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ナチ親衛隊(SS)

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 バスティアン・ハイン 、 出版 中公新書
 最近、たて続けにナチスに関わる映画を2つみました。「関心領域」は、この本にも登場するアウシュヴィッツ収容所のヘス所長の一家を淡々と描いています。この新書によると、ヘスは、回想録のなかで、自分のことを「意思のない、常に礼儀正しい、命令に従うだけの者」としているが、実際には、強制収容所の司令官として無制限の権力を振るい、収容者の生死を左右し、親衛隊であげた「業績」(いかに効率よくユダヤ人を大量殺害したか)を誇りにしていた。
 映画では、壁の向こうで大量虐殺が進行しているのに、ヘス一家はプールもある豪勢な家で安穏と過ごしていたのです。ユダヤ人犠牲者から奪った宝石や衣服など身を飾りながら…、です。いかにもおぞましい生活なのですが、壁の向こうで進行中の人道に反する大量虐殺の事実は、見ようとしなければ、まったく見えてこないわけです。
 もう一つの映画は「ワン・ライフ」です。こちらは、ナチス・ドイツの侵攻直前のチェコから子どもたちをイギリスに連れ出して救出したという実話を映画にしたものです。一人の証券マンが、事実を知ってやむにやまれぬ思いで現場に行って、600人以上の子どもたちの救出に成功したのです。現在進行形のガザの現実を重ねあわせて、涙の止まらない思いでした。
 ヒムラーが最終的に第三帝国のナンバー2になった(なれた)のは、競争相手から繰り返し過小評価されていたこと、外見がぱっとせず、人目を引くことがなかったこと、そして、常にヒトラーに対してへりくだった態度をとっていたから。なーるほど、そういうこともあるのですね。
 ヒトラーは、「アーリア人」の厳密な定義づけをむしろ避けた。「アーリア人」とは、「ユダヤ人」とは正反対の存在だと定義するだけだった。人間は、そんなに簡単に定義づけられるものではないということです。
 親衛隊の隊員は優秀な人種から選抜されるということだったが、ナチスの医師の多くは「人種検査」を行う能力も動機も欠いていた。「人種検査」は客観的と称していたが、実際は恣意的なものだった。
親衛隊は「エリート集団」のはずだったが、実際にはそうではなかった。隊員の出身の多様性は特徴的だった。
 ヒトラーの無二の友人だったエーミール・モリスは、曾祖父がユダヤ人だったが、「名誉アーリア人」として親衛隊に迎え入れられた。
親衛隊員は、自分たちの残忍性を隠すべきこととは思っていなかった。
国防軍の将校になるために必要だったアビトゥーア(大学進学資格試験)は親衛隊の将校には不要だった。
武装親衛隊の「英雄行為」は、軍事上で見込みのない戦争を長引かせた、だけだった。
 ユダヤ人大量殺害に手を染めた親衛隊は、心を病んでいった。彼らの目は、海底に横たわって死んでいるタイの目に生き写しだ。彼らの人生は終わった。これで育成される部下は、神経病者か荒くれ者だ。
 戦争を生きのびた親衛隊は武装隊員で60万人、一般隊員でも15万人もいた。
 1963年から1965年まで続いたアウシュヴィッツ裁判では、刑は軽かったが、アウシュヴィッツ収容所の実態を広く世界に知らせたという点で大きな意義があった。そうなんですね、広く知られてはいなかったわけです。まあ、想像を絶する残酷な世界だったわけですから…。
 ナチ親衛隊(SS)の実像を手軽に読んで知ることのできる新書です。戦争が起きると、こんなひどいことがまかり通るのですね…。日本も、自民・公明政権がどんどん戦争準備をすすめていて、かえって戦争を招こうとしているのですが、本当に心配です。軍備増強より教育・福祉を充実させましょう。
(2024年4月刊。1100円)

回想録

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 山本 康幸 、 出版 弘文堂
 内閣法制局長官から最高裁判事になった著者が自分の人生を振り返っています。
 著者は団塊世代の生まれで、私より1学年だけ下になります。東大入試が中止になったので、京都大学に入ったという経歴です。息子は無事に東大法学部を卒業して、東京で大企業を扱うビジネスローヤーとして活躍中のようです。
 著者の父親は銀行員だったので、転勤族とのこと。新しい学校に行くと、「おまえのしゃべるのはラジオの言葉だ、生意気だ」と、猛烈ないじめにあったそうです。神戸から敦賀に小学2年生のときに転校したときです。いじめのため待ち伏せされたりしたそうです。それで、通学路を毎日変えたり、相手の裏をかいて校舎にかけ込んだり…。あらゆる手練手管で必死に対抗。おかげで、不条理なものへの反発心、状況を読む力、作戦の構想力、忍耐力と交渉力を人並み以上に身につけた。
 なーるほど、災いを転じて福としたのですね、立派です。
 そして、こんな田舎での生活ではなくて、東京へ出て、もっと大きな世界で羽ばたこうと決意したのでした。
 私も、いじめは受けていませんが、ぜひ東京に出てやろうと考えていました。東京に行ったら、大きく世界が広がるはずだと考えたのです。そして、それは、たしかにそうでした。
 著者は幼年期に小児結核にかかったこともあって、外での運動ではなく、家にいて本を読む習慣が身についたとのこと。
 私も小学生以来、ともかく本を読んできました。図書館には、よく行きました。
 中学生のとき、印象深いのは、山岡壮八の『徳川家康』です。これは、本当に読みふけりました。高校生のときは、図書館で、古典文学体系、つまり古文の原書に体あたりしました。もちろん、注釈に頼っての読書です。それでも、原典にあたっていると、試験問題で断片が切り取られての設問でも、断然有利でした。中学3年生のとき、著者は名古屋市内で1クラス55人で、17クラスあったそうです。私は1クラス50人以上で13クラスあったと思います。1年生のときは増設されたプレハブ教室でした。
 著者は名古屋の名門高校(県立旭丘高校)に入学して、中学生のときの丸暗記勉強法が通用しないことを自覚したとのこと。私は丸暗記勉強法というのは、やったことがありません。
 高校では、数学、物理、化学が不得意だったそうです。私は、物理も化学も好きでしたが、数学が出来ませんでした。いちおう数Ⅲまでは勉強して分かったのですが、座標軸をつかったり、図形問題になると、思考できなくなるのです。「大学への数学」という雑誌も少しかじってみたのですが、私には数学的才能はないと自覚して、高校2年生の終わる春休みに理系志望を文系志望に変えました。そして長兄にならって東大文Ⅰ一本槍です。塾も予備校も行かず、Z会の通信添削だけでがんばりました。
 著者は官僚の世界に入って、たちまち頭角をあらわします。私も官僚志向でしたが、官僚にならなくて本当に良かったと今では思っています。
 この本には、著者の先輩の官僚が週に3時間しかとれなかったという話が紹介されています。私には絶対無理ですし、そんなことはしたくありません。私の同期の弁護士(五大事務所のパートナー弁護士になりました)も、同じような状況を経験したそうですが、これまた私は、ご免こうむります。
 ただ、著者は、おかげで文章を書くのが早くなったし、仕事を片付けるコツを身につけたそうです。それは私と同じです。
 いろいろ参考になることも多い本でした(子育てはマネできませんでしたが…)。
(2024年2月刊。3400円+税)
 このコーナーで紹介した岩泉ヨーグルトを天神の「みちのくプラザ」で見つけて買ってきました。普通のヨーグルトと違って、まったく水っぽくありません。プリンほどではありませんが、ヨーグルトの固まりになっていて、食べると、コクがあって舌ざわりも滑らかです。
 庭になっているブルーベリーと一緒に美味しくいただきました。腸内細菌を活性化させ、腸の調子が良くなった気がしました。

森を失ったオランウータン

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 柏倉 陽介 、 出版 A&Fブックス
 ボルネオ島には、孤児となったオランウータンを保護し、育てあげて10年たったら森に戻すという施設があります。人間と同じ大型哺乳類なので、オランウータンを森の中の大自然に戻すには10年もかかるというのです。
 なんで、ボルネオから森がなくなったのか…。それは人間の都合。アフリカ原産のアブラヤシをボルネオで大々的に栽培するようになった。このアブラヤシからとれるパーム油はお金になるから。森は大々的に伐採され、なくなっていった。
 オランウータンは生まれつきの木登りの天才というのではなく、木登りをまず学ぶ必要がある。1~3歳は、木登り。そして、3~6歳は森林の中で生きていくことを学ぶ。
 ボルネオの熱帯林の焼失が急速に進んだため、野生のオランウータンは80%も減ってしまった。
 1964年に開設されたボルネオ島にあるリハビリセンターでは、これまで750頭以上のオランウータンが保護された。
リハビリセンターで、また森の中で遊んでいる自然な様子のオランウータンの顔を見ていると、オランウータンの保護というのは、それは人類の生存環境の保全にもつながっていると感じさせられます。アマゾンやボルネオの熱帯雨林を次に「開発」と称して消滅させていったら、次は人間の居住する環境も悪化していくことにきっとつながると思います。
 ところで、こんなに大々的に森林を植樹されてつくられるパーム油って、いったい何に使われているのでしょうか…。世界の生産量の85%を占めるのは、ボルネオ島を保有するマレーシアとインドネシア。
 ともかく、熱帯林をこれ以上減らすのは、ぜひ止めてほしいです。
(2024年3月刊。1980円)

島原城まるわかりブック

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 吉岡 慈文(監修) 、 出版 長崎文献社
 島原城下には武家屋敷の並ぶ通りがあります。道の真ん中に清らかな水の流れる水路が走っています。落ち着いて散策できるので、おすすめです。知覧(ちらん)や角館(かくのだて)ほどの規模ではありませんが…。
 島原城の近くには、有名な戦国時代の合戦場があります。「沖田畷(おきたなわて)の合戦」があったところです。天正12(1584)年、佐賀の戦国大名・龍造寺隆信が大軍を率いて島原半島に攻め込んできました。迎え撃つ有馬晴信は鹿児島の島津氏に援軍を頼みます。このとき、島津軍の策略にはまって、大将の龍造寺隆信が首を討たれ、佐賀の軍勢は惨敗を喫したのでした。島津勢の強さは待ち伏せ戦法にもあります。
そして、島原城を築いた松倉重政はキリシタンを厳しく取り締まり、過重な年貢徴収をすすめ、島原・天草一揆の原因をつくり出しました。
 ただ、この重政は、ルソン島(フィリピン)に使節を派遣していたそうです。そして、その子の松倉勝家の治世下に大一揆が始まるのでした。
 原城跡には2度か3度、私は行ってみましたが、ここに3万人からの百姓たちが一家一村あげて生活していて、ほとんど皆殺しの憂き目にあったかと思うと、感慨深いものがあります。それはキリスト教信仰だけの問題ではなく、生存そのものが脅かされていたから大一揆は起きたと私は考えています。
大一揆の原因をつくった勝家は、切腹させられたのではなく、責任をとらされ、大名として異例の斬首の刑に処されました。
 島原は、平成になってからも噴火し、大規模な火砕流が起きて大災害となりましたが、寛政4(1792)年にも「島原大変、肥後迷惑」と今でも語り伝える大災害が起きました。死者1万人とも言われています。
 島原城下をゆっくり散策し、そのあと温泉に浸るというコースは、おすすめです。
(2024年3月刊。1200円+税)

あしたのお嬢

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 山田 一喜 、 出版 講談社
 「あしたのジョー」が「週刊少年マガジン」で連載が始まったのは1968年1月1日号から。私は大学1年生でした。駒場寮の6人部屋で毎日、楽しく忙しく暮らしていました。東大闘争が始まったのは6月からです(本郷の医学部では既に1月からもめていましたが、駒場はいたって平穏でした)。
 「あしたのジョー」は寮生に大人気で、みんなで争って読み回していました。貧乏学生だった私は「少年マガジン」を買った覚えはありません。寮にいたら、いずれまわってくるからです。週刊マンガの発売日には誰かが買ってきて、読み終わったのが回ってきます。じっと待っていればよいのです。
 このころ、日本は高度経済成長期の真っ只中にあった。こう書かれていますが、私自身はその恩恵を受けたという実感はありません。ただ、世の中が不景気で、どうしようもないという実感はありませんでした。今もある霞が関ビルが竣工したのも1968年だそうです。弁護士になってからは入ってみましたが、学生のころは霞ヶ関なんて、ベトナム反戦デモのとき以外、近寄ったこともありません。
「あしたのジョー」は、ともかくカッコ良かったです。作者のちばてつやはそれ以来のファンです。丸味のある登場人物は、なんだかほのぼのとしていて、いい雰囲気です。というか、丸顔の作者の顔にそっくりですよね…。
 発刊から55年たったと言われると、ええっ、そ、そうなんか…と、ついうろたえてしまいます。
 でも、私も弁護士生活を丸50年もやっているのですから、それもそのはずです。
 この本は、「あしたのジョー」が活動していた舞台を、マンガ原作に出てくる脇役たちと訪ね歩くという趣向です。「お嬢」とは、父親から「あしたのジョー」全巻を読むように言われて読破したという陽菜(ひな)です。
 「あしたのジョー」は累計発行部数が2500万部といいます。とんでもない部数です。
 「あしたのジョー」で、ジョーと死闘を重ねた力石(りきいし)徹が誌上で亡くなったあと、実際に告別式があったというのも驚きですよね。1970年3月24日、講談社の講堂には護国寺のお坊さんに来てもらって読経まであげてもらったのでした。参加したファンは、なんと700人。
 いやはや、とんだ告別式です。まあ、私は参加していませんが、参加した人の気持ちはなんとなく分かります。決して馬鹿な奴らだ、なんて思いません。
 コミックスで全20巻だそうです。読んで、学生時代の雰囲気にしばし浸ってみたいかな…と思いました。
(2023年12月刊。1980円)

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