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高倉健の図書係

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 谷 充代 、 出版 角川新書
 高倉健は無数の読書家だったことを初めて知りました。
 山本周五郎。「周五郎さんの言葉に励まされ、勇気をもらっていた」
時代小説を中心に、人生をひたむきに生きる人間の哀歓を描き出した山本周五郎は、高倉健がひときわ好きな作家だった。真田広之にも、「この本を読め」と言って渡している。
 三浦綾子。「いろいろな人間が出てきて、あえぎながらも乗り越えていく」
 「時間があったら本(活字)を読め。活字を読まないと顔が成長しない。顔を見れば、そいつが活字を読んでいるかどうか分かる」(内田吐夢監督)
 読書家の高倉健から、著者は「図書係」の役目をまかされた。1980年代後半のころ。
高倉健は、慎重に出演作品を選ぶことで有名だった。
 高倉健は、小学校に上がってすぐ肺浸潤に冒され、兄妹から離されて親戚のおじさんの家で闘病生活を過ごした。母親は毎日、ウナギを買ってきて、黒焼きにして食べさせ、肝まで飲ませた。そのおかげで健康を回復したものの、毎日のウナギは辛かった。それで高倉健にとって、川魚類は一番苦手な食べ物になった。
 高倉健は比叡山の滝に打たれに行ったことがある。滝行は、最初に右腕を出して流れ落ちる滝に当て、ついで左腕と、順に身体のあちこちに水をかけていく。そうしないと心臓麻痺を起こしてしまう。準備を終えると、滝に打たれながら合唱し、一心にお経を唱える。
 高倉健と取材旅行に行くと、「いつも一人で過ごす休暇と同じにしたい。散歩も自由時間も食事のメニューも」、「コーヒーは砂糖なし、ミルクたっぷりでお願いします」。「旅先に持ってくるのは、本と好きな映画のビデオだけ」、「好きな本を読んでぐっと来るものがあれば、その旅は最高だよ」。なーるほど、ですね。超有名人でしたから、ときどきは一人になりたかったのでしょうね。真似できませんが…。
 高倉健が亡くなって、もう10年がたつのですよね。すごい役者でした。『幸せの黄色いハンカチ』は最高でしたね。いい本でした。
(2024年11月刊。940円+税)

蔦屋重三郎

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 松木 寛 、 出版 講談社学術文庫
 江戸で出版業が社会的にも重みを増し、企業として確立するようになったのは17世紀半ばの明暦のころ。江戸の書商たちは、書物問屋仲間と、地本(じほん)問屋仲間という仲間組織を結成した。
 書物問屋というのは、堅い内容の数の書籍を商い、仏教関係書、歴史書、医学書などを扱った。地本問屋は、草双子や絵双紙などの地本(読み物ですね)を扱った。
 蔦屋(つたや)重三郎は、18世紀後半の天明・寛政期に活躍した有力な地本問屋だった。江戸芸術界のそうそうたる立保者たちを援助し、彼らに発表の場を与えたプロデューサーといえる。太田南畝、山東京伝、恋川春町、喜多川歌麿、東洲斎写楽、十返舎一九、滝沢馬琴と並べ立てたら、びっくりしてしまいます。
 天明期には狂歌が大流行した。それは京都のインテリ貴族階級に始まったが、やがて庶民のあいだにも広まり、大坂そして江戸に波及して大流行した。狂歌の集まりが盛んだったようです。
そして、天明から安永、文化になると黄表紙が全盛期を迎える。山東京伝などです。1万部も売れていたそうですから、その繁盛ぶりに驚かされます。そして、政治を諷刺する黄表紙が続々発刊されるのです。
 ところが、天明の田沼時代から、松平定信に変わると、寛政の改革が始まり、暗転します。ついに、山東京伝は手鎖50日、蔦屋重三郎も財産半分没収という処分を受けました。このあと、浮世絵に重点が移ります。蔦屋の後半生は歌麿抜きでは語れない。
 そして、蔦屋は東洲斎写楽を一気に売り出した。寛政6年5月のこと。大首絵30種を同時に出版。しかも、大判雲母摺(きらずり)。この大首絵には圧倒的な迫力がある。
 ところが、著者は第3期になると、まったく投げやりの、魂の抜けた形ばかりになる。第4期は洞落してしまった作品ばかり。そして、ついに写楽は消えてしまったのでした。
 第3期が駄作だというのは、ある原型があって、それをコピーしたようなものだからだというのです。そして、著者は写楽が歌舞伎の実際を見ないで描いたのではないかとしています。
 さらに、自分の替え玉をつかったともしているのです。いやあ、まいりました。写楽の絵をじっくり見たことのない者として、第3期、第4期の作品なるものが駄作だといわれても…。まるで分かりません。
 写楽の正体は八丁堀に住む、蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛だというのが今のところの最有力説です。蔦屋重三郎は48歳のとき、脚気で若くして亡くなりました。
 NHKの大河ドラマの主人公になっていますよね…。評判はどうなんでしょうか。
 
(2024年10月刊。1210円)

ヒトラーとスターリン

カテゴリー:ドイツ・ロシア

(霧山昴)
著者 ローレンス・リース 、 出版 みすず書房
 ヒトラーの父親は税関検査官、スターリンの父親は靴職人。どちらも金持ちではなく、酒を飲んでは息子を殴る父親という共通項があった。ただし、当時は多くの子どもが同じようにして育てられていた。
ヒトラーは自分にとって代わる恐れのある、中央集権化した組織は、あらゆる手段を用いてつぶしていった。たとえば、ドイツの内閣を骨抜きにし、1938年以降、閣議は開かれなかった。
ナチ党員は500万人で、200万人のソ連共産党員ほど特権的ではなかった。スターリンは、共産党をエリート組織とみていた。
ヒトラーは聞く耳をもたず、誰にもさえぎられることなく、1時間40分も話し続けた。スターリンは、相手に話をさせ、熱心に話を聞き、相手を観察した。
 スターリンは、あらゆる人物に疑念をもって対応した。スターリンにとって最大の問題は、誰が自分を裏切ろうとしているかということだった。
 ヒトラーは、スターリンほど強い警戒心を持っていなかった。自分を裏切る行為が露見しないかぎり、身近な人々を信頼する傾向があった。そうでなければ、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件も起きなかっただろう。ところが、スターリンについては、暗殺企画はひとつも記録に残っていない。
ヒトラーもスターリンも、基本的にひとりぼっちだった。二人とも、心を許せる親密なパートナーを持っていなかった。
 ヒトラーは、その政治家人生において一度も事実に頓着したことはなく、ひたすらソ連憎しという感情だけを手がかりに世界を理解していた。
スターリンは、ヒトラーが首相に就任する直前の1932年7月、ドイツ共産党に対して、ナチ党よりもドイツ国内のほかの社会主義者を敵と見なせと命じていた。これが、いわゆる「社民主要打撃論」ですね。
スターリンは、いつでも自分を笑い飛ばすことができた。ヒトラーは絶対に、そんなことはしなかった。
 ポーランドの分割について、ヒトラーとスターリンは1939年秋に合意した。二人とも、ポーランド人を激しく嫌っていた。ポーランドを分割して占領・支配したドイツとソ連は、どちらも集団強制移住策をとった。
 ヒトラーのナチ・ドイツは強制収容所で「カポ」というドイツ人受刑者を囚人監視役としていた。同じように、スターリンのソ連は「ウルカ」という犯罪者集団を収容所で活用した。
 スターリンは、主要な文書に目を通し、承認を支えた。ヒトラーは重要な書類にもサインしていないし、する必要がなかった。
 スターリンは軍の指導者を目の敵にした。将校は14万5000人のうち2割以上の3万3000人が階級を剥奪され、うち7000人が殺害された。高位司令官の8割、150人が排除された。これがソ連軍を弱体化させた。
 スターリンが無条件の忠誠を評価して最後まで重用したヴォロシーロフは無能な将軍だった。この男なら、スターリンは「第二のナポレオン」になる心配をする必要がなかった。
 ヒトラーは、スターリンと違って、恐れることなく、才能ある人材を登用していた。ナチのイデオロギーにいかに傾倒しているかよりも、軍人としての能力のほうを重視していた。
ドイツがソ連領内に侵攻するバルバロッサ作戦の意図は分からないことだらけだった。
 ヒトラーはソ連の兵力をつかまないまま、ソ連領内に侵攻していった。大国ロシアは、豚の膀胱(ぼうこう)のようなもの。ちくりと刺せば破裂する。この程度の甘い認識で侵攻したのですね…。
 スターリンはドイツが侵攻してくるという重大情報を信じなかった。疑うことが身に染みついていたせいで、データが明快であればあるほど、うさん臭く思えたのだろう。
 スターリンはドイツとの国境線あたりに即座に反撃するための部隊を置いていた。これがドイツ軍にたちまち制圧されたことから膨大なソ連兵が捕虜となり、死に至らしめられたのです。まことにスターリンの責任は重大です。
 ヒトラーはソ連領内から略奪し、ソ連兵の捕虜は餓死させる方針だった。
スターリンを囲む野心的な側近たちは、スターリンの聞きたいことだけを聞かせたかった。ヒトラーの将軍たちも、ヒトラーの願望に調子を合わせていた。二人とも、自分をあざむいて希望を思い描いていれば、いずれそれが実現すると信じていた。
1941年の秋は、ヒトラーにとってもスターリンにとっても大きな転換期だった。
 スターリンにとって、1941年10月にモスクワにとどまると決意したときが運命の瞬間だった。ドイツ軍がモスクワに迫ったとき、赤軍が猛反撃を開始した。ドイツ軍は冬将軍の前に退却を開始した。
 このとき、日本はアメリカの真珠湾を攻撃して、日米開戦となったのでした。つまり、ドイツ軍はモスクワ占領どころか、退却必至の状況に陥っていたとき、日本軍は太平洋戦争に突入したわけです。先見の明のないこと、おびただしい限りです。
 610頁もの大作です。一泊ドッグで一心に読みふけりました。
(2024年8月刊。5500円+税)

ゾルゲ事件、80年目の真実

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 名越 健郎 、 出版 文春新書
 ロシアの独裁者のようなプーチン大統領は、高校生のころ、「ゾルゲのようなスパイになりたかった」と語ったそうです。
 「20世紀最大のスパイ」とも呼ばれるゾルゲは、石油業を営む裕福なドイツ人の父とロシア人の母の子として、アゼルバイジャンのバクー郊外で生まれた。3歳のとき、一家はドイツに移住した。第一次世界大業ではドイツ陸軍に志願し、戦場で3度も負傷した。
その入院中にマルクス主義に目覚め、ドイツ共産党に入党。ドイツで活動中にコミンテルン本部で働くようにすすめられ、モスクワに移り、ソ連共産に入党した。そして、赤軍参謀本部の情報本部にスカウトされて上海に赴任(1930年)。
 そこで、尾崎秀実(朝日新聞記者)やアグネス・スメドレーらと知りあい情報網を築き、中国共産党との連絡役もつとめた。
 1933年9月、東京に来てドイツの新聞社の特派員を隠れ蓑(みの)として、8年のあいだ活動した。
 1941年10月に摘発され、1944年11月7日、処刑された。検挙されたゾルゲ機関関係者は35人という多数だった。
戦後長くゾルゲの存在は忘れられていたが、今では、ロシアでは英雄として称賛されている。ゾルゲ通りがロシアの50もの都市にあり、モスクワの地下鉄にはゾルゲ駅もある。
 ゾルゲの墓は多摩霊園にあり、ロシア政府の要人が来日したら参拝している。
 当時のソ連にとって、日本軍が北進(ソ連を攻める)するのか南進(東南アジアへの進出)するのかはぜひ知りたいところだった。ゾルゲは、日本の南進政策を知り、ソ連に通報した。それによって、ソ連は極東にいた数十個師団そして数千の戦車を西部戦線に移動させ、対ナチス戦を勝利に導いた。これが「ゾルゲ神話」。
ゾルゲは駐日のドイツ大使オイゲン・オット大使に気に入られ、ドイツ大使館内に部屋まで与えられていたようです。ゾルゲはナチスにも入党しているが、もちろん偽装入党であり、転向したのではない。
 ゾルゲが日本で情報を入手してせっせとモスクワに送っていたとき、ソ連ではスターリンの粛清が猛威を振るっていた。ゾルゲを派遣した上司たちも次々に処刑されていった。そして、ついにゾルゲ自身もドイツのスパイではないかとまで疑われた。そんなゾルゲが送ってきた情報(日本は南進を決定した)をスターリンが信用しなかったという説は信憑性がある。
 スターリンは、ゾルゲが送ってきたドイツのソ連への侵攻が迫っているという情報も無視した。そのため、ソ連の人々は大変な災難を蒙ったわけです。
 それでも、ソ連は結局、日本の北進はないと正しく判断はしたから、ゾルゲの通報はムダにはなりませんでした。ゾルゲ事件を振り返ることができました。
(2024年11月刊。1100円+税)

新型コロナ最前線-自治体職員の証言

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 自治労連編 、 出版 大月書店
 コロナ禍がなくなったわけではありませんが、今ではそれほど騒がれなくなりました。しかし、コロナ禍「騒動」はきちんと振り返り、総括しておく必要があると思います。コロナと同じような感染病はこれからも起こりうると思うからです。
 それにしても、自治体職員は本当に大変だったと思います。自治体職員は多過ぎる、減らせ減らせの大合唱がありました。今でも決してなくなったわけではありません。トランプ政権下でイーロン・マスクが公務員減らしを高言し、どんどん民営化させようとしています。要するに「税金削減」を口実として、自分の商売(利権)を有利にしようというのです。
ところが、日本の郵政民営化と同じで、公務員を削減したら税金が少なくなって自分の生活が少しでも楽になるかのような幻想、錯覚に陥って、人々が拍手するといおう構図です。でも、結局、公務員を削減して苦しむのは私たち庶民なのです。超大金持ちは何ひとつ困りません。
2020年4月から会計年度任用職員制度なるものがスタートしている。非正規公務員のこと。任期は1年で、再任用は原則2回で、最長3年。要するに使い捨て公務員を増やすということです。これでは、職場に必要なベテラン職員が十分に確保できない心配があります。
 この会計年度任用職員はボーナスはもらえるけれど、月額報酬が減らされるので、ボーナスもらっても同額だという仕掛け。ひどい話です。
 地方公務員でも長時間・過密労働の職場が多く、精神疾患による公務災害申請が増えている。20~40歳代が8割近くを占めている。そして、精神疾患による自死が増えている。過労死ラインといわれる月80時間をこえて働かされている職場が依然として少なくない。
 それは、職員数が削減された結果のこと。正規職員は328万2千人(1994年)だったのが、今や273万7千人(2018年)となっている。そして、5人に1人が臨時・非常勤職員だ。
 コロナ禍で、真っ先に過酷な労働を余儀なくされたのが保健所。終電後の帰宅は当たり前。午前3時か4時に帰宅し、シャワーをあび、1~2時間仮眠をとったら出勤。なかには始発電車で帰宅し、仮眠を取る間もなく出勤する保健師もいた。帰ることができず事務所で寝た保健師もいた。終電がなくなったあと、保健所の前にはタクシーが列をつくっていた。保健師は「死ぬか辞めるか」という究極の選択を迫られ、命を守ることを選び、職場を去っていく人がいた。
 陽性者の入院搬送に付き添った保健師は防護服を着るため、トイレにも行けず、朝から水分を制限。暑さのため熱中症や脱水症状にならないかという不安。夜、電話相談の内容が耳元でリフレインして寝つけない…。
 京都市消防局の救急車の出動は例年1日200件台なのが、コロナ禍のときは倍の400件にもなり、大変な状況になった。ところが、京都市は財政危機のため市長が一方的に職員を150人削減し、三交代制を二交代制に切り替えた。職員は過重労働のため、身体がもつか心配せざるをえなくなった。  
保育園では、「保育士1人に子ども30人」という配置基準が戦後70年間そのまま変わっていない。保育所はあっても保育士は足りない。しかも、「特別な配慮を必要とする児童」の割合が増えている。コミュニケーションがうまくとれない子どもには個別に対応するしかないのに、対応しきれない。
 維新の会が府・市政を牛耳っている大阪市では保健所が次々に廃止・統合されてしまった結果、1保健所で、271万5千人を担当することになってしまった。そのため、最悪の結果が出ている。これが、例の「身を切る改革」の実際。しかし、中間層以上の市民は、今なおそのことを自覚することなく、維新の会に拍手している。本当に残念でならない。
自治体職員の悲鳴がほとばしってくる本でした。
(2023年8月刊。1650円)

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