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三井大坂両替店

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 萬代 悠 、 出版 中公新書
 私の住む街は明治時代から三井の「城下町」として歩んできました。まさしく三井が君臨していたのです。反対派は三井が飼い慣らしていた暴力団に脅されることもありました。
 三井系企業が集まる会合によって市政の方向が決まり、市議会にも三井を代表する人物が送り込まれていました。
 この本は三井銀行の前身、三井大坂(江戸時代は大阪とは言いません)両替店(「りょうがえだな」と読みます)の内情を当時の資料をもとに詳しく明らかにしています。
 この三井大坂両替店の当初の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして成長する。
 大坂町奉行所が受理した訴訟(民事訴訟)は、18世紀前半に1万件だったが、18世紀末に2万件に達した。刑事事件で奉行所から入牢を命じられた者は18世紀末には年間400~500人いた。
三井は呉服業と両替業を主力事業とし、1730年代前半には、京都・江戸・大坂における呉服店の奉公人は合計473人、両替店には51人いた。
 鴻池屋と加島屋は大名相手に金貸し業をしていて、民間を相手にしなかった。これに対して、三井大坂両替店は家法で大名への直接融資が原則として禁止されていたこともあり、民間を相手とし、小口取引もおこなっていた。商人の運転賃金需要に対応するもので、業態としては商業金融。
三井は預かった幕府公金を融資に回して莫大な利益を得た。これは送金業務の完遂を条件として黙認されたもので、幕府公金を期日までに江戸に送金することが最優先だった。
 大坂から江戸へは為替(かわせ)手形で送金した。現金を輸送することはなかった。18世紀中頃にこの方法が広く普及した。現金輸送は盗難の危険をともなったからである。
 為替手形の売買には、為替本替を間にはさんだ。ここが大坂商人の信用調査をした。
 万一、不渡りとなったとき、大坂町奉行所は一般的な給付訴訟よりも20日も早く、発行者(売却者)に返済命令を下した。今日と同じように手形訴訟の特例があったというわけです。
 集団生活に不適格な奉公人には退職を促し、長く勤務した適格者には高給で報いる昇給制度を三井はとっていた。つまり、奉公人を定着させたいが、不適格な奉公人は淘汰し、重役になるような勤勉な奉公人は残したいというのが、三井の人材育成方針だった。
三井大坂両替店には顧客の信用度を調査する「聴合(ききあわせ)」業務があった。
 これを原則として20代の若手の手代だった。その結果の信用調査書を「聴合(ききあわせ)帳」という。若手の手代が役づき手代に顧客の信用情報を報告する形態がとられていた。
 耐火性の高い土蔵は大きな価値があるとみられており、土蔵の有無と、その状態に気を配っている。顧客の人柄については、「実体(じってい)」が重視された。真面目で正直なこと、つまり誠実な人柄であることがもっとも望ましい。素行が悪いと判定されたりして借入を断られた顧客は、他の金利の高い金貸し業者に借入を希望し、そこでもダメなときには、場末の高利貸ししか借りるところはなかった。
 ただし、そもそも信用調査の対象外とされた人々もいた。三井の関連の人々や豪商や豪農たちだ。
 しかし、経営を拡大するためには、「見ず知らず」の顧客とも契約する必要があり、そのときには信用調査は欠かせない。
三井銀行が日本最初の私立銀行として開業したのは明治9(1876)年のこと。
 すごいことですよね、町人の信用調査の結果を書いた書面が残っているというのは…。
(2024年3月刊。1100円)
 先日受験したフランス語検定試験(1級)の結果を知らせるハガキが届きました。もちろん不合格でしたが、問題は点数です。64点でした。150点満点ですから、4割になります。
 「目指せ4割」と言っていましたので、それは突破しましたが、実は自己採点は74点だったのです。なんという「自己甘」でしょうか、トホホ…です。これは作文とか日本文で答えるところの主観と客観の違いです。
 まあ、それでもボケ防止のつもりで、引き続きがんばります。

日ソ戦争

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 麻田 雅文 、 出版 中公新書
 ソ連が日本敗戦の直前に突如として満州に侵攻してきたことを卑怯だという日本人が今なお少なくありません。でも、それはアメリカが願っていたことであり、アメリカはソ連の日本侵攻のために莫大な物資(トラックや兵器、ガソリンなど)を無償で提供していたのです。ソ連のスターリンは何度もアメリカの軍需援助を求め、アメリカはそれに応じていました。なぜか…。アメリカ兵の死傷者を少しでも減らしたかったからです。アメリカ軍は日本本土に侵攻したら、100万人のアメリカ兵が死傷すると予測していました。実際には、「捨て石」にされた沖縄の犠牲の下、本土決戦はなかったので、「100万人」どころか本土では死者が「ゼロ」だったわけです。(「ゼロ」というのは、本土決戦によるものとしては、というだけです)。
 この本を読んで驚いたのは、スターリンは、日本が無条件降伏しても、すぐにドイツのように軍事強国として日本はよみがえるだろうと予測していたというところです。一般のソ連国民にとって、ナチス・ドイツからは大勢の近親者を殺されたことから発奮したが、4年も中立を守った日本が相手では切迫感がなく、日ソ戦争はソ連国民が奮り立つ戦争ではなかった。ソ連国民は厭戦(えんせん)気分にあった。そこで、スターリンはソ連国民の士気を鼓舞するため日露戦争で敗れた復讐に見せるよう演出した。
スターリンは日本の復讐を恐れて4つの手を打った。第1は、日本の民主化の推進、第2は対日同盟網の構築、第3に南樺太(カラフト)と千島列島の併合、第4に元日本兵のシベリア抑留。
スターリンは北海道を占領しようとしたのをアメリカに阻止されたことからシベリア抑留を始めたという説がありますが、それはないと私は考えています。ソ連は独ソ戦で2700万人もの国民を失って、労働力が不足していたのです。荒れ果てた国土の復興にドイツ兵捕虜を使いはじめ、それに味をしめて日本兵も使いはじめたというのが、もっともありうるところだと私は思います。
 ただ、そのとき、ポーランドの将校3万人をスターリンのソ連軍が虐殺した「カチンの森事件」のように、元日本兵の将校たちも抹殺される危険があったのです。スターリンがその気にならなかったのは幸いでした。まあ、それほど、復興のニーズが差し迫っていたのでしょう。
 スターリンは満州にあった工場の機械やあらゆる機材をソ連領に運び去りました。そして、この本では、武器は中国共産党に渡したとされていますが、実はスターリンは中国共産党を信用しておらず、むしろ蔣介石の国民党を信頼して、武器もこちらに渡そうとしていたのです。ところが、腐敗した国民党軍がやる気もなくモタモタしているうちに、ハツラツとした中国共産党軍(「八路」、パーロ)が先に「満州」を占領してしまったことから、日本軍の武器の大半は八路軍(パーロ)に渡ったということです。
 大変興味深い内容で一杯の新書でした。
(2024年5月刊。980円+税)

生き物の「居場所」はどう決まるか

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 大崎 直太 、 出版 中公新書
 ニッチ(居場所)をめぐる新書です。ニッチとは、天敵からの被害を最小限に抑えることのできる「天敵不在空間」。
モンシロチョウ属の最大の天敵は、アオムシサムライコマユバチという寄生バチ。モンシロチョウ属の幼虫の体内に産卵し、孵化(ふか)したハチの幼虫はチョウの幼虫の体内で寄生生活を送る。ハチの幼虫が十分に育つと、チョウの幼虫の体内から脱出して蛹(さなぎ)になり、残されたチョウの幼虫は死んでしまう。
 この天敵から逃れるため、3種のチョウは異なる天敵回避法を獲得している。モンシロチョウは新たに栽培されるキャベツを求めて移動し、コマユバチのいない世界に「逃げる」。ヤマトスジグロシロチョウは、ハタザオ属という他の植物の下草として覆われるように生える植物を利用してコマユバチから「隠れる」生活をしている。スジグロシロチョウは幼虫の体内でコマユバチの卵を殺してしまうという「攻める」生活をしている。
 モンシロチョウ属のチョウは、カラシ油配糖体を含む、一度も経験したことのない新奇な植物に出会うと常に産卵する。そして、チョウは産卵できる植物の葉の形を学習して記憶し、離れた場所から視覚的に産卵植物を探し出す。
 北海道の北半分にはエゾスジグロシロチョウ(エゾ)が棲んでいて、本州にはヤマト(ヤマト)スジグロシロチョウが棲んでいる。
 学者ってすごいね、偉いなと思うのは、このエゾとヤマトのとてもよく似た卵と幼虫を見ただけで識別するのです。もちろん、それには年月がかかります。
 ヤマトの幼虫の体色は緑色っぽくて、エゾの幼虫のそれは青っぽい。この体色の違いを識別できるようになるまで、2年間を要した。すごいことですよね、2年間もじっと見つめて観察していたのですから…。
 さらに、蛹の重さはキレハ(黄色い花の帰化植物)で育てると平均184mg、コンロンで育てると132mgだった。つまり、キレハで育てたときのほうが重く大きな蛹になった。
 すごいですね、体色で見分けるだけでなく、体重が184mgなのか、132mgなのか、計測までするということです。これって「ミリグラム」の世界ですからね、本当に根気のいる、大変な仕事だと思います。しかも、実験や観察で得られたデータを数式をつくって予測し、分析するのです。私のような凡人にはとてもまね出来ません。
 前半は、私としては少し難しすぎでしたが、後半に具体的なチョウの知られざる生活のところは大変興味深く読み通しました。
 私は、アサギマダラ(チョウ)が来てくれることを願って、フジバカマを大切に育てています。今では、フジバカマは20株ほど植えてアサギマダラを待ちかまえているのですが、まだまだ、やってきてくれません。それこそ、今年の秋には、ぜひ来てほしいと願っているのですが…。
(2024年1月刊。1050円+税)

大邱の敵産家屋

カテゴリー:韓国

(霧山昴)
著者 松井 理恵 、 出版 共和国
 詩人の森崎和江が生まれたことでも知られる韓国第3の拠点都市・大邱(テグ)の歴史を追いかけた本です。
 森崎和江は、1927年、日本による植民地支配下の朝鮮慶尚北道大邱府三笠町に生まれた。日本人町だった三笠町は、今では三徳洞と地名を変えている。
朝鮮戦争が始まったあと、人民軍(北朝鮮軍)に大邱は占領されなかったので、全国から多くの避難民が集まってきた。
 植民地時代に都市計画にもとづいて開発された日本人の居住地は、交通機関や公共施設から近くて利便性が高く、古くからある市街地に比べて安全かつ衛生的だったので、高級住宅街とされていた。
 日本の宅地開発では、道路に沿って住宅が建てられ、その玄関も道路との関係によって位置が決まる。これに対して、伝統的な韓国の住宅は南からの出入りをもっとも重視する。
 日本敗戦後、日本式家屋は「敵産家屋」と呼ばれた。
 大邱は今日では保守的な都市というイメージが非常に強い。しかし、軍事クーデターによって朴正煕(パクチョンヒ)が政権を握るまでの大邱は「朝鮮のモスクワ」と呼ばれるほど革新勢力が強い都市だった。ところが、大邱出身の朴正煕は、自らの地盤を固めるため、この地域の左派勢力を残忍かつ執拗に弾圧して、反共と地域縁故主義の二本柱とする保守的な都市につくり変えた。
日本敗戦前の大邱には最大3万人の日本人が居住していて、人口割合としても3割ほどを占めた。そして日本敗戦後、大邱には、町工場の並ぶ工業都市となった。
 そして、今やタワーマンション(49階建)6棟、800世帯が生活する地域となっている。すっかり変わってしまったようですね。町工場時代の助けあいの状況が詳しく紹介されているところに大変興味をもちました。東京の太田区の町工場街も同じようなものだったと聞いたことがあります。今はどうなのでしょうか…。
(2024年3月刊。2700円+税)

彰義隊、敗れて末のたいこもち

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 目時 美穂 、 出版 文学通信
 明治に松廼家(まつのや)露八(ろはち)という有名な幇間(ほうかん。たいこもち)がいました。その数奇な人生を明らかにした本です。
 松廼家は本名を土肥(どひ)庄次郎頼富といい、一橋家の家臣だった。家格もお目見(めみえ)以上という、れっきとした武士。ところが、若いころに放蕩(ほうとう)がたたって、廃嫡(はいちゃく)された。それで幇間になって暮らしていたが、36歳のとき徳川政府が瓦解したあと、彰義隊に加わって官軍(新政府軍)と戦った。彰義隊が敗走したとき、なんとか生きのびて再び幇間に戻った。
 吉川英治が小説として「松のや露八」を書いた。また、芝居にもなった。
 幇間は、たいこもち、たぬき、男芸者と呼ばれる。遊廓(ゆうかく)に来た客をすこぶる楽しく遊ばせるのを仕事とする。一見すると気楽そうだが、知れば知るほど大変な商売。
 客は遠慮も容赦もない。ただの道楽者につとまるような生半可なものではない。
 吉原に客としてやって来る男たちは、吉原の女たちが貧困のため、家族がした借金のため客をとらされている悲惨な境遇であることを知っている。知ってはいるけれど、それを真剣に考え、心底から女たちを哀れと思ってほったら、もはや吉原を美しい夢の国として享受することが出来なくなる。そこで、夢を維持するため、夢の国の女たちは、世間の貧しさも苦労も知らない、およそ巷(ちまた)の労苦からかけ離れた存在としていた。そして、遊女たちに同情するより、世間知らずを笑いものにする。
 彰義隊に対して、江戸の庶民は江戸っ子の思いを背負って死に花を咲かせようとしている武士たちだと受けとめて、熱烈に肩入れした。それで、彰義隊が無惨に敗走したあとも、江戸の町民はひそかに彰義隊の志士たちを大切に扱っていたようです。
彰義隊は戦闘が始まってから4時間ほど、午前10時ころまでは優勢だった。しかし、政府軍が新式のアームストロング砲を活用するようになってからは敗色が濃くなり、午後2時に彰義隊の敗走が始まった。
 松廼家はなんとか生きのびて、明治4年ころから再び幇間を始めた。
吉原につとめる女性は30歳を過ぎて遊女のままという人はまずいなかった。年季の明けた元遊女が、幇間や芸人など、廓内で働く男と結ばれるのはよくあることだった。
 幇間芸は、お座敷で、客の気分に従って即興で演じられるもの。あらかじめ小道具を準備しておくようなことはしない。その場にあるもの、手拭いと扇子、せいせいお膳に並べられた皿や徳利を使って、当意即妙の芸をしなければならなかった。
 露八は相当の苦労もして愛想もふりまいて復帰した吉原に受け入れてもらった。そして、なかなか受け入れてはもらえなかった老幇間の露八は、ついには、名物幇間として明治の世に通用した。明治36(1903)年11月、露八は71歳で死亡した。まさしく数奇な人生ですね…。
(2024年2月刊。2500円+税)

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