をかかないようにする。低体温症にならないように、体を濡らさない。体温を保つこと、十分に食べること。冬場のまとまった睡眠は死に直結する。
気温が最も高くなる午前中の終わりに少しだけ眠った。
ノロジカは人の感情を理解する。それだけではなく、その人の善悪、つまり動物の命を尊重する人と、危害を加えようとする人を見分けることができる。
著者は19歳のときに森に入って生活を始めました。そして、26歳のとき、パートナーに出会って写真展を開いたのです。39歳になった今も、森の近くの町に住んでいます。すごい本です。思わず力が入り、うんうん唸りながら読み進めました。
(2024年4月刊。1800円+税)

スピノザの診察室

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 夏川 草介 、 出版 水鈴社
 現職の医師による心温まる医療小説です。電車のなかで一気読みしてしまいましたが、読み終えたあと、胸のうちに爽やかな温かい風が吹き抜けていく気がしました。
 いったい「スピノザ」って何だろうと思っていると、医療行為をめぐる哲学問答が展開されるのです。それがまた、妙にしっくり来るのです。そこで、タイトルにも違和感がありません。
 主人公は京都の下町の小さな病院に勤める医師です。お酒は飲まず(飲めず?)、甘いものに目がありません。虎屋の羊かんをはじめ、京都の有名な甘い物が何度も登場してきます。ついでに伊勢の赤福とともに大宰府の梅ヶ枝餅まで紹介されるのは愛敬です。
 「お前さんが、教授や学長を目ざしているバリバリの野心家だとは思っていない。だけど、いい仕事はしたいと思っているはずだ。どうせやるなら、一流の仕事をな。野心はなくても矜持(きょうじ)はあるだろ?」
 私も弁護士として、「一流の仕事」をしようとは思っていませんが、誇りを持って仕事を続けたいとは常日頃から考えています。
 「薬をうまく使えば、最後の時間も楽に過ごせるという考えは、まだまだ幻想にすぎない」
 「この病院の患者の多くは病気は治すことがゴールではない。ガンの終末期や老衰の患者に寄り添うだけ。結局、死亡診断書を書くのがゴールになってしまう」
 「患者の顔が見えることは、共感するということ。共感するのは心にはなかなかの重労働。悲しみや苦しみに共感するには、十分な注意が必要。度が過ぎると、心の器にヒビが入ることがある。ヒビではなく、割れてしまったら、簡単には元に戻らない」
 「病気が治るのが幸福だと考えると、どうしても行き詰ってしまう。病気が治らなかったら不幸なままなのか・・・。治らない病気の人、余命が限られている人が幸せに日々を過ごすことはできないのか・・・」
 「世界には、どうにもならないことが山のようにあふれている。それでも、できることはあるんだ」
 「人は無力な存在だから、互いに手を取りあわないと、たちまち無慈悲な世界に飲み込まれてしまう。手を取りあっても、世界を変えられるわけではないけれど、少しだけ景色は変わる」
 医師でなければとても描けない「手術」の様子が詳細に書き込まれていて、ぐぐっと手術室の世界に引きずり込まれてしまいます。そのうえ、深遠な問答が展開されるのですから「本屋大賞第4位」にも、なるほどと思ったことでした。
(2024年5月刊。1700円+税)

のむら美術館・収蔵品集

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 のむら美術館 、 出版 左同
 のむら美術館があるのは、山口市。県庁の北側には、香山公園、そして有名な瑠璃光寺五重塔、さらに臨済宗洞春寺がありますが、この洞春寺の境内に美術館があります。
この洞春寺は、毛利家の菩提寺(ぼだいじ)でもある。
 山口市内で酒造業を営んでいた野村益治が私財を投じて古美術品を収集していた書・画・茶道具などが展示されている。幕末から維新にかけて活躍していた桂小五郎(のちの木戸孝允)、三条実美(さねとみ)、伊藤博文、山縣有朋、などの書・書簡文、また雪舟、伊藤若沖、円山応瑞、などの絵、さらには足利時代の芦屋釜、抹茶・煎茶の茶道具なども展示されている。
 この収蔵品集をめくっていくと、これらの傑作に紙上で対面できます。すごいものです。雪舟の鍾馗(しょうき)さんはさすがの迫力です。
 そして、伊藤若沖の鶏国は、今にも動き出さんばかりの躍動感があふれています。
 頼(らい)山陽の「墨作」も見事なものです。
 伊藤博文も山縣有朋もしっかりした書跡の「書」があります。こんなときに本名は書きませんから、分かる人ぞ分かるという書になっています。
そして、香炉もすごいのです。鍋島青磁などは何回みてもほれぼれさせられます。ともかく、色あいがいいのです。
 芦屋釜なども、色も形も実にさまざまです。
現在の代表理事は横浜で活動している野村和造弁護士。常時開館ではないので、予約が必要。ぜひ行ってみたいと思います。
 代表理事の野村弁護士は大学も弁護修習も私と同期でした。大学時代には学生セツルメント活動をしていたことも共通しています。
 貴重な文芸品等を維持するのは大変なことだと推察します。
(2018年4月刊。非売品)

密航のち洗濯

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 宋恵媛・望月優太 、 出版 柏書房
 戦後(1946年)、尹紫遠は朝鮮から日本へ密航し、東京(中目黒当たり)で洗濯屋「徳永ランドリー」を営んだ。日本人の妻と結婚して子ども3人をもうけた。そして自伝的要素の色濃い作品を書き続けた。文筆では食べられないので、洗濯屋をした。
 1964年9月、53歳で無名のまま亡くなった。ところが、2022年になって、生前に書き続けていた日記が出版され、にわかに脚光を浴びた。
 植民地期に日本にやってきた在日朝鮮人一世が日本語で書いた日記はきわめて珍しく貴重なものとして注目された。
 この本は、2人の子どもの協力も得て、日記に登場してくる場所をたどったりして、当時の社会状況を明らかにしています。
 1946年の来日は、韓国の蔚山(うるさん)からの密航。沿岸警備隊に発見されないよう深夜に出港。小さな船に30数人の朝鮮人が乗っていた。このとき、洋上を飛びまわって監視している飛行機はアメリカではなく、イギリス連邦占領軍。つまり、イギリスやオーストラリア、ニュージーランドなど。
このころ、日本人が海外から大量に帰国していた。そのなかで、コレラが発生した。検疫のため、14日間上陸地にとどめおかれ、何事もなければ日本人は上陸を許され、朝鮮人は強制送還される。
 尹紫達は東京で生まれ育ったが、徴用を恐れて朝鮮に渡ったのだった。
 佐世保におけるコレラ患者の死亡率は日本人26.8%、朝鮮人32.6%。
 佐世保での死亡者27人のうち半数の死因はコレラで、残りの半数も栄養失調や急性大腸炎。幼い子どもたちの栄養失調死が目立つ。
 尹紫遠は、東京に戻ってから1年あまり、夕刊紙「国際タイムス」の準社員として働き、月給をもらった。
 日本人の妻・登志子と結婚したあと洗濯屋を開業した。妻の登志子は満州に渡っていたが、戦後、なんとか日本に帰国できた。裕福な家庭の令嬢として育ってきたが、朝鮮人と結婚するということで、実家とは断絶の関係となった。そして、尹紫遠と結婚したことから、登志子もまた朝鮮人とみなされた。
子どもは、両親の夫婦げんかが聞くに耐えなかったという。父親は「日本人の女が・・・」と言い、母親は「朝鮮人は・・・」と言って、ののしりあうのが嫌でたまらなかった。
「やっぱりブルジョアジー崩れの女はダメだ。おれの敵だ」と日記に書いたのでした。
息子は、日本の会社には入れないと分かっていたので、外資系の企業に入った。
このあと、逆転劇がありました。尹紫遠は「金さん」と結婚していて、そのままになっていたので、登志子の結婚は「重婚」ということになり、認められない。すると、登志子は初めから今までずっと「日本人」戸籍のままだったということになる。そこで、登志子たちは日本人であることが改めて確認されたのでした。
「日記」に書かれていることの大半は、お金の心配と妻登志子の悪口。拍子抜けしてしまうとのこと。
戦後日本における在日朝鮮人の生活状況を知ることができました。
(2023年3月刊。1800円+税)

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