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社会を変えてきた弁護士の挑戦

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 新里 宏二 、 出版 民事法研究会
 旧知の著者が70歳となり、古希を迎えたのを記念した出版物。
 著者は2011年3月11日のときは仙台弁護士会の会長であり、4月からは日弁連副会長として震災対策に取り組んだ。
 私との関わりはサラ金問題です。自己破産申立が年に25万件にも達したが、そのサラ金被害を根絶するため、金利規制を徹底して、グレーゾーン金利を廃止する方向での貸金業制度の大改正を目ざし、ついにそれを実現した。宮城あおばの会というサラ金被害者の会と連携した著者の活躍は目ざましいものがありました。そして、それは日栄や商工ファンドという問題そして、ヤミ金とのたたかいにつながっていった。
また、集団クレジット被害が全国各地で大量発生したことにも取り組んでいます。これらの取り組みは、立法・法改正だけでなく、消費庁の設置など、消費者行政の根本的強化につながっていった。まことに著者の功績は偉大なものがあります。
ところで、この本は、「仲間とともに」として、「実務家弁護士の武器」が、「仮処分と仮差押え」であることに始まっています。保育所の日照被害を防止するために隣接するマンションの建設をしようとする業者に対して、5階以上の建築を禁止する仮処分を申請し、裁判所は保証金1200万円で認めたのでした。保育園の日照被害を理由とする建築禁止の仮処分としては日本で初めてだった81992年6月)。次は、手形取立禁止の仮処分申請。裁判所を説得して、仮処分決定を得た(1995年10月)。
すごいね、すごいぞと思って読みすすめ、最後あたりに著者が振り返った文章を読んで、なあんだ、そういうことだったのか、福岡と仙台はつながっているんだね、とついついうれしくなりました。著者は、「我が弁護士活動を俯瞰(ふかん)して」として、保全事件の重要性を強調していますが、そのくだりに次のような文章が登場するのです(319頁)。
「実は弁護士になりたての頃、青年法律家協会が出版した『そのとき弁護士は駆けつける』という手引書が大いに参考になった。具体的事件の事案の説明と申立書、決定書が添付されていた」
これこそ、わが青法協福岡支部の誇るベストセラーの手引書のことであり、不肖、私が編集責任者として、福岡県内の仮処分申請事例集を実務に即役立つものとして刊行もの。これは、売れに売れて、増刷を重ねたものです(1986年1月に発刊)。
著者は貧困問題の対策に取り組んだほか、優先保護法被害にも取り組み、貴重な成果をあげている。そして、著者は次のように提言しています。
被害者が裁判という手続のなかで声を上げることが社会を変える契機となる。
司法の法創造機能を弁護士も、当事者や裁判官とともに果たしていこう。それは弁護士の崇高な役割だ。弁護士会そして日弁連は、日本最大の人権擁護のNGO(非政府組織)だ。そして、人との出会いを大切にし、あきらめないこと、さらには、次の世代にバトンをつなぐこと。
著者について、どんな逆境にあっても、常に楽観的な姿勢を崩さず、とことん前向きなところを高く評価するコメントが次々にあり、それを読むと、なるほど、そうなんだよねと、ついついうれしくなります。これからも元気一杯にご活躍ください。
(2022年8月刊。税込3300円)

韓国軍はベトナムで何をしたか

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 村山 康文 、 出版 小学館新書
 アメリカのベトナム侵略戦争は私の大学生のころのことです。アメリカ兵の5万5千人もの戦死者の多くは私と同世代でした。もちろん、ベトナムの若者たちも多く殺されました。ベトナムの若い女医さんの従軍日記『トゥイーの日記』は涙なくしては読めません。
 そして、アメリカ政府の要請にこたえて韓国軍もベトナムに出兵したのです。アメリカ軍以上に韓国軍は凶暴だとベトナム人から恐れられ、嫌われていたようです。
 なぜアメリカの要請に韓国政府がこたえたのか。それは、その見返りにアメリカから多大な経済援助を受けたことにあります。そのおかげで韓国経済は急速に立ち直り、目ざましい経済発展につながったのでした。これは、日本が朝鮮戦争で大きく復興したのと同じことです。
 今、ロシアの無法なウクライナへの侵略戦争が続いていますが、ウクライナへの強力な軍事援助のおかげでアメリカの軍需産業は大変な好景気にあるようです。戦争は多くの市民にとって、最大の人権侵害ですが、一部の戦争商人にとっては、絶好の金もうけになるというわけです。いやですね、そんなこと…。
 韓国軍は、「きれいに殺して、きれいに燃やし、きれに破壊する」というスローガンのもと、「ベトコン」の捜索・掃討作戦を展開していった。
 ベトナムには「ライダイハン」と呼ばれる、ベトナム人と韓国人とのあいだに生まれた人々がいる。韓国兵というより韓国人労働者とベトナム人女性とのあいだで多くは生まれたようだ。
 2011年10月に韓国の亀尾市体育館で開催された「ベトナム参戦47周年記念」式典には、ベトナム戦争に従事した元兵士ら1万4千人が参加した。そこでは、我々は京釜高速道路やソウル地下鉄はもちろん、韓国人の生活水準の向上に貢献したことが強調された。なるほど、それは事実なのでしょう…。
 韓国軍がベトナムで何をしたのかについて、アメリカ軍と違って従軍記者がいなかったので、証拠となる写真などの記録がほとんどないのが特徴。ベトナムで韓国軍の残虐な民間人殺害を現場まで出向いて調査した「ハンギョレ」新聞の記者に対して、ベトナムに参戦した元軍人らが「虚偽、捏造(ねつぞう)」として名誉毀損罪で告訴した。これに対して、記者たちについて「民主社会のための弁護士会」(民弁)所属の弁護士たちが弁護したとのこと。
 日本でも、「南京事件」について「大虐殺なんて、なかった」という右翼たちの攻撃があった(ある)ことを思い出します。「30万人」が虐殺されたかどうかはともかく、大量の民間人を日本軍が虐殺したことは日本の皇族も認めている歴史的な事実なのです…。どこの国にも自国の負の歴史を認めたがらない人々が少なからずいるというわけです。
 でも、歴史の真実に目をそむけてはいけないと思います。子どもたちに語り継げないような悪いことを繰り返してはいけないからです。
(2022年8月刊。税込990円)

氏名の誕生

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 ちくま新書
 結婚しても姓を変えたくない人が少なくありません。それなら、江戸時代までの日本のように、つまり明治以降の日本の制度にこだわることなく、夫婦別姓を認めて何の不都合もありません。
 自民党の保守派が夫婦別姓に対して頑強に抵抗してきましたが、実は、その根元は勝共連合=統一協会の教義にあることが判明しました。でも、韓国では、昔も今も夫婦は別姓なのです。典型的な「反日」団体の言いなりに動いてきた自民党の保守強硬派は統一協会糾弾の嵐のなか、ダンマリを決めこみ、ひらすら嵐の通り過ぎるのを待っているばかりのようです。おぞましくも、いじけない人々です。
 江戸時代、名前が変わるのはフツーのことで、一生同じ「名前」を名乗る男は、むしろいない。江戸時代の名前は、幼名を除いて、「親が名づけるもの」ではない。改名が適宜おこなわれ、「かけがえのないもの」でもない。現代日本の常識は江戸時代には、まったく通用しない。
 江戸時代の人名には、生まれた順番とはまったく無関係なほうが、圧倒的に多い。甚五郎、友次郎といっても、どちらも長男でありうる。五男でも二男でもないのがフツー。
 幼名や成人名に、父祖の名を襲用することが多い。「金四郎」を父と同じく子どもが名乗るとき、四男ではない。「団十郎」も「菊五郎」も十男や五男であることは求められていない。
 江戸時代の人間は、幼名、成人名、当主名、隠居名の四種類の改名を経るのが一般的。幼名は親などが名づけるが、成人(15歳か16歳が多い)になると、自ら名を改める。このほか、一般通称としての名前に法体名(ほったいな)がある。僧侶や医者、隠居の名前。宗春、旭真、良海、洪庵など。江戸時代の医者は法律で法体であるのが通例で、長庵(ちょうあん)、宗竹、玄昌などと名乗った。
 江戸時代の大名の「武鑑」に「松平大隅守斉興」、「大井大炊頭利位」、「青山下野守忠裕」とあるとき、最後の「斉興」、「利位」、「忠裕」を「名乗(なのり)」と呼ぶ。この「名乗」は「名前」としては日常世界では使わない。江戸時代の書判には、「名乗」の帰納字を崩したものを用いる習慣が広がっていた。書判はもともとは草書体で本人が自書したものを言ったが、江戸時代中期以降は、印判(ハンコ)を用いることが広がった。江戸時代は印形を重視し、そして多用した時代である。この印を捺す行為によって、初めて、その文書に効力が発生する。たとえ自署であっても、無印であれば、それは後日に何の効力ももたない。ちなみに、江戸時代は朱は用いず、もっぱら黒印である。苗字や通称を印文にはまず使用しない。印文は多くが篆書(てんしょ)であり、判読が困難。他者に読ませることはほぼ意識されていない。
 苗字は武士から一般庶民まで持っている。ふだんは通称だけを名前とし、自らはこれに苗字をつけたものを「名前」としては常用しない。すなわち、一般庶民にも代々の苗字がないわけではない。それは名乗や本姓と同じように、設定があっても使わないものだった。
 よく、江戸時代まで一般庶民には名前(姓)がなかったので、明治時代になって戸籍制度ができて登録しなくてはいけなくなったので、あわてて、まにあわせの名前を考え出して届け出たと言われますが、これはまったくの間違いだということです。「姓」はあったけれど、自ら名乗るものではなかったのです。
一般の百姓にとって、苗字(姓)は自ら名乗るものではなく、他人から呼ばれるものとして用いられた。
 「姓名」、とくに「名」を呼ぶのを遠慮するのを「実名忌避」と呼ぶ。
 江戸時代の著名な豪商である鹿島屋久右衛門は「廣岡」、湖池屋善右衛門は「山中」という苗字を持っていた。屋号と苗字は別のもの。苗字は血縁者間で共有するが、屋号は血縁者間では必ずしも共有しない。
 ところが、江戸時代でも朝廷社会では、一般の常識とは異なる常識が通用していた。二つの常識が並行して存在していたのだ。
 江戸時代の庶民にとって、苗字は自らの人名を構成する必須要素ではない。それは、いちいち使用するものではなく、古くから代々の苗字を設定しているのもフツーだった。
苗字公称許可は特別な価値をもっていた。明治3年9月、苗字公称が自由化された。それが、突然、自由化されてしまった。
 では、なぜ、政府がそうしたのか。「国家」にとっての「氏名」とは、「国民」管理のための道具だった。つまり、「国民」に徴兵の義務を課す道具だった。徴兵制度を厳格に実行するため、国民一人ひとりの「氏名」の管理・把握を徹底する必要があった。
 要するに、徴兵事務という政府側の都合だった。そして、そのため、氏名は一生涯、最初の名前は変えないものだという新しい「常識」が誕生し、今日に至っている。
 氏名についての「常識」の変遷がよく分かりました。
(2021年5月刊。税込1034円)
 
 祝日、サツマイモを掘りあげました。地上部分は縦横無尽に葉と茎がはびこっていますので(これがかえって悪いかなと心配しました)、地下のイモはどうだろうかと思ってスコップを入れてみると、出てきたのは、なんと細いものばかり…。昨年と同じ状況で、小粒のイモばかりでした。植えつけを研究してみます。
 日曜日に、アルミホイールにくるんで1時間、オーブンで焼いて食べてみました。黄色い果肉は、ねっとりとまあまあ美味しく食べられました。ほくほく型ではありません。家人からは甘味が足りないから売り物にはならないと不評でした。
 玄関脇の青い朝顔は終わりました。ピンクのフヨウが咲いています。
 そろそろチューリップを植える季節です。サツマイモのツルや葉を穴を掘って埋め込みました。畳一枚分の作業は大変です。リコリスの花の第2波が咲いてくれました。

スコットランド全史

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 桜井 俊彰 、 出版 集英社新書
 スコットランドの歴史を「運命の石」を軸として説明する新書です。
 「運命の石」は、エディンバラ城の宮殿2階に安置されている、重さ152キログラムの直方体の石。サイズは、670×420×265ミリメートル。何の装飾もない。 この「運命の石」が、1996年7月イギリスからスコットランドの700年ぶりに返されたのでした。
イギリスとスコットランドは、伝統的に違いがあるようです。スコットランドアは伝統的に親フランスで、イギリスのEV離脱には一貫して反対した。
 ふえっ、スコットランドって、親フランスなんですか、知りませんでした。
スコットランド人は、ヨーロッパ文明の母体であるギリシアの亡命王子と、その妻であるエジプトのファラオの娘の末裔(まつえい)。いやぁ、これこそ、ちっとも知りませんでした・・・。
 スコットランド人は、ピクト人、ブリトン人、アングロサクソン人、ヴァイキング、ノルマン人などが、時期を違えてやって来て、時間をかけて混じりあうことで、形成された。スコットランド人という単一の民族がはじめから住んでいたのではない。
 それが、イングランドとの13世紀終盤に勃発したスコットランド独立戦争のなかで、自分たちはスコットランド人だというアイデンティティ国家意識をもつようになった。なるほど、そういうことなんですね・・・。
 スコットランドの初めにいたピクト人については今もよく分かっていないようですが、身体中を彩色したモヒカンカットとして映画で描かれたとのこと。ふむふむ・・・。
 スコットランド女王メアリとエリザベス1世女王との確執。そして、やがてメアリによるエリザベス暗殺計画とその発覚、ついにはメアリの処刑に至る話は有名です。
この話も、スコットランドとイングランド、そしてフランスとのつながりの中で考えるべきものだと改めて認識されられました。さらに、処刑されたメアリの息子のスコットランド王ジェイムズ6世が、イングランド王としてジェイムズ1世になったというのです。世の中は、分かったようで分かりませんよね。
 国王の戴冠式にずっと使われ続けてきた「運命の石」なるものがあることを初めて知りましたが、それだけでも、本書を読んだ甲斐があるというものです。
(2022年6月刊。税込1040円)

アンネ・フランクはひとりじゃなかった

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 リアン・フェルフーフェン 、 出版 みすず書房
 アンネ・フランクの『アンネの日記』は、私も、もちろん読んでいます。残念なことに、アンネの隠れ家の現地には行ったことがありません。アウシュヴィッツ収容所にも行っていません。本当に残念です。
 この本は、アンネたち一家が隠れ家に潜む前の生活を紹介しています。立派な高層アパートに住み、大きな広場で、アンネたちは自由に伸び伸びと走りまわり、遊んでいたのでした。そんな楽しそうな息づかいの伝わってくる本です。
 1939年6月12日、アンネが10歳の誕生日を迎えた日に、広場で8人の友だちとうつっている写真が表紙になっています。女の子たちは、みな屈託ない笑顔です。まだ、オランダにまでナチスの脅威はきていなかったのでした。
 アムステルダムには、高さ40メートル、13階建ての超モダンなマンションがあった。それは「摩天楼」と呼ばれていた。そして、その周囲に4階建ての中層アパートが立ち並んでいる。そこにアンネ一家は住みはじめた。
 大勢のユダヤ人がドイツから逃げて住むようになった。広々としたメルウェーデ広場でアンネは友だちと遊んだ。
 ナチスによるユダヤ人迫害が強まり、1935年には、アムステルダムは、ヨーロッパで最大級のユダヤ人居住地となり、6万1千人に達した。その大部分は労働者階級だった。
 1937年の時点でも、オランダのユダヤ人は、ドイツのような迫害がオランダで起きるはずがない、そんなのは、「まったくバカげた考えだ」と言っていた。
 1938年の末、戦争が起きるかもしれないと考え、オランダ国民は念のためにガスマスクを用意した。1万個以上のガスマスクが売れた。
 1940年5月10日、ドイツがいきなりオランダの「中立」を侵犯して攻めてきた。戦争だ。
 1942年、アンネ・フランクは、恐ろしい話を知らないまま、楽しさいっぱいで13歳の誕生日を迎えた。
そうなんです。子どもは、戦争なんて知らないで、そんな心配をせずに毎日を楽しく過ごすのが一番です。でも、ロシアのウクライナ侵略戦争は、それを妨害しています。
 オランダからユダヤ人4万人が強制・絶滅収容所に送られた。1943年6月20日、ユダヤ人一斉検挙で、この地域のユダヤ人たちが広場に集められている様子をとった写真があります。この日、アムステルダムだけでも捕まったユダヤ人は5500人もいたのでした。
そして、ユダヤ人一家が退去させられると、そのあとすぐに「ヘネイケ隊」と呼ばれる集団が入りこんで、目ぼしい家財道具を運び出して、私腹も肥やすのです。
戦後まで生きのびたアンネの父・オットー・フランクは、ひどく弱ってしまい、体重はわずか52キロだった。そして、隠れ家に残されていたアンネの日記を手渡されたのでした。日記を読むと、自分の娘として知っている少女とはまったく異なるアンネがそこにいた。知人は、「少女の書いた日記って、そんなに面白いものなのかね…」と疑問を口にしたという。
いやあ、そうなんですよね。でも、「アンネの日記」を読んで心を動かさない人がいるでしょうか…。私は、ベトナム戦争のときに書かれた『トゥイーの日記』(経済界)も、ぜひ多くの人に読んでほしいと考えています。これまた、すごい日記なんです。ぜひぜひ読んでみてください。
(2022年6月刊。税込4620円)

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